土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

神代を紐解くキーワード (米と酒)

2013-07-31 21:43:39 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

今日2本目の記事です。
私、少し焦っています。

縄文時代で少し寄り道してしまって、ムーやらアトランティスにまで話が飛びましたので、(笑)
当初の予定より、相当ペースが遅れております。(^^;

朝書いた記事では、弥生時代こそ、日本の神代の時代である・・・ということを書きました。

今回もう少しだけ、この時代の背景について、その説明をさせてください。

この時代こそ、日本に米作が入って来た時代であり、そして、日本神道の宗教アイテムは、【米と酒】であります。

この【米】と【酒】をキーワードに、弥生時代=神代の時代説で、これからこの時代の分析を続けて参ります。
それが、日本の神話の時代を紐解く鍵となると思います。

日本のお米は、”ジャポニカ米”という種類で、中国北部や朝鮮半島のお米とは種類が違うものです。
中国南部、福建省あたりが原産地とされる、水分を多く含んだお米ですね。

北部アジアとは種類が違いますので、日本米は沖縄を経由して、日本列島に入って来たものと推測されます。

しかし、沖縄など西南諸島では、地質の関係上、水田ができなのですね。
土壌がサンゴ礁でできていて、水はけが良すぎて、ジャポニカ米に必要な水田ができないのです。

ですから日本のお米は、種籾(たねもみ)の形で一気に日本列島に上陸した可能性が大きいです。
沖縄からも縄文遺跡が出てきますから、縄文後期に海路で、南方から日本に入ってきたのでしょうね。
沈まぬ船による海洋文明である縄文文明ならば、それは軽くできたことでしょう。

じわじわ、沖縄で稲作をして、順々に米作が広がっていったイメージが私にもありましたが、
現実はそういうことは不可能と思われるので、一気に九州にまで伝播したと思われます。

※「奄美大島では水田が可能。」「奄美は土壌も、珊瑚礁ではない。」と、奄美のアマミキヨさんがブログに書いていらっしゃいました。
奄美大島で水田が可能なら、ジャポニカ米の栽培が奄美でなされた後、稲作が九州に伝播したかも知れません。
(アマミキヨさん、記事にしてくださってありがとうございました。)

そして縄文の栗、弥生のお米。
この二つの時代の主食で、最も違うのは栄養分ですね。

栄養の量も、摂取できる種類も、圧倒的にお米が優れています。
玄米ならば、カルシウム意外は全て、必要量が摂取できる・・・という、”ほぼ完全食”がお米です。

ですから、寒流が流れ始め寒冷化して、栗の採取量が少なくなっただけでなく、栗VS米では、主食としては、太刀打ちできないでありましょうね。

実際の人口区分においても、縄文時代の日本列島は、1500万人から人口が増えることはありませんでした。
弥生化し、米の生産を始めた日本は、明治の頃に3000万人の人口を持つまで、じりじりと人口を増やしております。

文明力=人が食っていける力=人口
という、背景が読み取れます。

現代日本は、人口減社会となりつつありますが、明治以降の新たな日本文明が、縄文末期のように限界が来ているのかも知れません。
日本が新たな文明を持つことができれば、人口減社会から抜け出せる可能性があるとも言えます。

さて、歴史の流れを見ると、やはり九州から弥生化して行ったはずです。
それが大体、今から3000年くらい前と言われています。
(もう少し前かも知れません。)

その、日本の弥生化の時代は、同時に中国大陸における、巨大国家誕生の時代でもあります。
実は、弥生時代というのは、日本としては、外交上の脅威が始まった時代・・・と言うことが出来ると思います。

約4000年前に、中国では夏(か)という王朝ができています。
3000年前だと、秦・そして漢ですね。

実は、秦・漢は当時まだ、直接的には日本へ脅威とはなりません。
距離が離れているのもありますが、実は漢民族というのは、完全な大陸民族であって、海の外にはまったく興味がない人たちなのです。
(ですから、尖閣=中国領説はウソです。)

脅威となるのは、やはり朝鮮半島なのですね。
特に、秦の始皇帝が、万里の長城を造って以降、北方の脅威を中国人が感じなくなってからは、漢民族による朝鮮半島へのチョッカイがはじまるのですね。

恐らく、チョッカイを出された古代朝鮮民族は、九州地方への動きを強めた可能性もありますね。
それは良い面、悪い面、両面あったと想像いたします。
つまり、経済的にも、文化的にも、軍事的にも・・・です。

現実、九州ー朝鮮半島の交流は、相当あったと思います。
朝鮮半島からも、縄文遺跡と思われる遺物が出土します。

それで、”縄文朝鮮半島根源説”があったりしますが、日本での縄文遺跡の出土率は、半島とは比較にならないくらい多いですから、縄文文明は、日本根源に間違いないでしょう。
沈まぬ舟を持つ縄文人ならば、積極的に朝鮮半島にも進出し、交易できたはずです。

良きにつけ、悪しきにつけ、九州と朝鮮半島は、かなりお互いに影響を受け、そして影響を与える環境に、この時代(縄文後期、弥生時代前半)にはなっていたことが、想像されるわけですね。

そしてそれが、日本神道の国創りや、邪馬台国伝説へとつながって行く・・・
そんなミステリアスな雰囲気が、縄文とは違う弥生の魅力ですね。

つまり、その後の日本の、外交政策の基本的な指針が、形成されたのが弥生時代である・・・とも言える訳なのです。
                           
                                                   (続く)


新説 弥生時代=神代の時代

2013-07-31 09:13:55 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
今日も、歴史の不思議ツアーコンダクター、古代のミステリーハンターの館にようこそ! (笑)

縄文時代の数々の謎を一通り終え、今日から新たな時代の謎解きの、チャレンジに挑戦いたします。
(^^♪

さて、今日から弥生時代・・・と呼ばれる期間に焦点を当てますが、
私、この時代のことは、余り詳しくは存じません。(笑)

弥生時代って、あまり面白くないんですね。
はっきり言って・・・・(^^;

弥生時代って縄文のように、他の地域と比べてどうかとか、ムーやアトランティスに繋がるような、
ドギマギするような、ファンタスティックないろどりに欠ける時代なのですね。
史実などある訳はなく、遺跡も地味ですのでね。

弥生時代と言われますけど、東京の弥生町で縄文式土器とはタイプの違う土器が出たので、こういう名前が付けられていますが、弥生土器くらいの性能しか持っていない文明が、縄文時代のような、全国的な文明圏を持っていたとは思えませんし、土器の性能で言えば、縄文式の方が圧倒的に上なのですね。

弥生時代・・・という名前は、時代の規模からすれば大きすぎて、ひょっとしたら・・・、
東京弥生町限定の文明なのかも知れません。(笑)

縄文と弥生の違いで最大のものは、日本の弥生時代は、米作が始まった時代である・・・ということですね。

縄文の謎解きのキーワードは 【栗】 でした。
弥生時代の謎を解く鍵は、ズバリ 【米】 にあると私は思います。
弥生的な価値観は、米作を受け入れたことだと私は思います。

この【米】と、その【米をつくる技術】が、いかに日本に取り入れられ、そして、
いかに全国に広まったかを検証することが、この時代の面白さなのかも知れませんね。

弥生時代は、約3000年前位から日本に現れます。
私の説では、ムー文明の継承文明であった縄文時代は、文明の寿命と日本列島の寒冷化によって、とても静かな終の時を迎えます。

縄文文明は、文明自体が老衰化したのだと思います。
元気いっぱいの文明が、新たな文明に以降したならば、新たな価値観とのぶつかりも当然激しくなりますよね。

それは必然的に戦いを呼ぶことになり、民族の記憶にかなり強烈に残って、それが神話となっているはずです。
どこの国の神話も、そのように読み取ると、全てつじつまが合います。

しかし、日本の神話には、縄文→弥生を表しているような、くっきりとした神話が存在いたしません。
古事記や、日本書紀にも、それを匂わせるような記実は・・・、どうも見当たりませんね。

恐らく、文明の限界を悟った縄文日本人は、弥生的価値観=米作を、割とすんなり、受け入れたのではないでしょうか?
縄文的な生活では、さすがに食べていけなくなり、新たなテクノロジーである、米作文化を受け入れることによって、その後の日本は、静かに形成されていったのだと、私は推測いたします。

そして、この米作の国内への広がりこそが、日本神道の日本国内への伝播力そして、影響力につながったのではないでしょうか?

日本神道の神事で重要なアイテムは、【米と酒】ですよね。
お正月にはオトソ、結婚式には三三九度・・・と、神事に酒が出てくる日本神道は、とてもとても不思議な宗教です。

ということは、
日本神道は、縄文時代発祥の宗教ではない・・・ということですね。

縄文起源の宗教ならば、栗・・・とか、黒曜石・・・などが、宗教アイテムになっている・・・・のではないでしょうかね。

実は、この【米と酒】による、新たな日本の国創り期間こそ、弥生時代なのではないかと私は思っております。
その、米と酒による国創りの中に、古代日本士最大の謎 【邪馬台国の秘密】を、解く鍵もあると思います。

ああ、そういう風に考えれば、結構面白い時代ですね。
ミステリーの宝庫です。(笑)

私、この時代、好きになるかも・・・(^^)

では、次回以降をお楽しみに。
この小さなブログから、日本の神話が塗り替えられる・・・かも知れません。

その新たな神話が、日本という国が古来より、平和と繁栄を愛していた国であることの証明となり、
日本人の真髄とは何かを、発信する機会となりますことを、心より祈念いたします。

 
                                     (続く)


ヨーロッパの温暖化とアフリカ砂漠化と、縄文の衰退を結ぶ超仮説。

2013-07-30 13:43:39 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
前回記事の続きです。

大西洋を、赤道直下から北極圏にいたるまで流れる、世界最大の暖流メキシコ湾流。
これがかつては、今のルートを流れていなかった形跡はいくつか存在いたします。

一つは、ノルゥエーの海岸線に特徴的な、大規模なフィヨルドです。
フィヨルドとは、氷河が溶けてできた地形です。
つまりこれは、過去この地が氷河で覆われていたことを示す証拠です。

一般的な現代の常識ではこれを、
1万年前に、急激に氷河期が終わり、かつてこの地域を覆っていた氷河が溶け出した跡 と説明しているはずです。
しかし、そういうこと、つまりこの地域が氷河で覆われる・・・ということは、絶対にあり得ないことなのですね。

なぜなら、この地域沿岸部が凍らないのは、この地域のすぐ近くをメキシコ湾流が流れているからなのです。
決して気温が高くなったせいではないです。

北極圏に近い、超高緯度地域であるノルゥエーの冬は極寒です。
しかしノルゥエーの海は、絶対に凍りません。
それは、暖流によって、氷が解けてしまうからです。

一方大西洋の反対側、アメリカ大陸北部や、グリーンランドなど、ノルゥエーと同程度の緯度の地域は、万年氷河地域です。
この地域にはメキシコ湾流が入り込んでいないので、緯度相応に極寒の地域なのです。

つまり何が言いたいかと申しますと、
メキシコ湾流がすぐ沖を流れているノルゥエーにおいて、氷河があった歴史があるとするならば、それはかつて、メキシコ湾流が流れていなかった時期があった・・・ということとなってしまうのです。

そんなことあり得ない・・・とおっしゃる方も多いと思います。
しかし、暖流と氷河は、絶対に両立しないのですから仕方ありません。

現実の地理や歴史をつぶさに見ていくと、一般的に言われている1万年前に終わった氷河期とは、
ヨーロッパの氷河期が終わった限定的なものだった・・・ということになってしまうのです。

この地域の、海流の変化の証拠はまだあります。
アフリカのサハラ砂漠です。
サハラ砂漠は、ここ1万年余りで急激に砂漠化した地域と言われ、現代的常識ではその理由を、
人為的な文明によるものや、氷河期の終焉による気候の変化としております。


かつてサハラ砂漠のある北アフリカは、緑の草原地域でした。
今はナイル川周辺のみが草の生える地域となったエジプトでも、かつてはライオンやカモシカなどが暮らしていた記実が、旧約聖書を読めば本当に書いてあります。

ライオンやカモシカ類は、草原の動物です。
それがわずか3000年前まで暮らせていたのであれば、サハラ砂漠のある北アフリカは、3000年前はまだ緑がけっこうあった地域なのですね。

しかしこれも、海流・・・というキーワードを用いた分析をするならば、
この地域は、過去いくら遡っても、砂漠以外の時代があるはずのない地域なのです。
なぜなら、サハラ砂漠の西海岸、カナリア諸島あたりに、寒流が流れているからです。

寒流は水温が低いため、雨を降らせるための上昇気流が発生いたしません。
上昇気流がなければ、雨は絶対に降りません。

ですから、沖を寒流の流れる地域には雨は降らず、基本的に砂漠化するのです。
アメリカ西海岸のカリフォルニア砂漠、南アメリカ大陸チリ沖のチリ砂漠、南アフリカ西側のナミブ砂漠、西オーストラリア砂漠など、これらの砂漠は、人為的なものではなく、沖を流れる海流が要因です。

ですから、サハラ砂漠のある北アフリカ地域に、かつて緑多き時代があるとするならば、それは、
アフリカサハラ砂漠の海岸の沖に、暖流が流れていた証拠・・・とするのが、一番筋が通ってしまうのですね。

ヨーロッパの温暖化とアフリカ砂漠化と、縄文の衰退・・・
これらの謎に、整合性を与えるには、答えは一つしかないと私は思います。

それは、

今は大西洋の赤道直下から、北極圏に流れているメキシコ湾流を、塞いでいたものがかつては存在した。
それが存在していたときには、メキシコ湾流はアフリカの方面に向けて流れていた。
です。

私はこの、

かつて大西洋でメキシコ湾流を塞いでいた存在とは、伝説の大陸、アトランティス大陸 ではないかと思うのです。

一夜にして海中に没した、伝説のアトランティスの存在証明こそ、
ノルゥエーのフィヨルドであり、サハラの砂漠化であり、古代日本の縄文文明の衰退の歴史的事実ではないかと、私は推測いたします。

                                             (続く)


ヨーロッパと古代日本の関係 

2013-07-30 10:10:55 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。

前回記事で、古代日本の縄文文明の衰退の原因を、
日本の寒冷化による、当時の主食の栗の生産量の低下に求め、その寒冷化の要因として、
北海道などの北日本へ、寒流(オヤシオ)が流入し始めたことを上げました、

しかし、ある日突然に、海流が流れ始めるというようなことが起こりえるのでしょうか?
しかし、低緯度地域である北海道が、亜寒帯になるには寒流の存在が不可欠ですし、
栗の生産が主要な食料資源確保である縄文文明では、亜寒帯地方(北海道)での文明構築は不可能なのです。

この両者は、決して両立しないのですね。
北海道に流れ込む寒流(オヤシオ)は、元を辿れば北極海から流れ込んで来ます。

北海道の歴史的推移と歴史的産物を見る限り、かつては北極海には、冷たい海流が来てはいなかったと思われるのですね。
だから、東北地方とはそう緯度の変わらない北海道は、東北地方と同じ温帯気候だったはずなのです。
ですから、広葉樹である栗も、北海道で生育でき、栽培が可能だったのはずです。

それしか、説明ができないのです。

ではどうすれば、流れていなかった寒流が、北海道に流れるようになるのでしょうか?
これは地学の分野における、私の一つの仮説であります。

北極海に、反対側から水を押し出せば、寒流が太平洋上に流れ込み、北海道にも冷たい北極海の海水(寒流)が流れ出します。
確かに現在は、このような状況下にあります。

私に、記事上に地図や写真を張り出す技術がないもので、言葉だけで説明しているので、大変申し訳けないのですが、
現在はそのような海水の流れになっているのです。

北極海に何が流れ込んでいるのか?
それは、大西洋のメキシコ湾流という、世界最大の暖流です。
これが、アメリカ大陸の南部から、ヨーロッパ、北欧ノルゥエー沖を通過して、北極海に流れ込んでおり、
それに押し出される形で、太平洋に冷たい北極海の海水(寒流)が流れ出しているのですね。

つまり、日本の縄文文明の衰退の歴史、即ち、日本寒冷化の歴史を見る限り、
今大西洋に流れているメキシコ湾流は、かつてはヨーロッパ沖を流れてはいなかった・・・
という推測が、導き出されてしまうのです。

時を同じくして、太平洋と大西洋の2つの大海において、海流の流れを変えるくらいの大きな地球規模での変動とは何か?

これまた、ミステリーですね。(笑)

う~ん、これだけでも、記事3本文くらいの内容です。(笑)
書き上げる筆力に、自信が持てなくなりつつあります。(爆笑)

少し、休憩します。m(_)m

                                          (続く)




北海道が寒冷化した理由をさぐる

2013-07-29 15:27:36 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
前回記事を読み直してみると、実にあっさり書いていて、しかも結論を先延ばしにしていますね。(笑)

これでは、いつまで経っても、縄文時代から抜け出せません。(笑)
そこで補足説明的に、もう一本書くことにしました。

前回記事で私は、

日本が寒冷化し始めたことで、縄文文明の衰退が始まった。
北海道で、主食の【栗】が採れなくなったのが、その証拠だ。

という、思い切った自説を述べさせていただきました。

私は、地理や気象も好きで、地図ばかり眺めている時も多い人間です。
そのような私は、この事実が解せないのですね。

歴史的には、北海道で栗が栽培できた過去の事実がありますが、
地理的条件で言えば、北海道で栗が栽培できることはあり得ないのです。

ここはずっと昔から、1万年とは言わず、もっと悠久の昔から、今のような、亜寒帯気候でなければオカシイ地形です。
常識的には、暖かい時代があったはずがない地域なのです。

なぜかというと、北海道の周囲には、オヤシオという寒流が流れているからです。

はっきり言って、オヤシオが流れているので、北海道は寒いのですね。
高緯度だから寒いのではないのです。

東北地方と北海道。
緯度的には、ほとんど無視できる範囲の中にしかありません。
世界地図を広げていただければわかりますが、北海道は南ヨーロッパのスペイン南部と変わらない緯度です。

しかし東北と北海道だけでも、気候は違いすぎますね。
北海道は寒すぎます。

雪の質なんて、両者はぜんぜん違いますよね。
北陸や東北地方の雪は、ベタ雪ですね。
これは、日本海を流れる、暖流の影響で、湿った雪になるためです。
暖流は多量の水蒸気を、上空に出しているからです。

一方、北海道に降る雪は、水分を余り含まない、サラサラ雪です。
北海道には暖流は流れ込まず、寒流の影響下にありますので、雪に湿り気があまりないのですね。

雪が降る量も、北部の北海道より、南部の東北日本海側や北陸地方の方が、圧倒的に多いですよね。

この、北海道と東北の気候の違い。
これは、島の周囲の、海流の温度違いなのです。

以前記事に書いた、高知は黒潮が近くに流れているので、夏場に余り気温が上がらない・・・というのと同じで、
海流というのは、気候に絶大な影響を与えるものなのです。

北海道が寒いのはオヤシオが原因ですから、これはいくら地球の平均気温に変化があっても、現場の気候条件は同じです。
ですので、過去の歴史で、北海道に栗が栽培できた事実がある・・・この事実から導き出される推測は、

その頃(縄文時代)には、北海道の周囲に、オヤシオ(寒流)が流れていなかった可能性が高いのですね

つまり、この北海道の寒冷化という事実から導き出される結論は、
海流の流れが変わるような、地球規模での大異変が古代に起こった可能性を、縄文文明の衰退は示唆していることになるのです。

ではどうすれば、流れていなかった寒流が、北海道に流れるようになるのでしょうか?
どう推測すれば、これらの事実がつじつまの合うものになるのでしょうか?

ミステリーですね。(笑)
これこそが、次回以降のテーマです。

                                        (続く)