土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
信長型原理主義的天下布武、そして秀吉型現実主義的天下布武の長所と短所を考察した結果、
家康が幕府立ち上げの理念としたのが、統治主義的天下布武政策であろうと思います。
天下布武の総仕上げこそ、家康を初めとする、徳川幕府の基本的な政策であった・・・。
こう見ることで、江戸時代の様々な出来事の、一本の筋が見えるのです。
まず仕置きにおいて、前田家加賀藩100万石を筆頭に、巨大大名は姿を消します。
これで、次の天下取りを単独で行える、可能性を持つ勢力が日本にはなくなりました。
そして、大名通しの婚姻のみならず、許可なしで藩通しが話をすることも禁じられます。
江戸幕府は国内最大、唯一のスーパーパワーではあるのですが、以外ですけど、国内の過半数を超える領地は、
幕末まで持てませんでした。
もしも、幕府以外の大名が結託すれば、ひっくり返される可能性はあったのですね。
ですから、それぞれの藩は、個別に幕府とのみ交渉できるスタイルにしたわけです。
そしてこれは、私の予想ですが、藩通しは、仲が悪くなるように、情報操作されていたのではないか・・・と思っています。
隠密などの諜報部隊を使って、流言を流したりすることで、藩通しが結託しないよう、お互いが嫌いになるように、
情報操作されていた可能性がありますね。
今でも、隣りの県通しは、妙なライバル関係がありますよね。
実は高知県民は、他の四国県民に対して厳しい所があります。
他にも、そんな微妙な関係って、あるのではないでしょうか?(笑)
その発端は、江戸時代の諜報活動にあるかも知れません。
初代将軍家康、そして二代将軍秀忠時代には、盛んに藩のお取り潰しも行われます。
功績のあった外様大名には、報酬として所領の大幅UPをいたしましたが、それらは元々小藩ですから、大藩の運営を知りません。
ですから、旧領主を信奉する勢力との、藩内でのイザコザに悩まされました。
それらが、肥後藩加藤家や、安芸藩福島家の取り潰しの口実になり、後釜には譜代家臣を入れることで勢力を広げました。
秀吉から、慣れた三河から関東へ移された辛い経験が、これらの仕置きに繋がっていると思います。
一方、豊臣時代に大藩で、関が原では西軍に付いた毛利家や上杉家、島津家などは大幅な所領減となり、藩の運営は厳しいものとなりました。
家臣が多いので、かなり困窮したはずです。
しかし、家臣が多いことは、幕府から見れば攻めにくいので、お取り潰しには至らず、幕末まで生き残ることとなります。
士農工商と言われるように、身分制度も固定化され、さらにそれらは、微妙な嫉妬と揚げ足取り関係にありました。
徳川の元々の家来であったものは、旗本といいます。
幕府の政治は、この旗本しかできませんでした。
つまり、政治権限は旗本が握っていました。
しかし、旗本の多くは、広い所領は与えられませんでした。
関が原での手柄がなかったからでず。
一方大名には、広い所領は与えられましたが、幕政に関与する権限はなく、常に旗本に監理されている立場でした。
旗本と大名は、嫉妬と憎悪の関係だったのです。
これは、薄給ながら行政権を持つ官僚と、多くの所得は得やすいが、お上の業務権限に怯える一般庶民の構図と変わらず、
今でも江戸時代と仕組みは変わっていないように私には見えます。
カテゴリー増税亡国論で、好景気を嫌う官僚を非難しましたが、その根源は、江戸時代にあると私は思うのです。
江戸幕府の基本姿勢は、国民に我慢させること、そして、夢を持たせないことだと私は思いますね。
また、5人組制度などの集団責任体制もつくられました。
そして何かあれば、連帯責任を取らされました。
250年も続いた江戸幕府の時代。
この基本政策は、徳川に反抗する勢力が分断し、それぞれが、嫉妬し憎悪する関係を作り出したと思います。
そうやって、不満が幕府に向かないように仕向け、倒幕勢力が一致団結しないように仕向けました。
「絶対に、戦国時代には戻らない。」という、大きな理念の下に。
これは、平和への強い意志の現われでしょうが、それまではなかった、日本人の国民性をつくったと思います。
出る杭は打つ。
個々人の個性を尊重しない。
結果平等主義。
問題を先送りにする。
悪いところには蓋をする。
事なかれ主義。
今も残る日本的な負の部分、この大部分は、江戸時代に形成されたものであると私は考えます。
日本人が本来の姿を取り戻すには、歴史を再考し、江戸時代のネガを克服する必要があると思うのです。
(続く)