土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

白村江の戦いと日本確立   (日本国体の確立者 天智天皇)

2013-08-19 08:23:05 | 古代日本のスーパースター

土佐のくじらです。

日本は偉大な歴史を有する国です。
そして偉大な指導者も多く、日本は誠に、神様に愛されている国だと思います。

さて飛鳥時代末期の天智天皇が、大化の改新を断行し律令制度を導入したことで、倭国内での天皇家のイニシアティブは、決定的となりました。
これと似たような事例は、明治初期の廃藩置県の断行が日本にはあります。

どちらも、軍事力を使わない国内の大改革であり、結果的に中央集権体制が飛躍的に高まると共に、国内統治や国内の行き来が格段にしやすくなる効果がありました。

当時仮想敵国であった唐の土地・兵役・戸籍制度ですが、中大兄皇子(後の天智天皇)は積極的に導入しております。

それによって朝廷は経済力と軍事力、そして戸籍による人民の把握を独占する形となり、当時の全日本の中で群を抜いた勢力を保持する形となりました。
天智帝以降、それまであった氏・姓・連(うじ・かばね・むらじ)といった、旧勢力による天皇側近政治は完全に終わりました。
日本は天智帝によって、古代から脱出したのです。

その納税や、兵役のきつさばかりが揶揄され、余り評判の良くない当時の大宝律令国家ですが、その後の時間の経過の中で、重要な役割を果たします。

唐・新羅(しらぎ)連合軍と、倭・百済(くだら)連合軍との間で戦争になったのです。
百済から、倭に援軍要請があったようです。

唐と百済、どちらと同盟を結ぶの判断にかなり迷ってしまい、朝鮮の現地に軍を送るのが、かなり遅れたようです。
ここらへんの戦略的防衛感覚の弱さは、近代・現代日本と変わらないところが垣間見えます。
(詳しくは、カテゴリー「歴史」そして、「誇るべき日本の歴史」をご参照ください)

ただ、任那を存続させるには、百済と同盟するしかなかったようです。
任那は大事なんですね。
なぜなら、任那が存在する=日本列島は安泰・・・だからです。

この状況は今も不変です。
韓国が自由主義国側として存続しているから、日本の国土は安泰なのですね。

その唐・新羅連合との戦いとは、663年朝鮮半島で起きた、有名な白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)です。

倭国は結局この戦いに負け、任那を失うのですが、その後の戦後処理は見事でした。
全国から防人(さきもり)として兵隊を九州に集め、北九州全体を要塞化し、瀬戸内地方も水軍を整備し防衛拠点を置きました。

天智天皇以前の大和朝廷では、絶対に不可能な施策です。
なぜなら、天皇がリーダーシップを発揮する上で必要な、富と権力の集中がなかったからです。
鎌倉時代の元寇襲来で、執権北条時宗は天智天皇と同じく、九州を要塞化しましたが、同じような事例は、古代の日本にもあったのです。

白村江の戦いでの倭軍が強かったのと、この北九州の武装化によって、その後も倭国は唐と対等外交を続けるのですね。
倭国軍が強くなければ、また戦後に毅然としていなければ、日本は本当にヤバイ状況でした。

天智天皇はその後、白村江敗戦の責を取り退位します。

そして、重税感が強かった律令制は、743年に発令された墾田永年私財法によって、その使命を終えます。
墾田永年私財法というのは、個人の土地の私有財産としての価値を認めたものです。

「自由に開墾してOKよ。」ってことですね。(笑)

律令制は、現代の視点から見れば、共産主義的過ぎですね。
土地を国民に与える・・・と言っても、実質的には農地の国有化、国民総公務員化政策でした。

そして、墾田永年私財法によって、倭国の民は、豊かな時代へとシフトしていきます。
開拓精神に溢れた日本人に、律令制は合わないと私も思います。

しかし歴史的には、一時期の救国的措置として、また、日本が実質的にひとつになるための、具体的な施策として、この時は必要な時期であったのだと、今の私は考えています。

                                         (続く)