土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

幼児虐待事件の真相

2013-10-28 12:31:42 | 神国日本の心

土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。

先週末、また幼児が虐待死した、おいたわしいニュースが報道されました。
この子の若い父親に対する怒りや、保護を解き、虐待暦のある家族のもとへ子供返した児童相談所の判断など、
問われるべきことがらはたくさんあろうかと思いますが、当ブログではその本質に迫れればと存じます。

幼児虐待に関しては、私は昔から存在したと思っています。
子育てが苦手な親というのは、今も昔も一定の比率で存在したと思うからです。

ただ現代は、社会的背景が全く違っています。
マスコミの報道が、盛んになされるようになってきた点は大きいです。

しかし最も重要なことは、子供に対する一般的日本人の、宗教的な価値観が変化しているということです。
それは、日本の子供の教育環境を、歴史的観点から見るとわかるのです。

以前の日本社会は、

子供は地域で育て、躾(しつけ)をすることが当たり前・・・ということが、完全に定着していた社会だったのです。

それは、農村部、都市部に違いはありません。
日本全土がそうだったのです。

これは世界的に見ても大変稀な、そして誇るべき日本の歴史だと思います。

皆さま、七五三という日本神道の儀式を御存知ですね。
これの所以は諸説ありますが、

『七歳までの子供は、神様の所有物』

という、日本神道の宗教的価値観から行なわれている神事なのです。

つまり、神様の代わりに、その子を産んだ親が子供を養育しているのだ・・・
という宗教的価値観が、日本にはあったのです。

つまり価値観的に言うならば、その子を産んだ親は、神様の子の養育者・・・でしかないわけです。

三歳、五歳になったら、その子の親は、神社に育児の途中経過を報告に詣でます。
そして子供が七歳になれば、

「神様、子供が七歳になったので、私(親)のものとして、引き取りに参りました。どうか御許し下さい。」

と許可を得るために、神社に詣でます。
それが七五三の由来です。

つまり以前の日本社会では、誰から生まれようが、子供は七歳になるまでは神様のものですから、
誰の子供であっても慈しみ、乳がでなかったら出る者が与え、躾(しつけ)が出来ていなかったら、
たとえ誰の子供であっても、悪さをすれば叱っていたのです。

日本社会は世界レベルで言えば、子供を大変可愛がり、とても子供にとってやさしい社会です。
世界の共通の常識では、子供は不完全な、手のかかる邪魔者でしかありません。
ですから子供は、一日でも早く、大人になるよう、厳しく養育される傾向があります。

私が子供の頃は、まだそういう価値観が薄っすらと残っていたのか、私は随分と、ご近所さんから叱られていました(笑)
そしてそんな時、私の両親は、叱って下さった方にお礼を言っていました。

今そんなことをすれば、子供の親に怒られることの方が多いと思います。

それは、現代日本社会が、子供はその親の所有物である・・・という価値観だからだと思います。
つまり、他人が口出しできない風潮が、できあがっている訳ですね。

私はこの、日本古来の伝統的な、子供は神様のもの・・・という宗教的価値観がなくなり、
子供はその親の所有物という、唯物的価値観となってきたことで、子供が虐待死にいたらすまで、
社会が親子を放置していることが問題だと思うのですね。

乳幼児虐待事件の報道を見るたびに私が想うこと、

それは、「人間は神の子なのだ。」という強いメッセージを持った、宗教的価値観の定着が必要だと痛感する次第です。