Regan Street, Lytham, 1922
City of Salford Art Gallery
ラウリーの数少ない伝統的風景画。子供時代のピクニックの場所。
この画家の風景画に珍しく、赤の色彩が明るさを加えている。
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L.S.ラウリーという画家の作品は、日本ではほとんど知られていないが、その作品数は小品を含めると1000点を越える。画家が長らく住んだサルフォード市の美術館が多大な努力をして、この希有な地元画家の作品収集をしてきたことで、その主要な作品は今日では、ロンドンよりもイギリス北西部のサルフォードおよびマンチェスターで見ることができる。昨年のテート・ブリテンでの回顧展開催のために、テートもコレクションを増やさねばと思ったようだ。しかし、テートがいくらがんばっても、主要作品はマンチェスターなどから借り出さねばならないほどになっていた。こうした制約のためか、この回顧展、「マッチ棒のような人々」の作品が多すぎた。この画家の幅広い視野と手法、そしてその画家としての生き方を理解するには、少なくも300点以上を見る必要があると管理人は思っている。
テートがラウリーの生前にこの画家の作品に高い評価を与えず、昨年2013年の回顧展が、ロンドンの大きな公的美術館における最初の作品展であったことについては、テート・ブリテンの保守性などについて、厳しい批判も加えられた。この回顧展のいわばカタログに相当する出版物 T.J. Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE (London: Tate Publishing, 2013) の共著者が二人共にカリフォルニア大学バークレーの名誉教授であることも、テート・ブリテンの微妙な立場を暗示しているようだ。
夏の暑い日などに、この画家の画集などを繰るのは暑さを忘れるに好適だが、見ている間にさまざまなことを考えさせられる。伝記好きなイギリス人の画家であることもあって、画家本人の筆ではないが、すでに複数の伝記も刊行されている。これらの伝記もそれぞれ特色があり興味深い。ラウリーは、画家として知られるまでに多難な道をたどったが、その生き方をみると、これからの若い世代の人たちが先の見えにくい時代を過ごすについて、参考になることが多いと思う。ラウリーも現代社会の病ともいわれる鬱病に苦悩した時代もあった。
An early art school drawaing of an unknown model.
Head of a woman (undated)
画家が若いころ、美術学校に通っていた当時の習作と
みられる「女性の肖像」(制作年月不詳)
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若き日の修業
必ずしも画家に限ったことではないが、多くの職業において若い時にいかなる修業時代を過ごしたかということが、後々のその人の仕事の質や水準を定めることが多い。L.S.ラウリーについても、「マッチ棒のような人々」を描く、北西部の「日曜画家」というような評価が、ロンドンの美術エリートの間には、かなり長らくみられたようだ。スコットランド独立問題が大きな関心を呼んでいるが、ロンドンとマンチェスターあるいはスコットランドのような北部との間には、さまざまな温度差が存在してきた。
ラウリーはマンチェスター郊外の静かな住宅街で少年期、青年期を過ごした。しかし、1909年に一家の財政難のために、ペンドルベリーという織物工場や機械工場の多い工業都市に移り住んだ。
Portrait of the Artist's Mother (1912), oil on canvas, 46.1 x 35.9cm
「画家の母親の肖像画」
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すでに記したように、ラウリーの両親は息子が画家を志望することを好まず、しかたなく地元の不動産会社で、賃貸住宅の住人から家賃を集金して歩く仕事に就き、画業はその合間に行った。毎夕、デッサンの個人授業を受けていた。ラウリーが画家としての才能を持っていたことは、この当時と思われる時期に描かれたデッサンなどからもうかがわれる。
大学生涯学習課程で制作を続ける
さらに、その後マンチェスター美術学校で、フランス印象主義画家のピエール・アドルフ・ヴァレット Pierre Adolphe Valette に指導を受けた。ラウリーはこの画家をきわめて賛美しており、大きな影響を受けたようだ。さらに、1915年には今日のサルフォード大学の前身、Salford Royal Technical College に進学し、1925年まで絵画の研究を続けていた。会社勤めと親から「趣味ならばしかたがない」といわれた画業との二股の生活であった。いわば、絵画の生涯学習課程 a lifetime course に在学していた。
ラウリーの両親はすでに息子の制作した作品のいくつかを目にしていたはずだ。しかし、両親ともに、ラウリーが画家になることを肯定しなかった。とりわけ母親は息子に冷淡であったようだ。父親は引っ込み思案で、内向的であったが、母親ほど支配的ではなかったらしい。母親はピアニストとして成功することを志していたようだが、それが叶わず、息子にもかなり抑圧的だったという。1932年父親の死後、母親は神経症と鬱病になり、ラウリーにとって大きな負担となった。1939年に母親も死亡したが、その後ラウリー自身も鬱病になり、苦悩の時期を過ごした。この時期の作品は、画家の精神状態を映し出し、自画像も目が赤いなど、表現主義的で、かなり異様な雰囲気で描かれている。概して、両親の存命中はこの画家も大きな注目を浴びなかったようだ。画家自身、自分は「誰も欲しがらない絵を描いている」 'Pictures that nobody wanted'(Rhode, 99) と言っていたようだが、その後、この画家の評価はうなぎ上りだった。
日本列島はまだ暑い日が続きそうです。ご自愛ください。
続く