土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

もしも秀吉が、朝鮮征伐をやらなかったら。

2013-10-06 06:30:00 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

さて今回は、安土桃山時代最大のミステリーに挑戦です。
それは秀吉の、悪名高き朝鮮出兵に関する、私なりの見解でございます。

歴史にIF(もしも)はタブーとされております。
それは何故だかは、私も深くは存じません。

しかし、「もしも○○だったら。」という考察を通して、当時の背景や当時の人々の意図が見えてくることも数多くございます。

たとえば、天下統一目前の信長が、本能寺の変により急死しなければ・・・、
全方位戦を展開し、領地の外側全部と、朝廷内部に多くの敵に囲まれた信長は、どこかで頓挫し、織田家そのものが苦境に立たされていただろうと推測いたします。

それがある意味で、織田家の内部の人間の裏切りである、本能寺の変の本質なのかも知れません。

そこで、タブーである歴史のIFを使って、現代の日韓関係にも影響を与え続けている朝鮮征伐を分析し、もしも朝鮮征伐がなかったらどうなるかを検証すると、違った歴史観が芽生えます。

私の見解を申せば、

もしも朝鮮征伐がなかったら、朝鮮はフィリピンや東南アジア諸国のように、ヨーロッパの植民地としての歴史を歩んでいた可能性が高い・・・という結論に至ります。

つまり、今韓国や北朝鮮などで、現実に朝鮮民族が存続しておりますが、秀吉の朝鮮征伐なくば、民族として存続している可能性は低い・・・ということです。

ではなぜ、秀吉は朝鮮に兵を出し、この地を占領しようとしていたのか?

答えは・・・

出兵するリスクと、出兵しないリスクを比較した場合、出兵しないリスクの方が、遥かに大きかったから・・・だと、私は考えます。

出兵の動機は、色々あると思います。

生前の織田信長の意思であった・・・。
そうかも知れませんね。

信長自信が朝鮮半島や、中国大陸にまで進出する意思を持っていた可能性があります。

世界最大の軍事力の削減・・・
そうかも知れません。

当時の日本は、世界最大の軍事大国でした。
その巨大な軍事力が豊臣政権に、いつ刃を向けるとも限りませんし、世界最大軍事力ならば、朝鮮や明であっても制圧できますね。
使える資源は使おう・・・こう思っても不思議ではありません。

ただ私は、これら一般的に言われている単純な侵略説に加え、当時既に始まっていた大航海時代における、対スペイン・ポルトガル対策もあったのではないか・・・と考えるのです。

当時の日本は、世界最大の軍事力を誇っていました。
鉄砲の数では、全ヨーロッパを凌ぎ、100年の戦国時代によって、屈強な武士が100万人単位で生きていて、しかも分裂国家から、平和裏に統一されていました。

秀吉時代は、明治維新と同じ状況下にあったわけです。

また、侵略の橋頭堡の役割を演じていたキリスト教を禁じ、占領を画策する宣教師たちを駆逐しました。
スペイン・ポルトガルの侵略対策と見れば、秀吉の施策は完璧です。

遠い国から船に乗って来る、スペイン・ポルトガルという侵略国家から見れば、侵略の対象にはなりえませんでした。
なぜなら、彼らは遠いヨーロッパから船で来るので、大量の軍隊は送り込めません。

ですからとてもとても、日本占領などは不可能だったのです。
日本は、武士が多く、今で言うならば陸軍が強かったので、占領できなかったのです。

東南アジア諸国やフィリピンなどは、鉄砲で脅せばひるんで降参しました。
また前衛部隊であった、キリスト教の布教により、国内に侵略の手引きする人もありました。
実はこの方法でしか、スペイン・ポルトガルは侵略する術を持っていなかったのです。

しかし日本人はなんと、鉄砲を自前で大量生産してしまいました。
ヨーロッパ人からすれば、驚愕の事実だったでしょう。

そして、ここからが本編ですが、キリスト教と軍事力との合同での日本侵略を諦めたスペイン・ポルトガルが、もしも、朝鮮半島に眼を向けていたとしたらどうでしょうか?

一変に、事情は変わってまいります。
朝鮮半島をスペイン・ポルトガルが侵略し、武装化した朝鮮人を使って、朝鮮半島から日本に侵攻することがあれば・・・これは日本からすれば、大変な脅威となります。

秀吉の朝鮮出兵・・・。
これは、スペイン・ポルトガルが動き出す前に、日本が朝鮮を(できれば)支配する・・・この目的のために、行われたのではないでしょうか?

別に、戦に勝つ必要はありません。
勝てば儲けものです。

実際には配下の大名たちに、朝鮮に行かせておりますね。
ということは、大名たちは自前の資産で出向くのですから、豊臣家にはそれほどの負担はありません。

本当の敵が、朝鮮や明ではなくスペイン・ポルトガルであるならば、いつでも大量の軍人を、日本から朝鮮半島に出兵できることを、スペイン・ポルトガルに、見せ付けるだけでよいのです。

朝鮮で兵隊が死んだとしても、それは豊臣家を狙う武士が減ることも意味します。
秀吉からすれば一石三鳥ですね。

一方、もし出兵せず、スペイン・ポルトガルの朝鮮支配を許すことになれば、これは大変なリスクを、日本は背負わなければならないのですね。
明治新政府の征韓論と同じ理屈で、朝鮮征伐を行ったとしか、私には思えないです。

本当に侵略するつもりならば、朝鮮半島南端・・・かつての任那(みなま)のあった辺りに足場を構え、制海権と兵站ルートを十分に確保して後、調伏などを駆使してやるのが筋だとと思いますし、その方が現実主義的な秀吉らしいです。

実際は短時間に、朝鮮半島全域に戦線が広がっています。
これは信長型の、全方位殲滅戦です。

これでは、兵站(人員や食料)が追いつかないと思います。
(ですから、もうろくした秀吉のわがままな戦・・・と言われるのでしょうね。)

しかし最初から、ただ暴れるだけが目的の戦・・・つまり、スペイン・ポルトガルに、

「世界一の軍事大国日本は、いつでも朝鮮半島に出兵できるぞ!」と、見せ付けるのが目的ならば、この軍事行動の意味も理解できます。
そして朝鮮征伐は、秀吉の死をもって終了いたしますが、これも当初からの予定かも知れません。

ともあれ歴史とは、”当時の、多重な価値で判断した結果”でありますので、現代において、一面的な価値判断は決してできません。

ただ結果論だけで言えば、秀吉の朝鮮征伐があったから、スペイン・ポルトガルは東アジア侵略を諦め、朝鮮や明はその後何百年に渡り、国家と民族を存続できたと私は考えます。

                                                                      (続く)

 

 


鎌倉幕府崩壊は、御成敗式目が原因。

2013-09-17 18:33:18 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

今回の記事は歴史編、鎌倉時代です。

北条氏は、仏教を擁護し守り立てました。
時の権力者が仏教を守り立てた時、日本はとても国運が上がります。

また北条氏は、他の国家運営も上々だったのでしょう。
源氏時代までは幕府の支配の及ばなかった、西国地方にも幕府の守護・地頭が置かれるようになりました。
結局このことが、後の元寇(元・高麗連合軍来襲)を防ぎえた、大きな大きな要因だったのですね。

時のカリスマ執権、第8代北条時宗の果敢な防衛戦力により、2度の元寇、文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、弘安の役(こうあんのえき・1281年)とも、日本の武士団が一致団結し、九州を戦場に守りきったのは、敵の弱いところを攻める戦法を使う、侵略者の中の侵略者である元(および高麗)を防ぐ、唯一の手段でした。

つまり、攻撃はできても占領できない体制に、日本はあったのです。
占領できなければ、攻撃しても割が合わないので、侵略者(戦争=ビジネス論国家)は、攻撃すらしてこないのですね。
博多で攻撃を封じられた彼らは、その後はもう、日本を攻めることはありませんでした。

とにかく、北条氏のリーダーシップなしでは、成し得ない大戦でした。
これは今でも通じる、大変な歴史の教訓だと思います。

さて、何とか無事に元寇を乗り切った日本でしたが、その後、鎌倉幕府への不満が、急激に全国に広がります。

よく言われる定説では、「元寇への対応への恩賞が少なかったから。」となっていますね。

しかし、それはおかしいです。
なぜなら、鎌倉幕府には恩賞システムは、初めからありません。

先祖伝来の土地とか、新たに開発した土地の、子孫への継続使用を認める・・・というのが、鎌倉幕府のスタイルなのですね。
つまり武士の、土地の所有の許認可を与えるのが幕府であったのです。

幕府は全国の御家人に、九州の護衛を命令しただけですから、幕府の持ち出しも、それほどではありません。

先祖伝来の土地の使用を認める代わりに、戦となれば戦う。
これが武士の戦い方ですし、これは明治まで基本的に変わりません。

不思議ですね。
定説が確かなら、なぜ御家人は、恩賞を欲しがったのでしょうか?
その、恩賞を欲しがった動機こそが、ミステリーなのです。

それは、元寇に先立ち、幕府が定めた武士に対して定めた、一つの法律が原因だと私は思います。

有名な”御成敗式目(ごせいばいしきもく)”というものですが、3代執権北条泰時によって、貞永元年(1232年)8月、編纂されました。
日本で始めての、武士に対する法律です。

関東以外に御家人が行くことによって、様々なトラブルが発生したために、生活面から精神面にいたるまでの、色々な決め事をまとめたものです。

その後の日本の、武士道精神の元になったと言われる、立派な内容を多く含んだ、武士用の法典なのですね。
しかしこれには、大変困ったことが書いてありました。

それは、土地の相続に関することです。
御成敗式目は、きっと理想主義的なんでしょうね。

相続は、女子を含む子供へ、完全に平等に分け与えるべし・・・。
御成敗式目には、こういうことが記載されているのですね。

当時は、完全な”土地本位制社会”です。
相続制度がこれでは、子孫が多ければ多いほど、将来の手持ち資産は、目減りしていくのですね。

子供が2人いれば半分に。
その子供が子供2人作れば、半分の半分に。
個人の資産は、年代を追うごとに、激減していきます。

つまり御成敗式目の理想主義的な相続制度によって、元寇の頃の武士(=農家)は、もう手持ちの所領だけでは、食べていけない状況に陥ってしまっていたのです。

元寇との戦いは完全な防衛戦ですから、新たな所領はもちろんありません。

これで食っていけなくなった御家人、武士たちは、鎌倉幕府への不満を募らせた・・・というわけです。
結局この御成敗式目の、子孫均等相続制度が、鎌倉幕府体制を終焉へと向かわせてしまうのですね。

つまり、鉄の軍団と言われた北条執権幕府ですが、土地の相続という一つの問題だけで倒幕され、後の室町幕府が興ってしまったのですね。
後の室町幕府発足の動機は、この御成敗式目からの解放という、一種の相続をめぐる規制緩和運動だったのですね。

これが、鎌倉幕府崩壊から学ぶ智恵なのです。

現代日本は、戦後から鎌倉期と同じ、子孫平等相続税度となっています。
その上当時にはなかった、相続税もあります。
日本人個人の資産は、年度ごとに目減りして行きます。

この、一見理想的に見える相続制度は、長いスパンではありますが、着実に国民生活を蝕んでいきます。
戦後既に、70年が経過しようとしています。

もうそろそろ、日本国民は選択を迫られる時期に差しかかろうとしていると思います。


                                              (続く)


なぜ鎌倉源氏は続かなかったのか 

2013-09-14 18:24:56 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

さて、源頼朝は、朝廷の軍事部門の長である、征夷大将軍に就任しました。
この征夷大将軍には、朝廷の政治に口を挟む権限はありません。

今の私たちが抱いているイメージである、征夷大将軍=実質的な日本国王という概念は、頼朝以前にはなかったものです。
征夷大将軍は、あくまで軍事部門の長ですから、時の天皇や公家たちは、「鎌倉殿(源頼朝)は、欲がないのう。おーほほほほほほ。(^O^)」と、思っていたでしょうね。

頼朝以前の平清盛は太政大臣という役職に付いて、直接朝廷政治を動かしました。
太政大臣は公家の最高の位です。
当時は貴族以外は政治参画できませんでしたから、平家は貴族化し、政治参入したのですね。

今で言うならば、政治は選挙で選ばれた議員しか行えませんから、国会議員になったのが平清盛で、議員にはならず他の方法で実質的な政治を成したのが源頼朝と言えましょうね。

頼朝の姿勢は、武士としての部をわきまえたもの・・・として、当時の公家たちにはむしろ、謙虚に写ったでしょう。
基本政策も保守的な、土地本位制の維持でしたので、古来の貴族の受けも良かったはずです。

頼朝の考えは平清盛のような、先進的な銭本位制ではありませんでした。
幕府・・・というのも、あくまで建前上は、武士を統括するための拠点であったわけです。

京から遠い鎌倉に、頼朝は幕府を構えましたが、これなども公家側からすれば、朝廷政治に口を挟まない姿勢として、好意的に認識されていたはずです。

ところがどっこい(笑)、当時は土地本位制の時代ですから、領地主を任命する人事権と、税を取り立てる徴税権を、頼朝が事実上握ったことで、実質的な権力は、頼朝の幕府が握ることになったのですね。

頼朝は、武士が貴族の臣下の立場を執りながら、実質的な実権は、ごっそりいただく・・・(笑)。
そういう手法です。

これがその後の武士政権の、一つの模範的な事例となるのですね。このように全国的な影響力を持った頼朝でしたが、幕府内では困った問題を抱えていました。それは・・・。

頼朝には、自分の領地が、全くなかったのです。
頼朝は子供の頃から、たった一人での人質生活でしたし、成人してからは戦続きでした。

当時の領地の概念は、自分で開墾するか、先祖代々受け継いだものでしたので、領地を造る機会も暇もなかった頼朝には、領地は全くありませんでした。
領地がないので、実は自分の直属の家来もほとんどいなかったのですね。

頼朝には、自分の領地がありませんので、御家人に領地を与えることはできませんでした。
「領地を○○の物だと認める。」のが、頼朝流なのです。(笑)

しかしこれで、御家人の間では、領地を巡る争いはなくなったので、そのときは良かったのです。

また、頼朝に忠誠を誓うということで、頼朝の協力者は御家人になりました。
御家人とは言わば、契約社員、傭兵みたいなものですね。

そういう経済構造でしたから、幕府内での頼朝は、北条氏など有力御家人に、食べさせてもらっている立場でした。
故に頼朝は、御家人たちに対して、強い立場での発言は、どうしてもできなかったのです。

言わば、タレント議員一期生で、いきなり総理大臣になったようなものです。(笑)
また、一時期の風によって当選した議員のようなものです。

ですから頼朝は、幕府内では、御家人たちの意向を聞かざるを得ませんでした。
頼朝時代には、都の警護の期間を短くしたり、武士の待遇改善がかなり進みますけど、そういう頼朝の置かれていた環境も、当然影響していると思います。

自分の領地を持たない源氏は、実績もあり、カリスマ性もあった頼朝在世中は、何とか維持されましたが、頼朝の死後、急速に源氏の発言力が小さくなります。

武士の人事権を持つ将軍が、自分の領地がない・・・。
不思議な事実ですけど、後の室町幕府の足利氏も、群馬県の足利郷しか自領を持っていません。

更に後の徳川家康は、天下取りの後も領地の拡大政策を続けますが、その行動原理は、恐らくこういった過去の歴史的教訓から導き出されたものではないかと思います。

そして、鎌倉幕府の源氏は、3代将軍実朝が嫡子を残さず没したことで、嫡流は途絶えました。
その後は、他の土地にいる源氏の血筋の人を探し、お飾り将軍に祭り上げて、一応幕府は続きます。

実権は、最大御家人である北条氏が握り、執権という立場で、実質的な運営を行います。

今も昔も、多くの支持者と安定した政治資金は、とても重要なのですね。


もしも、源義経が生きていたら。

2013-09-13 03:20:10 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

「歴史にIF(もしも)はない。」と言われます。
しかし、源義経や坂本龍馬、西郷隆盛などの超偉人に対しては、どうしても「ああ、生き残っていてくれたらなぁ。」と思わせるきらめきがあります。

今回はその日本人の願望に、義経と当時の隠された時代背景を基に、その歴史のタブーに挑戦してみたいと思います。

まず私見を述べるならば、義経を失ったことで、その後の日本は相当スケールダウンしたはずです。
その最も罪の重い歴史上の役者は、先にも書いた奥州藤原氏、4代国主藤原泰衡です。

この御仁が今、ご当地ではどのような評価をなさっているかは存じませんが、「生まれてきて欲しくなかった。」とすら思います。
まぁ、3代国主の秀衝(ひでひら)は、奥州藤原氏を絶頂に導く名君でしたし、その遺訓「義経を大将軍に、頼朝と対峙せよ。」は深い政治的洞察がありましたが、如何せん後継者を間違えたと思います。

当時の奥州藤原氏は、絶対に大陸との交易をしていたはずです。
当時東北地方では、余りコメが算出できませんでしたので、同時期の西国のような、農産物による繁栄であれだけの国力を築くのは不可能です。

私事で恐縮ですが、新婚旅行先が岩手県平泉でしたので、その仏閣等の、奥州藤原氏の歴史的遺産のスケールの大きさを間近で見ました。
とても素晴らしく、近畿の神社仏閣等の歴史的遺産よりも、何もかもが大きく、贅を尽くした造りとなっています。

西国の経済基盤であるコメが余り取れないことから、太古の縄文式海洋文明が、まだ当時は色濃く残っていたと考えられます。
また、奥州では金が産出されていましたが、当時西国では、金が流通していた節がありませんから、奥州独自の経済圏があったはずであり、それは大陸の沿海州・朝鮮半島・北宋(後の金帝国)などではなかったかと推測いたします。

ひっとしたら、沿海州あたりに、奥州藤原氏の領地があったかも知れません。
文献が全く存在いたしませんので、想像する以外、方法はございませんが・・・。

泰衡が父秀衝の遺言通り、義経を大将軍に頼朝と対峙していれば、頼朝は絶対に奥州を攻めることはできませんから、奥州側が動かない限り、にらみ合いが続きます。
頼朝義経兄弟の仲は、実はただの見識の違いに過ぎないし、時代を超える見識を持つ者が仲介すれば、和解する可能性が高いものです。
頼朝の妻、北条政子などは、義経には一目置いていた様子もあり、歴史的仲介役になったやも知れません。


また頼朝と義経は、10歳以上年齢が違いますので、にらみ合っている間に、頼朝の方が先に亡くなる可能性もあります。

さすれば、違った形での武士社会の到来の可能性もありますよね。
結局、後継者に恵まれなかった頼朝でしたし、実は頼朝には、幕府内の権力維持のための、根本的に欠落している部分を克服できてはいなかったので、何が起こっても不思議ではない状況もありました。

まぁ、奥州は大陸との経済的パイプを確保したまま、存続できた可能性が高いのです。

そしてその後、モンゴル帝国の万里の長城越えによる、金帝国の滅亡劇が大陸では起こりますが、奥州藤原氏が存続できていれば、沿海州を守る名目で、大陸に武士団を送ることができます。
さすれば、朝鮮半島以前で、モンゴルの侵入を防ぎえたはずなのですね。

金の滅亡も、ひょっとしたら防げたかも知れません。
ということは、元寇が起こっていない可能性が出てくるのです。

義経は九州の平家の残党を擁護しておりましたので、奥州と鎌倉勢力が対峙していれば、鎌倉幕府残党狩りもできず、南宋とつながりの深い九州の平家と、南宋による対モンゴル戦略も可能です。

モンゴルを日本を機軸に、東と南から包囲できたのです。

まぁ、歴史にIFはありません。
藤原泰衡の近視眼的なおろかな判断によって、全ては歴史のかなたに夢と消えました。
そしてその後の日本は、元寇に対してキツイ対応を迫られる結果となったのです。

歴史を真に教訓とするならば、二度と藤原泰衡のような、愚かな判断をしてはなりません。
本当に大切な国家の宝を、一時期の和平のためとか、そういう刹那な基準で、売り渡すようなことはしてはならないのです。

                                                   (続く)




義経だけには見えていた世界 

2013-09-11 10:21:08 | 歴史のミステリー

 土佐のくじらです。

鎌倉幕府開闢(かいびゃく)前の、源頼朝と義経兄弟の対立は、日本史で最も有名な物語の一つですので、多くの方がご存知でいらっしゃると思います。

ただ私は、大変な変わり者ですので(笑)、実は通常の歴史には余り興味がなくて、その背景に関心を持つタイプの人間でございます。

何度か記事に書いておりますが、歴史というのは史実、つまり文章を研究するものです。
文章を調べない歴史というのは、実は存在いたしません。

歴史は文章を研究する学問ですので、実は大変な落とし穴がございます。
それは歴史では、【当時の当たり前】【常識的な判断】というのがわからないのです。
なぜなら、当たり前のこととか、決まりきった常識などは、文章に残らないからです。

当時の当たり前ではない、普通の価値観ではない、常識では考えられないと思えるからこそ、実は文章として記録されている・・・。
それが歴史というものなのですね。

ですから、平清盛がなぜたった20年で全国を傘下に置きながら、その後急速に平家は衰退したかとか、頼朝がなぜ幕府の必要性(日本の武装化)を感じたかや、義経がなぜ壇ノ浦の戦いの後、鎌倉に戻らなかったかとか、頼朝はなぜ義経の行動が裏切りだと思ったかとか、義経はなぜ九州で旧平家勢力をまとめようとしたかなどは、実は、当時の当たり前を見つけ出さない限りはわからないのです。

つまり、現代には残されていない、失われた歴史というのが、歴史には必ず付きまとうのです。
現代的な、権謀術数や権力闘争観だけで見ても結構ですが、ただそれだと、どうしてもつじつまが合わなくなるのですね。

義経には、兄頼朝に対して謀反の心はなかったはずです。
あれば鎌倉を、平家の残党を使って攻め立てているはずです。
もしも義経が軍団を率いて鎌倉入りすれば、それだけで鎌倉は震え上がったはずです。

屋島の戦いや壇ノ浦の戦いの、義経軍のほとんどは、実は平家一門の寝返り組みです。
行軍中に自軍を形成することなど、当時はもう高名な武将となっている義経にとっては、その気になれば簡単なことなはずです。
その時点で義経を許せば良かったのですが、官位を受け公務員的立場に立ってしまった義経を鎌倉に入れれば、頼朝の政治構想は、全て水の泡になってしまうのですね。

ただ、ほぼ武装解除状態で、鎌倉のすぐそばの腰越(こしごえ)まで来るのは、義経には謀反心はなかったということです。
義経は兄頼朝が、平家に代わって、京都で政治をするものだと思っていたはずなのですね。

後の幕末に薩長両藩は、当初は徳川家に成り代わって、薩長幕府をつくる腹づもりだったはずです。
通常ならば、そういう発想の方が当たり前なのですね。

それが明治維新では、薩長幕府ではなく、四民平等の議会制国家となりました。
この方が、それまでの日本史的流れで言えば、むしろおかしいのです。
この明治への流れは、当時の日本の中では、横井小楠(よきしょうなん)や坂本龍馬など、ほんの数人が考えていたことのはずです。

そう、平家討伐後の義経の動きは、兄頼朝上洛への準備と見れば、全てつじつまの合う動きなのです。
京都の朝廷の権限を使って号令をかければ、一気に、日本の統一と武装化が可能だからです。

また、大陸との付き合いの深い西国の平家の残党や、東北の奥州藤原氏を傘下にすれば、沿海州から朝鮮半島、そして南宋を巻き込んで包囲網を創り、驚異的に力をつけていたモンゴルの南進も防げる可能性もありました。
義経案の方が、むしろ現実的なのです。

義経には、それが見えていたと思います。
それとは、大陸情勢が・・・です。

当時、情報で言えば、それら大陸の情勢は、当時の日本には入っていたはずです。
商業を通じての情報は、【生きた情報】だからです。

戦乱になれば商売はできません。
お付き合いのあった国が滅びたり衰退すると、商売は大打撃を受けます。
しかし、正史ではないので、記録としては残りません。

つまりこの部分が、失われた歴史だと思います。
当時の日本は商業レベルでは、東アジアとかなりのお付き合いがあった・・・という当たり前が・・・です。

義経の悲劇は、その突出した慧眼を理解できる人がいなかった・・・ということではないでしょうか?
兄頼朝も、政治では天才でしたが、戦を見る眼は普通レベルだったからです。
頼朝には、義経の慧眼から生じた動きは、どうしても謀反心に思えてならなかった・・・ということだと思います。

また戦の天才義経も、兄頼朝の超時代的な政治の天才性は、さすがに理解できなかったということです。
まさか、朝廷なき武士単独の統治と、それによる全国制覇など、政治の天才頼朝以外には、発想できるはずもないからです。

前回記事と同じ結論になりましたが、そういう私見を私は抱いております。

                                          (続く)