土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

大和(大倭)連邦の限界  (小さすぎる朝廷パワーの謎)

2013-08-16 18:17:26 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
久しぶりに、古代ミステリーです。(笑)

今回は、聖徳太子の時代(飛鳥時代)から数十年経過した、飛鳥時代末期について書いて参ります。
この頃、大和朝廷と呼ばれるものが、ほぼ形成されたと思われます。

大和朝廷・・・と言われている、当時の奈良盆地の政権ですが、”大和”と書いて、やまと・・・と読みますね。
我々は普通にこう読みますが、考えてみればかなり変わった読み方ですよね。

「日本の心、やまとの心は、大調和の心だから”大和”なのかな?」とも読み取れますね。
以前は私もそう考えておりました。

しかし今の私は、これは、”和”という表記は、古来の日本地域名”倭”が、表記変換されたものではないかと思っています。

そして、和(倭)の支持国の集まり、即ち大和(大倭)連邦こそ、”大和”なのではないでしょうか?
つまり、九州から来た倭と、倭に協力した近畿周辺諸国との連合が、大倭・・・後の、大和なのではないでしょうか?

まぁ、大日本帝国・・・とか、大韓民国・・・とか言いますが、ああいう感じの、自国を偉大に見せる、愛国心からくる表記の大和・・・なのかも知れませんが。

この頃の大和朝廷は、当時の日本国全体の力関係の中では、決してスーパーパワーを持っていたとは、私には思えません。
なぜなら、天皇一族をはじめ、朝廷の主だった勢力の直轄地が、極めて少ないからです。

聖徳太子などの皇族が、今の愛媛県などの遠隔地に、所領をわずかに持っていたらしいのですが、まぁほとんど、朝廷勢力は奈良盆地しか直轄地を持っていません。
直轄地が少ないと言うことは、今の政治で言えば、自派の議員が少ない、超少数与党みたいなものですね。
これでは、決して大きな態度は取れません。

はっきり言って、この頃はまだ、出雲の国(島根県)や、吉備の国(岡山県)の方が大国なのです。
近畿一円を、大和朝廷の勢力化と拡大解釈して、やっと大和・出雲・吉備三国が釣り合うくらいの規模ですね。

つまり当時は、かなり極端な形の、”集合国家体制”だったということです。
しかし大和朝廷は、この時期既に遠方の九州に勢力圏を持っていました。

これは、単純な神武東征説や、朝廷近畿発祥説では説明できないことです。
この両説だと、かなりの大掛かりな支配パワーを、朝廷は当初から保持していないと不可能だからです。

この近畿では小さな政治パワーしか持っていないのに、遠方の九州に強い影響力を持つ朝廷の謎は、
元来は九州の支配者だった政治指導者たちが、少数で近畿に移り住み、そこで周辺諸国と大連立を組んだ・・・
という、米と酒外交説でないと、うまく説明できないのです。

ともあれ直轄地=経済力=軍事力=影響力ですから、それから推測する大和朝廷の権勢は、全国的にはまだ権威的なもの、象徴的なものでしかなかったはずです。

そして、聖徳太子が導入した官位十二階制度も、当時は十分には、効力を発揮していたとは到底思えません。
当時の官僚の給与体制などは、私には良くわからないのですが、恐らく宮中、すなわち天皇一族から出ていたとするならば、当時の豪族たちにやり込められていたはずです。

天皇の直轄地は、奈良盆地の一部に過ぎず、以外ですが当時の豪族、蘇我氏や大伴氏などの方が所領が大きいのですね。
いわゆる、氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)ですけど、こちらの方が現実的な経済力では、天皇一族より、まだこの時点では上なのです。

ところで、氏姓連(うじ かばね むらじ)って一体何なのでしょうか?
恐らく、神武東征時に後の天皇一族が、奈良盆地に移動する時に一緒に付いてきた、いわゆる、”側近中の側近たちの子孫”だろうと推測いたします。

大和朝廷の政治は、氏姓しか直接参入できなかったのですが、これならばつじつまが合います。(笑)

日本の近代化のために、聖徳太子はこの氏姓制度を変革しようとして、官位十二階制度を設けたのですが、
残念ながら制度としてはあったが、機能としては十分ではなかったと思われます。

聖徳太子の一族も、太子の死後に蘇我氏によって滅ぼされています。(太子暗殺説もあります。)
現実的にその後の朝廷では、蘇我氏による政治が執り行なわれていました。

それは、このころの朝廷には制度機能を支える経済力が、十分ではなかったからだと推測されます。
すなわち、天皇の直轄地がとても少なく、現実的な力を持てなかったのです。

今ならば、そうですね・・・予算が出ない・・・と説明すればよいですね。
これが大和朝廷の当時の限界であり、これによってその後、国家が存亡の危機を迎えることになるのです。

日本が、この天皇の所領が少ない問題から来る、支配制度の不備を解決し、真の天皇中心の国家、
今に続く日本の国体が完成するには、一人の天才政治家の登場を待たなければなりませんでした。
                                             (続く)