た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

地元を楽しめ!(アタラクシア!)

2019年05月10日 | essay

 

 里山辺、と呼ばれる松本市街から東に外れた土地に移り住んで、もう十年が経つ。山にも街にも近く、言い換えれば山からも街からも外れた感じで、なるほど里山辺だなあとつくづく思う。これだけ住んでいれば、町会の役を割り当てられたり(体育委員に任命され、メンバーが足りないとかで運動会で走らされたり)、近所の知り合いが徐々に増えたり(毎朝犬の散歩で挨拶しながら互いの犬を遠ざけ合ったり)、などなどしながら少しずつ地元の生活に馴染んできている。が、いかんせん田舎なので不便を感じることもある。

 その一つ、と言ってもほとんどこの一つに尽きるのだが、周りに飲食店が少ない。家から歩いていける距離に少ない。つまり、ぶらっと散歩がてら一杯やることが難しいのである。ごく庶民的で慎ましい休日の楽しみを奪われているのだ。

 ぶらっと一杯だって?────なんとまあ享楽的な、と非難するなかれ。決して贅沢を言うわけではない。わずかな金を、地元に落とし、いっときの快楽を得る。地元も潤い、自分も潤う。何と健全な経済活動ではなかろか。

 その望みを果たすべく、犬を引き連れ方々を探索して回るのだが、私の求めるものが現代の車社会にそぐわないのか、なかなかこれという暖簾(のれん)に行き逢わない。

 それでも最近、嬉しい発見が続いた。

 

 車を山に向かって走らせ、十分程度行ったところに地元のワイナリーがある。そこへ歩いてゆけばいいということに、最近気づいた。

 ちょっとしたハイキングコースである。行きは緩やかな上り坂。車道を避け、ひたすら農道を選ぶ。水田地帯を抜けると、丘陵全体がぶどう畑である。ぶどうの樹と樹の間を縫うようにして小一時間も歩くと、ワイナリーに出る。併設のレストランを利用するつもりで来たのだが、夕刻で、レストランはもう閉まっていた。それで、売店で白のフルボトルを一本買い、コルクを店員に抜いてもらい、ついでに試飲用のコップを二ついただいた。どんな無理を言っても、その女性店員は、「何もかも承知しています。酒の楽しみ方は十人十色ですから」と言わんばかりの笑顔で応対してくれた。きっと彼女も相当ワイン好きなのだろう。

 このワインを、眺めのよいテラス席に座り、連れ合いと二人で傾けた。眼下には広大な松本平(だいら)。そのさらに遠くには、冠雪した峻厳な北アルプスの峰々。普段、狭い家で狭い庭を見ながら飲むのと違い、それは、心臓を丸ごと体の外に取り出し、初夏のそよ風にあてたような、何とも開放的な外飲みであった。

 

 半分もボトルが空けば、元来酒に強くない我々二人はそれで充分である。残ったボトルは袋に入れ、またぶらぶらと来た道を引き返す。往路の喉の渇きも心地よいが、復路の、ほろ酔い気分の爽快感と言ったら、なかなか筆舌に尽くしがたい。ぶどう畑とぶどう畑に挟まれた坂道をたらたらと下れば、夕日に染まる盆地が圧倒的なスケールで迫る。よくできた映画のワンシーンを観たような、なんだか感動的な気分に浸った。

 疲れ具合も、ちょうどいい。

 松本のお薦め観光コースとして、この「こっそりワイン小路」なるものを市に推奨したいくらいである。理想的な距離と、起伏と、お楽しみである。ただし、あくまでもスタートとゴールを我が家に設定した上での「理想」なので、汎用性はない。市に推奨するのも止しておこう。

 

 もう一軒。

 里山辺からもう少々山沿いに近づくと、美ケ原(うつくしがはら)温泉がある。こじんまりとした温泉街である。昨今はどこの温泉街もそうみたいだが、そこかしこに寂れた観がある。そんな裏通りに、『食事処 平屋(たいらや)』が存在することを、いったい、松本市民はどれだけ知っているだろうか。

 軒に並んで吊り下がる小さな赤ちょうちん。閉じられたガラスの引き戸に、閉じられたカーテン。店の前を十人通りかかったら、そのうち五名は閉店していると思いこむだろう。残り三名は、店があることすら気づかないかも知れない。最後の二名だけが、その怪しげな佇まいに妙に心惹かれる。そんな、やっているのかやっていないのかわからない食堂である。

 私は妙に心惹かれた一名であった。発見自体は数年前にさかのぼる。しかしいかんせん、いつ来ても閉まっている。それが、今年のGWの五月三日、やっぱり気になり、散歩がてら立ち寄ってみたら、店の前に貼り紙がしてあるではないか。

 「四日、五日は休みます」

 何たること。四日、五日は休むだと?────ということは、本日三日は店を開けるということではないか! 私は歓喜の叫びを心の中で上げた。念のために入り口をノックして、本日の開店時間が夕方五時から六時半まで(たった九十分?)ということを訊き出した。いったん家に戻り、日が傾くのを待って連れ合いと二人、再度店へ繰り出す。こうなると執念である。

 ゆっくり歩いて行ったつもりが、五時十五分前着。さり気なく店の前を行ったり来たりしながら(連れ合いは「こんな姿を人に見られたら確実に怪しまれるね」とぼやきながら)、戸が開くのをひたすら待った。

 なぜここまで、古い食堂にこだわるのか?────それは、私にもわからない。ひょっとして、その店が残っている理由を知りたいのかも知れない。大資本ならともかく、小さな個人営業の店は、景気の影響を受けやすい。時代の潮流について行けず埋没してしまうことも多い。そんな中、決して時代におもねらず、自分たちの変わらぬやり方で、細々とでも続けていくには、一つに、経営者たちの忍耐強さが欠かせないだろう。もう一つに、やはり、何か人を惹きつけるものがそこにあるに違いないのである。それは味であったり、雰囲気であったり、人柄であったり。それらの内のどれかが、誰かを捕え、まるで根を伸ばすように地域とつながり合うのだ。

 店内はさほど広くない。半分が土間のカウンター席。しかし最近は使われた形跡がない。半分は畳敷きで、座卓が二台。うす暗さはいかにも昔の食堂である。土間の隅には薪ストーブ。冬場に活躍するのだろう。調理した品を出し入れする小窓越しに見える、壁の向こう側の厨房は、案外広そうである。

 壁に貼られた品書きは二十ばかし。

 いかにも人の良いおしゃべり好きな奥さんと、往時はなかなかの好男子で鳴らしたと思われる無口な主人の、老夫婦で切り盛りしている店であった。薪ストーブの向こうの壁に、開店時間が大書されてある。平日午前十一時から一時間半。夕方五時から二時間(ときには一時間半)。日曜休み。これではなかなか開店しているときに行き逢えなかったわけである。

 とりあえず大瓶のビールを注文した我々に、「温かいビールもね」と奥さんがお茶を淹れてくれる。瓶ビールと佃煮を出したあと、どっかと椅子に腰を下した彼女が、

 「さて、何にしましょう」

 と威勢よく聞いてきた。

 こうなるともう、私はわくわくを抑えきれない。三品ほど注文したと記憶する。たしか、野菜炒めと、焼き魚と、豚カツ定食だった。食べてみると、何と、どれも美味しい。豚カツの柔らかいのと、マグロの旨みには驚いた。聞けば、いい素材を仕入れているとか。おまけに無口な主人は若い頃、温泉街の旅館をくまなく渡り歩いた板前だったらしい。この店が残ってきた理由が、よく腑に落ちた。

 座卓に片肘を突き、冷たいビールを口に含む。豚カツをもりもり食べる。美味しいねえ、と言い合う。他には、何もない空間である。だからこそ、昔よくあった時間がそこに流れる。

 心の錠をかちり、と外されたような、じんわりとしたくつろぎに満たされた。

 とは言え、制限時間は一時間半。喋りながらも飲み食いを精力的にこなし、完食して席を立った。奥さんによれば、五日は地元のお船祭りを観に行くらしい。ご主人は足が悪いから俺は行かない、と毎年言うのだが、でも結局観に行くのよ、と笑って教えてくれた。

 店を出れば、外はまだ明るい。家々には、祭りのしめ縄が長く張られている。この辺りの風習である。飾り紙が、ぱたぱたとひらめく。水の張った田んぼの脇を、ほんのり酔いの回った体で歩いていると、本番前の練習だろうか、遠くから風に乗り、かすかに笛の音が聞こえてきた。

 

(おわり)

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