人形と動物の文学論

人形表象による内面表現を切り口に、新しい文学論の構築を目指す。研究と日常、わんことの生活、そしてブックレビュー。

歩行と舞踏のあいだで―夏目漱石『それから』から尾崎翠『第七官界彷徨』へ:その2

2013-04-21 23:52:40 | 書評の試み
前の文章

 『それから』においても、『第七官界彷徨』においても、歩行や散歩が重要な意味を持ち、「詩」「小説」についての意識が明示される。ここでまず参考にしておきたいのが、有名なポール・ヴァレリーによる、詩=舞踏、散文=歩行の喩え、ヴァルター・ベンヤミンの「都市の遊歩者」という考えである。

☆ポール・ヴァレリー
【参考一】散文から詩への、言葉から歌への、歩行から舞踏への推移。――同時に行為であり夢であるこの瞬間。(1)
【参考二】歩行は散文と同じく常に明確な一対象を有します。それはある対照に向って進められる一行為であり、われわれの目的はその対象に辿り着くに在ります。
      (中略)
 舞踏と言えば全く別物です。それはいかにも一行為体系には違いないが、しかしそれらの行為自体のうちに己が窮極を有するものであります。舞踏はどこにも行きはしませぬ。(2)


☆ヴァルター・ベンヤミン 都市の遊歩者(フラヌール)
【参考三】長い間あてどもなく町をさまよった者はある陶酔感に襲われる。一歩ごとに、歩くこと自体が大きな力をもち始める。(中略)やがて空腹に襲われる。だが、空腹を満たしてくれる何百という場所があることなど、彼にはどうでもいい。禁欲的な動物のように彼は、見知らぬ界隈を徘徊し、最後にはへとへとに疲れ果てて、自分の部屋に――彼にはよそよそしいものに感じられ、冷やかに迎え入れてくれる自分の部屋に――戻り、くずおれるように横になるのだ。[M1,3]

 哲学的な散歩者のタイプからまったく離れ、社会の荒野を落ち着きなく放浪する狼男の様相を呈する遊歩者をポーは最初に「群集の人」で決定的な形で描き切ったのである。[M1,6](3)


 以下、『それから』及び『第七官界彷徨』(+「歩行」)について、詩と小説、歩行と彷徨、円環構造などの観点から整理しておく。
『それから』
◎「詩」と「小説」
(三千代と口を聞きだしたのが、瑣末なことからであったのが)
 詩や小説に厭いた代助には、それがかえって面白かった。けれどもいったん口を利き出してからは、やっぱり詩や小説と同じように、二人はすぐ心安くなってしまった。(411頁)

代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩のために鉢の水を飲んだのか、または生理上の作用に促されて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者としたところで、詩を衒って、小説の真似なぞをした受売りの所作とは認められなかったからである。(461頁)


 単に「生理上の作用」であると思っているならば、「追窮する勇気も出な」いはずはないだろう。「詩のため」であると予想されるが、「詩のため」であったとしても、「詩を衒って、小説の真似なぞをした受売りの所作」ではないために、「追窮する勇気も出な」いのだろう。
 したがって、三千代の鉢の水を飲むという行為が、純粋に詩的な、真似事ではないものとして解されている(4)。

 代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘い文彩を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。むしろ厳粛の域に逼っていた。ただ、それだけの事を語るために、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具の詩歌に類していた。けれども、三千代は固より、こういう意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。(562頁)
 代助の言葉を、「玩具の詩歌」に喩え、「世間の小説」と対比させる。

◎歩行と回転
〈冒頭場面の夢〉・・・空からぶら下がる「大きな俎板下駄」(313頁)

そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賎民だと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賎民の方が偉いような気がした。(468頁)

この根本義から出立した代助は、自己本来の活動を、自己本来の目的としていた。歩きたいから歩く。すると歩くのが目的になる。考えたいから考える。すると考えるのが目的になる。それ以外の目的をもって、歩いたり、考えたりするのは、歩行と思考の堕落になるごとく、自己の活動以外に一種の目的を立てて、活動するのは活動の堕落になる。(中略)
(中略)これを煎じ詰めると、彼は普通にいわゆる無目的な行為を目的として活動していたのである。(471頁)


彼は花から花へ唇を移して、甘い香に咽せて、失神して室の中に倒れたかった。彼はやがて、腕を組んで、書斎と座敷の間を往ったり来たりした。彼の胸は始終鼓動を感じていた。(中略)それからまた歩き出した。彼の心の動揺は、彼をして長くいっしょに留まる事を許さなかった。同時に彼は何物かを考えるために、無暗な所に立ち留まらざるを得なかった。(555~556頁)

「先刻表へ出て、あの花を買って来ました」と代助は自分の周囲を顧みた。三千代の眼は代助に随いて室の中を一回した。その後で三千代は鼻から強く息を吸い込んだ。(558~559頁)

代助は光を浴びる庭の濡葉を長い間縁側から眺めていたが、しまいに下駄を穿いて下へ降りた。固より広い庭でない上に立木の数が存外多いので、代助の歩く積はたんとなかった。代助はその真中に立って、大きな空を仰いだ。やがて、座敷から、昼間買った百合の花を取って来て、自分の周囲に蒔き散らした。白い花弁が点々として月の光に冴えた。あるものは、木下闇に仄めいた。代助は何をするともなくその間に曲んでいた。(567~568頁)
「歩く積はたんとなかった」ものの、それでも庭に下り立つ。

わざと車を雇わずに、自分で送って出た。平岡の家まで付いて行く所を、江戸川の橋の上で別れた。代助は橋の上に立って、三千代が横町を曲るまで見送っていた。そこからゆっくり歩を回らしながら、腹の中で
 「万事終る」と宣告した。(567頁)

「歩を回らす」…歩行でありながら、回転する動き。
 
 最終場面の前夜には、「その晩は火のように、熱くて赤い旋風の中に、頭が永久に回転した」(613頁)、最終場面では「電車は真っ直ぐに走り出した」にも関わらず、「彼の頭は電車の速力をもって回転し出した」(618頁)など、「回転」する動きが描かれる。

しまいには世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した。(619頁)

 ここでは、「職業を探して来る」(618頁)という目的から、電車に乗ること自体の自己目的へと変化しており、直線的な運動が、同時に回転運動でもあるものとして描かれる。
 ヴァレリーの言う「散文から詩への、言葉から歌への、歩行から舞踏への推移」(5)と重なり合う。
 

尾崎翠「第七官界彷徨」及び「歩行」
☆詩への意識と、目的が達成されないこと
『第七巻界彷徨』
◆目的は達成されない

 私は人知れず次のような勉強の目的を抱いていた。私は一つ、人間の第七官に響くような詩を書いてやりましょう。(中略)
 私の勉強の目的はこんな風であった。しかしこの目的は、私がただぼんやりとそう考えただけのことで、その上に私は、人間の第七官というのがどんな形のものかすこしも知らなかったのである。それで私が詩を書くのには、まず第七官というのの定義を見つけなければならない次第であった。これはなかなか迷いの多い仕事で、骨の折れた仕事なので、私の詩のノオトは絶えず空白がちであった。(11~12頁)

とあるように、「変な家庭」で過ごす当初の目的は、「人間の第七官に響くような詩を書」くことである。

旅だつとき、私は、持っているかぎりの詩の本を蒲団包みのなかに入れたのである。しかしまことに僅かばかりの冊数で、私はそれだけの詩の本のあいだをぐるぐると循環し、幾度でもおなじ詩の本を手にしなければならなかった。(25頁)

 三五郎の音楽学校の受験についても、
勉強すればしただけ僕の音程は狂ってくるんだよ。勉強しないで恋をしている方がいいくらいだ。(33頁)
とあるように、勉強すればする程目的は達成できないものとして描かれる(言い訳される)。

 ヒロインは柳氏から「くびまき」を買ってもらい、
 私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋の釘にかけ、そして氏が好きであった詩人のことを考えたり、私もまた屋根部屋に住んで風や煙の詩を書きたいと空想したりした。けれど私がノオトに書いたのは、我にくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩であった。そして私は女中部屋の机のうえに、外国の詩人について書いた日本語の本を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。しかし、私の読んだ本のなかにはそれらしい詩人は一人もいなかった。彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。(123頁)
詩を書く。
 新しい詩の本は、外部への旅立ちを意味するが、当初の目的「第七官に響く詩」も、この時点での目的「柳氏の好きであった詩人について知」ることも達成されない。

 区切られた世界の循環・彷徨が描かれる『第七官界彷徨』の世界は、外部への旅立ちが描かれることで終わりを告げる。
 ひとつ目の目的「第七官」に響く詩を書くことは、「屋根部屋に住んで風や煙の詩を書」くことへと変化し、それは「我にくびまきをあたえし人は遥かなる旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩」を書くというかたちで実践される。
 限られた、「僅かな本の間を」「循環」する構造から、柳氏の好きな詩人について知るという目的が生まれるが、その目的も達成されない。
 ただし、くびまきを買ってもらうという目的だけは、柳浩六氏によって達成され、それが「ひとつの恋」として暗示される。

【参考】「「第七官界彷徨」の構図その他」
 そして私の配列地図は円形を描いてぐるっと一廻りするプランだったのです。それが、最初  の二行を削除し最後の場面を省いたために、結果として私の配列地図は直線に延びてしまいました。
 この直線を私に行なわせた原因は第一に時間不足、第二にこの作の最後を理におとさないため。
 しかし私はやはり、もともと円形を描いて製作された私の配列地図に多くの未練を抱いています。(130頁)


 狩野啓子が、
 翠は、まさにここで言われている〈遊民(フラヌール)〉の一人であった。〈遊民〉の孤独は、もともと翠が抱え込んでいた孤独にも響き合うものであった。遊民の悲しみを存在自体の悲しみにまで深め、通常感覚を越えた新しい感覚世界を拓いてみせたのが、この作家の大きな意義であったと言えよう。(6)
と述べるように、歩行でも舞踏でもない「彷徨」、ベンヤミン的に言えば遊歩する世界として『第七官界彷徨』は形成される。

「歩行」
◆主人公に「歩行」をさせるそれぞれの目的
◇主人公自身・・・幸田当八氏の面影を忘れるため
 夕方、私が屋根部屋を出てひとり歩いていたのは、まったく幸田当八氏のおもかげを忘れるためであった。空には雲、野には夕方の風が吹いていた。けれど、私が風とともに歩いていても、野を吹く風は私の心から幸田氏のおもかげをもって行く様子はなくて、却って当八氏の面影を私の心に吹き送るようなものであった。それで、よほど歩いてきたころ私は風の中に立ちどまり、いっそまた屋根部屋に戻ってしまおうと思った。こんな目的に副わない歩行をつづけているくらいなら、私はやはり屋根部屋に閉じこもって幸田氏のことを思っていたほうがまだいいであろう。(132頁)

◇祖母・・・〈お萩〉主人公に運動させ、「うつらうつらとした状態」ではなくするため。
 祖母の楽しい予想によれば、私はまず松木夫人の許でお萩の夕食をよばれて神経の栄養をとり、それから松木夫人は運動不足の私とともに十里の道をも散歩しなければならないであろう。重箱の中のお萩は略これだけの使命を帯びていた。(134頁)

 但し、主人公は、「ひとしお悲しい心理になって」「家に引返したのである。そのあいだ、私はついに重箱のことを忘れどおしであった」(134頁)
 「私のお萩はあまり松木家の夕食に役立たなかった」(143頁)、「私は祖母の希望どおりたくさんの道のりを歩いた。けれどついに幸田当八氏を忘れることはできなかった」(145頁)とあるように、目的は達成されない。

◇松木氏、松木夫人…〈お萩、おたまじゃくし〉土田九作氏に薬をやめさせ、写実的な詩を書かせ、栄養をつけ、主人公を運動させるため。
(松木氏)「眼の前に実物を見て書いたら、土田九作でもすこしは気の利いた詩を書けるであろう。ところで(と松木氏は私に向って)お祖母さんのうちの孫娘は、非常な運動不足に陥っているようだね。だから(と氏は夫人に言った)おたまじゃくしを届けがてら孫娘を火葬場あたりまで伴れていったらいいだろう。丁度いい運動だ」(144頁)
 但し、松木夫人はズボンの修繕が済まなかったので、おたまじゃくしは主人公ひとりで届ける。しかも九作氏は実物のおたまじゃくしを見て詩が書けなくなった。

 土田九作氏がもし勉強疲れしているようだったらお萩をどっさり喰べさしてくれと夫人はいって(145頁)
主人公はお萩を届けるが、九作氏はお萩を食べ過ぎて「頭脳がじっと重く」なる(146頁)。

◇土田九作氏・・・〈薬〉詩を書くため
 それにしても、この一夜は、私にとってなんと歩く用事の多い一夜であろう。そして土田九作氏は、なんと彼の住居にじっとしていたい詩人であろう。氏はいつもあの二階に籠っていて、胃酸で食後の運動をしたり、脳病のくすりで頭の明晰を測ったりして、そして松木氏や松木婦人の歎きにあたいする諸々の詩を作っているに違いない。――私は途々こんなことを考えて、つに暫くのあいだ幸田当八氏のことを忘れていた。(146頁)

 別の目的で歩行していたときに、主人公は幸田当八氏のことを忘れる。当初の目的を達成したかに思われたが、「あまり活発ではない運動」をしているおたまじゃくしを見て、「おたまじゃくしにも何か悲しいことがあるのであろうか」と思い、「ふたたび幸田当八氏のことを思いだし、自然と溜息を吐いてしまった」(147頁)。

◆詩と円環構造
 主人公が溜息を吐くと、九作氏も溜息を吐き、悲しい時は小さな動物を眺めるものではない、上を向いて歌を歌うと良い、という。
 
 けれど私はついに歌を歌うことが出来なかった。そしてついに土田九作氏は、帳面の紙を一枚破りとり、次の詩を私に教えてくれたのである。しかしこの詩は九作氏の自作ではなくて、氏が何時か何処かから聞いたのだと言っていた。帳面の紙には――

      おもかげをわすれかねつゝ
      こゝろかなしきときは
      ひとりあゆみて
      おもひを野に捨てよ

      おもかげをわすれかねつゝ
      こゝろくるしきときは
      風とゝもにあゆみて
      おもかげを風にあたへよ(148頁)


 同じ詩は冒頭にも掲げられており、したがって「「第七官界彷徨」の構図その他」を参考にするならば、円環構造をなすと言えよう。九作氏が主人公の悲しみを忘れさせようとすると、悲しみは癒えないように、目的は達成されない。九作氏は最後に詩を書くものの、自作ではないように、「詩を書く」という目的もまた、達成されない。

【参考】近藤裕子「尾崎翠「歩行」の身体性――風とお萩とおたまじゃくし」(7)
 歩行の目的はいつでも外部から与えられ、「私」自らが設定することはない。加えて、相した受動的目的は、行く先々で叶えられないまま違う目的にすり替えられ、そうしては新しい別の目的地でもまた潰えてゆく。目的を達成しないままの帰宅(出発地への帰還)は、「私」が振り出しに戻ったことを意味しよう。
 行路は丸く輪を描いて、「私」を再び屋根部屋の嘆息へと封じ込めるのだ。
   (中略)
 (中略)、すなわち当初の目的とは異なるものの、小歩行が小目的に到達する時でもある。
   (中略)
 歌は、それを形作る音符(おたまじゃくし)のイメージが、瓶からとびだしたおたまじゃくしを暗示するものの、「私」を円環の外に解き放つことなく、瓶のような屋根部屋へと連れ帰るのである。


(つづく)

*本文引用は、『夏目漱石全集5』(ちくま文庫、1988年)、中野翠編『尾崎翠集成(上)』(ちくま文庫、2002年)による。

注記
1、「詩人の手帖」佐藤正彰訳(落合太郎、鈴木信太郎、渡辺一夫、佐藤正彰監修『ヴァレリー全集6 詩について』筑摩書房、1967年)。
2、同右「詩話」
3、今村仁司他訳『パサージュ論3 都市の遊歩者』岩波書店、1994年。
4、水沢不二夫「『それから』のイメージ(1)――百合と鈴蘭――」(『言語と文芸』1992年4月)では、小阪晋氏の指摘するロセッティの「The Blessed Damezel」という詩のために鉢の水を飲んだ、と述べているが、私は三千代の行動が何かの真似事ではないと見たい。「たいてい法螺」(417頁)である父の漢詩が否定され、西洋の小説をそのまま真似しようとした場合には否定される(523頁)。
5、「詩篇はわれわれの運動機能の一段と豊富な領域に展開され、それはわれわれに完全な行動に一段と近い参加を要求するに反し、短編長編の小説はむしろわれわれを、夢とわれわれの被錯覚能力との主体に変ずるのであります」ともある。注2参照。
6、「感覚の対位法――尾崎翠『第七官界彷徨』」(岩淵宏子他編『フェミニズム批評への招待――近代女性文学を読む』学芸書林、1995年)。
7、『国文学』2003年4月。


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