人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

『鏡の影』その2

2013-03-15 20:45:41 | 佐藤亜紀関連
前の文章

2,悔恨の歯

 ヨハネスの親知らずと後悔に関する場面を検討しておきたい。ヨハネスはマルゲントハイムの城門の前で冬に追いつかれ、親切な床屋に泊めてもらう。ヨハネスは後悔の念に苛まれつつあった。後悔の念は「後悔の念がしきりと心臓に細い歯を立てる」(第二章、33頁)「街道で兆して以来、悔恨は彼の心臓を齧って少しずつ肥え太っていったが(中略)。ただ、齧り取られる度に広がる空洞を意識しながら」(同)と、心臓を齧り空洞をつくる歯として表現されている。また、親知らずの痛みに気づく場面は、「その身震いが、後悔に蝕まれた心の底に巣食ってじわじわと広がるような気がした。ヨハネスは愚にもつかぬ妄想を追い払おうと頭を振ってみたが、歯が鈍く疼くのに気が付いただけだった」(同、34~35頁)と表現される。つまりこの親知らずの痛みは、心臓を齧り取り空洞にする後悔を象徴するものとして表現されている。この時彼は市場でベアトリクスとアルブレヒトを目撃しており、「妄想」はベアトリクスへの思いと関わる。
 この歯は「錆びた手鏡」には映らず、「市で開業する歯医者などに抜かせるのは自殺も同然」であったとしても、他の歯なら可能だが自分では抜けない(同、35頁)ため、「いんちきな歯医者」に抜いてもらう。彼は「ぞっとするほどの血を吐」き、「中に、蛆のように白いものが二つ三つ浮かんでいた」(同)。体は「生きながら腐ってい」き、水鏡に映った自分の衰えた顔を見て、「道を誤った」と呟くこととなる(同、36頁)。殊に、自惚れの種だった髪に流れる一本の白髪を見てショックを受けるが、白髪は抜かない。
 それにしても、親知らずの虫歯が「心臓」を齧る「悔恨」を象徴するのであれば、なぜそれを抜いた後彼は「道を誤った」と呟いたのだろうか。根っこから乱暴に抜き取ったはずの歯、それなのになぜ、後悔は彼の心臓を延々と齧りとっていったのだろう。「悔恨」の表象は、いつの間にか虫歯から一本の白髪にずらされていた。

 ヨハネスが娼婦たちの野営地を訪ねる場面、美人の魔女フィリッパに関わる場面でも、「歯」や「心臓」が描かれる。野営地で酔っぱらったヨハネスは、「大きな口から奇妙に白い歯を覗かせて」いるジプシー女にからかわれ、買おうとするが、この白い歯は若者から投げられた「金貨」を齧って確かめるために使われる。(第十一章、182~183頁)。また、ベアトリクスの魂を導く鼬に、「強かに噛み付かれた」(同、184頁)。この夜ヨハネスは後にその長持にしまいこまれることとなる美人の魔女フィリッパに出会うのであるが、ここでは拒む。その後フィリッパが訪ねてきた場面でも「彼女の白い手が心臓をやさしくゆっくりと絞るのを感じたような気がした」(第十三章、218頁)と言われ、うつらうつらするヨハネスをフィリッパの魂が襲う場面でも彼女は「あなたはもう妾のもの」と言い、「心臓を抉り出そうとするように爪を立てた」。ヨハネスは痛みに飛び上がって目を覚ます(第十五章、249頁)。「歯」や噛むことがヨハネスの気を引き、意識を目覚めさせる。そしてヨハネスの心臓は魂を象徴する。

 そこで、胃袋が「空っぽ」と描かれる場面も見ておこう。衰弱から目覚めたヨハネスが、温かい寝台と十分な食事にありついた場面。「道を誤った」という彼の言葉に応えるように黄金の足を蠢かせて這い寄ってきた、暖炉に張り付いた緋色の百足が彼の袖から侵入するが、彼には追い払う力もなく、そのまま床屋夫婦のベットである藁のマットレスに移され、夢を見る(第二章、36頁)。夢の中では、迷宮のようにしつらえた庭園の中、暫く泉水を眺めていた幼くて美しいベアトリクス姫が裸になる。彼は戸惑いのあまり悪魔を呼び出してしまい、「大変な間違い」と思うが、「後の祭り」だった(同、38頁)。夢が覚めると、彼は暖かい寝床の上におり、十分な食事を振る舞われる。「空っぽの胃袋に」「食物を詰め込む」彼は、食事が「灰になってしまうのではないか」と心配している。ここでは、空っぽなのは心でも心臓でもなく胃袋である(同、40頁)。悪魔の美少年シュピーゲルグランツが彼を名指したときに、「案の定、食事は灰に変わった」と表現される(同)が、それでも悪魔であるというほのめかしを一言も信じずに、彼は子豚の丸焼きを食べ続ける。「灰」はここでは火刑にされることを暗示するものだが、先ほど見たように老いによる体の冷えとも関わる表現である。なお、シュピーゲルグランツは派手な巻毛の金髪が強調される少年であるため、黄金の足を蠢かす百足は彼が変身したものだろう。

 ボーレンメントで魔女フィリッパがヨハネスを自分のものとする第一歩を刻む場面でも、食事が描かれる。フィヒテンガウアーに告訴されたヨハネスが空気抜きの穴を見つめながら横たわり、ぼんやりと夕食のことを考えた夕刻、鈴の音がし、食べ物のにおいが漂ってきた。続いてヌビア人と道化たちが、雉子や果物、葡萄酒などを運んできた。

 ヨハネスは呆然として卓子の上の盆からオレンジの実を取った。まるで今し方樹からもぎ取ってきたかのように固く締まった実は、歯を立てると芳香とともに甘い汁を迸らせた。ヨハネスは指が汁で濡れるのも構わずに実を二つに裂き、皮を剥いた。
 ころころと笑い転げる声がした。フィリッパが、彼が夢中でオレンジの皮を剥くのを見て笑っていた。彼女は牢番に金貨を与えて一同を下がらせた。扉は閉ざされたが、閂を通す音はしなかった。
  (中略)(中略)、片手でオレンジを奪い片手で手首を掴んで、彼の指をねぶった。(中略)
 「何故こんな所に来た」とヨハネスは尋ねた。(中略)ヨハネスは後悔した。聞く気もないことを聞いたりする必要はない。(第十八章、292~293頁)


 悪魔が人をものにしようとするときには、まず食事を出すらしい。空腹で粗末な藁の寝床で寝ている時、十分な食事と心地良い寝床を提供する。ただし、寝床が提供されたのは当該場面ではなくこの後の、フィリッパの現れない夕食時であったが。ここでは、ヨハネスが歯を立てたオレンジをフィリッパが奪い取り、「後悔」もともに描かれている。先ほど見た「後悔」の「歯」が「心臓」を齧り取り空洞を作るという表現、ヨハネスがフィリッパのものになり「空っぽ」となる後の展開を考え併せると、ヨハネスの「歯を立てる」という行為は、自分の心臓を齧り取りフィリッパへと明け渡す行為を象徴するものであると言えよう。また、娼婦たちの野営地の場面ではヨハネスはただ齧られるだけであり、フィリッパを拒む場面でも一方的に心臓を絞り取られるだけであったが、ここでは自らオレンジの実を取り、歯を立てている。空腹と果実の希少さがそうさせたのだろうが、自ら手に取ってかじる行為は、フィリッパと遂に関係を持つ(それによってフィリッパのものになりゆく)ことと相関して描かれているだろう。
 フィリッパが立ち去ったのち「俄に空腹を覚えて食卓に着いた。冷めてしまった夕食は二人分にしても量が多すぎた」(同、298頁)。そのため、適当に切り分けた雉子、桃、葡萄酒を隣室のフィヒテンガウアー(ボーレンメントでは告発者もともに投獄される)に分け与え、残ったものを牢番に与えることとした。彼は牢番を呼んだ後も「食べ続け」「雉子の残りを半分ほど食べ続けると」「杯と水差し」「オレンジ」を持って寝藁のほうに移動し、「たっぷりとこの貴重な果実を堪能し」た(同)。最後まで食べ続けるのはやはりオレンジである。ふと気づいて隣室のフィヒテンガウアーを呼んだときには、前日にあった穴が向こう側から完全に塞がれていた。彼がフィリッパのものになってゆくのと同時に、彼の世界は少しずつ閉ざされるのであった。

本文引用について:前の文章参照。

つづく


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