人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その3

2013-06-02 21:30:19 | 書評の試み
 ごんちゃんにはまだ首輪がつけられてません。あんなに甘えたれになってたのに、ちょっとでも追いかけるみたいになると駄目みたい。首輪つけようとすると、どうしても追いかけるみたいになるので。首輪がついてれば、つかまえようもあるんですが。明日は店(1階の店舗で自転車店をやってます)が開くので、仕方ないから小さい部屋のなかに閉じ込めてる。去勢手術の抜糸には、ゲージに追い込んで閉じ込めて行くしかないのかなあ。

 しばらく続きを書いてなかったので、とりあえず「歩行と舞踏のあいだで」まとめます。(→その1その2メモ
 
 『それから』では詩と散文についてのメタフィクショナルな言説があらわれ、目的の場所に歩いてゆく(歩行)散文と、目的もなくただ散歩(遊歩)する詩、と区別される。なおかつ生殖や恋愛は散文的なものである。物語には詩を想起させる円環的なイメージが多出し、生殖をイメージさせる受粉が描写されながらも、三千代の赤ん坊が亡くなったことや、受粉とは切り離された、ただ芳香する白い花のイメージが恋愛物語を動かす。けれども結局物語は恋愛物語であり、いわゆる無目的(反生殖)を目的とした展開を免れ得ているわけではない。
 尾崎翠『第七官界彷徨』におけるコケの受粉や、においの描写はおそらく、『それから』を踏まえているものだろう。反生殖の立場は明確にされないこの物語が、にも関わらず、少女的なものとして成立しえているのは、コケの受粉←『それから』のアマランスのイメージが、反生殖を暗示させるためだろう。加えて、『第七官界彷徨』では詩についてのメタフィクショナルな言説が『それから』以上に多い。はじめから、詩を書くこと、という「目的」が提示されるし、「ひとつの恋愛をしたようである」という物語も提示される。けれども目的を遂行することは詩的ではない。詩を書くことについても、恋愛物語についても、当初の目的はずれにずれ続けるのである。

 前回引用してなかったけど、いま気づいた。三五郎が歌う歌に、「はじめ赤毛のメリイを愛していたジャックが途中で道草をはじめて黒毛のマリイと媾曳をして、そしてしまいにはまた赤毛のメリイが恋しくなったというような仕組のオペラ」(113頁)というのがある、「道草」って言葉が出てきますね。


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