(高知城)
土佐のくじらです。
今日は仕事が忙しかったので、今回の記事はさらっと。(笑)
徳川家康が将軍になった頃の日本は、徳川家と豊臣家が、日本を二分する形で勢力を競っており、政情はとても不安定でした。
武士のトップは征夷大将軍の徳川家康で、朝廷政治のトップが関白の豊臣秀頼という、二人のトップがいたからです。
ですから、各藩の領主である大名たちは、いつでも戦が出来るように街づくりをしました。
これが、現代にも残る城下町の原型です。
ですから城下町は、交通の通りをあらかじめ、悪くして造られていると考えて良いです。
敵が進入してきた際に、一所に集めて一網打尽に出来るように造られているからです。
「ここは何だか、街の規模としては交通渋滞がひどいな。」と、もし思える節があるならば、それは城下町だから・・・かも知れません。
今後、新たな街づくりを計画する上では、そのことを念頭に置く必要があります。
でなければ、街の発展を阻害する可能性があります。
城下町は現代的価値観からすれば、流通の便が、相当悪くなるように造られているからです。
さて、関が原の戦いに生き残った大名たちには、豊臣秀吉恩顧の大名たちが多く存在しました。
単純な反三成理念で、徳川家康に味方した大名たちで。
彼らは、豊臣政権の崩壊を望んではいなかったのです。
実はこの、徳川派大名なのか、それとも豊臣派大名なのかを、とても簡単に見分ける方法があるのですね。
それは彼らが建てた、お城の色の違いです。
さて、大坂城は、誰が建てたでしょうか?
答えは・・・・大工さんです・・・あーははははは。(^@^)
バカな質問をしました。
文字数の無駄ですよね。(^^;
やっぱり今日は、疲れているのかなぁ? ハハハ。
実は、秀吉の建てた大坂城は、元々は黒いお城だったのですね。
今ある大阪城は、徳川幕府が建て直しましたので、白色のお城になっていますけど。
本来は、信長の安土城をまねた、黒色に金縁の城だったのです。
一方、家康の建てた江戸城は、漆喰(しっくい)を使った白いお城でした。
豊臣家への、反発心だったのでしょうかね。
もうおわかりですね。
「拙者は、秀頼殿にお見方致し申す!」という意思表示を持つ大名は、黒色の城を建てました。
加藤清正が建てた、熊本城が有名ですね。
そして、「我らは、家康殿に付き従う!」という意思表示持つ大名は、白色の城を建てたのです。
もちろん徳川御三家や、分家の松平家、旗本大名などは総じて白色の城です。
山内一豊の建てた高知城も、白色の城ですから、土佐藩は徳川派だったことがわかります。
こういう事実を踏まえて、郷土史を調べてみたり、地方へ旅行の際には、残っている天守閣などを眺めてみるのも、また一献かな・・・と思っております。
(続く)
(熊本城)