土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

勝つには勝ったのだけど (関が原の戦いと家康の誤算)

2013-10-10 10:45:06 | 歴史の読み方

土佐のくじらです。

今日は、関ヶ原の戦いのお話です。
秀吉の死によって、朝鮮出兵は終わり、豊臣政権内部では徳川家康の発言力が増します。

この時点での徳川家康の所領は、国内最大でした。
故に豊臣政権下で五大老となっていた家康は、豊臣政権が続いていたとしても、政権最大勢力でした。
家康はその後、征夷大将軍となり、豊臣政権と袂を分かつのですが、それはまた後日に。

一方の秀吉は、全国の金銀の産出地を押さえる形での金本位制政治でしたから、所領は以外に少なかったのですね。
織田信長の銭本位制の進化系、全国版とでも言いましょうかね。

一方家康は、関東に根を張る、古典的な土地本位制主義でした。
いわゆる、所領=雇える武士=軍事力ですね。

金本位制は、それを扱う指導者の、経済的資質が必要なのかも知れませんね。

さて、豊臣家筆頭奉行の石田三成と、筆頭大老家康の確執が深まっていき、その後の関が原の戦いへと、時代は流れていきます。

石田光成悪人説や小人物説などが、日本では定着しておりますが、三成の本拠地滋賀県左和山では、今でも三成を称えるお祭りなどが続いていますので、高潔で立派な方だったと推測されます。
平清盛や戦前の日本のように、敗者が悪者視されるのは、歴史は勝者が書くもの・・・という現実を如実に現していると思います。

さて、この天下分け目の大戦と言われている、関が原の戦いですが、始まったいきさつは、あくまで豊臣政権内の内部抗争です。
豊臣政権内の実権を、三成と家康、どちらが握るのか・・・というのがテーマなのです。
そう、自民党内の代表選挙とも言えるし、幹事長ポストをめぐっての争いみたいな戦なのですね。

ですから、三成側は”反家康”ですし、家康側は”反三成”と掲げての戦です。
ここがポイントなのですけど、家康は一言も、”徳川政権樹立”とは言っていないのですね。
反三成・・・を掲げての戦であったので、豊臣秀吉の忠実な臣下であった、加藤清正や福島正則なども、徳川側に付いたのです。

もし”徳川政権樹立”と家康が掲げていれば、これら豊臣臣下の武将たちが、家康の付くはずはないのです。

秀吉は、天下統一による平和=現実主義的天下布武・・・という大義名分によって、敵を味方につけましたが、家康は更に、敵を自分たちの勢力として、自分たちのために戦わせることまでやりました。

相手側からすれば、これは勢力の損失ですし、こちら側にとれば勢力の増強ですね。
相手の損失が10ポイントで、こちらの増強が10ポイントだとすれば、両者の差は+-で、20ポイントつきますね。
これが三成側にとっては、大きな大きな痛手だったはずですね。

これを現代的に当てはめると、既存の政治勢力や、支援組織を、ごっそりいただく・・・ということですな。
つまり自民党支援組織の組織票100票を、他の政治組織がごっそりいただくと、自民が100票減で他党が100票増で、その差は200票開く・・・そういうイメージを描いていただければよろしいですね。

既存勢力の得票が減った分、こちらが増えると・・・その時の得票差は、2倍開くわけです。

さて、皆さんご存知の通り、天下分け目の関ヶ原戦いを家康は制します。
家康側の圧倒的勝利・・・でしたが、ここで家康の当初の思惑とは違う出来事が、起こってしまったのです。

家康が関東から向かった東海道筋は、山内一豊を初めとする、ここいらを収める大名たちの粋な計らいによって、予想以上の楽チン道中となります。
東海道筋を収める大名諸氏が、城や城下町ごと、家康に差し出したことで、大軍の寝泊りや食事の心配をすることなく、疲労を最小限にできたのです。
この時、移動コストが掛からなかったことが、家康が関ヶ原を制することが出来た、大きな要因でもあります。

ただ、総大将である、嫡男秀忠(二代将軍)の到着が大幅に遅れ、肝心の戦に間に合わなかったのです。
秀忠軍=徳川家本軍は開戦に間に合わず、手柄を立てられなかったのですね。

原因は、秀忠軍は通過したのは中山道筋を通る途中で、籠城の名人、真田昌幸の軍勢に手こずったからです。
関ヶ原の合戦は、予想が大きく外れ、たった半日で終了しましたが、この戦いで活躍したのは、ほぼ全て、加藤清正や福島正則など、豊臣政権内で、三成と対立していた武将たちの活躍だったのですね。

トドメは、小早川秀秋の土壇場での裏切りでした。
つまり、徳川軍は全く活躍する機会なく、豊臣恩顧の大名たちだけで、天下分け目の戦があっさり終わってしまったのです。
恐らくこれで家康は、相当困ったはずです。

名目はさておき、自分の天下取りのために、豊臣恩顧の武将たちに戦わせたのですが、結局彼らに、多大な恩賞を払わなければならなくなりました。
徳川の強さをアピールする機会が、全くなかったのです。

徳川の直轄地は関東から愛知県までで、その他は豊臣恩顧の大名たち、すなわち、外様大名が支配する形にならざるを得ませんでした。

徳川家は、オンリースーパーパワーになりそこね、あくまでただのスーパーパワー、最大勢力としての位置づけを、江戸末期まで強いられることになったのですね。

この、関が原の戦いの勝ち方が、その後の江戸幕府の大きな施政方針=統治型天下布武に与えた影響は、とても大きかったと思うし、江戸幕府の性格に与えた影響、ひいてはその後の、日本人に与えた影響も大きかったと思うのです。

それがひいては、今日我々現代日本人の性格や考え方、そして様々な出来事の中での判断にまで、私は影響を与え続けていると考えているのです。

                                                 (続く)