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た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

鰻賛歌

2018年11月06日 | essay

 鰻の話である。

 鰻は不思議な生き物である。くねくねとしてぬるぬるしている。子供の頃、夏祭りで鰻のつかみ取りがあった。なんでこんな気持ち悪いものをつかまなければいけないのか訳が分からなかった。不思議な生き物だから、調理されても不思議な感が残る。自分からすすんで食べようという気がしない。歯ごたえが妙に柔らかいし、タレの濃さで何かを誤魔化されている気がする。だって実体はあの、くねくねぬるぬるなのだ。いや、食べてみると確かに美味しい。けっこう印象に残る美味しさである。が、騙されてはいけない。第一、値段が高過ぎる。法外である。鰻に払う金額でかつ丼なら三杯注文できる。別にかつ丼を食べたいわけではないけれど。

 ところが、衝撃的な鰻に出会ってしまった。

 現在同居している義母は、鰻が大好物である。それで年に何度かは、懐具合を気にしながらも食べに行くことがある。鰻屋の暖簾をくぐってかつ丼、と言うわけにもいかないので、私も鰻重を注文する。行きつけの鰻屋が諏訪地方にあるのだが、店の名前はここでは伏せよう。別にこの記事を誰が見るわけでもなかろうが、一応公共の場に著すのだから、褒めるのであれけなすのであれ、素人が匿名で店の経営を左右する発言をするのは無責任である、というのが私の持論である。だから私は「口コミ」が嫌いである。嫌いでも思わず見てしまうのだが、やっぱり嫌いである。

 この度もその行きつけの鰻屋に行った。行きがてら牛伏寺で紅葉を見て、道の駅でトイレ休憩をして、店に到着したのはお昼を少し過ぎていた。紅葉が綺麗だったので、気分は悪くなかった。小腹も空いていた。

 いつもは混んでいるのだが、時刻が遅いせいか、すんなりと席に通された。義母と妻と私の三人、鰻重を注文する。

 出てきた鰻重の蓋を開け、最初のひと口を頬張った瞬間であった。得も言われぬ香りが鼻を包んだ。そのあとに繊細で深い味わいが口の中に広がった。ああ、これは美味しい、という実感が、振動で全身に伝わった。

 焼きが強いわりに、中身がふんわりした食感なのがこの店の特徴である。私はどちらかと言うともう少しパリッと固い方が自分の好みだと思っていたが────その日はお腹が空いていたのだろうか。タレの濃厚な甘い香りと鰻の脂のコクと、皮の香ばしさと、そこに閉じ込められた身のふわっとした食感のすべてが、完璧に調和しているのを感じた。上等な羽毛布団にくるまれているような満足感があった。

 私が妻や義母の顔を見ると、向こうも目を合わせてくる。三人とも感じていることは同じらしい。

 「美味しいね」

 「美味しい」

 以前食べた時も確かに美味しかった。しかし、今日のこの特別な感慨は何なのだろうか。

 鰻が違うのだろうか。特別逞しく健康的な生き方をした、鰻仲間から兄貴と慕われているような立派な鰻がたまたま当たったのだろうか。それとも、調理のなせる業だろうか。最近腕を上げたね、などと女将に褒められたばかりの焼き手が気合を入れて焼いたのだろうか。それとも、すべてはいつも通りだが、食する我々の側の心もちと腹具合が、しっかりと味わう体勢になっていたのだろうか。

 私にはわからない。

 途中で山椒を振ったが、山椒がいらない仕上がりだった。

 <これが鰻重なのだ>と今更のように心に呟きながら箸を動かした。

 食べ終えて箸を置き、ふと見ると、食事制限のある義母も完食している。普段は気を付けて少し残すのだが、よほど美味しかったのだろう。

 不思議なのはここからである。

 鰻食は店で終わらなかったのだ。鰻食という言葉があるかどうかは知らないが。温泉に立ち寄ってから家に戻り、翌日になっても、なにか、口蓋に丸く張り付いたように、鰻の芳香が残っている感覚がある。鰻がまだ口の中にある、という気さえする。そんな風に感じることは滅多にない。確認してみると、同行者二人もそう感じているらしい。そうか、鰻はこんなに、こんなに美味しいんだ、と考えを改める絶好の機会になった。くねぬるもこれなら大歓迎だ。

 

 もちろん、考えを改めたからと言って、頻繁に食べに行けるところではない。懐具合を確かめつつ、それでもどうだろう、来年の敬老の日を待つというのはいくらなんでも遠過ぎるか、などと思案している。

 


PRIDE

2018年10月10日 | essay

 

 誇り。

 誇りとは何だろうかと思う。

 自分を肯定することであるなら、自分を肯定すればそれが誇りなのか。それとも誇りを持つことで自分を肯定できるのか。

 「俺は今回頑張ったと思う。そんな自分を誇りに思う。」と人は言う。誇りに思わなければ、今回頑張ったことにはならない、というわけではない。頑張った事実は残る。うまくいけば周りの称賛も残る。それ以上に何が必要なのか。「誇りに思う」で伝えていることは、単に、「嬉しい」というぐらいのことに過ぎないのか。それとも、「よくやった」という自賛も含まれるのか。

 誇りは単なる、「自慢」なのか。

 ややこしいことに、他人を肯定することも、誇りである。

 「彼は私たちの誇りだ」とか、「彼女は日本の誇りだ」と言うとき、人は何を表明しているのか。ただ「自慢」しているに過ぎないのか。そうとは思えない。おそらく何か大事なことを再確認しているのだ。あの姿こそが、我々の理想であり、希望である、と。だからこそ、その姿に自分たちも勇気づけられるのだ、と。

 誇りはそれでは、「自信」なのか。

 誇り。 

 なんだかそれは、ギリシア神話に登場する、あらゆるものを寄せ集めた怪物のキマイラのようなものに思えてきた。

 人はなぜ拳を振り上げ、あるいは胸に手を当て、「誇り」を口にするのか。

 ほとんどそれがなければ生きていけなく、

 ほとんどそのためにだけ生きているかのように。

 すぐ手元にありながら、ずっとそれを探して生きてきたかのように。

 

 


ただひたすら頭(こうべ)を垂れよ

2018年10月01日 | essay

 台風一過の秋晴れの街を気持ちよく自転車を漕いで帰ってきたら、鍵束をズボンのポケットからどこかに落としてしまっていた。この辺りが私の生涯出世できないゆえんであろう。慌てて来た道を引き返し、途中の交番に立ち寄ったら、ちょうど拾った人が届けにきてくださっていた。平身低頭して感謝の言葉を連ね、名前をお尋ねしたが、決して名乗ろうとせず、笑顔で立ち去られた。何という救う神あり。私の周りは救う神で満ちている。この辺りが、私の、出世できなくても何とか生きてこれたゆえんであろう。


でっかち

2018年09月08日 | essay

 

 私は頭がでかい。

 でかいなんて、品性を欠く表現だが、大きい、では収まらないのである。でかい、と言わなければ、伝わらないものがある。

 小さい頃から後頭部が目立っていた。当時NHKの人形劇で『プリンセス・プリンプリン』が流行っていたので、「ルチ将軍」という、後頭部のやたら肥大した登場人物の名をあだ名に付けられた。「火星人」と呼ばれたこともあるが、こちらの登場人物は予言ができる男で、別に後頭部が大きいわけではない。子どもながらに混同したのであろう。

 単純に、「頭でっかち」とも呼ばれた。

 最初は嫌だったが、やがて開き直った。後頭部がやたら大きなキャラクターを作り、ノートにサイン代わりに描きこんだりした。我ながら打たれ強いところがある。頭が大きい分、脳みそがいっぱい詰まっているのだろうとも言われたが、どうやらそういうわけでもなかった。今の自分を見ればわかる。来た道を帰るときには迷う。何しに階段を降りたのか忘れる。諦めて階段を登ったら思い出す。お金の計算ができない。経営というものを何年経っても理解できない・・・・。どちらかと言うと事あるごとに自分の間抜けさ加減にあきれ果てる始末である。おそらく私の頭蓋骨の内側には隙間があり、振ればカラカラと音がするのだろう。

 夏目漱石は大きな脳をしていたという噂があるが、頭でっかちでもあったのだろうか。私は頭でっかちではあるが、大きな脳をしている、という確証は今のところない。

 大人になるにつれ、体が成長したせいか、「あなたの頭は大きいですね」とは人に言われなくなった。人が遠慮して言わないだけかも知れない。決して頭が委縮したわけではない。それが証拠に、いまだに帽子を買うのに苦労する。私の頭に合うサイズが見つからないのだ。

 帽子屋を覗く。素敵な帽子が幾つもあり、思わず欲しい気持ちになる。奥から店員が恭しく出てきて、試着をどうぞ、と笑顔で勧める。その途端、こちらは己の身体的特徴を思い出し、急速に顔が強張ってくるのを自覚しながら、「いや、ちょっと小さいんじゃないかなあ」などと曖昧に切り抜けようとする。私の気持ちを知らない店員は、依然笑顔のまま、「いえ、これはXLですから、かなり大きめなので大丈夫だと思いますよ」などと、よく知りもしないでいい加減な勧誘をしてくる。私もそう言われるとつい信用したくなり、今までの失敗も忘れ、「じゃあ」と頭に被せてみる。

 これがものの見事に頭に入らない。チャップリンの山高帽よりもおかしな具合に頭に乗っかる。店員はちょっと驚いた顔をするが、内心は吹き出したいのだ。笑いを必死にこらえながら、「ううん、そうですか、それよりも大きめとなると・・・」と店の商品を探すふりをして、「すみません、うちではそれ以上の大きさは扱ってないんです」とさも申し訳なさそうに言う。だが私は知っている。その時でさえ、内心は吹き出したくてしょうがないのだ。そして、本当はこう言いたいのだ。「それ以上の頭の人は、うちでは客として扱ってないんです」と。

 人を馬鹿にしている。

 もう少し親切な店員になると、「同じXLでも、メーカーによってサイズが異なりますから・・・このメーカーのXLは少しサイズが小さめなんでしょうね」とフォローを入れてくれる。が、まあ、ほとんどフォローになっていない。いずれにせよ、私はうらぶれた気持ちを抱えながら、表情だけは無理して明るく、自分に合うサイズがないなんて大したことではないから、店側も気にしないで、といった雰囲気を漂わせながら店を後にするのだ。

 まったく、頭が大きくて得したことなどほとんどない。

 先日、散髪屋に行った。髪を切ってもらいながら、ふと、頭の小さい人の二倍くらい髪を切る面積があるのに、料金が同じだとすれば、これは結構得なんじゃないか、と考えてしまった。いや得なのだろうか。少なくとも店側は損である。「あ、二倍の奴が来た」と、私が店に行くたびに内心思われているのかも知れない。やっぱりこれも、得ではない。

 よく肩が凝るのも頭の重さのせいかもしれない。よく頭を打つのもそうだ。仕方ない。量販店に行ってもっと小型で軽量のものに買い替える、というわけにはいかない。

 頭を洗った後、髪を乾かすのが面倒で、濡れたままの髪でうろうろして、よく家人に叱られる。頭が大きいから乾かすのも一苦労なんだよ、と勝手に思っていたが、こちらはどうやらただの無精らしい。

 気が付いてみれば、半生を共に歩んできた頭である。愛着もある。髪くらいもう少し丁寧に乾かしてやろう。

 帽子ももう少し、諦めずに探してみよう。

 

 


子安温泉

2018年06月26日 | essay

 休日、温泉地に行って遊歩道を歩けば、もうミドルエイジどころかシニア世代の仲間入りである。そんな休日の過ごし方をすることが、ここ最近多くなった。危険を感じるが、何しろ平和である。温泉に遊歩道。鬼に金棒よりも両者の粘着力が強い気がする。何しろ、たいがいの温泉地には遊歩道がある。その中にはいい加減に作られたものもある。鴎外の道とか芭蕉の道とか、あたかもいにしえの文人・文豪達が歩いたかのような表題を掲げているが、果たして当人が本当にそこを歩いたかははなはだ心もとない。たとえ一度歩いたことがあるとしても、それくらいで誰それの道とか名づけるのなら、日本中が文豪の道で溢れかえることになろう。

 先日は連れ合いと高山村の温泉に赴いた。図書館で借りた信州温泉巡りの本で調べて行ったのだから、この辺のやり方もまことにシニア的である。危険をより強く感じるが、二人とも見栄より湯船、若さより安らぎ派である。

 初めての土地であり、まるでバス停のようにあちこちに温泉が点在している。どこに入るか迷うところだが、一番とっつきにあった『子安温泉』にまず入った。お湯が淡く茶色に濁っており、体にゆっくりと浸透する。高い天井に湯気が舞い、天窓から差し込む光に煌めく。  

 二人ともほどよく茹で上がると、温泉のはしごを目論み、さらに奥地を目指す。

 山田温泉郷で足湯に浸かり、遊歩道があるというので遊歩道を歩く。順番が逆のような気もするが、行き当たりばったりなので仕方ない。ところでその遊歩道が、枯葉が敷き積もりぬかるみもあるような悪路である。しかも熊よけの鐘がそこここに設置されている。不気味であることこの上ない。誰一人すれ違わない。数百段もの階段もあり、三十分も歩けばへとへとになった。本物のシニアであればこの辺もしっかり下調べして、避けるべき道は避けるだろうから、むしろ無鉄砲さが若さの証拠かと自分たちの愚行を慰めた。 

 山田牧場で牛たちを同類のような顔で眺めた後、七味温泉に入り、帰路に就く。七味温泉の硫黄は強烈であり、翌日まで体から臭ってくるような気がした。

 カメラを忘れたので、写真はない。

 連れ合いはすでに次なる温泉地を物色し始めている。温泉はともかく、遊歩道はしばらく考えてもいい気がする。

 

 

 

                


大阪北部地震

2018年06月19日 | essay

 

 大阪で地震が起きた。死者も出たという。

 

 震災が起きるたび、思い出す古い記憶がある。

 一つ目は、以前ここに書いたかも知れない。

 二十年以上前、阪神淡路大震災が起きた時、私は大阪にいた。地震が来て三日目、実家の両親が三宮(さんのみや)にいるという先輩に、水と弁当を実家まで届けたいから手伝ってくれないかと依頼された。私と先輩は互いの自転車の荷台に積めるだけの弁当とペットボトルを括り付け、被災地に向かった。途中、あらゆるものが倒壊した街を目の当たりにした。原爆が落ちたのではないかと疑うほどの惨状であった。被災者たちが列をなして駅に向かって歩いていた(電車は線路の損壊により不通だった。それを承知の上で、住む所を失った彼らは駅に向かったのだ)。その中で一人、道端にうずくまっている男がいた。隣には鳥かごがあり、インコらしき鳥が入っていた。着の身着のまま家を飛び出した際、彼は一番大事にしていたペットの鳥を持ちだしたのだ。その姿を見た被災者の一人が、「こんなときに」と吐き捨てるように呟いて通り過ぎていった。

 

 もう一つは、それから四年ほど経った、熊本の地である。

 当時大学院生として熊本にいた私は、仲のいい五、六人のグループで喫茶をしながら雑談をしていた。そのうちの一人の女性が、出身が神戸だと打ち明けた。四年前の被災により、遠く九州まで移り住んだのだ。この告白で普段押さえていた感情が噴き出したのか、彼女は長々と自分の境遇に対する愚痴を述べ始めた。あまりそれが続くものだから、場の雰囲気を推し量った私は、そんなに否定的な言葉ばかりみんなの前で口にするものではない、という趣旨のことを忠告した。それに気を悪くした彼女は、以降ぷっつりと黙り込んだ。その後どれだけ日が経っても、彼女が再び私の前で口を開くことはなかった。

 あの時の私の判断は、間違っていたのだろうかと、今でもよく自問する。たとえどんなに辛い思いをしてきたとしても、その出し方を間違えれば、周囲に悪い印象を与えてしまう。だから私が諌めたことは決して間違っていなかったとも思う。しかし、私の一言で意思疎通を放棄するほど、彼女の心の傷は深かったのだ。もしかして、震災以降自分の殻に閉じこもりがちだった彼女が、自分をオープンにしようと試みた貴重なチャンスだったかも知れない。私の心無い一言がその機会を永遠に葬り去ったのだ。そう思うと、背筋のぞっとするような後悔がある。

 震災は、起きてからが、途方もなく長い。経験した者にとっては、ほとんどそれは永遠に続くと思われる長さである。そのことを、私は身をもって知った。水も食料もない中、役に立たないインコなぞを持ち出したあの被災者も、四年経ってなお私の前で心を閉ざしたあの女性も、誰も、責めることはできない。

 震災はそれだけ、圧倒的なのだ。

 

 今日の大阪は雨だという。激しく揺さぶられ、打ち砕かれた数知れぬ心がそこで濡れている。一日も早く、あたたかい日差しに包まれることを、切に願う。

 


旅立ち

2018年06月16日 | essay

 玄関に腰を降ろし、靴を履く。靴紐(くつひも)の結び目を確かめる。紐を左右から引っ張り、結び目の固さを再度確かめる。普段は気にしたことなんてないのに。普段はその存在を忘れるくらい履き慣れている靴なのに、今、急に気になったのだ。自分は本当に、この靴で、これから見知らぬ土地へ行き、歩き続けることができるのか、と。

 住人が旅人に変わる刹那(せつな)である。

 友人が、海外へ旅立つという。ただの観光旅行ではない。どちらかというと仕事を見つけに行く旅である。人生をやり直すには遅すぎる年齢かも知れない。しっかりした見通しがあるわけでもない。健康上の不安も抱える。傍目(はため)に危うい。それでも、出立を決意したことに、近しい知人として、靴紐をきゅっと結び直すような心地よさを覚える。

 深く息をつく。両膝に手を置き、よし、と一つ呟(つぶや)いて立ち上がる。その言葉は誰に聞かせるためのものでもない。自分の生きてきた過去と、それと断層を成して続く未来とを、その一言によって結びつけ、認め、他の誰でもなく自分自身を納得させ、旅人は出かけていくのだ。そうしなければ、全く新しい環境で生きていくことなんて到底できないのだから。

 

 

 

 親友として、エールを送る。良い旅を!

 


初恋

2018年05月25日 | essay

 昔、隣の家に可愛い女の子が住んでいた。

 隣と言っても田舎のことだから、水田を挟んで百メートルほど離れていた。同い年だったので、小さい頃は互いの家に行き来してよく一緒に遊んだ。彼女が遊びのルールを説明し、私がそれに従う。大体がままごとのようなものである。男友だちと泥んこになりながら遊ぶのとはまた違った女の子独特の雰囲気があり、幼い私はそれを好んだ。

 小学校に入る年齢になると、互いを異性として意識するようになり、何より周りがはやし立てるのが煩くなって、自然と疎遠になった。学友たちに好きなのかどうか問い質され、あんなやつ嫌いだと告白せざるをえなかったのを、今になり寂しく振り返る。

 彼女には元気な弟がいた。ある日の下校時、その彼は親の農業を継ぐことを私に向かって高らかに宣言した。私は非常に驚き、感心したのを覚えている。農業なんて地味で辛いイメージしかない時代であった。農業の後継者不足が深刻になりつつあった。でもこの一家は安泰だ、と思った。

 それから数年が経ち、彼らの親が林業に失敗して借金を抱え、土地と屋敷を手放さなければならなくなった。

 ある晩、隣の家から尋常でない犬の鳴き声が聞こえてきた。彼らは犬を一匹飼っていたのだ。一向に鳴き止まないので庭に出て遠目に伺うと、同級生の女の子とその弟が、どうしていいかわからず泣きながら犬をあやしている。私は何が起こったのかわからず、母親に尋ねた。母親は首を振りながら、「何か悪いもんでも食べたのかね」とだけ答えた。犬の鳴き声と犬の名を呼ぶ子どもたちの声は、そのあともかなり夜更けまで、月夜に響き渡った。

 しばらくして、隣家は空き家になった。人が住まないと家は駄目になるというのは本当で、一年も経たないうちにその家は崩れ落ちて見る影もなくなった。

 同級生の女の子に再び会うこともなかった。

 その事件以来、私は世の中を肯定的に見るのを止めたように思う。それまでの私は、全てが平和で、順調に行くものだと信じていた。私はのんびりした田舎に育ったのんびりした子どもであった。その事件を通じて私はひどい衝撃を受けた。不幸というものがいかに容易に手の届くところに転がっているかをまざまざと思い知らされた。私はおそらく、少しだけ大人になった。と同時に、私の淡い初恋も終わりを告げた。

 今になって、それがわかる。

 

(おわり)

 

 

 

 

 


ある食堂の終わり

2018年04月30日 | essay

 その食堂は目立たなかった。看板は歳月を経て字が薄れ、判読できなかった。普通の民家に小さな暖簾を掛けただけの入口である。前知識なしにふらりと立ち寄るにはそれなりの勇気が要った。事実私も、とある人から勧められるまでは、そこに食堂があることすら気づいていなかった。一方通行で車の多い通りに面しており、車窓から人が行き交うのを見ることは稀だった。

 私にその店を勧めたとある人というのは、居酒屋の店主である。美味しいものを心地よく食べてもらうことに心を砕く、こういう業界では珍しいほど柔らかい物腰の人物である。坊主頭も接客も実に気持ちがよい。そんな人に勧められたので、私も行ってみる気になった。新しい店を訪れるのは、冒険めいて嫌いではない。ことに人から勧められた店となれば、勧めた人の勧めた理由を納得する楽しみまでそこに加わる。平日、仕事の合間を縫って、用事もないのに車を走らせ、初めてその食堂のカラカラと鳴る引き戸を開いたのは、もう何年も昔のことになる。

 外見に違わず、内側も質素な造りであった。質素というよりも風変わりであった。普通の民家の土間をそのまま利用しているのだから、初めは驚く。両壁に長机をつけ、丸椅子を幾つか並べてある。正面の上がり框にも、昭和初期のどの家庭にもあったような低いちゃぶ台を置き、左右に胡坐をかいて食べられるようになっていた。合わせて十数名は入れるだろうか。全体として、およそ食堂らしからぬ空間であった。いや四、五十年前までは、こういう飾り気のないテーブルと椅子こそ食堂そのものだったのかも知れない。珍しいような、懐かしいような、アンバランスなような、バランスがとても取れているような、何とも不思議な感覚があった。数人がすでに腰かけて麺を啜っていなかったら、ここで本当に食べさせてもらえるのですか、と尋ねたかもしれない。

 掃除は隅々まで行き届いていた。

 天ぷらラーメンというのを食べてみてください、と私に勧めた坊主頭の店主に前もって言われていた。天ぷらとラーメン。聞いたことのない組み合わせである。しかし決して奇をてらったものでないことは、勧めた店主の人柄からわかっていた。「じんわりと美味しい」のだとか。

 丸椅子を跨いで腰かけ、天ぷらラーメンを注文する。おかみさんが、「はいよ」と威勢よく答える。

 しばらくして供されたラーメンは、麺といいシナチクといいチャーシューといい、ごく普通の体裁をしたラーメンであった。変わっているのは、青い菜の入った天ぷらが、すでに汁を吸って浮いていることくらいである。

 これが美味しかった。驚くほどに味わい深かった。

 鳥ガラだろうか、スープはあっさりとした味付けだが天ぷらの油が程よいコクを付け加えている。体にとてもいいものを取っているような、心地よい余韻が舌と胃に残る。スープの絡んだ麺も、シナチクも、チャーシューも、こうあって欲しいという味をしっかり守っていた。私は夢中で食べた。なんだか気分まで明るくなり、思わず笑い出しそうな衝動まで覚えた。食べた人を元気にさせてくれる料理であった。

 それで五百円を切る値段である。

 高級な具材は使っていないかも知れない(値段から勝手に憶測する限り)。しかし普通のものを、普通にきちんと作れば、こんなに美味しくなるのだ。「普通にきちんと」というところには、作り手の愛情や優しさといった、人柄から滲み出るものも含まれる。この店は夫婦で切り盛りしているらしい。おかみさんの明るい受け答えと、亭主の実直な仕事ぶりを見れば、こういう味が醸し出されるのかと少しは納得できた。

 普通のものを、きちんと作る───これがいかに難しいことか。

 気づくと、次から次へと客が来店する。あっという間に狭い店内はいっぱいになり、外で待つ人まで出始めた。よほど評判の店らしい。昨今ブームのラーメン専門店でもなければ、特別な宣伝をしている店でもない。外観はいたって地味である。ついでに言えば内装も地味である。それでも、この店の味を知る人たちが集まってくるのだ。

 

 その後数年にわたり、私は機会があるたびに暖簾のかかったあの引き戸をからからと引いた。いろんな人を連れて行きもした。高齢になる義理の母親は「ああ美味しい」と言いながら全部平らげた。寺育ちで大食漢の知人を連れて行ったときは、天ぷらラーメンに加えてカレーも注文した。彼はカレーの味が、子供の頃、寺で祖母が作ってくれたカレーとそっくりだと言って感動していた。ソースを加えて食べる「しゃびしゃび」のカレー。言われて食べてみると、なるほど素朴ながらしっとりと心に残るカレーである。昔はどこの家庭のカレーもこんな味だったのかも知れない。スパイス全盛の現代から見るとパンチに物足らなさが残るが、子どもでも大人でも安心して食べられる、我が家のカレー。

 それからは、私一人で行くときも、天ぷらラーメンとカレーを併せて注文することが多くなった。当然お腹が張るのだが、せっかく来たのならどうしても両方味わいたくなるのである。

 とは言え仕事も忙しくなり、滅多に用事の出来ない方面にあったので、そう頻繁に行けたわけではない。半年くらい間隔を開けることもあった。

 

 桜の散ったある日の夜、帰宅すると妻から、悪いニュース、と前置きして、閉店の事実を知らされた。

 妻は私が一度連れて行って以来のファンである。その妻が教えた女友だちからのメールにより判明した。つい半月ほど前、わたしはそこで天ぷらラーメンとカレーを食べたばかりである。夫婦の元気に働く姿も見た。あまりにも唐突な知らせであった。そうか、と私は答えた。残念だ、とも付け加えた。どう感情表現していいかわからなかった。ひどく悲しむのは、親族が死んだのでもあるまいし大袈裟な気がした。自分が何を失ったかを理解するには、時間がかかるようにも思った。大したことはない話かもしれない。たかが数ある食堂の一つだ。だが、唯一無二の食堂だった、という声も心のどこかで聞こえていた。正直、どう捉えていいかわからないほどあっけない幕切れであった。 

 その食堂の名前は「しず本」である。

 

 私は世に言う「食レポ」を書いたつもりはないし、人にお勧めする意図もない。閉店しているのだから今更そんなことしようがない。閉店してしまったがゆえに、初めて具体的な店名を載せて書いても許されるだろうと思った次第である。どう書こうとも、もはやあの店の経営に関し迷惑をかける可能性はなくなったのだから。

 ではなぜ、今更書いたのか、と問われれば、それもうまく説明できない。どうしても書かざるを得なかったのだとしか言いようがない。

 そんな思いをするのも、私としては珍しいことなのだ。 

 

 

                                       ───あのお二人に、感謝をこめて。


桜三景

2018年04月19日 | essay

 今年は桜をいろいろと見た。

 始まりがそもそも例年より早かった。三月上旬、伊豆を旅した際、河津桜の終わりかけに出くわしたのである。ぼんやりと生暖かい南国の空気の中に濃いピンクが揺らめいていた。花見が一足早くできたという喜びよりも、どちらかというと違和感を覚えたのが正直なところである。私の生きてきた歳時記の中で、三月上旬というのは、桜の時候としてはあまりに早すぎたのであろう。

 信州に戻って花を見直すには、それから一か月を待たなければいけなかった。

 それでもいつもより咲き始めが早いと知り、慌てて義母を連れ出したのは、兎川寺の枝垂れ桜を見せるためである。

 高齢の義母はなぜか兎川寺の桜を見たがる。他にも桜はいろいろあるだろうに、近所の小さな寺の一本ばかしの枝垂れ桜に執着するのである。若い頃から見続けた桜なのであろう。毎年毎年同じ桜を見続けることで、自分の中で何かを確認しているのかも知れない。枝垂れ桜はソメイヨシノより早い。うかうかしているとすぐに見頃を過ぎてしまう。

 妻は仕事。義母と私と二人だけの短いドライブである。こういうことをするのも、病院に連れていくか兎川寺の花見くらいである。

 枝垂れ桜は義母よりはるかに長い歳月を生きて、まるで這いつくばるように長い枝を四方に垂らし、淡い色の可憐な花をめいっぱい咲かせていた。

 改めて近くから見上げると、なるほど立派な桜である。大地へ向かって咲く桜が、青い空に不思議と似合う。綺麗ですね、と義母に言うと、ああ、今年も見れてよかった、ありがとうございます、と返ってきた。

 少し他人行儀でぎごちない分、花を見上げる時間は長い。これはこれでなかなか味わい深い花見である。

 松本城の桜も散り始めた休日、格別することもないので、妻と車でなんとなく南下をした。途中、辰野町で桜のアーケードに巡りあった。

 道路の両脇から空が見えないほど完全に覆い被さった桜並木で、それは息を呑むほどに美しかった。西洋の宮殿の回廊を進んでいるような絢爛豪華さがあった。とくに観光名所でもないのか、なんの標識も看板も見当たらない。あんまり不思議な思いがしたので、引き返して二度くぐった。

 なんとなくの南下は結局、高遠まで行き着いた。城址公園の桜は外からほどほどに見て済まし、高遠焼きを買って帰った。

 桜はやはり偶然の出会いがいい。

 最後に、遊び仲間三人の毎年恒例の花見。これはよほど日頃の行いの悪い三人が寄り集まっているらしく、当日は冷たい風が吹き、花見どころではなかった。急遽目的地を温泉に変更。

 三人中最高齢者の鶴の一声で、箕輪町の『ながたの湯』へ。車を運転するのは、仕事もあり酒の飲めない最年少の私である。箕輪町と言えば辰野町の次。なんだか同じ道を何度も通っている気がする。だったらついでにと、寄り道して辰野町の桜のアーケードをくぐった。これで三度目である。

 先輩二名は道中から酔っぱらって、花より団子、団子より酒肴、といった体である。それでも温泉場には桜が咲き、食堂で花見をしながら宴会をすることができた。小雨がぱらついたが、ガラス越しなのでぬくぬくと飲める。運転手付きで温泉につかって花見酒。彼らにとってこれ以上の贅沢はないだろう。案の定、しばらくすると桜ほど綺麗ではないピンクに染まった野郎二人が出来上がった。

 これはこれで、また一つの風情であろうか。

 

 

    濡れそぼち 犬も見上げる 花のした