土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

卑弥呼の鏡は、大和(大倭)連邦の証 ?

2013-08-04 18:38:39 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
つじつま合わせの歴史マジシャン、古代のミステリーハンターでございます。(笑)

やっと、卑弥呼の邪馬台国の時代が、一区切り付けましたので、これからはだんだんと、教科書に出てきたような話が出てくることと思います。(笑)

私の説では、
・邪馬台国(ヤマト国の中国読み)は2つあった。
 (九州のヤマトと、近畿のヤマトです。)

・卑弥呼の邪馬台国(九州のヤマト国)は、対外的なヤマトであり、ヤマトの正規軍は九州に残し、万一の朝鮮半島からの侵略に備えた、囮(おとり)の機能を兼ね備えていた。(侵略されるのは、日本列島のみならず、朝鮮半島南部の任那・みなまを含みます。)

ということになります。

その2つの説を機軸に、今後も話を進めてまいります。

まず、近畿ヤマトの最終拠点である奈良盆地ですが、魏志倭人伝以降に、日本の歴史の表舞台に立つ、大和朝廷の最終拠点である奈良は、どう見ても対アジア勢力に対する要塞としての地形をしており、決して、首都機能優先、外交優先の地形をしておりません。

そして普通は、軍事的な常識から言えば、盆地を対外勢力が占領しようとはしません。
なぜなら盆地は、完全な地元有利の地形であるので、攻め取るのに難儀するからです。

盆地は山々に囲まれています。
ということは、大軍は進入路が極端に制限されますね。
大軍で攻めても、山に阻まれるので、少数の兵しか進めず、相手が少数でも防衛されてしまいます。

そして山岳部は、無数の抜け道など存在しますから、地元民でならば防衛は容易です。
盆地は守りは堅い・・・ということは、攻め取るのにとても苦労する、侵略リスクの高い地形なのですね。

桶狭間の戦いでは、今川義元の大軍を、少数の織田軍が破りますが、こういう山岳地帯では、地元勢力の方が圧倒的に有利で、攻め入る大軍を山が無力化するのですね。

ですからヤマトという外部勢力が、この地に最終拠点を築いたのが確かならば、ヤマト軍は奈良盆地を攻め取っていないはずです。

考えられるのは、
① 元々この地(奈良盆地)には、誰も住んでいなかった。
もしくは、
② ヤマト勢力が、この地に定住するのに、地元勢力などのお膳立てがあった。

この2つのいずれかか、または、この両方の条件しか考えられないのです。

もともとヤマト勢力は、地元近畿の出であった・・・という歴史学者もいますが、神武東征伝説もありますし、何より、初期の遺跡と言われる”纏向遺跡(まきむくいせき)”は、完全な計画都市です。
計画都市ということは、自然発生した人口集落ではない・・・ということです。

交通の要所でもなく、川の流れも急で、山野に囲まれた盆地の奥の奥に、わざわざ計画的に、大規模な都市を建設していることは、専門の研究者でもその理由がわからず、まだ意見が分かれているところです。

私は、極少数の側近たちに囲まれた形で、現在の天皇一族につながる方々が、地元や、西国の豪族たちにお膳立てをしてもらいながら、この奈良盆地の奥に移り住んだのではないだろうか・・・と、考えています。

それは、後の飛鳥・奈良時代の天皇一族や、天皇側近の氏姓(うじかばね)たちが、全国を支配していた勢力とはとても思えないくらい、わずかな面積の所領しか持っていないことから伺えることです。

天皇一族ですら、奈良盆地の一角しか、直轄地を持っていません。
ということは、奈良盆地入城は、極少数で行われた可能性が高いことになります。

直轄地が少ない・・・ということは、養える直属の部下が少ない・・・ということだからです。

また、盆地は山岳地形なので、よそ者であるはずのヤマトの国の軍では、防衛ができません。
ですから、ヤマトの国の人々を守っていたのは、元々奈良盆地に暮らしていた人々のはずです。

こうなると、以前に記事に書いた、通称 【卑弥呼の鏡】 の謎も解けます。
日本各地で出土する”卑弥呼の鏡”が、近畿地方で最も多く出土する謎ですね。

つまり、奈良入城に到るまでの一連の神武東征(米と酒外交)で、近畿ヤマト国勢力への配慮や護衛に対する、各豪族たちへのお礼の品が、”卑弥呼の鏡”だったのではないでしょうか?

そうです。
ヤマトの国との、同盟関係の印が、「卑弥呼の鏡」なのではないでしょうか?

魏志倭人伝では、「邪馬台国からの朝貢の礼に、鏡を100枚贈呈した。」とあります。
しかし、実際の”卑弥呼の鏡”は、既に140枚ほど出土しています。

卑弥呼の鏡に記されている年代や文字などに、相当怪しい物も多数存在しますので、純粋に、”魏国製”とは言えないと思います。
恐らく、後の時代の複製品も、多数混じっていると思われます。
(ということは、複製品を作る技術が、当時のヤマトの国には、既にあったということですね。)

しかしこれはあくまで、”考古学的な価値の問題”であって、当時の、”政治的価値”には関係はありません。

もらった方からすれば、本物の”魏国製”であろうが、コピーであろうが全く関係はなく、「見たこともない銅製のきれいな鏡を、ヤマトの国の方々からいただいた。」と、ありがたがったことでしょうね。

そしてこの、”卑弥呼の鏡”こそ、大倭(大和)=ヤマト連邦の証であり、
この大倭(大和)=ヤマト連邦こそ、後の私たちが知る、”大和の国の原型” であると、今の私は考えています。

                                      (続く)


二つのヤマト (後編)

2013-08-04 11:08:09 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
前回記事の続きで、本日2本目の記事です。

繰り返しますが、古墳があったことは、死生観の共有があった・・・ということです。
古墳は日本人には馴染みの厚い”墓”であり、上流階級者の遺体を埋葬するものです。

古墳は朝鮮半島の各地から発見されます。
ということは、古代日本(ヤマト)と、朝鮮半島との、死生観を共有するくらい密接な関係があった明らかな証拠です。

ヤマトの国の前文明である縄文は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。

縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明ですが、その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。

弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡ですが、このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかった・・・という証拠とも言えます。

それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。

さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交の裏で、初代天皇と言われている、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征・・・と言われる、近畿地方への遷都が、採り行われたのではないでしょうか?

私の説では、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。
ですから東征・・・という軍事的行動を現す表記が物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。

恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得ていたはずです。
ヤマト国の長の遷都に、協力しないはずはありません。

陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
恐らく海路ではないかと、私は思います。

この頃の古墳遺跡が、西日本各地で見つかりますが、近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しているからです。
ですから、陸路からキチキチと弥生化していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?

九州ヤマトの国との、言わば連立関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできた・・・。
つまり、日本各地に今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させた・・・ということが、
その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?

これだと、九州に正規軍を残しての東征という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思いますね。

平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。

西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。

なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。

西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。

幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。

まとめると、
国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受け、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が立ち向かう。

当時の国際的には九州の、卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。

つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、新しい日ノ本の国づくりや国家形成は、近畿のヤマトの国が、静かにじっくり行う・・・。

こういう体制作りが、この卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?
つまり卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであったと私は考えているのです。

卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。

むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。

激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。

しかし、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。

弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、戦いそのものがなかったから・・・というのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
東征・・・という名の交渉だった・・・のだと思います。

また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのです。

その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。

ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った・・・。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった・・・。

そのようなロマンを、私はこの時代に感じるのです。

                                   (続く)


二つのヤマト (前編)

2013-08-04 07:05:54 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

今拙ブログは、卑弥呼の邪馬台国に夢中です。(笑)
例によって、ナカナカ次に進めません。(^^;

さて古代日本の邪馬台国の卑弥呼外交は、一般的な説としては、「大国魏(ぎ)の後ろ盾を得て、邪馬台国国内をまとめるために使ったのではないか・・・。」と言われることが多いのです。

しかし私は、対朝鮮半島国家群向けの外交だと思います。

遠国魏との同盟は、日本国内向けの演出としてはほとんど効果はないにも関わらず、朝鮮半島国家群に対しての効果が余りにも大きいからです。

一般説はあまりにも、「当時の日本は、占いで政治をしていたくらいだから、レベルが低いに決まっている。」という先入観を元に、日本の歴史を見過ぎていると思います。

魏志倭人伝を読むと、邪馬台国の北の国境は、狗邪韓国(くやかんこく)とあります。
ということはつまり、実は邪馬台国は、その時既に、朝鮮半島に領土を持つ大国だった・・・可能性があります。

可能性・・と言うのは、相当弱気な発言ですね。(笑)
字面をそのまま読むと、そういうことになります。(爆笑)

つまり少なくとも、朝鮮半島情勢に合わせて外交をする・・・という、高度な外交価値判断が必要な状況に、当時の邪馬台国は十分に達していたということです。

魏志倭人伝を、素直な心で読む限りは・・・。

ただ、当時の日本には、”国家”という概念が十分でなかったかも知れないし、機能としての国家が、存在しなかったかも知れません。

大陸では、既に”国家”が形成されていましたので、日本でも、きちんと国家を形成しない限り、時の流れにおいては危うかったと私は考えます。

パパママストアーや、普通の商店街が、長い眼で見れば、大手スーパーやショッピングモールにかなわない・・・みたいな感じと、表現すればいいでしょうか。

ただ、文化圏とすれば、十分なものはあったはずですし、恐らく、海洋文明である縄文時代に既に、日本人は朝鮮半島諸国と交易などの人的交流を、既に相当行っていたからだろうと思われます。

そして、領土かもしれないし、はたまた文化圏なのかも知れませんが、任那(みなま)という日本人居留地も朝鮮半島内あり、朝鮮半島国家群とは、実際には密接な関係にあったはずです。

その証拠に、縄文土器や古墳など、日本古来の製品や文化を思わせるものは、古代朝鮮の地層から、結構たくさん出土します。

飛鳥時代にあったと言われる朝鮮半島南部の任那は、今や日本人の妄想説によるもの・・・とまで言われ始めていますが、縄文時代の日本は、沈まぬ舟による高度な海洋文明でしたので、朝鮮半島南部くらいは当時の日本人にとっては、”向こう岸感覚”だったと思います。

現実的に朝鮮半島南部からは、古墳が発掘されます。
古墳は、”墓”です。

つまり、古墳・・・という、死後の遺体を埋葬する機能を持ったもの・・・が発掘されるということは、
たとえその発祥が、いずれの地域であったとしても、その古墳が発見される地域の当時の人々というのは、

少なくとも、死生観を共有していた・・・という、明らかな証拠なのですね。

どちらが主要国で・・・とか、古墳の発祥が、どこの国で・・・というのは、古墳が見つかることではわかりません。
しかし、共通の死生観を共有する地域であった・・・ということはわかるのです。

つまり古墳から導き出される歴史的真実として、
古代日本と朝鮮半島南部は既に、死生観を共有する間柄であったことには間違いがない のです。

これらを総合するに、卑弥呼外交は、朝鮮半島内における邪馬台国の、影響力強化や地位確立に、多大なる影響力を長きに渡って持ち続けたはずなのです。

その影響力が、保てなくなったので、その後の時代に、聖徳太子の遣隋使が始まったのかも知れません。

魏などの漢民族は、本来、海の外には全く興味を持たない民族です。
ですから、当時の超大国魏が、九州邪馬台国に攻めて来る危険性はありません。

しかし漢民族は、陸続きならば進入して来ます。
ですから、朝鮮半島諸国はビビリます。

朝鮮半島国家群が日本列島に、いや半島南部の任那にも攻め入ることができなくなるのです。
卑弥呼外交は東アジアにおいては、邪馬台国の一人勝ちの、見事な外交戦略ですね。

さて、漢の倭の奴の国王・・・という称号の影響は、それだけにとどまりません。

魏や、朝鮮半島諸国から見た”倭=邪馬台国”は、九州にある・・・。
対外的には、そう見えるのですから、今まで密かに進められてきた、神武東征=日ノ本の弥生化は、この前後、一気に進められたはずです。

否、本当は、この仕上げをするためにこそ、卑弥呼外交はあった・・・のではないかと、私は考えてます。

卑弥呼外交が成功すれば、
ヤマトの国の正規軍を、九州地方に完全に温存しての遷都・・・。
という、歴史の離れ業が可能だからです。
                                          (続く)