土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

古代日本の米と酒外交  私の考える神武東征の全貌

2013-08-01 17:35:17 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
調子に乗って、本日3本目の記事です。(笑)

今回は、日本神道における、
”神武東征伝説の謎”に、チャレンジいたします。

前回日記で、
九州のヤマトの国の東征は、朝鮮半島からの、政治的・外交的・軍事的な、内政への影響力を、受けにくくするために行われた・・・・と、私見を述べました。

そして、その外交アイテムとして、【米と酒】が使われたはず・・・で終わりましたね。

「ずいぶんメンドクサイことをするなぁ。」と、思われるかも知れませんね。
「一気に、攻めちゃえばいいじゃん。」と、思われても不思議ではありません。

しかし、九州ヤマトの国が、当時の朝鮮半島国家群の影響を、本気で恐れての東征・・・つまり、
朝鮮からできるだけ距離を置いたところに、国の本拠地を置きたい・・・という願いを持っての東征であるならば、九州の地から、正規軍は動かことはできないはず なのですね。

朝鮮半島国家群による、背後からの攻撃があり得るからです。
また、当時朝鮮半島にあった、日本人居住地(任那・みなま)を守る後ろ盾が弱くなるからです。

華々しい軍事力を駆使した東征ならば、どうしても朝鮮半島国家群にその情報が伝わってしまいます。
ですから、縄文系の東部日本への軍事行動は、起こしたくても起こせない状況と思われるのですね。

当時ならば、朝鮮半島国家群が、もしも日本に対して軍事行動を起こすならば、最も進入経路として、警戒しないといけないのは、やはり”北九州地方”です。

当時の、ヤマトの国の正規軍が、一体どれだけいたかは、私には推測することすらできませんが、たとえいくら国軍に余裕があったとしても、当時の国防の要は九州です。
北九州に攻め込まれたら、日本は終わりです。

ですから、九州に正規軍を温存した状態での東征・・・。実際には、これしか方法論がないのですね。

その証拠に、神武東征・・・という、華やかな伝説はありますが、古事記や日本書紀といった、当時のことを記載したはずの歴史書には、九州から近畿に政治の拠点を移す際の、戦闘の様子が全く書かれていないのですね。

不思議ですね。

スサノオノミコトのヤマタノオロチ伝説・・・。後は、出雲の国の国譲り伝説・・・。
これくらいですね。
とても不思議です。静か過ぎるのですわー。

ヤマトタケルの華々しい戦いは、近畿に朝廷勢力が基盤を築いた後の話です。
つまりこれは、伝説の神武東征と言われている、ヤマト国の東国への進出は、実は、軍隊を使えない状態で行われていた可能性が高い・・・と言えると、私は思うのです。

つまり、神武東征の実際は、戦闘はほとんどなく、その大部分は、【交渉】であった・・・のではないか?
ということを、私は考えてしまいます。
また後述しますが、もしもそうだとすれば、この時代以降の歴史の流れなどが、不思議とつじつまが合ってくるのですね。

ではそのような、国軍の本体を九州へ残したままの東征と言った、歴史のウルトラCがあり得るのか否か。

その交渉を、私なりに再現してみると、

貴国(縄文系の国々)は、ヤマトの国の同盟国・友好国となるべきである。
(属国・・・かも知れませんが。)

ヤマト国の同盟国・友好国に貴国がなったあかつきには、ヤマトの国から、米の栽培技術を伝授する。


こういった交渉が、当時東国の各地域で、執り行われたのではないでしょうか?
当時はまだ、古い縄文的な文化が、色濃く各地に残っていたはずです。

縄文文明は、”栗”の栽培を基盤とする高度な文明ですが、さすがに文明力としては、時代的限界に達していたと思われます。
わかりやすく言うと、末期の縄文社会は、慢性的な停滞社会で、底なしの不景気に苦しんでいたはずなのですね。
そこに新興のヤマト国は、【米】という新たな文明とエネルギー源、そして米作というテクノロジーを伝授した訳です。

ヤマト国は、東への影響力を持つことで、朝鮮半島からの離れたところに首都機能を移せます。
また東方の縄文末期の国々は、【米】優れた食料基盤を得ることができます。

両者、Winwinな交渉であります。
そうやってヤマト国は、東方への影響力を、拡大していったのではないでしょうか?

そして交渉が成立すれば、【酒】による宴や、祭りが催されたのではないでしょうか?
酒はもちろん、米で作られたものです。

これが、お正月の”おとそ”や、結婚の儀での”三々九度の杯”などの、日本神道古来の神事や、政治のことを”まつりごと”と言う語源になったのではないかと、私は考えているのです。

これにより、米つくりと、日本神道、そしてヤマト国の勢力圏が静かに、しかし確実に縄文末期の日本の広範囲に広がった・・・。
こう言えるのではないでしょうか?

この交渉の時にはもう一つ、ヤマトの国から、末期縄文文明圏の国々に、重要なお願いをしたかも知れません。
それは全くの私の”勘”なのですが、

「かくまって欲しい。」
と、ヤマトの国側は縄文系の人々に、依頼したのではないかと私は思っているのです。

どうしてそう思うのか・・・?
それは・・・、

もしそうであるならば、この後の時代や日本神道の習慣で、つじつまの合うことが、たくさんあるからなのです。

                                             (続く)


神話の時代であるはずの、弥生時代の持つ静けさを考える。

2013-08-01 12:17:53 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
思いがけず時間が開いてしまいまして、今日2本目の記事です。(笑)

ここ最近、ずっと日本の古代の歴史記事を書いておりますが、書いていて、弥生時代がこんなに楽しいとは思いませんでした。(笑)
私にとっては、とても以外な発見でした。
何せ、史実が無いのが良いですね。(大笑)

この時代には、定説などほとんどありませんから、史実を重要視しない歴史家である私には、とても自由にやれて、これほど楽しいことはありません。(爆笑)

で、弥生時代のイメージですが、何とも地味ですよね。
そして、どうも訳のわからん時代だと思いませんか? (笑)

いつの間にか、米作が始まり、
いつの間にか、卑弥呼が魏志倭人伝に登場し、
いつの間にか、神武東征が始まり、そして、
いつの間にか、大和朝廷ができあがってる・・・

読者の皆様、弥生時代には、そんなイメージがありませんでしたか?
何を隠そう、私はそう思っておりました。(^^;

「訳、わからん時代やなぁ~。」(笑)
と、つかみ所のない感じで、苦手意識を持っていたのです。

そうなんですよ。
この弥生時代というのは、日本で米作が始まってから、大和朝廷ができあがる、1500年程の期間なのですので、
よく考えたら、すごい時代なのですが、なんだかイメージが、とっても”地味”なのですよ。

とてもとても、不思議です。
この時代が持つ静けさ、その背景にあるものは一体何なのでしょうかね。
弥生=神代の時代・・・のはず・・・なのに・・なのに。(笑)

それは恐らく、戦争がなかったから・・・ではないかと私は考えております。
戦争があれば、必ずドラマが生まれます。
戦争があれば、絶対に英雄が生まれます。

この時代が持つ、独特の静けさには、戦闘行為そのものがなかった可能性があると私は思います。
そう考えればつじつまが合うのですね。

ですから、一般的にイメージとして持たれている、弥生人が縄文人を駆逐した・・・という歴史観には、私は疑問を抱いています。
そういう一般的なイメージ通りの、歴史の流れであるならば、後のヤマトタケル伝説のような、英雄伝が神話として生まれているはずです。

前回記事で、脱縄文に一早く成功し、まず弥生化したのは九州地方である・・・と述べましたけど、

九州の国・・・仮に”ヤマトの国”にしましょうか。
このヤマトの国は、なぜ東を目指したのでしょうかね?

これも良く分かりません。
最も進んだ豊かな地を捨てて、遅れている未開の東方に向かって行くのは、それだけでは、全く理にかないませんよね。
侵略しても、得られる富があるとは思えないからです。

全く訳の分からない行動です。
少なくとも、国内事情だけを見る限りは・・・。

これに、つじつまを合わせるのは大変ですが、(笑)
九州ヤマトの国が、大陸からの、政治的、外交的、軍事的影響力から逃れたかったからだとすれば、つじつまが合いますね。

韓国政府はおそらく否定するのでしょうが、古代朝鮮半島の土壌などからは、相当の古代日本に関する遺物が出てくるのですね。
縄文土器や古墳などです。
もちろん日本からも、朝鮮半島系の遺物が出土致します。(学校で教えているのは、こっちの方だけですけどね。)

古代日本と古代朝鮮半島は、私たちが想像する以上に、かなり密接な交流があったはずなのです。
私達が想像していた以上に発達していた、高度な海洋文明である縄文文明下の日本であれば、対馬海峡を超えての流通などは、お茶の子さいさいでございます。

ということは、朝鮮半島国家群には、たとえ、軍事的な侵略の意図はなかったとしても、ヤマト国内では、親ヤマト派・・・とか、親朝鮮派とか・・・色々、国内政治が影響されるじゃないですか?

当時のヤマト国は、九州地域だけの小国です。
ですから、これを嫌った可能性もありますよね。

つまり、
少しでも、大陸から離れたかった・・・と思うのは当然だろうと思うのですね。
もちろん、軍事的脅威からも、距離があればあるほど離れることが出来ますからね。

向こう(朝鮮半島国家群)は、中国との軍事的なつながりを持つ、言わば戦国乱世の強者国家群となっていた可能性が高いのです。
その証拠に、この時期の朝鮮半島国家群は、ごく短期間で武具の大幅な進歩を遂げております。
これだけでも、軍事的脅威としては十分です。

そしてやはり、国家としての格も必要でしょう。
当時九州以外は、平和ぼけした、都市国家連邦・・・いや、集落連邦みたいなものだったでしょう。

実質、【くに】と呼べるレベルに達していたのは、日本では、九州のヤマトの国だけだった可能性もありますね。
ただ、日本書紀に出てくる、出雲国(島根県)や吉備国(岡山県)あたりは、【くに】のレベルに達していたかも知れません。

兎にも角にも、九州一国(ヤマトの国)VS朝鮮半島国家群では、とても対等な外交一つできないと思います。
短期的にはごまかせても、長期的には、不可能だと思います。
要するに、朝鮮に日本侵略の意図あらば、ひとたまりもなく、やられてしまう力関係ですね。

ですから、九州ヤマトの国とすれば、当時縄文色が相当残っていた、東方の九州以外の日本の弥生化をこそ、急ぎ執り行わなければならなかったこと・・・なのではないでしょうか?

つまり、日ノ本と呼ばれる、この日本列島一帯が、当時の国際社会並みの国家として成長しない限りは、いつ侵略されても致し方ない状況だった・・・ということが、縄文末期、弥生初期の日本の情勢と言えると思うのです。

これが、神武天皇の東征伝説の動機なのではないでしょうか?
軍事大国化していた当時の朝鮮半島とつながりの深かったであろう九州ヤマト国は、朝鮮との交流の結果、武力は縄文地域と比べて、圧倒的な優位にあったはずです。
その気になれば、侵略は容易だったでしょう。

しかし、これでは軍事的には困ったことが生じます。
安易に東方に軍事行動を起こせば、朝鮮国家群に後ろを突かれる可能性が高いのですね。
それは図らずも、外敵を引き入れてしまう行動となります。

幕末・明治維新の日本と、列強との関係と同じ構造ですね。
日本国内が、泥沼の内乱となれば、列強(他国)に日本につけいる隙を与えてしまう・・・という状況です。

そこで一計、平和裏に日ノ本の統合するための、戦略が必要です。

その時、ヤマトの国の日本国内の外交アイテムとなったもの・・・
それこそが、【米と酒】であったのではないかと、私は考えるのです。

ですから、米と酒は、日本神道の神事、儀式における、重要な宗教アイテムの一つになった・・・そういう見方も、出来るわけなのですね。
                                      (まだまだ続きます。 笑)


天孫降臨  弥生こそ、日本の神話の時代

2013-08-01 10:13:19 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
今日も、不思議な歴史オヤジの館にようこそ!!(^O^)/

私は、つじつま合わせの歴史ミステリーハンターです。
ですので記事は一応、フィクションです。(笑)

ブログオーナーは常識は無視して、「こうであれば、つじつまが合うな・・・。」という観点のみ(笑)で、日々記事を書いておりますので、そこらへんを考慮してお読みいただければ幸いです。

さて、私の見解では、弥生時代は米つくりを受け入れた、縄文日本人の時代です。
教科書的には、平和的な縄文人が、戦闘的な弥生人に駆逐されたイメージで捉えられがちですが、それだけではなかったはずです。

ちょうどその頃のアジア大陸では、”国家”というものが、形成され始めていました。
しかし日本では、いまだ、縄文的な集落点在状態は続いていたものと思います。

縄文日本人は、遺跡等を見る限り、海上ルートを交通の主体とした海洋民族であり、
文明文化圏・経済圏は、全国的なものとは言え、点在するスタイルであって、恐らく国家として一体化には至っていなかったはずです。

当時の日本は言わば、完全な”地方分権スタイル”であり、小さな集落の、”経済共同体”にしか過ぎなかった訳ですね。

歴史的に中国の漢民族は、海の外には全く興味を示さない人たちですが、お隣の朝鮮系の人々は、そうでもありません。

縄文時代の日本は、長い文明の歴史の中で、武具の進歩を経験しておりません。
これは長い間、戦乱を経験していないという証拠ですね。

つまり、縄文時代の日本は、今と同じ、長期間の ”平和ボケ状態” だった訳です。

弥生時代がそういった、平和ボケ状態とは違い、何らかの軍事的緊張状態であったことは、武具の進歩を見れば明らかです。
1万年以上と言われる歴史の中で黒曜石の鏃(やじり)くらいしか出土しない縄文と比較し、ごく短期間の間に、青銅などの斧や剣、楯などが出て参ります。

縄文の黒曜石などは、武具にはなりえません。
これは使い捨てカミソリのような性能で、数回切る専門の道具なのですね。
日用品以外の用途は無理です。
ですから、縄文の黒曜石製の鏃や斧は、猟や木の伐採などで使用していたとしか思えません。

弥生集落同士の争いもあったでしょうが、やはり、朝鮮半島国家群との、関係が増えたことが影響したとしか思えません。
なぜなら、武具が”青銅製”に変わるからです。

青銅武具は、古代朝鮮の方で先んじて使われるようになっています。
ですから、何らかの形で、朝鮮国家軍との交流の結果、日本にもたらされたことはまず間違いがありません。

縄文時代の代表的な遺跡、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡と、弥生時代中期の、佐賀県吉野ヶ里(よしのがり)遺跡を比較した場合、どちらも同じ集落遺跡ですが、その緊張感、ものものしさは全く違います。

九州吉野ヶ里遺跡には、櫓(やぐら)などがあり、明らかに、”何かを警戒している様子”が伺えます。
一方、青森三内丸山の縄文集落遺跡には、”のどかな生活集落”を表現したものしか出土しません。

日本で最初に、古代朝鮮と密接な関係を形成し、【米】という、新たなエネルギー源とテクノロジーを得たのは、やはり九州地方でありましょう。

古代朝鮮半島との付き合いの中で、小さな集落の共同体としてだけでは、とても太刀打ちできない状況が出てきたはずです。
それが、小さいながらも、【くに】という概念を、九州の日本人が得るきっかけになった・・・と、私は思います。

栗→米への主食シフトは、その後、人口の増加という形で現れます。
縄文時代は、長期間にわたり、人口の伸びはありませんでした。
栗によるエネルギー摂取量の限界が、縄文の人口の限界だった訳ですね。

そして古代の日本において、まずは九州が、最も国際的で、近代化に成功した、豊かな土地になったはずなのです。

朝鮮国家群の人たちと、揉まれる経験をすることで、当時の九州が古代日本の外交の窓口であり、
そして恐らく日本で唯一、”脱縄文”を果した最初の地域となった・・・と思われます。

そして他の地域では、まだのんびりと縄文的平和を、貧しいながらも続けていたと思われます。

すぐ近くには、中国の巨大国家形成に刺激され、急速に軍事的な力を付けてきた、朝鮮国家群が形成されつつありました。
古代朝鮮国家群の方が、総合的な軍事力、特に武具が強かったのです。
青銅製の武具なら、黒曜石の武具(?)など、木っ端微塵だからです。

古代日本も、今の日本と同じような、外交的そして軍事的な、危機の時代を迎えていたのではないでしょうか?

そういった時代的な雰囲気と緊張感の中で、日本書紀の神々、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)など、日本の神々のご降臨があり、その逸話や伝説が、国創りで神話としての日本神道へと繋がり、後の世に伝わっていったものと私は推測するのです。

                                       (続く)