土佐のくじらです。
さて、平安時代の末期には、地球レベルで寒冷化の兆しが見えてきます。
そして日本でも争いごと、揉めごとが増え始め、その対応の必要性から、武士が台頭してきます。
温暖な気候が続いた平安時代ですが、末期になると世界規模で寒冷化が進みます。
それまでは、多少作物を取られても、「まッいいか。」とやり過ごせたことでも、寒冷化で収穫量が収穫量が減ってくると、そう安穏とはしていられません。
どうしても、ぶつかり合いが多くなります。
そこで、自分たちの取り分や領地を、実力で護衛する動きが出てくるのは、時代的要請として致し方ないであろうと思います。
恐らく、平安初期からの鎖国政策(遣唐使の廃止)からの長期の平和ボケで、朝廷の常備軍などの警備組織の弱体化もあったのではないでしょうか?
そういう時代背景から、時の政府の治安が当てに出来なくなり、平安時代の日本国民は、自分たちの利益は自分たちで守る・・・という行動に出たのが、このころの武士の出現に、大きく関わっていたと私は推測いたします。
これが、源氏や平氏以外の武士の姿なのだと思うのですね。
でなければ、後に源平合戦をやったり、鎌倉時代に全国規模で武士による政治が現実的に起こりますが、短期間にそれだけの武士を出現させるだけの、時間的な説明ができないのです。
そして鎌倉期など、その後も武士は年貢を納めていますが、やはり武士とて、【農家】なのですね。
武力を持ち、それを駆使した農家なのです。
これが崩れるのは、後の豊臣秀吉の刀狩までであり、完全に農家が身分として定着するのは、江戸時代からです。
ですから、それまでの日本国民は、総農民・・・なのですね。
これを見落とすと、武士なら武士・・・という人たちが、古来より日本にいたような認識をしてしまいがちなのです。
何を隔そう、私がそういう眼で歴史を見ておりました(笑)。
しかし、【かつて日本国民は、全て農家であった】というキーワードに気づいてから、日本史が面白くなったのですね。
ですからこの時期は武士という身分は、完全には確立しておりません。
あくまで、自力で領地を守る者や、領地を守るために雇われた、ガードマンのような位置づけですね。
あくまで武具を身に着け、それを使う農民なのです。
そして、後の世に権力者として振舞う平氏や源氏ですが、これらは他の農家から自然発祥的に出現した武士とは、ちょっと違うのですね。
どこが違うかと言いますと、お家の成り立ちが、歴代の天皇から来ているところが違うのです。
平氏は、桓武天皇の血筋からの分家です。
源氏は、清和天皇の血筋です。
つまり、家柄が違うのですが、恐らくこれらの血筋の方々は、朝廷ゆかりの土地を警備していたのではないかと、私は推測いたします。
このころは、庶民が勝手に土地を開墾して良い時代ですから、一般庶民も自前の農地があったのですね。
またそれとは別に、朝廷の承認を得た土地というのもあり、その所有者が貴族なのです。
天皇や貴族の所有する土地を、警護する役割としての軍事組織の仕事が、天皇一族の分家としての、平氏や源氏一族の役割だったのではないでしょうか?
まぁ、言葉は悪いかも知れませんが、多くの武士が自衛団的組織とは言え、ヤ○ザや山賊的な要素が大きかったのに対し、平氏や源氏は一応、国家が認めた警察や自衛隊的な、由緒正しき組織であったとは思います。
そして、寒冷化が進み、増加する現実的ないざこざ・・・つまり、戦闘ですけど(笑)、それらを通して、地侍などの軍閥派閥を取り込むことで、平氏や源氏が年々、現実的な力・・・つまり、軍事力ですけど(笑)や、発言力を増して行ったのではないかと、私は推測している次第です。
(続く)
土佐のくじらです。
平安時代というのは、貴族文化の華やかな時代というイメージがあります。
その事実の大部分は正しくて、実際にこの時代の豊かさのイメージは、日本を超え、コロンブスの大西洋インドルートへの情熱へと結びついた可能性が高いことは、以前の記事でご紹介した通りです。
この貴族の豊かな生活を支えたものは、荘園の存在です。
荘園というのは、個人が自由開拓した大農地ですね。
奈良時代(743年)に発布された、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)の以前は、律令制と言って、土地は個人の所有物ではありませんでした。
墾田永年私財法により、豊かな大地主が日本に現れたのですね。
貴族と平民・・・と言う風に、我々は身分制で古い時代を、つい見勝ちなのですが、実は当時は、貴族とて農家なのですね。
貴族と言うのは、天皇など朝廷から官位や官職を授けられた一族のことですが、実際は農家なのです。
彼らの主な収入は農地からの収穫物ですから、実態は大農家です。
まぁ彼らが、実際に農地を耕すことはなかったでしょうけどね。(笑)
それ以外にも、朝廷とは無関係の大地主も農家ですし、実際に農地を耕す人も農家です。
つまりこの時代は、国民全てが農民だったのですね。
そして農地は自分のものですから、その警護も自分でしていたわけです。
その警護をしていた人が武士ですけど、結局武士も農民だったのですね。
武士・・・という身分が完全に確定するのは、豊臣秀吉以降なのです。
古来の日本国民は、すべからず全員農家である・・・
これが実は、日本史を読み取る上での、大切なキーワードなのですね。
当時の背景をまとめると、
朝廷ゆかりの、由緒正しき家柄の農家が【貴族】。
農地を、実際の武力でもって自衛していた農家が【武士】。
そして、それ以外の【農家】です。
貨幣経済が浸透するのは、室町幕府以降ですから、お買い物のほとんどは物々交換ですので、商業自体がこの時代にはまだ、事実上存在いたしません。
この時代の漁業、林業、手工業の専従従事者以外は皆、事実上の農家です。
縄文時代を読み解くキーワードが【栗】
弥生時代は、【米と酒】
飛鳥奈良・平安初期が、【神仏融合】
であるならば、古代からその後の日本史全般を読み解く上でのキーワードは、
【日本人全体が、実は農家だった】なのです。
これを外すと日本史は、訳のわからんものになります。(笑)
まぁ、そういった前置きでまた平安時代戻りますが、農業の大規模化だけが、この時代の豊かさの基盤ということだけではなく、当時の平均気温が、今よりも高かったことの方が、大きな要因だと私は思います。
平安時代などの古地図を見れば、今よりも随分と海岸線が手前にあります。
これは土砂の堆積を差し引いたとしても、今よりも海抜(海の高さ)自体が高かったはずですね。
これは今年の夏のように、突発的な最高気温が高いだけではなく、年間を通じて温暖であった・・・という意味の暖かさです。
でなければ、氷河を発生させないレベルでの、気候の定着には至らないからです。
今は氷河で覆われておりますが、日本が平安時代であったころのグリーンランドは、緑豊かな島でした。
ここでバイキングは、トナカイなどを放牧していたのです。
当時、今よりも二酸化炭素量が多いわけありませんから、
地球温暖化の原因は、二酸化炭素の温室効果ではないことは明らかですね。
これは、原因結果から見た、地球温暖化への正しい見解でもあります。
今、測定上の平均気温の上昇があることは事実でしょうが、それは二酸化炭素が原因ではなく、周期性などの別の要因だと私は思っております。
日本の歴史平安時代もグリーンランド同様、この地球温暖化温室効果説を否定する、貴重な歴史的事実であります。
このとても温かく、それによってたくさんの食べ物を採ることができたことが、平安時代の豊かさを支える基盤となっていたと思われるのです。
しかし、平均気温が低くなり始めました。
当然、作物の収穫量は減りはじめますね。
作物の収穫量が減り始めると、
もめごと、争いごとが増え始めますね。
故に、平安時代末期、武士が台頭し始めるわけです。
時代の流れとすれば、争いごとが増え始めると、
武力がものを言う時代に、どうしてもなる訳であります。
そして日本の時代は、武士の時代へとシフトして行くわけです。
(続く)