土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
当ブログでは今、江戸時代に着目しております。
家康の基本的施政方針、統治主義的天下布武と現代の憲法9条下における、絶対平和主義との対比から、
私は相当、江戸時代に対してネガティブな情報を発信しましたので、その埋め合わせに、少しポジティブな話題も記事にいたします。
時代は下って、5代将軍綱吉の元禄時代、そう江戸時代に絢爛たる文化が始めて芽生えた、華やかな時代です。
時代劇なんかでも、この時代というのは、花魁(おいらん)や、茶店(ちゃみせ)など、
新たなと町人の楽しみが増え、とても賑やかなイメージですね。
そしてこの時代と言えば、そう、天下の悪法と言われる、生類哀れみの令(しょうるいあわれみのれい)というのが、幕府から宣下され、「人よりも犬を大事にするのか!」というような、論調がよく聞かれる時代であります。
賑やかな江戸の町を、お犬様ご一行様が、偉そうに歩き回る。
そういうなんとも場違いな雰囲気の映像が、時代劇などでもよく見られます。
しかし、この映像には、明らかな間違いがあるのですね。
実はこの、生類哀れみの令があったからこそ、江戸の町民文化の始まりである、華やかな元禄文化が起こり、賑やかな江戸の街が生まれたのです。
つまり、順番が逆なのですね。
生類哀れみの令こそ、華やかな元禄文化の産みの親なのです。
この生類哀れみの令は、将軍綱吉に跡継ぎが出来なかったことから生まれたものです。
綱吉が将軍になった頃というのは、江戸幕府開闢から85年あまりが経過した頃ですが、実はまだ戦国時代の気風は、人々の心の中に色濃く残されていたのです。
そして江戸の街は、とても武士の人口比率が高いのですが、戦がなくなり腕の見せ所を失った武士が、ウップンばらしをするのに、夜な夜な辻斬りをすることが、日々横行していた、とても治安の悪い都市だったのですね。
いわゆる、試し斬り・・・であります。
武士は確かに、農民や町人の生殺与奪の権限がありました。
ちなみにこの身分制というのは、日本では江戸時代に確定されたものです。
それ以前では、皇族貴族以外は流動的でした。
とまれ、江戸時代は「無礼をはたらいた。」という口実があれば、武士は庶民を無礼討ちができたのですね。
しかしまぁ、さすがに日中は、そう易々と辻斬りはできません。
なぜならそれは、統治主義的天下布武政策による、お家のお取り潰しの、格好の餌食となりうるからです。
ですから江戸時代を通じて、武士は刀が抜きにくい状況下にありました。
ですがまだ、江戸時代初期においての江戸市中では、夜になると辻斬りが横行していて、夜に市民が歩けない街だったのです。
まだ綱吉以前の江戸の街では、ムシャクシャしている武士に出会ったら、庶民は切り殺されかねないからです。
つまり初期の江戸の夜は、シーンと人影のない街・・・だったのです。
ですので、綱吉将軍以前の江戸市民は、夜は出歩かなかったので、町民文化は生まれないのですね。
そこで、それを知ってか知らずかですが、偶然なのか、それとも思惑があったのかは、私は存じませんが、(笑)
生類哀れみの令が、5代綱吉将軍より直接発令されました。
生類・・・哀れみ・・・ですので、
これは当然、犬に限らず・・・なのですよ。
つ・ま・り、
一般市民の命も哀れみ、無碍に殺したりしてはならない・・・と、将軍自ら法令化し、武士を含めた国民全員に、お触れとして出したのです。
将軍は、犬ですら哀れむのですから、人は、言うに及ばずですわな。
これで一気に、江戸の治安は良くなりました。
ですから、生類憐みの令によって、花魁や吉原などの、夜の文化が一気に花開いたのです。
徳川綱吉は、世界で始めて動物愛護の精神を法制化したと、今世界ではその評価が見直され始めてています。
しかし、それだけではまだ、評価が低すぎると思います。
政治的、軍事的には天下布武は、綱吉以前に確定していたでしょう。
しかし5代綱吉将軍は、さらにそれを推し進め、日本の全国民の心から、争いの心をなくした名君であったと、今の私は考えております。
つまり貞享4年(1687年)に、5代将軍綱吉によって発布された生類哀れみの令によって、
信長以降の日本人の願いである天下布武は、やっと完成したと私は思います。