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土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

日本 

2013-08-20 18:42:10 | くじらの詩(うた)

日本 この国では 

年寄りは 敬うのが 当たり前

子どもは 可愛がるのが 当たり前

女性は 食べさせるのが 当たり前

弱者は 労わるのが 当たり前

人を見下す者は 軽蔑され 支配者権力者は 徳が求められる

多くの人にとっては 我慢は美徳であり 無駄遣いは悪であり 働くことを厭わない

このような国民が 数多く生きる国は 世界でもあまりないものだ


私は この国が 大好きだ

困っている人がいれば 援(たす)けたくなる 

援けを求められれば 過去の遺恨は 水に流してしまう

そんな 優しい国民なのに

今の日本は 国として 自信を失っているように思える

今の日本国民は 世界の中をうつろい 漂っているようにも見える


誠に 残念だ

ただ私は この美しき国が 大好きだ

歴史の波間に 消されてしまうには 惜しすぎる美しさだ

もう一肌 二肌 脱ぎ甲斐のある国 それが日本だ


平城京建設のミステリー

2013-08-20 09:53:29 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

前回記事の天智天皇の国創りは、主に日本の政治体制、天皇を中心とした国家体制の礎になりました。
日本の古代は、天智天皇が終わらせました。

また白村江の戦いには負けましたが、それにより、朝鮮半島から帰化人が多く倭国に入りました。
帰化人とは、恐らく任那(みなま)や、親交もあり、白村江で共に戦った、百済(くだら)系の朝鮮人であると思われます。

帰化人たちによって、国内の近代化が進んだ・・・と教科書にはありますが、恐らく、大和朝廷内やその他の豪族たちの、意識改革が進んだことが大きかったのではないでしょうか?

嫌が上でも、国際化されますからね。
私の説では、そのころの日本の外交上の窓口は、九州だったはずで、近畿は奥の院的な存在だったはずです。
白村江の戦いや、その後の帰化人流入が平城京建設への、意識の芽生えになったのかも知れません。

なぜなら、白村江の戦以降、奈良に本格的な都を建設するからです。

奈良時代に移る前の倭国は、近畿内で、たびたび遷都を繰り返しております。
事実上、天皇が変わるたびに、遷都を行なっております。

何でこんなことをしたのでしょうか?

行政を一新するためもあるでしょうし、恐らく、ヤマト国が近畿に入城した際に、協力した地方の豪族たちへのサービス、行政キャンペーンもあったのではないでしょうか?
首都が来てくれれば、その地域が発展するのは間違いないですからです。

そして、神武東征の目的である、国防面での意味合いもあったと推測します。
つまり、大陸勢力に、ヤマトの本当の首都を悟られないようにするためです。

しかし、遣隋使や遣唐使での大陸との交流、そして大和朝廷の東アジアでの存在感の高まりなどで、そのような非効率なことは必要ないと、思えるようになったのではないでしょうか?

そして、白村江の戦いの敗北で、唐などへの競争意識も高まったと思います。
日本お得意の、明治維新後の欧米社会、太平洋戦争後のアメリカ社会への、良い意味での「追いつき追い越せモチベーション」ですね。(笑)

そして、奈良(平城京)に腰を落ち着かせての、しっかりとした国家形成への道を歩み始めた・・・ということなのではないでしょうか。

現実的に、天皇が変わるたびに首都が移転していたなら、政策の一貫性に支障がでそうです。
また行政の蓄積もできませんし、首都建設や移転に伴う費用などがバカになりません。

また何より、多くの日本国民に、現時点での日本の行政の中心がどこかがわかりません。(笑)

このころには、慣例のようなたびたびの遷都の必要性は、もう既になかったのかも知れませんが、前例や習慣に流されていただけなのかも知れませんね。
また、九州ヤマトの国の人々が朝廷奈良盆地入城の際の、地域住民への約束事があり、東征以降の朝廷は、それを実行していたのかも知れません。

兎にも角にも日本は、これ以降都市という、文明の基盤ができるようになりました。

私の説では、当初の大和朝廷は対外的には、小さな秘密組織的な存在だったはずです。
それならば、天皇が変わるたびの遷都も、言わば政治活動の一環としての機能も理解できます。
しかし、大国隋や唐と対等に外交できるようになった大国となれば、やはり堂々と居を構えた、どっしり感が欲しいものです。

何はともあれ大和朝廷は、西暦710年、奈良に都を移します。
建設モデルは、唐の都長安です。
その後、途中数年、難波などに遷都をしますが、約70年間、倭国の中心として栄えます。

平城京では、仏教寺院の建立も盛んに行われたのは、もう皆さんご存知のとおりですね。
そして南都六宗など、この小さな一都市で、密教以外の仏教が全て学べる宗教都市として、世界に誇れる一時代を、日本は経験することになったのです。

                                     (続く)


白村江の戦いと日本確立   (日本国体の確立者 天智天皇)

2013-08-19 08:23:05 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

日本は偉大な歴史を有する国です。
そして偉大な指導者も多く、日本は誠に、神様に愛されている国だと思います。

さて飛鳥時代末期の天智天皇が、大化の改新を断行し律令制度を導入したことで、倭国内での天皇家のイニシアティブは、決定的となりました。
これと似たような事例は、明治初期の廃藩置県の断行が日本にはあります。

どちらも、軍事力を使わない国内の大改革であり、結果的に中央集権体制が飛躍的に高まると共に、国内統治や国内の行き来が格段にしやすくなる効果がありました。

当時仮想敵国であった唐の土地・兵役・戸籍制度ですが、中大兄皇子(後の天智天皇)は積極的に導入しております。

それによって朝廷は経済力と軍事力、そして戸籍による人民の把握を独占する形となり、当時の全日本の中で群を抜いた勢力を保持する形となりました。
天智帝以降、それまであった氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)といった、旧勢力による天皇側近政治は完全に終わりました。
日本は天智帝によって、古代から脱出したのです。

その納税や、兵役のきつさばかりが揶揄され、余り評判の良くない当時の大宝律令国家ですが、その後の時間の経過の中で、重要な役割を果たします。

唐・新羅(しらぎ)連合軍と、倭・百済(くだら)連合軍との間で戦争になったのです。
百済から、倭に援軍要請があったようです。

唐と百済、どちらと同盟を結ぶの判断にかなり迷ってしまい、朝鮮の現地に軍を送るのが、かなり遅れたようです。
ここらへんの戦略的防衛感覚の弱さは、近代・現代日本と変わらないところが垣間見えます。
(詳しくは、カテゴリー「歴史」そして、「誇るべき日本の歴史」をご参照ください)

ただ、任那を存続させるには、百済と同盟するしかなかったようです。
任那は大事なんですね。
なぜなら、任那が存在する=日本列島は安泰・・・だからです。

この状況は今も不変です。
韓国が自由主義国側として存続しているから、日本の国土は安泰なのですね。

その唐・新羅連合との戦いとは、663年朝鮮半島で起きた、有名な白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)です。

倭国は結局この戦いに負け、任那を失うのですが、その後の戦後処理は見事でした。
全国から防人(さきもり)として兵隊を九州に集め、北九州全体を要塞化し、瀬戸内地方も水軍を整備し防衛拠点を置きました。

天智天皇以前の大和朝廷では、絶対に不可能な施策です。
なぜなら、天皇がリーダーシップを発揮する上で必要な、富と権力の集中がなかったからです。
鎌倉時代の元寇襲来で、執権北条時宗は天智天皇と同じく、九州を要塞化しましたが、同じような事例は、古代の日本にもあったのです。

白村江の戦いでの倭軍が強かったのと、この北九州の武装化によって、その後も倭国は唐と対等外交を続けるのですね。
倭国軍が強くなければ、また戦後に毅然としていなければ、日本は本当にヤバイ状況でした。

天智天皇はその後、白村江敗戦の責を取り退位します。

そして、重税感が強かった律令制は、743年に発令された墾田永年私財法によって、その使命を終えます。
墾田永年私財法というのは、個人の土地の私有財産としての価値を認めたものです。

「自由に開墾してOKよ。」ってことですね。(笑)

律令制は、現代の視点から見れば、共産主義的過ぎですね。
土地を国民に与える・・・と言っても、実質的には農地の国有化、国民総公務員化政策でした。

そして、墾田永年私財法によって、倭国の民は、豊かな時代へとシフトしていきます。
開拓精神に溢れた日本人に、律令制は合わないと私も思います。

しかし歴史的には、一時期の救国的措置として、また、日本が実質的にひとつになるための、具体的な施策として、この時は必要な時期であったのだと、今の私は考えています。

                                         (続く)


宗教戦争克服のキーワード (聖徳太子の偉業を考える)

2013-08-18 07:04:56 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。
私は歴史好きなので、拙ブログは今、日本の歴史問題に取り組んでおります。

飛鳥時代のスーパースター聖徳太子は、日本のみならず世界で唯一、宗教戦争を克服した偉人です。
前回記事までに、後世の天智天皇まで話が飛んでしまいましたが、今回はそれについて述べてみたいと存じます。

世界は今宗教戦争、特にイスラム教とキリスト教+ユダヤ教勢力との争いが深刻化しております。
両宗教には、旧約聖書に書かれているハルマゲドン思想という、終末期における戦いの予言もあり、勝者が神に祝福された千年王国を造るという深層心理もあり、やっかいな問題ではあります。

また中国や北朝鮮に残る共産主義思想も、無神論という宗教と言えます。
無神論は宗教ではない・・・と思う方も多いでしょうが、神仏が存在しないことは証明できませんので、
これもまた、「神などいない。」という教義理念を信仰しているのであり、無神論も宗教なのです。

先週、終戦記念の日の前日にTV放送されていた、かつての旧ユーゴスラビアの内戦の不幸を私は見ました。
長年、共産主義国(無神論国家)として永続してきた多民族国家ユーゴスラビアが、創設者チトー大統領の死去をを受け分裂し、泥沼の民族紛争へと発展した事例です。
イスラム教徒、キリスト教徒が入り乱れ、他民族が入り乱れる大都会では、かつての友人通しが殺しあうと言うのが当たり前となっていたようです。

このように宗教による戦争や、共産主義国家内における粛清など、思想による不幸は、世界の歴史から消えたことはございません。
長年思想による戦いを経験していない日本人にはピンと来ない話ですし、先の大戦で天皇現人神信仰で敗れた日本人には、思想は怖い・・・という、深層心理が働いてもおかしくはありません。

ただ歴史には必ず、時代が求める課題というものがあります。
私にはそう思えます。

今ある宗教や共産主義などの思想による戦い、そしてかつての日本の不幸体験、これらから抽出されるこの時代の課題は、やはり思想問題の解決であり克服だと思うのですね。

では、これらの諸問題に共通するものは一体何でしょうか?
それがわかれば、解決の糸口が見えてまいります。
これらの不幸に共通すること、それは、

思想信条の自由がない・・・ということです。
思想信条の自由が完全保障されている地域や国の内部では、争いごとが起こらないという法則を見て取ることが出来ると思うのです。

振り返るに聖徳太子は、古来からの神道と仏教の融和の際に、仏教を上位概念とし、事実上の国教としました。
これでできたものは、日本国内の完全なる思想信条の自由でした。

神道が上位概念ですと、これはできないのですね。
これは、明治時代に証明されました。
仏教が上位概念だと、思想信条は自由になるのです。

地上から宗教を消し去ってもダメなのです。
宗教を消し去ろうと努力した共産主義国家は、今度は大量の粛清を発生させました。
人の心から、神の子としての良心を抜き去った無神論は、良心の呵責なく、ここ100年余りで億の単位の人命を奪いました。

争いを頻繁に起こす宗教、そして粛清の無神論、これらに共通するものは、思想信条の自由の欠如です。

思想信条の自由を高らかに、第一義として掲げる宗教が、人類共通の指導原理となったとき、世界はごく当たり前のように平和となるはずです。

これが、歴史から導き出される希望です。

思想信条の自由が大事です。
日本の歴史には、それによって宗教戦争を克服した事例がございます。
そういった点において、日本は誇るべきだと思うし、思想信条の自由が日本国内において、完全保障されていない部分があれば、世界の希望を小さくすることとなります。

いつどこでも、学校においても職場においても役所においても、また公的な機関やテレビ放送においても、「神とは何か。」とか、「神仏の愛とは。」などが議論される時代でなければなりません。

日本がそういう国家になれば、人類は平和を選択できると私は考えます。

                                              (続く)


天才政治家 天智天皇降臨

2013-08-17 09:02:58 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

前回の記事で書いた、この飛鳥時代末期の日本の危機ですが、実はこの頃、聖徳太子が大和朝廷と対等外交を結んでいた相手国”隋”が滅亡してしまったのです。

超大国との対等外交・・・という、東アジアにおける、政治的バランスが崩れたのです。

韓国の俳優、ペ・ヨンジュン氏が主役を演じた、高句麗の広開土王が強くて強くて、隋は4回も高句麗との戦争に負け続けました。
隋はそれですっかり家臣の信頼を失い、家臣のクーデターによって、”唐”が建国されます。

それだけなら、まだ良かったのですが、唐は戦争関係にあった高句麗対策として、新羅(しらぎ)と同盟を結ぶのですね。
ヨン様、広開土王の高句麗は、よほど強かったんでしょうね。(笑)

こうなると、危うくなるのは、新羅以外の朝鮮半島諸国と倭国です。
隋の滅亡で中国との対等外交も、当然白紙になりました。
唐・新羅連合軍の動きによっては、倭国は占領されるかもしれない状況ができたのです。

また、唐・新羅連合が朝鮮半島を制圧すれば、その他の諸国が、倭国になだれ込む可能性もありますね。
膨大な人数の難民だって、国家の重大な危機に直結いたします。

要は今も昔も、朝鮮半島や東アジアの軍事バランスの崩れは、日本の防衛上のリスクが上がり安全保障に直結するのは変わりないのです。

そんな中、一応倭国の宗主国的な立場にあった大和朝廷では、蘇我一族などの氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)などの旧勢力による政治体制のままでした。
天皇一族は象徴的存在、つまり飾り物であって、強力なリーダーシップを、全く発揮できない状況だったのです。
当時の天皇の直轄地から見ればそうなります。

時間的な余裕は、全くありませんでした。

そのような、朝廷の閉塞的状況の中、敢然と立ち上がったのが、後の天智天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、忠臣、中臣鎌足(なかとみのかまたり 後の藤原鎌足)だったのです。

中大兄皇子と中臣鎌足の二人は飛鳥宮で、当時政治の実権を握り、権勢の限りをつくしていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を葬り、クーデターを成功させます。
父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は自害し、蘇我氏は滅亡します。

中大兄皇子はすぐには即位せず、皇太子となって聖徳太子のような立場に立ちます。
そして、政治の実権を握った二人は、政治の大改革を断行します。

それが有名な、大化の改新です。
大化の改新の、最も大きな政策は”土地制度改革”と”税制改革”そして”事実上の徴兵制度導入”です。

大宝律令を制定し、倭の全国民に、天皇の名の下に土地を与えたのです。
そして、納税の義務と兵役の義務を、全国民に与えました。


これにより、奈良盆地の一角しか所領のなかった天皇一族は、直轄地はそれほど増えてはいませんが、名目上の所領は全国に及びました。
名目上、「天皇が、国民の土地の所有権を認める体制」が、大宝律令という法律一つで出来上がったのです。
これがその後の、日本の統治者が、天皇から任命されるという形を取っていく、歴史的なきっかけとなりました。

つまり、平清盛や後の源氏系征夷大将軍らの、一連の歴史の流れの源流には、天智天皇がいらっしゃるのです。

大宝律令という、たった一つの法律により、天皇は全国に所領を得る共に、全国に天皇直属の兵隊を持つことになりました。
これで天皇は、勢力比率で、倭国の中での圧倒的なスーパーパワーに、歴史上初めて成り得たのです。


出雲の国譲り、明治初期の廃藩置県とならぶ、日本の平和裏の大改革が大宝律令です。
この3つを軍事的にやろうとすれば、たとえば、実質的な所有者から無理やり土地を奪おうとすれば、日本は泥沼の内戦状態になるはずです。
日本という国は、それが起こらない不思議な国です。

とのもかくにも、日本の精神的な父が、”聖徳太子”なら、それを現実化し、実質的に日本という国家を築くための、制度的な土台を築いたのは、中大兄皇子=天智天皇だと私は思います。

その後即位した、飛鳥のスーパーヒーロー天智天皇の大改革によって、歴史上初めて日本は、一つの国という概念を持つに到るのです。

                                              (続く)