土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

日本文明は、電気文明である。

2013-10-06 17:00:00 | 日本文明論

土佐のくじらです。

日本人は自国の歴史のみならず、文明論にもっと自信と、誇りを持つべきだと思います。
私は時折、当ブログ記事で、その誇るべき日本文明論について、今後も述べてまいりたいと思います。

以前の記事で、日本文明としての経済的側面として、経済で最も恐れられている、ハイパーインフレの恐怖を克服した文明と称しました。

ハイパーインフレの要因である物不足を、商品の大量生産と物流と基本インフラの構築によって、日本は克服したのです。
ですから日本では、いくらお金を刷っても、需要以上に供給が成されるので、市場では自然と競争が起こり、ハイパーインフレにはなれないのです。

この日本文明を、今回はエネルギーの側面から検証してみたいと思います。

現代日本の文明は、私は”電気文明”だと考えております。

これはその文明の、基軸・基盤となっている動力源やエネルギーが何か・・・という観点から述べたものです。

産業革命以後のヨーロッパの文明が、蒸気文明。
第二次世界大戦前後のアメリカが、自動車や飛行機などの石油文明。
そして全世紀末から今に至る、日本で中心になっているものが電気文明です。

今日本では、生活に必要なものは、電気で動かせる能力を持っております。

電気自動車やオール電化住宅なども一般市販され、かつてはガソリンやガスなどを使って利用していた器具の、ほぼ全てが電気で代用できる仕組みが、現時点で実用化されております。
電気自動車の過渡期技術と言われているハイブリッドカーは、もう完全に市民権を得ておりますね。

これらハイブリッドカーなど、電気を中心とした文明が、日本文明の正体なのです。

もちろん電気文明の発足は、エジソンなどが生まれ活躍したアメリカです。
しかし、それを一般市民レベルで実用化し、市民文明として定着させたのは日本の功績です。

その日本型電気文明は、電気製品を小型化することで、実用性を大幅に上げ、大量生産をすることで、庶民への普及率を上げたことが評価できるところです。

また、新幹線などの移動ツールとしても優秀で、人の移動時間を大幅に短縮しました。
移動時間の大幅な短縮は、事実上、人の寿命を延ばしたのと同じです。
これは偉大なことです。

家電製品の普及は、世界中で家事労働を大幅に軽減し、世界から奴隷を根絶しました。
奴隷の必要性そのものを、家電製品の普及や、産業の機械化でなくしてしまったのです。

アメリカのリンカン大統領のごとく、政治的に奴隷をなくしたのではなく、日本は文明の力によって、それをなしたのです。

今後も世界に希望をもたらすものとして、世界に普及浸透して行くはずでした。
しかしその、電気型日本文明は今、大きな試練の時代にあると思います。
東日本大震災の、津波被害による福島原発事によるものです。

福島原発の現場では、冷却水への対応に苦慮していることが報道されますが、だからと言って、安易に原発に反対してはいけません。
なぜなら、日本の文明そのものの否定に、繋がりかねないからです。

原子炉の冷却段階での冷却水には、それほど怖い放射能はありません。
現場の方々は、被曝量に気をつけて作業する必要はありますが、施設以外では、それほど重篤な放射能汚染にはもうなりません。

ですから作業トラブル等があれば報道し、国民の知る権利が担保されている状況が確認できれば、それでOKです。
専門的な現場作業ですから、後は現場の作業員が被曝しないよう配慮して、次の段階、そしてまた次の段階へと作業を移し、最終的な廃炉へと向かえばよろしいです。

それよりも、現状の日本において、代替機能なしで、原発を止めては決してならないです。
それは一般市民が、仕事ができない否、仕事にならないからです。

なぜなら現代日本は、電気文明だからです。
日本の成長=電気消費量上昇だからです。

たとえば病院の手術などは、停電の恐れのある環境では絶対にできません。
手術器具は生命維持機能の固まりですし、大量の電気を消費します。
ですから計画停電=手術ストップです。

すなわち電気文明下の日本での原発停止は、全国各地で手術が受けられないために亡くなる人や、手術中に電力が停止したことで亡くなる人が、出てくる可能性が大いにあるということです。

原発ではまだ、誰も亡くなってはいないというのに、電気が使えないことで亡くなる人が出てくるのです。

原発停止思想というのは、近代、我々日本人が努力して築きあげてきた、誇るべき文明形態そのものを、否定しにかかっていると、私は見ております。
それが無意識であれ、意識的であれ、結果は同じであります。

この誇るべき日本文明の根幹が、今は原子力発電なのです。
大量に無尽蔵に、ひねればいつでも出てくる水のように、安く安定的に、誰もが電気が使える環境にする。
これまでの日本人の努力は、そこにあったのです。

これは歴史的には、まさしく新文明構築への努力そのものだったのです。
その日本文明の普及を、世界は待ち望んでいるのですよ。

原発停止論は、世界の希望の文明そのものへの、否定をしているのだということです。

何も代替機能なしで、原発は止めてはいけません。
それは為政者に、政治機能としての資質がないことの証明です。

現時点で代替機能がなければ、再稼動です。当たり前です。
将来の、遠い未来の”脱原発議論”など、はっきり言って今は無駄です。

原発を稼動しつつ、未来のエネルギー像を議論するべきです。

「贅沢をやめよう。無駄をなくそう。」
などという、素朴っぽい、安直なフレーズで語られる内容ではありません。
日本文明の存続そのものが、かかっているのです。

何も代替機能なしで、原発を止めてはいけません。
電気文明下では大量の電気を、安く安定供給されなければ、文明は死にます。

水田に、大量の水を供給しなければ、コメが全滅するでしょう?
それと同じ理屈です。

自然と調和する文明へのシフトを・・・
こういう、耳障りの良いフレーズを語るTVコメンテーターは、きっと多いに違いありません。

しかしこの言葉は、現実を直視した言葉ではありません。
それは、実は人間は、完全な自然の中では、生きていけない動物だからです。

なぜなら、全ての生物の中で、最も弱いのが人間だからです。

自然と共に生きる・・・
とても文化的に見えて、心地よいフレーズではありますが、現実的には、

自然を克服して生きる・・・
これが、現実的な人間像なのです。

自然を克服・・・つまり
人間とは、文明の中で生きることを前提にして創られている・・・という事実を認めない限り滅びてしまう、生命体としてはとても脆く、儚く、そして弱い存在なのです。

放射能が怖ければ、原発ごと核シェルター化し、封じこめる方法を構築することです。
そして地下とか山中など、分厚い仕切りで囲まれた絶対安全領域に、今後は原発を造れば良いことです。

安易な原発停止論議は、現代日本にとっては、文明の破壊そのものなのです。


もしも秀吉が、朝鮮征伐をやらなかったら。

2013-10-06 06:30:00 | 歴史のミステリー

土佐のくじらです。

さて今回は、安土桃山時代最大のミステリーに挑戦です。
それは秀吉の、悪名高き朝鮮出兵に関する、私なりの見解でございます。

歴史にIF(もしも)はタブーとされております。
それは何故だかは、私も深くは存じません。

しかし、「もしも○○だったら。」という考察を通して、当時の背景や当時の人々の意図が見えてくることも数多くございます。

たとえば、天下統一目前の信長が、本能寺の変により急死しなければ・・・、
全方位戦を展開し、領地の外側全部と、朝廷内部に多くの敵に囲まれた信長は、どこかで頓挫し、織田家そのものが苦境に立たされていただろうと推測いたします。

それがある意味で、織田家の内部の人間の裏切りである、本能寺の変の本質なのかも知れません。

そこで、タブーである歴史のIFを使って、現代の日韓関係にも影響を与え続けている朝鮮征伐を分析し、もしも朝鮮征伐がなかったらどうなるかを検証すると、違った歴史観が芽生えます。

私の見解を申せば、

もしも朝鮮征伐がなかったら、朝鮮はフィリピンや東南アジア諸国のように、ヨーロッパの植民地としての歴史を歩んでいた可能性が高い・・・という結論に至ります。

つまり、今韓国や北朝鮮などで、現実に朝鮮民族が存続しておりますが、秀吉の朝鮮征伐なくば、民族として存続している可能性は低い・・・ということです。

ではなぜ、秀吉は朝鮮に兵を出し、この地を占領しようとしていたのか?

答えは・・・

出兵するリスクと、出兵しないリスクを比較した場合、出兵しないリスクの方が、遥かに大きかったから・・・だと、私は考えます。

出兵の動機は、色々あると思います。

生前の織田信長の意思であった・・・。
そうかも知れませんね。

信長自信が朝鮮半島や、中国大陸にまで進出する意思を持っていた可能性があります。

世界最大の軍事力の削減・・・
そうかも知れません。

当時の日本は、世界最大の軍事大国でした。
その巨大な軍事力が豊臣政権に、いつ刃を向けるとも限りませんし、世界最大軍事力ならば、朝鮮や明であっても制圧できますね。
使える資源は使おう・・・こう思っても不思議ではありません。

ただ私は、これら一般的に言われている単純な侵略説に加え、当時既に始まっていた大航海時代における、対スペイン・ポルトガル対策もあったのではないか・・・と考えるのです。

当時の日本は、世界最大の軍事力を誇っていました。
鉄砲の数では、全ヨーロッパを凌ぎ、100年の戦国時代によって、屈強な武士が100万人単位で生きていて、しかも分裂国家から、平和裏に統一されていました。

秀吉時代は、明治維新と同じ状況下にあったわけです。

また、侵略の橋頭堡の役割を演じていたキリスト教を禁じ、占領を画策する宣教師たちを駆逐しました。
スペイン・ポルトガルの侵略対策と見れば、秀吉の施策は完璧です。

遠い国から船に乗って来る、スペイン・ポルトガルという侵略国家から見れば、侵略の対象にはなりえませんでした。
なぜなら、彼らは遠いヨーロッパから船で来るので、大量の軍隊は送り込めません。

ですからとてもとても、日本占領などは不可能だったのです。
日本は、武士が多く、今で言うならば陸軍が強かったので、占領できなかったのです。

東南アジア諸国やフィリピンなどは、鉄砲で脅せばひるんで降参しました。
また前衛部隊であった、キリスト教の布教により、国内に侵略の手引きする人もありました。
実はこの方法でしか、スペイン・ポルトガルは侵略する術を持っていなかったのです。

しかし日本人はなんと、鉄砲を自前で大量生産してしまいました。
ヨーロッパ人からすれば、驚愕の事実だったでしょう。

そして、ここからが本編ですが、キリスト教と軍事力との合同での日本侵略を諦めたスペイン・ポルトガルが、もしも、朝鮮半島に眼を向けていたとしたらどうでしょうか?

一変に、事情は変わってまいります。
朝鮮半島をスペイン・ポルトガルが侵略し、武装化した朝鮮人を使って、朝鮮半島から日本に侵攻することがあれば・・・これは日本からすれば、大変な脅威となります。

秀吉の朝鮮出兵・・・。
これは、スペイン・ポルトガルが動き出す前に、日本が朝鮮を(できれば)支配する・・・この目的のために、行われたのではないでしょうか?

別に、戦に勝つ必要はありません。
勝てば儲けものです。

実際には配下の大名たちに、朝鮮に行かせておりますね。
ということは、大名たちは自前の資産で出向くのですから、豊臣家にはそれほどの負担はありません。

本当の敵が、朝鮮や明ではなくスペイン・ポルトガルであるならば、いつでも大量の軍人を、日本から朝鮮半島に出兵できることを、スペイン・ポルトガルに、見せ付けるだけでよいのです。

朝鮮で兵隊が死んだとしても、それは豊臣家を狙う武士が減ることも意味します。
秀吉からすれば一石三鳥ですね。

一方、もし出兵せず、スペイン・ポルトガルの朝鮮支配を許すことになれば、これは大変なリスクを、日本は背負わなければならないのですね。
明治新政府の征韓論と同じ理屈で、朝鮮征伐を行ったとしか、私には思えないです。

本当に侵略するつもりならば、朝鮮半島南端・・・かつての任那(みなま)のあった辺りに足場を構え、制海権と兵站ルートを十分に確保して後、調伏などを駆使してやるのが筋だとと思いますし、その方が現実主義的な秀吉らしいです。

実際は短時間に、朝鮮半島全域に戦線が広がっています。
これは信長型の、全方位殲滅戦です。

これでは、兵站(人員や食料)が追いつかないと思います。
(ですから、もうろくした秀吉のわがままな戦・・・と言われるのでしょうね。)

しかし最初から、ただ暴れるだけが目的の戦・・・つまり、スペイン・ポルトガルに、

「世界一の軍事大国日本は、いつでも朝鮮半島に出兵できるぞ!」と、見せ付けるのが目的ならば、この軍事行動の意味も理解できます。
そして朝鮮征伐は、秀吉の死をもって終了いたしますが、これも当初からの予定かも知れません。

ともあれ歴史とは、”当時の、多重な価値で判断した結果”でありますので、現代において、一面的な価値判断は決してできません。

ただ結果論だけで言えば、秀吉の朝鮮征伐があったから、スペイン・ポルトガルは東アジア侵略を諦め、朝鮮や明はその後何百年に渡り、国家と民族を存続できたと私は考えます。

                                                                      (続く)