土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

徳川派と豊臣派の見分け方 

2013-10-11 20:38:06 | 歴史の読み方

                                                          (高知城)

土佐のくじらです。
今日は仕事が忙しかったので、今回の記事はさらっと。(笑)

徳川家康が将軍になった頃の日本は、徳川家と豊臣家が、日本を二分する形で勢力を競っており、政情はとても不安定でした。
武士のトップは征夷大将軍の徳川家康で、朝廷政治のトップが関白の豊臣秀頼という、二人のトップがいたからです。

ですから、各藩の領主である大名たちは、いつでも戦が出来るように街づくりをしました。
これが、現代にも残る城下町の原型です。

ですから城下町は、交通の通りをあらかじめ、悪くして造られていると考えて良いです。
敵が進入してきた際に、一所に集めて一網打尽に出来るように造られているからです。

「ここは何だか、街の規模としては交通渋滞がひどいな。」と、もし思える節があるならば、それは城下町だから・・・かも知れません。

今後、新たな街づくりを計画する上では、そのことを念頭に置く必要があります。
でなければ、街の発展を阻害する可能性があります。
城下町は現代的価値観からすれば、流通の便が、相当悪くなるように造られているからです。

さて、関が原の戦いに生き残った大名たちには、豊臣秀吉恩顧の大名たちが多く存在しました。
単純な反三成理念で、徳川家康に味方した大名たちで。

彼らは、豊臣政権の崩壊を望んではいなかったのです。

実はこの、徳川派大名なのか、それとも豊臣派大名なのかを、とても簡単に見分ける方法があるのですね。
それは彼らが建てた、お城の色の違いです。

さて、大坂城は、誰が建てたでしょうか?
答えは・・・・大工さんです・・・あーははははは。(^@^)

バカな質問をしました。
文字数の無駄ですよね。(^^;

やっぱり今日は、疲れているのかなぁ? ハハハ。

実は、秀吉の建てた大坂城は、元々は黒いお城だったのですね。
今ある大阪城は、徳川幕府が建て直しましたので、白色のお城になっていますけど。

本来は、信長の安土城をまねた、黒色に金縁の城だったのです。

一方、家康の建てた江戸城は、漆喰(しっくい)を使った白いお城でした。
豊臣家への、反発心だったのでしょうかね。

もうおわかりですね。

「拙者は、秀頼殿にお見方致し申す!」という意思表示を持つ大名は、黒色の城を建てました。
加藤清正が建てた、熊本城が有名ですね。

そして、「我らは、家康殿に付き従う!」という意思表示持つ大名は、白色の城を建てたのです。
もちろん徳川御三家や、分家の松平家、旗本大名などは総じて白色の城です。

山内一豊の建てた高知城も、白色の城ですから、土佐藩は徳川派だったことがわかります。

こういう事実を踏まえて、郷土史を調べてみたり、地方へ旅行の際には、残っている天守閣などを眺めてみるのも、また一献かな・・・と思っております。  

                                                                  (続く)

                                                          (熊本城)


家康流、統治型天下布武とは何か。

2013-10-11 06:30:00 | 歴史の読み方

土佐のくじらです。

歴史部門の記事が、最近遅れております(笑)。
前回から家康にスポットを当てて来ておりますが、この頃になると、さすがに史実が多くなって来ますし、研究者も多いので、歴史ミステリーが余りありません。
つじつま合わせの歴史ヲタクとしては、余り出しゃばる部分が少のうございます。(笑)

さて、日本で最も有名な武将である、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の戦国三傑には、共通の施政方針があったというのが、当ブログの特徴です。
それは共に、天下布武=脱戦国だと私は思います。
これには、当時の世界史の動きである、大航海時代と白人植民地主義の台頭が、深く絡んでいると私は考えます。

織田信長の脱戦国施策が、原理主義的天下布武です。
豊臣秀吉の脱戦国は、現実主義的天下布武。
そして徳川家康の脱戦国が、統治型天下布武です。

簡単に言うと、
信長が、「戦国時代を終わらせる宣言」をし、秀吉は、実際に戦国を終わらせて見せ、家康が、それを維持させて見せたと言えます。

それぞれには特徴があり、長所と短所がございます。

信長流、原理主義的天下布武の特徴は、当時の日本で初めてそして唯一、「戦国時代を終わらせる。」と宣言し、それを実際に行動論として示したことです。
当時は、有能で人間性の豊かな武将は数多くいましたが、誰一人として、戦国時代が終わるとは考えてはいなかったはずです。
それを、「やる!」と宣言し、実際に行動して見せて、社会に「やれるかも知れない。」と思わせたのが、信長の偉業であります。

しかし信長流は、自分たちの勢力以外が全て敵になる・・・という、重大な欠点がありました。
それを克服したのが、秀吉流脱戦国である、現実主義的天下布武です。

秀吉は、多数派形成と戦力の集中と、朝廷工作や政治的権謀によって、それまで敵として戦っていた勢力と、服従による和解による天下統一を成し遂げました。

しかし秀吉流で出来た豊臣政権は、言わば「天下統一=天下布武」というスローガンに共鳴した勢力との、一大連立政権でした。
ですから政権内部に、徳川家康や毛利輝元などの、巨大勢力を抱えておりました。
それらは、豊臣秀吉という、歴史的カリスマがいればこその連立体制であり、カリスマ亡き後、内部の巨大勢力の内部抗争によって、再び戦国化する可能性を秘めていたのです。

それはとりもなおさず、徳川家康が頭角したことで、誰の眼にも明らかになってしまいました。
家康は、この豊臣政権が本質的に持つ、現実主義的天下布武の弱点を突いたのが家康だったのです。

これら先人の特徴をつぶさに研究し、弱点を克服した・・・否、しようとしたのが家康でした。
つまり家康は、二度と戦国時代に戻さないためには、為政者は圧倒的なスーパーパワーを持つ必要がある・・・ということに気付いたはずです。

家康が仕掛けたであろう関が原の戦いにも、それを裏付けるものがあります。

まず、五大老を分裂させました。
前田家は徳川方、宇喜多家・上杉家・毛利家は豊臣方になりました。
また加藤清正など、豊臣恩顧の家臣を豊臣家と戦わせております。

家康は関が原の戦いは、もう少し長期化すると思っていただろうと思います。
ゆえに、豊臣家の中心をまず戦わせて、大部分の勢力を削いだ後、徳川軍本体である秀忠が決着を付ける・・・という腹積もりだったと考えます。

しかし秀忠軍の到着が大幅に遅れ、豊臣恩顧の大名だけで、半日で戦が終わってしまったために、豊臣勢力が戦後も相当残ってしまいました。
徳川家は関が原の戦いでは、日本最大勢力のままで、圧倒的スーパーパワーにはなれなかったのです。

それでは再び、日本は戦国化し、分裂の危機を迎えます。

そこで家康が考えた統治型天下布武が、『 徹底的に、天下取りを諦めさせる 』 という方法論であったと思うのです。
大きなテーマは脱戦国・・・つまり、二度と戦国時代に戻さない・・・とい理念で、方法論が、諦めさせる・・・というものです。

これが、その後250年以上続いた江戸幕府の大きな政治理念であり、それが今でも日本人の心に染み付いていると、私は考えているのです。

                                                                    (続く)