人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

「佐藤亜紀さんと車座トーク」参加記

2017-07-03 15:08:13 | 佐藤亜紀関連
6月30日(金)、蔵前の本屋さんで行われたイベント、「佐藤亜紀さんと車座トーク」に参加してきました。
他にも何人か、イベントの感想などについて書いてらっしゃる方がいらっしゃいますが、私も内容を以下に纏めておきます。

・『スウィングしなければ意味がない』を書くきっかけになったことを問う、豊崎由美さんの質問からスタート。

ドイツ内の反ナチ運動についてまとめた本の中で、スウィング・ボーイズ(ユーゲント)について知ったのは92、3年の頃。
そのあまりに頭悪くノンポリであるさまに感銘を受けた。
ナチス時代のことを書く人は他にもいろいろいるだろうが、このあほなガキたちの話を書きたいと思うのは自分しかいない、と思ったのが書こうと思った経緯。

「エーデルワイス海賊団」などのほうがまだ政治性がある。

スウィング・ユーゲントの特徴は消費文化。
かなり層が広いが、中産階級(豊かな層)であることが多い。
ファッションのお手本はアンソニー・イーデン(イギリスの政治家)とウィンザー公。
ファッション誌に「内閣特集」(!)というのがあって、それを見て真似をする。
イギリスのファッションが、世界中どこにいようと、メディアに乗ってどこへでも届く、そういう若者の消費文化の最初の時代が、この頃。
ジャズについて(同時代に)よく言われるのが、こんなのは音楽じゃない、消費文化だ、ということ。
音楽がレコードという媒体に乗せられて店で売られる、その最初の時代であって、それがさらにラジオで流される。
ちなみに戦前まではBBCでもまじめな時間帯にはジャズは流していなかった、でも戦時中になり、ジャズを流すとドイツ人が食いついてくることに気づいてゴールデンタイムにも流すようになった。
消費文化に毒された若者が、大人から「お前みたいなやつは軍隊に送ってやる」と言って怒られる、その最初の時代。

ギュンター・ディッシェという400枚のSP版を集めた実在の人物がいる、その人物がモーリンゲンに送られて、帰ってきてなくなったレコードを買いなおす、そして生涯を通じて収集を続けるのだが、その人物がなぜそこまでするのかと問われて答えたのが、「そこには絶対の自由がある」ということ。
「絶対の自由がある」というのはかっこいいんだが、でもちょっと待てよ、と。
消費文化に首根っこ捕まれて、それが欲しいように習性づけられて、それが「絶対の自由」なのか。
でもその反面、その消費文化すらも消費できないということは、すごく「権利」を踏みにじられているという感じがする。
その複雑な関係のところを描きたかった。

・父と子の関係について。
父親の世代は第一次大戦中に戦争を送った世代。
主人公は1923~24年生まれだが、戦死率も徴兵率も一番高かった世代。
親子というのはせいぜい30歳くらいしか違わない。長いスパンで言えば同時代。

・体験したことのない感覚を体感したように思わせることと小説という媒体について。
『天使』を書いたときは、実はフォン・ノイマンの伝記を念頭に置いていた。(数的感覚に優れた人には)何かすごく感覚のねじれのようなものがある。たぶん見えている世界が違う。それを書いてみたかったのだが、数学は分からないため、ああいうかたちになった。
実は音楽も分からない。
ゾラがセザンヌに絶交された話があったが、美術であれば、(美術史が専門だったし)何かそれなりのことがいえる自信はあるのだが、音楽については、例えば同じ構造が離れた部分に二回出てくる、それは分かるのだが、それが何なのか、そのことによって何が見えなければならないかということが分からない。
だから音に優れた感覚を持っている人の見ている世界というのを私は書くことができない。

・プロット等考えるのか。
プロットというかたちでは書かない。
楽譜に喩えると、「コードの展開は考えているが、メロディの展開は考えない」。

・資料、同時代の証言が最近になって出てきた、ということについて。
スウィング・ユーゲントがあまりきれいな説明の構造に乗らないものだから、冷戦構造がゆるむまではあまり出てこなかった。
ユダヤ人を収容所から借りてきて働かせていたという資料なども、比較的最近になって編纂された社史などで書いている。

・暴力と権力について。
『戦争の法』と『ミノタウロス』と『スウィングしなけりゃ意味がない』について、地場産業の息子三部作、と呼んでいるのだが、そこで描かれる暴力には密度の濃淡がある。それがどこから来ているのかというと、『戦争の法』で描いたのは、すべての法が停止した状態であらわれる法以前の法。それが何かというと、地縁と血縁。あれは関東の方なんかには、そんなの嘘でしょう、そんな世界ないでしょう、って言われるんだが、自分の生まれ育った長岡の世界をモデルにしている。ほんの少し前までは本当にああいう世界だった。だから暴力と権力は嫌いで、何の魅力も感じないが、自分が一番よく知っている世界について書くとそういう風にならざるをえない。

一方で『ミノタウロス』は、ウクライナが舞台なんだが、あれは地縁も血縁もない世界。地味は豊かだが水がないのでもともとそんなに人が住んでいなかったところに、いろんな場所から人が入植してつくった土地。そういう世界で社会が転覆すると何もない。

『スウィングしなけりゃ意味がない』は、ものすごく強固な伝統的社会があるところに、その下層にナチズムが入ってきて、その上方にうっすらと消費文化が見えてきている、そういう状態。

・読みやすさについて。
『スウィングしなけりゃ意味がない』は、たまたま比較的読みやすいものになった。たぶんそれはティーン・エイジ・スカースの問題だ。
スカースというのは、デヴィッド・ロッジの『小説の技巧』などを見てもらえると分かるが、喋りを再現したもの。
ちなみに会話文を「――――」で書いているのと、「「」」で書いているのは、距離感を表現しようとしたもの。

・佐藤賢一について(?)。資料を参照したものの一部しか使わないことについて(?)。
佐藤賢一さんのは、歴史を書いているが、私のは、「歴史を語るとはどういうことか」について書いたもの。
(資料を本の一部しか使わないのは研究も同じなので、個人的には、大学院時代に培った感覚なのかな、と思いました)。

 他に、おすすめの小説や映画についての質問などがありました。

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最初に写真をアップしたときに、佐藤さんから「ものすごく美形」だとお褒めの言葉を預かったこの子

ですが、今ではすっかり大きくなり、15㎏程度になりました。去勢済みです。

まだ里親募集しています。
→2020年1月2日に急逝しました。
→保護主さんのブログ。「おうちで暮らそう

また、7月から少し私のお仕事が変わりました。
国立国語研究所で、広報関係の研究員として働くことになっています。






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