土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

世界最高文明 平安日本

2013-08-22 19:22:54 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

拙ブログは、これから平安時代に旅します。
あれほど飛鳥時代が長かったのに、奈良時代をすっ飛ばかしたみたいな感じですね。(笑)

このブログオーナーは、歴史ミステリーに着眼点を置いてますので、史実が多くなると、余り深入りしないのです。(笑)
変な歴史館ですね。(爆笑)

さて、桓武天皇の決断により、水害の酷かった長岡京を捨て、日本は同じ山城の国に、新たな都を構えました。
794年に遷都された、平安京です。

鴨川によって物流を確保し、皇居を最も高台に置きました。
北が最も低い奈良盆地では、北に皇宮を構える長安モデルだと、下水が皇居に押し寄せるからです。

平城京と同じく唐の長安をモデルした平安京は、当然のごとく、平城京や長岡京の反省を踏まえた都市造りおしておりますが、特徴はそれだけではありません。

この平安京は、当時の東洋の宗教・思想がふんだんに、建設当初から取り入れられております。

まず平安京のある盆地の地形は、陰陽道の元となった、中国の道教思想から来ております。
いわゆる、四聖獣、青龍・白虎・朱雀・玄武を模ったものですね。
当初から、四聖獣による都の外護を期待できる位置を、選択して造られたことは、有名な話です。

また、長岡京では排除の対象となった仏教寺院も、盛んに建立されました。
桓武天皇が、空海や最澄を庇護し、仏教がの全国的な広がりを見せたのも、この平安時代からです。
奈良時代においての仏教は、奈良の都市宗教的な存在でした。

もちろん平安京には、神社もたくさんあります。
平安京は当時既に、世界的仏教都市となっていた奈良平城京を上回る、よりスケールアップした形での都造り、都市計画があったのですね。

この当時の日本人が知りうる世界宗教を、全て丸呑みするスケールの大きな都造りこそ、その後の日本人の、民族の固有性を決定付けたと言えるでしょう。

桓武天皇のリーダーシップの賜物ですが、桓武天皇がそのような、スケールの大きなビジョンをお持ちであったからこそ、今の日本人はあると私は思うのですね。

そうでなければ、日本人は別の性癖を持っているはずなのです。
この平安時代において、日本は大変な文化の興隆を経験いたします。

漢字だけでなく、ひらがなやカタカナなども生まれ、世界初の小説と言われている源氏物語など、多くの文学作品がこの頃誕生いたしております。
これら源氏物語や徒然草などは、女性の作品であり、世界で唯一女性の社会進出のあったのが、平安の日本です。

また平安時代の約400年の間には、死刑制度はあったが、死刑執行はされなかった・・・らしいです。
死刑に値するような犯罪が少なかったか、仏教の慈悲の思想の定着のためか、そのいずれかでしょうね。

ただ、初代征夷大将軍、坂上田村麻呂の夷敵討伐のように、外的には強い姿勢で臨みました。

食べ物も豊富に採れ、自由開墾制度もあり、多くの国民が、豊かさを実感できる時期でもありました。
良き信仰と良き政治が、最高度に発揮された日本の一時代でありましょう。

鎌倉時代以降も、京都は尊敬の対象でしたが、この平安時代の日本の幸福が、ノスタルジックな憧れとして、長く日本人の心に焼きつき、染み込んでいたのではないでしょうか?
つまり平安時代には、多くの日本人にとっての、一つの理想形があると思われるのです。

なぜこの頃、食べ物が豊富に取れたか。
それは、平均気温が今よりも高かったからです。

当時発見された大西洋のグリーンランドは、当時は今のように氷河で覆われた島ではなく、その名の通り緑の大地でした。
グリーンランドや日本の平安時代は、地球温暖化の原因が、二酸化炭素でないという、時代的証拠の一つです。

そして、894年太政官菅原道真は、遣唐使を廃止いたします。
理由は、「唐にはもう、学ぶべきものがなくなったから。」という理由でした。
つまり、「学ぶべきこともないのに、経費を使い危険を犯してまで、遣唐する必要はない。」ということです。

当時の唐は、衰えたとは言え、世界最大国家です。
その唐から学ぶべきものなし・・・ということは、日本はこの当時、平安時代初期において既に、世界最高文明であった・・・と言って良いと思います。

当時のヨーロッパなどは、はっきり言えば、原始人の世界なのですね。

そして菅原道真の慧眼通り、遣唐使廃止から13年後の907年に、唐は滅亡いたします。

桓武天皇は在世中、都造りに勤しみますが、住民は高い税に苦しんでおりました。

臣下からその話を聞いた桓武天皇は、「国民が都造りで苦しんでいるなら、税を軽くしてあげよ。そのために、都造りが遅れても構わない。」と、おっしゃったそうです。

そして桓武天皇の死後も、平安の都は造り続けられ、世界的政治都市・宗教都市・文化都市として、明治の代まで、日本の中心であり続けたのです。

                                    (続く)


千年皇帝桓武天皇の苦悩 

2013-08-22 06:29:56 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

桓武天皇は、都を奈良(平城京)から、山城の国(平安京)に移した天皇です。

奈良時代は、東大寺の大仏建立事業など、仏教が日本に完全に定着する土台となった、とても貴重な時代です。
この誇るべき奈良の都、平城京。

せっかく気合を入れて造った都だったのですが、色々と困った問題を抱えていました。
何事も最初は、やはり失敗するのですね。

平城京は、唐の長安をモデルにして造った都です。
しかし、地理的な問題として、大きな川から遠かったのですね。

奈良盆地の北の端で、これまでの纒向(まきむく)や飛鳥よりは交通の要所ではあったのですが、物流面の不便さがあり、食料と水の不足にいつも苦しんでいました。

また、そっくり長安と、東西南北にいたるまで同じ造りにしてしまったことで、とんでもない問題を抱えてしまいました。
天皇が暮らし、政治の中心であるべき、平城宮・・・すなわち、当時の皇居が、都の最も低い所に位置してしまったのです。

平城京は長安と同じく、生活排水や排泄物を、市中に引いた用水路に捨てていたのですが、それが、皇居に押し寄せる構造だったのですね。

奈良は盆地なので、とても水はけも悪く、皇居周辺は、市民の出した汚物が全て集まるという、非常に不衛生な環境であったのです。
南北の向きが逆なら、まだ問題は少なかったのかも知れませんが、もう後の祭りですね。

人口が10万人にまで膨れ上がった平城京は、そういった水インフラの不備によって、物不足と水不足になりやすく、そして、疫病の蔓延しやすい都市となってしまったのです。

そして平城京は、世界で最も仏教の成熟した、南都六宗を抱える宗教都市でしたが、自由に政治を行いたい、若き桓武天皇にとっては、この何かと口うるさい、仏教僧たちが”ウザかった”ようですね。

そして桓武天皇は、、784年に山城の国(京都府)に遷都を行います。
これが長岡京です。

ここの長岡京は、平城京の弱点を克服した都市だったのですね。
淀川に通じる大河、桂川や宇治川などがすぐ近くを流れ、物流面での問題は、全くありませんでした。

また井戸からも豊富な地下水が出、新鮮な飲料水も潤沢でした。
家屋には、下水施設があり、排泄物などの処理も、当初から計算された作りでした。

そして、口うるさい仏教勢力を排した、古来天皇家スタイルの政治を、長岡京で桓武天皇は目指したのですね。

しかし長岡京は、平城京とは別の問題を抱えてしまったのです。

それはこの新しい都は、とても水害に弱かったのです。
物事は、そう易々と、うまくいかないものです。

長岡京は、毎年のように水害の被害を受けました。
水害が原因による、疫病にも大変苦しみました。

都から仏教勢力を排したことによる祟り・・・。桓武天皇は、当然これもお考えになったことでしょう。
しかし桓武天皇は、平城京の弱点を知り尽くしています。
もう奈良へは戻れません。

そして、桓武天皇は決意するのです。

新たな、理想的な都の建設を。

そして、長岡京遷都から10年後の794年、都は新しく造られ移されたのです。

これが、千年の都と言われる平安京、今の京都でございます。

                                         (続く)