土佐のくじらです。
前回の記事で書いた、この飛鳥時代末期の日本の危機ですが、実はこの頃、聖徳太子が大和朝廷と対等外交を結んでいた相手国”隋”が滅亡してしまったのです。
超大国との対等外交・・・という、東アジアにおける、政治的バランスが崩れたのです。
韓国の俳優、ペ・ヨンジュン氏が主役を演じた、高句麗の広開土王が強くて強くて、隋は4回も高句麗との戦争に負け続けました。
隋はそれですっかり家臣の信頼を失い、家臣のクーデターによって、”唐”が建国されます。
それだけなら、まだ良かったのですが、唐は戦争関係にあった高句麗対策として、新羅(しらぎ)と同盟を結ぶのですね。
ヨン様、広開土王の高句麗は、よほど強かったんでしょうね。(笑)
こうなると、危うくなるのは、新羅以外の朝鮮半島諸国と倭国です。
隋の滅亡で中国との対等外交も、当然白紙になりました。
唐・新羅連合軍の動きによっては、倭国は占領されるかもしれない状況ができたのです。
また、唐・新羅連合が朝鮮半島を制圧すれば、その他の諸国が、倭国になだれ込む可能性もありますね。
膨大な人数の難民だって、国家の重大な危機に直結いたします。
要は今も昔も、朝鮮半島や東アジアの軍事バランスの崩れは、日本の防衛上のリスクが上がり安全保障に直結するのは変わりないのです。
そんな中、一応倭国の宗主国的な立場にあった大和朝廷では、蘇我一族などの氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)などの旧勢力による政治体制のままでした。
天皇一族は象徴的存在、つまり飾り物であって、強力なリーダーシップを、全く発揮できない状況だったのです。
当時の天皇の直轄地から見ればそうなります。
時間的な余裕は、全くありませんでした。
そのような、朝廷の閉塞的状況の中、敢然と立ち上がったのが、後の天智天皇、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、忠臣、中臣鎌足(なかとみのかまたり 後の藤原鎌足)だったのです。
中大兄皇子と中臣鎌足の二人は飛鳥宮で、当時政治の実権を握り、権勢の限りをつくしていた、蘇我入鹿(そがのいるか)を葬り、クーデターを成功させます。
父の蘇我蝦夷(そがのえみし)は自害し、蘇我氏は滅亡します。
中大兄皇子はすぐには即位せず、皇太子となって聖徳太子のような立場に立ちます。
そして、政治の実権を握った二人は、政治の大改革を断行します。
それが有名な、大化の改新です。
大化の改新の、最も大きな政策は”土地制度改革”と”税制改革”そして”事実上の徴兵制度導入”です。
大宝律令を制定し、倭の全国民に、天皇の名の下に土地を与えたのです。
そして、納税の義務と兵役の義務を、全国民に与えました。
これにより、奈良盆地の一角しか所領のなかった天皇一族は、直轄地はそれほど増えてはいませんが、名目上の所領は全国に及びました。
名目上、「天皇が、国民の土地の所有権を認める体制」が、大宝律令という法律一つで出来上がったのです。
これがその後の、日本の統治者が、天皇から任命されるという形を取っていく、歴史的なきっかけとなりました。
つまり、平清盛や後の源氏系征夷大将軍らの、一連の歴史の流れの源流には、天智天皇がいらっしゃるのです。
大宝律令という、たった一つの法律により、天皇は全国に所領を得る共に、全国に天皇直属の兵隊を持つことになりました。
これで天皇は、勢力比率で、倭国の中での圧倒的なスーパーパワーに、歴史上初めて成り得たのです。
出雲の国譲り、明治初期の廃藩置県とならぶ、日本の平和裏の大改革が大宝律令です。
この3つを軍事的にやろうとすれば、たとえば、実質的な所有者から無理やり土地を奪おうとすれば、日本は泥沼の内戦状態になるはずです。
日本という国は、それが起こらない不思議な国です。
とのもかくにも、日本の精神的な父が、”聖徳太子”なら、それを現実化し、実質的に日本という国家を築くための、制度的な土台を築いたのは、中大兄皇子=天智天皇だと私は思います。
その後即位した、飛鳥のスーパーヒーロー天智天皇の大改革によって、歴史上初めて日本は、一つの国という概念を持つに到るのです。
(続く)
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一人目が聖徳太子で、
二人目が天智天皇ですか。
日本には、偉大な統治者が多いです。
全てを網羅できないし、説明できるほど、勉強できていないのが残念です。
聖徳太子が理念を示し、天智天皇が具現化する仕組みを創りました。
残るは、千年皇帝です。