「母親ラウリーと息子」映画広告
ローレンス・スティーヴン・ラウリーは、今日ではイギリス人の多くが名前を知っているか、どこかで作品を観ている著名な画家になっている。ほとんど国民的画家と言っても良い。世界最初の産業革命発祥の地、イギリス北部ランカシャー(ストレッドフォード)に生まれ育ち、1976年、88歳で没するまで、ほぼ終生その地で過ごした。ナイトの称号拒絶を含め世俗の栄誉には目もくれず、多くの苦難にも屈することなく、生涯、カンヴァスに対した。
N.B .
L.S. Lowry 1887-1976
1887 11月1日、ローレンス・ステファン・ラウリーは、ストレットフォード(マンチェスター)に生まれる。父親ロバート・ラウリー、母エリザベス。父は中流の不動産業。
ヴィクトリア女王即位60周年記念式典が行われた年であった。。
1888 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。ラウリーはこの光景も描いている。
彼が描いた対象の多くは、産業革命後大きく変容した《工業風景》と呼ばれるランカシャー地域の実態であり、そこに暮らす人々の日常であった。普通の画家は目もくれない対象であった。ラウリーは生涯独身、友人はあったが孤独に耐え、地元に溶け込んだ日々を過ごした。
乱立する工場の煙突から吐き出される煙が常に空を覆い、灰褐色のスモッグが辺りを支配していた。画家はその中に創作意欲を掻き立てる対象を見出すと、こまめにスケッチしていた。時には休暇先で目にとまった風景などを、鉛筆、木炭などで、手近なナプキン、封筒の裏などにスケッチし、近くにいた若い人々などに贈っていた。これらのあるものは今では数千ポンドの価値があるとさえいわれている。
ラウリーの作品はその独特な表現もあって、ロンドンのお高い画壇ではなかなか評価されなかった。なかでも画家独創の多数の人間描写は、「マッチ棒人間」matchstick man として時に揶揄され、印象派の技法に沿っていないなど、正当な評価を受けないこともあった。しかし、ラウリーはフランス人画家から印象派の技法を正しく学んでいた*。
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1905 マンチェスター市立美術学校入学 Manchester Municipal College of Art の夜間コース(1905-1915)で学ぶ。アドルフ・ヴァレット Adolphe Valette フランス人の教師がtutorであったが、モネ、ピサロなど印象派の最新知識を伝授した。ラウリーなど生徒に大きな影響を与えた。
1909 ペントルベリーへ移住。その後1915 年まで、Salford School of Art(based in the Royal Technical College on the edges of Peel Park、1915-25)に通った。そこで出会ったtutorの一人、バーナード・テイラーBernard Taylorというマンチェスター・ガーディアンの美術批評家が、ラウリーの作品は暗すぎると助言した。これに応えて、ラウリーはその後真っ白な背景に描くという形で、その後の作品を制作した。
ラウリーの作品は画家の晩年近くまで、なかなか評価されなかったが、その後は急速に人気が上昇し、多くの愛好者が生まれた。しかし、こうした変化にもラウリーは、ほとんど無頓着であった。
晩年から今日までBBCを始めとして、画家の生涯、創作活動を題材とした動画、映画が数多く制作されてきた。今回は1957年にBBCが製作した画家の生い立ち、創作活動に関する動画を紹介してみたい。今日のようなカラー化が出来なかった時代の作品だが、それだけに当時の工場街の雰囲気がうかがわれる。
Reference
制作:BBC
続く