土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

家康流の統治は、「あきらめの統治」である。

2013-10-14 09:36:47 | 歴史の読み方

土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。

私は、家康の統治の方法論を学ぶことは、戦後の日本を学ぶことだと思います。
徳川江戸幕府体性は250年以上と長かったので、日本人の発想や常識、そして行動原理に、強く影響を与え続けていると思うのです。

信長・秀吉・家康の戦国三傑の施政方針には、一定の共通点があり、それを私は脱戦国=天下布武というキーワードでまとめて解釈しております。

信長が、原理主義的天下布武。
秀吉が、現実主義的天下布武。
家康が、統治主義的天下布武、 という具合にです。

共に脱戦国・・・つまり、戦国時代から脱却し、全国を統一し、二度と戦国時代には戻さないという各理念です。

特に家康型の、「二度と戦国には戻さない。」という理念の下の各種施策は、
「二度と戦争を起こさない。」という理念の下、執り行われてきた、戦後日本の各種施策と似ていると思います。

その結果現代日本は、江戸時代と同様の、諦めの国家と成り果てているのではないでしょうか?

今の日本の自虐史観の要因は、先の戦争の敗北によるものだけではなく、この長く続いた江戸幕府からも来ていると私は考えます。
であるならば、この時代を検証し、その負の根源に辿りつかなければ、本来の日本人の強さは出てこないと私は思うのです。

さて後発の家康は、先の信長型、秀吉型天下布武の、長所と短所を見抜いていたと思います。
そしてそれ以前の統治者である、源頼朝幕府や足利幕府の短所も。

頼朝には所領はなく、足利幕府の所領も極めて少ないものでした。
征夷大将軍という、朝廷の肩書きはあり、武士の所領を決め、公的な戦を刷る権限はありましたし、武士は将軍に逆らえば朝敵となりますので、絶対に逆らえないという権威もありましたが、かつての征夷大将軍には個人の所領が事実上なく、時の政治の流れの中では、すぐに権威化されてしまうということも、重々承知していたはずです。

それを踏まえた上での、家康の天下取りだったはずです。
ですから徳川家康は、今で言う政治活動とも言える、個人所有の所領確保は怠りはありませんでした。

ですが、天下分け目の関が原の合戦の、徳川本体を使えずじまいの思いがけない勝ち方によって、
日本全土の2~3割程度までしか、徳川の所領を増やせませんでした。

今で言うならば、与党が全国会議員2~30%勢力しか、自党議員持っていないような構図が、初期の江戸幕府なのです。
極めていびつな、少数与党体制ですよね。

これでは家康の考える、統治型天下布武・・・つまり、絶対多数の政権安定は不可能です。
普通に考えるならば・・・。

そこで家康は考えたと思います。
どうすれば、このような状況下で、徳川家が絶対多数を築けるかを。

だからこそ、藩同士の交流を禁じたのだと思います。

それまでの豊臣政権下では、各大名の私戦を禁じていました。
豊臣政権に断りなく、勝手に戦を始めれば、おとり潰しになりました。

家康はこれを更に進め、各藩が交流した時点、藩同士が話しをした時点で、藩のおとり潰しの対象としたのです。
つまりこれで、倒幕連合を起こす前段階で、反乱者を潰す口実ができるのですね。

各藩レベルで考えるならば、土佐藩(現高知県)が相談事をできるのは、お隣の阿波藩(現徳島県)ではなく、唯一、江戸幕府だけになるのです。
一藩VS江戸幕府ならば、普通に考えるならば勝ち目はありません。

これはその後、今では世界の共通認識となった、国境への概念にも繋がるのですが、江戸時代を通じて、GDPの伸び率3~5%という、超停滞社会となった要因ともなっております。

また、隣の県民通しは中が悪いという、日本独特の県民文化の発端ともなっていると思います。

ともあれ、このような形で粛々と、統治主義的天下布武政策を、徳川幕府は250年以上続けました。
現代日本人の心を知る上でも、この家康型の統治の方法論は、今後も研究して行きたいと思います。 

                                                 (続く)