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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

天狗岳

2021年07月02日 | essay

若者よ

この世で一番美しい、目に見えないものは

信頼だ。

それによって人は心から笑い

安らかに眠ることができる。

はかなく

しかも強靭であり

それはときに

目に見える美をも凌ぐ。

 

※写真は天狗岳

 


欠点考

2021年06月18日 | essay

自分ではどうしようもない欠点、というのがある。

それは本当にどうしようもない。

しかし驚くべきことに、その欠点をもしのぐ欠点がある。

自分ではどうしうようもない、と諦めているところだ。

諦めなければ、どうにかしようがあるのだ。

だから最大の欠点は、

欠点の存在を甘んじて放置しているところにある。

そんなことを考えていたらこんぐらがって

道を踏み外しそうになった。

※写真は霧訪山(二回目)。


独鈷山

2021年04月16日 | essay

 

昔、人類には豊かな時間があった。ただ豊かな食がなかった。

だから彼らは時間を費やし、食のために奔走した。

今、世間には豊かな食が溢れ、その代り豊かな時間を失った。

それを取り戻すため、彼らはお金という名の富を費やす。

そのお金こそ、時間を犠牲にして得たものであるのに!

堂々巡りは古代から、人類の性(さが)である。

ごく稀に、その堂々巡りを脱する者もいる。

豊かな時間のために、潔く他を犠牲にできる者である。

人はかつて、彼らを隠者と呼んだ。今は変わり者と呼ぶ。

どちらにもなり切れない中途半端な輩が

ときどき野に出て、深く息をつく。

※写真は独鈷山。


雪原に独り

2021年04月06日 | essay

 3月12日、まだ冬の貌を残す美ケ原高原をスノーシューで歩いた。スノーシューは初めてであった。一泊する予定の宿泊施設で器具を借りた。宿泊客は全部で十人程度はいたが、私の他に誰もする人がいなかった。雪も少ないし、夕刻が迫っていたからであろう。私は一人、広大な平野を歩いた。

 そんなに歩きやすいものではないな、と感じた。

 宿に戻って風呂に入り、食事をした。

 その晩、季節外れの大雪になった。窓から見える屋根には白いものがうず高く積もった。

 私はいつまでもその光景に見入った。

 翌朝、スノーシューを借りて、私は再び野原に出た。辺り一面、真っ白に変貌していた。

 やっぱり私の他にスノーシューをする人はいなかった。

 雪が相変わらず降りしきっていたからであろう。実際、視界は悪く、ほとんど何も見えなかった。

 

 それでも私はひたすら歩いた。吹雪を顔面に受け、ときおり足を雪に取られながらも、ストックを突き、前へ進んだ。目的地もなければパノラマ風景も望めない。それでも、ただひたすらに歩いた。

 やがて帰るべき時刻が来たので、Uターンし、来た道をひたすら戻った。

 それでよかった。

 

 そういう気分になるときもある。

 

                

 

 

 


年の瀬のご挨拶を

2020年12月27日 | essay

 年の瀬である。石ころだらけの坂道をふらふらとよろめきながら下っていくように、不本意ながら駆け抜けた一年であった。旅行にも行けず、人に会うこともままならず、外食一つするのに妙な気を遣わなければならない。それがどれほどの効果があるのか知ってと言うより、外聞を気にして用心することの方が多かった。ただただ毎日同じ道を通って仕事場に行き、同じ道を通って帰宅した。詰まんない一年であった。仕方がないから人けのない山に登ったり、家飲みをして憂さを晴らした。家飲みと言えば、昭和の名曲『舟唄』の冒頭で歌われる、「お酒はぬるめの燗がいい~♪ 肴は炙ったイカでいい~♪」は本当なのか検証したことがあった。近所の魚屋でイカの姿干しを買い求め、登山用の携帯コンロに網をかぶせてイカを炙り、食いちぎりながら熱燗を飲んだ。なるほど酒によく合う肴だと思った。顎が少々疲れた。イカだけで飲めるほど海の男でもないなと自覚した。

 人生は人と会うことに意味がある。そんなことに改めて気づかされた一年であった。現在、長いものをちまちまと書き進めているので、このブログの更新が滞っている。それでも見てくれている人がいる。わずかなりと存在するそんな奇特な方に対して、申し訳ない気持ちで一杯になる。それで久方ぶりに更新した。大した記事は書けない。

 仰ぎ見れば、北アルプスはすっかり雪化粧している。バージンロードを行く花嫁のように美しい。中央高地特有のからりと晴れ渡った空にそれが映える。人間社会が右往左往しても、変わらず毅然と存在するものがある。

 来年はいい年になればと思う。初詣は人混みが怖いので、心の中で祈ろうかしら。

 庭に雀が降りてきた。犬が散歩を待っている。

 確かなものを、大切に過ごそう。

 

※写真は今年最後に登った戸谷峰。11月中旬。

 

 

 


犬トシテ生キル

2020年09月28日 | essay

ワタシハ立派ナ犬ニナリタカッタ。

断崖ノ上デ遠吠エヲスルヨウナ

一族ヲ率イテ森カラ森ヘ旅スルヨウナ

立派ナ犬ニナリタカッタ。

トコロガ実際ニハ

首輪ヲツケラレ鎖デツナガレ

餌ガ与エラレルノヲヒタスラ待ッテ日ヲ過ゴス

人間ノ犬ニ成リ下ガッタ。

懸命ニ愛想ヲ振ッテハ頭ヲ撫デラレ

チョットノ散歩デ喜ブヨウナ

人間ノ犬ニ成リ下ガッタ。

確カニ コレデ幸セカト訊カレレバ

飢エルコトナク長生キデキテ

幸セデアルニハ違イナイ。

鎖ヲ切ッテ逃ゲタイノカト訊カレレバ

ソウスル勇気ハトウニ失ッタト言ウシカナイ。

ソレデモ時折

己ノ運命ニ耐エラレナクナリ

誰カニ無性ニ噛ミツキタクナル。

タトエバワタシヲ見下シテイル

猫ノヤカラガ通ルトキトカ。

コンナワタシヲソレデモ嫌ウ

人間ドモニ会ッタトキトカ。

 

 

 

 

 


蝶が岳ひとり登山

2020年09月02日 | essay

 約束の蝶が岳へ。

 約束というのは、先輩M氏が、日帰り登山の入門編として蝶が岳を私に勧め、私もそこまで勧められるなら行きますと口約束した、その程度のことで、たいした意味はない。ただ約束の蝶が岳、というフレーズが気に入って使ってみただけである。

 今回は一人。

 朝五時に家を出、途中、湧水をステンレスボトル二本分汲み、安曇野へ車を走らせる。何しろ熱中症が心配である。トイレ休憩に立ち寄ったコンビニで、迷った末、500㏄のスポーツ飲料を買い足す。六時駐車場着。何台か車がすでに集結している。靴を履き替え、手袋をはめ、リュックを背負っていざ出発、と思ったらいきなり道に迷ってしまった。細い階段の道と、広いが「関係者以外通行禁止」と書かれたバーの降りた道と、二つある。蝶が岳登山口とはどちらも書いていない。なぜ書いてないのだ。低い山なら細い階段もありうる。が、さすがに北アルプスの登山口としては広い方か。登山者は「関係者」なのか。誰かについて行こうと思っても、折り悪しく誰も歩き出さない。いつも道に迷う我が習性から、確かめずにずんずん進む怖さは身に沁みている。仕方ないので、バンの傍らで登山の準備をしている夫婦に聞いた。当たり前のことのように広い道を指さされた。出発からこれでは先が思いやられる。

 八百メートルほど歩いたら、小屋が見えた。登山計画書のポストもある。登山口と大書した看板も。これなら熊でも登山口とわかる。考えてみれば、「関係者以外通行禁止」とは、一般車両の通行が禁止ということなのだろう。わかりにくいことを。それより、登山口に辿り着くだけですでに汗だくである。こんなことで今日の登山を乗り切れるのか不安になったが、今更引き返すわけにもいかない。迷いを振り切るように威勢よくポールを突いて山に向かった。

 自然林が広がり、倒木は見事に苔むしている。そんな中を歩くのは気分がいいものだが、何しろ暑い。ティーシャツはバケツの水をくぐらせたように汗みずくになった。前髪からも後ろ髪からも汗が滴り落ちる。携帯する水を、少しずつ飲んでは進む。

 初老の夫婦で、奥さんが旦那さんの手をひきながら下山する姿とすれ違った。どうやら旦那さんは目が見えないらしい。あのやり方で上まで登って下りてきたのだとしたら、大したものである。

 木製の階段が続く。整備されていて歩きやすいが、いつまで経っても階段である。息が切れる。話し相手はいない。平日のせいか、行き交う人も滅多にいない。考え事をしたいが、暑くてそれすらできない。足が重い。休憩のときは崩れるように腰を下す。水を噛むようにして飲み、プチトマトを頬張る。トマトの甘酸っぱい果汁に生き返る心地がする。長く休憩すると嫌になるので、すぐに立ち上がる。

 若夫婦で、奥さんが赤ちゃんを肩車して登ってくるのに追い抜かされた。奥さんは小柄だが旦那さんと陽気におしゃべりをし、しかも足が速い。旦那さんの方が少々バテ気味である。

 いろんな人が山に登る。

 第二ベンチを過ぎ、最終ベンチを過ぎる。

 標高が上がって空気が薄くなってきたのか、息の切れるのが尋常でない。

 なぜ登山なんかするのだろう、とぼんやりと思う。

 おそらく、引き返せないからだ。いったん登り始めたら。

 四時間ほど登り続けたら、松が腰ほどの低さになり、空が開けた。頂上だ。

 

 

 この景色を見に来たのだ、と納得しながら、見晴らしのいい場所に大の字になり、半時ほど寝てしまった。

 お握りを食べ、稜線をうろつく。上高地を見下ろせる場所に腰を下し、紅茶を沸かして飲む。

 十二時に下山開始。足にどれだけ疲労が溜まっているのか想像もつかない。水の残りを気にしながら口に含む。

 

 

 三時間ほど下り続けると、登山口が見えてきた。残り百メートルで、ランニングしながら涼しい顔で下山する青年に追い抜かれた。

 呆然と見送る。

 いろんな人が山に登るのだ。

 

 


草刈機

2020年07月20日 | essay

 先月、ついに草刈機を購入した。

 刈り払い機とも言う。両手にハンドルを握って操作し、長い竿の先についた金属刃がいかにも金属刃らしい音を立てて並み居る草をなぎ倒す、あの草刈機である。農業に本腰を入れている人はみなビーバーと呼ぶ。ただし私の買い求めたのはいわゆるビーバーではない。ガソリンを入れて紐を引っ張り、エンジンを掛けるがなかなか掛からない、というやたら取り扱いの難しそうなあれではない。充電式で、極めて軽量であり、刃先も小さく、これじゃあなぎ倒せるのはクローバーくらいじゃないかと思わせるほどの、本腰を入れて農業をしている人から見れば、おもちゃだと言われかねない代物である。実際、近所の人にそう言われた。

 だがおもちゃで十分なのだ。何しろ刈る場所なんてごくわずかであり、我が家の猫の額ほどの敷地内にはない。もっぱら隣の空き地を刈ってあげるために買い求めたようなものだからだ。それも、隣の空き地を刈れば、うちの庭が続いているように錯覚して見える、というさもしい考えからきている。

 動かしてみると、軽量な割にはちゃんと働く。音はひ弱に聞こえるほど小さい。もう四、五回は使った。

 昨年は高枝きりばさみを購入した。そのときも、いよいよこんなものを購入するようになったか、という覚悟めいたものがあったが、今回の草刈機で、いよいよその覚悟は固くなった。何というか、粋なジャケットを着こなして、カクテルグラスを手にしながら大都会の夜景を見下ろす、というような生活は一生断念する、という意味での覚悟である。本格的な農業とも違うが、田舎の町の、より山すそに近い場所で、庭いじりや家庭菜園の真似ごとをしてこのまま老後まで過ごすだろう、という覚悟である。ちなみに家庭菜園で言えば、今年は一畳もない畑に、スナックえんどうやピーマンを植えたが、どれもうまくいっていない。たまに自家製のスナックえんどうなどが申し訳なさそうに食卓に上っていると、びっくりするくらいである。

 これであとは手押しの耕運機でも買えば、典型的な地方暮らしは完成するであろう。しかし耕運機を使うほどの畑でもないので、さすがにためらっている。高枝きりばさみは、先日、庭木にできた蜂の巣を駆除するのに使った。なかなか便利である。草刈機は四、五回目にして、そろそろ切れ味が悪くなってきた。

 

※写真は高原院。四季折々の植物をこまめに愛でるのも「地方暮らし・自然派」の大切な行事である。


疫病と無人島

2020年03月05日 | essay

 思い出した物語がある。

 どこの本で読んだのか、誰かから聞いたのか、定かではない。

 コレラかペストか、いずれにせよ人類の滅亡につながる恐ろしい疫病が世界を席巻していた。男は、愛する女と二人、命からがら無人島に逃れた。そこには十分な食料があり、他にこの島に上陸する人もおらず、ここに留まりさえすれば自分たちは安全だと思われた。

 ところがしばらくして、女が疫病に罹っていることが判明した。医学の心得がなくても、容易にわかるような特徴的な症状が現れたのだ。男は苦悩した。このまま一緒にいれば、自分も疫病に罹る恐れがある。しかし離れて生活することを選択すれば、看病の必要な彼女は食料を口にすることすらままならず、早晩死んでしまうだろう。どうするか。自分一人生き残るために彼女を見捨てるべきか。それとも彼女に救いの手を差し伸べるべきか。

 結局、男は女に手を差し伸べる方を選択する。一人きりになるなら生きていても仕方ない、と考えて。物語はここで終わり、二人が愛の力で助かったような奇跡は描かれていない。かと言って、二人が死んだとも描かれていない。

 私はこの話を知ったとき、詰まらない結末だと思った。ありきたりであり、陳腐である。理想化されたヒューマニズムで飾りつけられた虚構である。実際そんな場面になれば、人にはもっと葛藤があり、エゴがあり、そして何より、理詰めでどれだけ考えてみても、男一人助かる方が生物としての合理性にも叶っている。

 だが最近は歳を取ったのか、別の考え方も首をもたげるようになってきた。相手に手を差し伸べなければ、そもそも自分だって助かるはずがないのではないか、と。

 別に奇跡の到来を期待するわけではない。愛の力を高らかに謳い上げるつもりもない。ただ、相手を看病し、治そうと懸命の努力をしない限り、自分一人の命だって助かる見込みはない。それが、生物として本能的に選択する生き延び方であり、人類も実は、これまでそうやって生き延びてきたのではないか。

 巷ではコロナウィルスの騒動が続いている。マスクを買い占めたとか、それを転売してぼろ儲けしている輩がいるとか、誰がどこで感染したかという犯人探しまがいのことが横行している。一方で医療従事者は、我が身を命の危険に晒しながら現場で懸命の医療活動を行っている。その医者たちをまた、病原菌のように中傷し遠ざけようとする人々がいる。

 そのようなニュースを耳にするたび、嫌悪感や共感が境目もなく心の中を渦巻く。そして、私自身にこう問いかけるのだ。

 お前は、どうなのだ。

 愛する人なら手を差し伸べるのか。愛していなければ、手を差し伸べないのか。

 お前はいったい、誰を守っているのだ、と。


存外論

2020年02月03日 | essay

 生きているときの約半分は思い通りにならない。約半分なんて実にいい加減で、やけに潔い数字である。そこにはそれなりの根拠がある。人は生きていく中で日々選択をする。その選択の多くがYESかNOかの二者択一であり、そしてここが肝心なところだが、そのほとんどが突き詰めてみれば、何の根拠もない判断に基づく。したがってコインをトスして表か裏か当てるのと変わりない確率になるのである。今から映画を観るべきか否か、という判断に、見るべきだ、YES、という回答を出すとしよう。実際にその映画を観て思い通り面白かったか、思いの外詰まらなかったかは、結局コインのトスと変わらないわけである。人生の伴侶を選ぶとしよう。この人にするべきか?YES。NO。仕事を選ぶとしよう。この仕事が自分に合っているだろうか?YES。NO。行くべきか行かざるべきか?YES。NO・・・・・すべからくコインのトスである。

 だから裏を返せば、どんなに思い通りにならない日々でも、残り半分の時間は思い通りに過ごしていることになる。思い通りのものを食べる。思い通りの時間にうたた寝をする。思い通りに──願い通りに、と言った方が相応しいか──相手から微笑み返される。人生は、まずまず思い通りにならないが、まずまず思い通りに幸せである。おいおい、さっきから聞いてりゃ、思い通りになることはみな、比較的ちっぽけなことが多いではないか、と指摘するあなた。思い通りにならないことも案外ちっぽけなことの累積ではないか? どうしてもちっぽけな話が嫌なら、大きなことだって結構。生き死にも然り。人間、いつ死ぬかは思い通りにならない。が、そこまでなんとか生き延びることは、思い通りにできたのではないか?

 先日仲間で泊りがけのスキーに行った。予想通りの雪不足に予想外の同行者のけがが重なり、一泊二日で満足いくほどは滑れなかった。仕方ないから温泉に入った。古風な浴室に濁りのある濃い泉質で、期待以上に気持ちよかった。思い通りに行かない部分もあったが、思い通りに楽しんだ部分もある。さらに言えば、思いの外楽しんだ部分すら存在した。

 人間万事塞翁が馬、という故事が伝えんとするのは、この辺のところか。

※写真は高山村子安温泉入口にて。