人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

大造じいさんと雁

2013-03-15 16:31:59 | 国語教育と文学

今日の子犬ちゃん。どんどん大きくなるよ。
本文と画像とは、関係ありません。

 今日は定番の国語教材、「大造じいさんと雁」の話題を。
 前にもちょっと触れた石原千秋が、『国語教科書の思想』という本のなかで、「大造じいさんと雁」をめぐる論争を取り上げています(というか、「大造じいさんと雁」を巡る論争についての、田中実の論文を)。

 ここで石原は、田中実の、

大造じいさんがおとりに使った雁を隼から救うために命がけの体当たりをした「残雪」を見て、撃ち取るチャンスであったにも関わらず、「なんと思ったか、再び銃を下ろしてしまいました」という記述の意味が、子どもたちには理解されない、それはこの場面の記述が「残雪」に寄り添っているために、大造じいさんの「心情」を理解することが出来ないからだ、この場面で大造じいさんの「心情」を問うこと自体に無理があるという国語教育学者もいる、

という意見に対し、
1.「リアリズム小説」は「書いてないこと」を楽しむ芸術だということ
2.教室空間は「書かれていない」気持ちを読む空間であること
3.国語教科書のテーマ「動物との交感」を考えれば、それに合致する「正解」が得られる
という3つの理由から反論しています。

 ですが私は、田中の意見にも、石原の反論にも違和感を覚えるんですね(というかまず、「大造じいさんと雁」がリアリズム小説かどうかから検討しないといけないんじゃないの?)。
 大造じいさんが銃を下ろした理由が、「大造じいさんと雁」には書かれていると考えるからです。ただしそれは、大造じいさんの「心情」ではありません。

 残雪の目には、人間も隼もなかった。ただ救わねばならぬ仲間の姿があるだけだった。(96頁)

とあるのが、それです。
 説明しましょう。これまで、「大造じいさんと雁」は、雁を仕留めようとする大造じいさんと、雁のリーダー残雪の、戦いの物語を描いてきました。ところがここでは、残雪の目には大造じいさんは、ない。したがって、大造じいさんと雁の、戦いの物語はここで終わらざるをえない。だから大造じいさんは銃を下ろした。
 ここで銃が何を象徴するのか、ちょっと考えてみたい誘惑にかられますが、それは置きます。
 再び残雪が大造じいさんを見るのは、隼ともつれあった残雪が地上に落ち、人が近づく気配に隼が飛び去った後です。その時物語は、大造じいさんと残雪との、交流の物語という別の物語を描き始めます。単純な男同士(?)の戦いの物語という男の子的な物語とはずらした部分で展開していて、そこが評価できると私は思います。結局最後は、「正々堂々と戦おう」的なことを言って終わるんですけど。
 大造じいさんと残雪との交流は、地上に降りてきた異界の生き物が再び異界に戻るという、白鳥処女譚のようでもあり、あだち充的な、ライバル同士の友情の物語のようでもあります。


 私のような経歴の人間は、教職をとって国語教師になるか、あるいは塾講でもするかというのが、キャリア形成にも金銭的にも一番いいのですが、それが到底無理だと思うくらい、私には国語教育が分からない。
 その分からなさにはいくつかの種類があるのですが、
 即物的なレヴェル、心情的なレヴェル、物語構造のレヴェル、表現技工のレヴェルなどいくつかのレヴェルで回答可能な質問を、どのレヴェルで答えれば良いか分からない、というのもそのひとつです。
 心情的なレヴェルで答える場合(特に、即物的なかたちで書かれているものを、心情のレヴェルで捉え直し、説明する場合)が多いのですが、必ず心情のレヴェルで答えるというものでもない。その違いが、私にはわからないのです。単に、問1からいきなり心情は問わない、とか、そういうことでいいんでしょうか?
 私は、何を聞いているのか分かりやすく問う必要があると思うし、もっと書かれていることをきちんと読み取ることを重視すべきだと思います。単純に、そうしてくれないと、私が分からんから私の仕事ない…。

本文引用は『椋鳩十の本 第十巻』理論社、1982年より。


最新の画像もっと見る