goo blog サービス終了のお知らせ 

時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(43)

2005年10月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールのパレット:コチニールの謎(1) 


  前回のバーミリオン以外にも、ラ・トゥールが使った赤色顔料はあっただろうか。今年夏のオックスフォード滞在中に、暇をみてはできるかぎりの文献を探索してみたが、画家の使った画材の成分まで言及している資料は少なく、確認はできなかった。しかし、ラ・トゥールと同時代の画家についての資料などから、ラ・トゥールの作品にも、コチニール Cochinealの名で知られる濃赤色の顔料が使われていることはほぼ間違いないと思われる。 

  ラ・トゥールの時代、16世紀後半から17世紀前半にヨーロッパの画家の間で使われていた赤色系顔料としては、バーミリオン、コチニール、西洋茜(アリザニン)、ブラジル蘇芳などが考えられる。この中でコチニールは、その鮮やかな色調、比較的褪色が少ないなどの理由で、繊維の染色、画材、化粧品(ルージュやアイシャドウなど)など広範な用途に使われていた。

人気があったコチニール 
  中世に多く使われたブラジル蘇芳などと比較して耐久性もあり鮮明な色のコチニールは、19世紀に人工合成によるアリザニンレーキやカドミウム・レッドなどが現れるまでは、ヨーロッパでは高価だが人気のある染料だった。 コチニールは時間による褪色が少ない、水溶性の数少ない顔料である。天然顔料の中で人工染料と比較して、最も明るく、熱に強く、酸化しがたい。実はイタリアのカンパリの色にもコチニールが使われている


謎に包まれていた製法
  ところが、このコチニールの原料については、かなり長い間謎に包まれていた。その謎が解明されるプロセスはかなり面白い。そこで、ラ・トゥールから離れて少し横道に入ってみよう。
  この美しい染料の正体はなかなか分からなかったが、16世紀の段階ではヨーロッパでこの染料にかかわった人々の多くは、原料は果実か木の実の一種と考えていたようだ。

秘密を探る旅へ
  18世紀になって、ロレーヌに生まれ、後にパリに移住したフランス人植物学者thierry De Menonvilleはその製法の秘密に興味と野望を抱く。目的達成のため、スペイン船でキューバのハヴァナに赴く。そしてひそかにメキシコへ渡る。彼は実際にはスペインに独占されていたコチニール貿易に入り込みたいフランス王朝の支援を受け、コチニールの生産の秘密を探る密偵でもあった。彼はこの染料の原料がある虫であることは知っていたようだ。
  このころ、コチニールは顔料、染料、化粧品ばかりでなく薬品としても現地では使われていた。スペインでも頭痛、心臓、胃腸などの薬として処方されていた。スペインのフィリップII世も病気のときに、コチニールを酢に溶かしたものを服用したらしい(Finlay 2002)。その正体を知ったら、どんなことになったやら。   
  
  当時のメキシコでのコチニールの主産地は、Guaxaca(現在の Oaxaca)であった。余談だが、このOaxacaという地名は、大変発音が難しい。筆者の専門領域の研究者に同じ名前の人がいて、困ったことがある。実際にはワハルーカ(Wa-har-ka)と発音するらしい。 

フランスの密偵だった植物学者  
  さて、当のフランス人植物学者メノンヴィーユは、メキシコで現地のスペイン側から旅の目的を怪しまれ、直ちに帰国を命じられるが、ヴェラクルスVera Cruzで帰国の船を待つ3週間に、密かにワハルーカに進入する。そして、カイガラムシの生息するサボテンの持ち出しに成功する(しかし、その現物を積載した船は、フランスへ着く前に沈没してしまった)。

  彼は、1780年におそらく30歳前に世を去ったが、Guaxacaへのスリリングな旅の記録*を残した。フランス王は生前彼に王室植物師Royal Botanistの称号を授けたが、メノンヴィーユはこの不思議な虫からいかなる工程を経て、コチニールが生まれるかという秘密には十分にたどり着けず、染料貿易による富豪の夢もかなわず、失意のうちに世を去ったようだ。コチニールの謎を追う旅はさらに続く。


 

References

*Quoted in Finlay, Thierry de Menonville. Traité de la Culture du Nopal...précédé d'un Voyage à Guaxaca, 1787

Finlay. Colour, London: Sceptre,2002.

Image 
http://wpni01.auroraquanta.com/pv/caledonia/cochineal?img=800

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(42)

2005年10月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールのパレット:ヴァーミリオン 

  ラ・トゥールの作品は、光と闇で特徴づけられている。それとともに、これまであまり指摘されていないが、色彩の点で褐色系(土製顔料)および赤(朱)色が多用されていることも別の特徴である。青色系がほとんど使われていないことは、フェルメールなどと比較して際立って対象的である。ちなみにフェルメールは赤もかなり使っている。

「赤の画家」
  多用されている褐色系顔料だけだと、「砂漠の聖ヨハネ」のように画面はどうしても暗くなるが、ラ・トゥールは蝋燭や不思議な内的光、そして赤色系の使用でその点を補っている。濃淡さまざまなヴァーミリオン(朱色)、赤色系が使われている。「聖ヒエロニムス」「聖アンデレ」などの使徒像、「妻に嘲笑されるヨブ」「女占い師」「いかさま師」、「生誕」など、赤色が画面を決定づけている作品はきわめて多い。「いかさま師」などを改めて見ると、実にさまざまな赤色が画面を彩っている。フェルメールを「青の画家」とすれば、ラ・トゥールは明らかに「赤の画家」といってもよいほどである。
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/3794fadd1c15942bfad8069032e59855

  ラ・トゥールの使用している赤色系の顔料は、ヴァーミリオンの他にも、西洋茜Madder、コチニールCochinealなどが考えられる。どの作品にいかなる色の顔料が使われているかについての資料は少ないので、多分に推測が含まれるが、ヴァーミリオンだけではなさそうである。

ヴァーミリオンの由来
  ヴァーミリオンという名称は、古代ローマにおいて赤色染料の製造に使われたケルメスという虫の赤色を意味するvermesに由来するといわれる。英語のクリムソンの語源らしい。ヴァーミリオンは辰砂cinnabarと密接に関連している。シナバーは天然の硫化水銀だが、天然も人工も実際上はほとんど同じである。
  ヴァーミリオンは、画家が使用する絵具の中では不透明な色のひとつとされてきた。この色のヴァリエーションのひとつである朱色は、古代中国で大変重用された。エジプト、メソポタミアの絵画には出てこないが、ローマでは知られていた。大変高価なため、為政者が価格を定めたといわれる。
  ヨーロッパでは12世紀前から知られていたにもかかわらず、美術で著名になったのは20世紀になってからである。しかし、中世においても大事な絵具のひとつであった。12世紀ではあまり知られていなかったが、15世紀には広く知られるようになった。ルネッサンス画家はこの色を最も安定した純粋な色と考えてきた。
  現代画家はほとんどヴァーミリオンを使用せず、代わってカドミウム赤などがより多く使われている。しかし、西欧美術ではそれでもよく知られた色である。 ヴァーミリオンの色調は、輝くような赤からより紫色まで幅広く分布している。

顔料の製法
  硫化硫黄、シナバーはよく知られているが、世界に豊富にあるわけではない。鉱床はスペイン、イタリア、アジア、アルタイ、トルキスタン、中国、ロシアなど。また、ドイツ、ペルー、メキシコ、カリフォルニア、テキサスなどにもある。スペインのアルマデン鉱床は歴史的に有名で今日でも重要な生産源である。
  シナバーには乾式、湿式のふたつの製法があるが、古い方は乾式法である。古いラテンの資料では最古のものは中国で8世紀に開発されたといわれる。他の資料では8世紀か9世紀にアラブの錬金術者によって生み出されたという説もある。 17世紀オランダの資料では、鉄なべで水銀と溶解した硫黄とを混ぜ合わせる。その後、土器に移して、昇華するまで加熱をする。この時までに容器は壊れ、赤い硫化水銀は器の内側に付着するといわれる。 その後、分離硫黄を取り除くためアルカリ溶解される。
  アジアで生まれた乾式製法はヨーロッパへ移り、17世紀初期までには、アムステルダムがヨーロッパの製造の中心であった。 もうひとつの湿式法は硫化硫黄の混合物をアンモニウムの苛性ソーダとともに加熱する。この方法は17世紀後期にドイツで発明され、製法の容易さと経済性で乾式法を急速に代替した。色調の明るいドイツ・ヴァーミリオンとして知られる。色は黄色味を帯びている。乾式法の色は一般に暗く、クールである。今日ではほとんど湿式製法が席巻しているが、中国では一部乾式法も使われている。
  
耐光性が弱い
  ヴァーミリオンの化学式である硫化水銀は安定しており、弱い酸やアルカリには解けない。色は鮮やかに輝いているが、ひとつのマイナス点は時とともに光を受けて暗くなる傾向があるとされる。 また、他の顔料と混ぜ合わせると変色することもある。たとえば鉛白(シルバーホワイト)と硫黄系の顔料(ヴァーミリオン)の組み合わせは変色を生むため、混色はできない。
  時間の経過とともに変色することを防ぐ古典的方法として使われてきたのは、耐光性が劣るヴァーミリオンの上にクレムソンレーキなどでグレースする方法である。こうした技法で、深みのある赤が得られるとともに、色の持ちもよくなる。
  改めて、「いかさま師」を見てみると、かもにされている貴族の若者のきらびやかな衣装、帽子の羽根、あやしい目つきの女たちの衣装や帽子をさまざまな赤が彩っている。ヴァーミリオンは他の赤色系の色、オレンジ色などとあわせて、絢爛豪華な雰囲気を醸し出すのに決定的な役割を果たしている。

Reference

http://www.sewanee.edu/chem/Chem&Art/Detail_Pages/Pigments/vermillion

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(41)

2005年10月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
世俗の世界の画家

二重政治の渦中に生きる
  前回のブログでも記したように、画家としての名声・地位を確立した段階で、ラ・トゥールが制作活動を続けて行くための最重要な問題は、激動するロレーヌの政治環境において、自らのあり方をいかに律して行くかという点にあったと思われる。農民のように、どれほど苛酷な為政者であっても黙って従う以外選択の道がなかった社会階級と比較して、貴族階級の世界に踏み込んだ画家にとっては、もはや政治の次元に無縁ではいられなかった。  

  世俗の世界で生きてゆく上で、画家が生活の場を置いたロレーヌは、フランスとロレーヌ公国との二重政策の中にあった。いずれの側につくかということが、住民の多くにとって、時に生死を分かつほどの重要性を持っていた。

いずれの側に
  この時期にラ・トゥールは画家としてロレーヌ(そしておそらくパリでも)著名な人物になっていたとはいえ、世俗の世界は厳しさを増すばかりであった。戦火や悪疫はいつ襲ってくるかもしれず、人々は常に不安を抱えて生活していた。処世の点でも、いずれの側につくかということが、大きな利害の差異を生んだ。画家がリュネヴィル移住時から要請してきた租税の免除なども、そうした立場と強く関連していた。ラ・トゥールを含めて、ロレーヌに住む人が現実的であり、利己的に感じられるのは、彼らの郷土ロレーヌが経験した過酷な時代背景と不可分な関係にある。  

  私生活において、ラ・トゥールはしばらくこうした現実に冷淡なこともあったようだ。おそらく彼は生来、シニカルで利己的な人間であったわけではないだろう。ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌは、戦火が襲うまでは美しい自然に恵まれた豊かな地域として知られていた。しかし、その後の激変はいかなる理想家をも現実的な人間に変化させたに違いない。  

  ラ・トゥールは、政治の世界の盛衰に画家としての自分の生活が翻弄されることを生来嫌っていたように思われる。とはいっても、作品が世の中に認められないかぎり、徒弟を受け入れ、工房を維持して行くこともできなかった。彼の絵を求めることができる層も限られていた。

利己的にみえる画家の対応 
  画家は、そのために、世俗の世界で利用できることは最大限活用したようだ。当時のロレーヌで画家として成功するには、貴族社会や宮廷などの世界でいかに認められ、その支援を得られるかにかかっていた。同時代の画家たちは、それぞれに貴族社会とさまざまなつながりを得ようとしていた。  

  こうした中で、ラ・トゥールは自分の制作活動に利があるかぎりで、貴族や宮廷のの世界と関わり、宮廷生活には深入りしないようにバランスを慎重にはかっていたようだ。フランス国王に忠誠を誓う一方で、ロレーヌ公爵であったシャルルIV世にも、公然と離反の態度をとることなく、つかず離れずの関係を維持していた。   

  ラ・トゥールは自ら貴族社会に入ることを望み、それを実現しながらも政治的には深入りしなかった。彼はロレーヌ人であったが、メッツ司教領とも関連していた。一時、そこには強いフランスの影響が及んでいた。どちら側につくか、旗幟鮮明にすることは、危険な選択と考えていたのだろう。現代の人間にはこうしたラ・トゥールあるいはほぼ同時代のプッサンの対応は利己的と見える。しかし、これは、激動する社会を生きる画家の処世の知恵であったのだろう。  

  仔細は不明だが、シャルルIV世は、ラ・トゥールのパトロンにはならなかったようだ。しかし、ドム・カルメはラ・トゥールはシャルルIV世に一枚の聖セバスティアヌスを贈呈したと記している。ナンシーの近くの城(おそらくHoudemont )の壁に掲げられていたと記している。画家として、フランス国王、ロレーヌ公の双方に配慮をしていることがうかがわれる。

したたかに生きる 
  こうして、フランス国王付き画家としての権利を主張しながらも、ロレーヌ公から与えられた特権を維持するためにも可能な限りを尽くすラ・トゥールは、法的手段にも精通していた。動乱の時代に身を守るためにも必要だったのだろう。1642-43年、リュネヴィルに落ち着いた後にも、自分の保有する家畜に対して請求された税金の支払いを断固として拒否し、執達吏と争ったりもしている。  

  ラ・トゥールの宗教や信条についてはほとんど知り得ない。しかし、作品の内容から推測するかぎりでも、彼がいずれかの派の熱烈な信者であったとは思えない。ただ、カプチン派のように、フランスの存在は、ロレーヌのカソリックにとって内心、脅威と思っていたのではないだろうか。  

  政治的には不安含みながらも、ラ・トゥールの画家としての人生は円熟期を迎える。


Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年


Jacques Thuillier, Georges de
La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(40)

2005年09月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

つかの間の平穏
  戦火と悪疫に苛まれたロレーヌにつかの間の平穏が戻ってきたのは、1630年代末になってからのことであった。それより少し前、1636年にラ・トゥールによって書かれた、唯一、現存する優雅な筆跡の手紙が残されている。ロレーヌを取り囲む状況は依然として過酷なものであったが、そうした生活の中で、人々はさまざまに生きる道を求めて苦難な日々を過ごしていた。
  前回記したように、この1636年2月26日には、甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、住み込みの徒弟として受け入れている。リュネヴィルで画家としての職業生活を継続できる基盤がなんとか確保できる見通しがついたのだろう。しかし、不幸なことにリュネヴィルでのペスト流行によって、5月26日にこのナルトワイヤンは命を失っている。 わずか3ヶ月後のことである。ラ・トゥールは世の無常を痛感したに違いない。

名士となった画家
   この年はラ・トゥールの家族にとっても悲喜こもごも、多難な時であった。3月23日にはラ・トゥールに末子マリーが誕生し、洗礼を受けている。この時の洗礼代父はフランス国王の代理人である、リュネヴィルの総督サンバド・ヴィダモンであった。ラ・トゥールはフランス王に忠誠を誓っているが、彼の隣人の中には公然とロレーヌ公の側に組していた者もいた。政治にかかわるロレーヌ人の精神世界は複雑であった(この点は、別に記すことにする。)
  他方、8月にはヴィック=シュル=セイユで、ラ・トゥールの弟フランソワ・ド・ラ・トゥールが死亡している(画家の兄弟姉妹7人の中で唯一死亡の記録が残っている)。

  1638年には、フランス軍がリュネヴィルで大規模な戦闘、略奪を行った。この時、ラトゥール夫妻はおそらく生き残っていた子供をつれてナンシーに一時的に避難していたと思われる。
  
  このような身辺の大激動の中でも、ラ・トゥールがリュネヴィルの名士として確固たる地位を占めていたことは、いくつかの記録の集積からうかがえる。そのひとつは、ラ・トゥール夫妻が依頼された洗礼代父母の数がきわめて多いことである。 代父母を依頼した人々は、土地の名士となったラ・トゥールの名声にあやかろうとしたのだろう。
  ラ・トゥールは、1624、1625、1626、1627、1628、1630、1636年、1639年にはリュネヴィルで、さらに1639年にはナンシーで3回も代父をつとめている。
  とりわけ、1939年の記録で特に注目されているのは、12月22日の洗礼記録にラトゥールが「国王付き画家」という肩書きが付されていることである。これは、ルイ13世の勅許がないと名乗れない称号であり、ラ・トゥールが国王に忠誠を誓い、この肩書きを授与されていたと思われる。

パリにも行ったラ・トゥール
  戦火を避けて1630年代末にラ・トゥールがナンシーにいたことは確認できるが、同じ時期に短期ながらもパリにも行っていたと思われる証拠も発見されている。 それは次のような事実である。1639年5月17日付けで、国王によるラトゥール宛の支払いの命令書が残っている。これは、ラトゥールに対して、国王陛下の仕事にかかわるために、画家がナンシーからパリへの旅行について、1000リーヴルの支払いを命じた内容である。この額には、6週間の滞在と復路の費用も含まれている。
  この当時としては莫大な金額には、今は失われてしまった作品(「ランタンのある聖セバスティアヌス」)の支払い分も含まれているのかは分からない。美術史家の探索の的となったこの作品は、「完璧な趣味のよさであったために、主は居室の壁からほかの絵をすべて外させ、その絵のみを残した」といわれている(18世紀中頃ドン・カルメによる美術史家の間でよく知られることになった有名な記述)。

ルーヴル宮にもアトリエを持っていた画家
   さらに興味ある記録として、1640年8月25日付けの徒弟契約書の中に「パティス・ド・カラン、ルーヴル宮のギャルリーに居住する国王付き画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の代理人」なる人物の記載が残っている。当時、画家は47歳になっていた。彼はパリで自分が信頼できる人物(カランはナンシーで1632-33年に公営質屋の使用人として働いていた)を雇っていただけでなく、自身がルーヴル宮の部屋を使用するという特権を得ていたことを示している。 
  1641年には、財務卿クロード・ビュリオンの死後、1641年1月19日からパリのプラトリエール通りにあった彼の邸宅で財産目録の作成が行われたが、その中に1638-39年頃に制作されたとみられる絵画についての次の記述がある:「ペテロの否認を表した夜の情景の絵、ラ・トゥールによって描かれた。木枠と艶出しされた金の額縁つき。およそ横4ピ、縦3ピエ(100x142cm)」。ラ・トゥールのパリでの活動を裏付けるとともに、彼の作品を求める人々が増えてきたことを類推させる。

「自らの作品」についての自信 
  1641年2月24日、ラ・トゥールはクレティアン・ド・ノジャン(彼は1626年にラ・トゥールの娘クリスティーヌの洗礼代父をつとめた)の未亡人に対して、訴訟を起こしている。その内容は、1637-38年頃、ラ・トゥールはノジャンに「自分の制作である聖マグダラのマリアの絵」をおよそ300フランで売却したが、1638年のノジャンの死までに支払いが完済されていなかったことにかかわっている。 この事実は、興味深い内容を含んでいる。すなわち、当時の「マグダラのマリア」のイメージについての人気、ラ・トゥールの評判、そして作品の相場の高さである。
  同時に、重要なことはラ・トゥール自身が、工房制作やその制作品に基づく模作、贋作と比して、この作品を「自分の作品」だと認めている事実である。そして、ラ・トゥールは世俗の世界においても、自らの能力とその結果である作品について、後世の研究者たちから強欲、執拗と思われるほどに自己主張し、その対価を要求、確保することを怠らなかった。
  こうした行動を画家個人の生来の性格とする研究家もいる。しかし、これまでのラ・トゥールの人生を形作ってきた厳しい風土を考えるならば、多分にロレーヌという地域が経験した激動が影響していると見るべきであろう。強靭な身体と精神がなければ、20歳まで生きることすらできなかった時代であった。 

Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(39)

2005年09月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ロレーヌ苦難の時代とラトゥール

Jacques Callot (1592-1635), Autoportrait, dit « Le petit portrait », gravure, Nancy, Musée des Beaux-Arts, L.184. ジャック・カロ自画像 


想像を絶するロレーヌの戦火と惨状
  1631-34年に、フランスと神聖ローマ帝国との戦いが始まり、戦火はロレーヌにも波及してきた。1632年には、フランス王ルイ13世がヴィック・シュル・セイユを通過することがあり、ロレーヌ公シャルル4世にヴェルダン条約を課した。そして、フランス王への忠誠を求めた。ロレーヌ公、貴族などは、忠誠誓約書に署名を求められた。画家ラ・トゥールも署名に加わっている。

  戦火が絶えなくなったロレーヌの町々では、住民の数より駐留する兵隊の数の方がが多いという状況も珍しくなかった。こうした兵隊には、欲求不満の捌け口の意味もあって絶えず略奪する城や町が与えられた。

すさまじい略奪
  ひとつの例としてテュイリエが挙げているレモンヴィリエRemonvillierの場合は典型的ともいえる。当時、この町にはおよそ500から600人の農民が住んでいた。ワイマール公Duke of Weimarは、この町を略奪の対象として自らの軍隊に与えた。兵隊たちは、暴虐のかぎりを尽くし、男と年かさの女を全部殺し、若い女を暴行の対象とした。そして、最後にはまだ城内に子供がいるこの町に火をつけてしまった。
  また、ロレーヌの商業的中心のひとつであったサン・ニコラ・デュポール Saint-Nicholas-du-Portについてみると、1635年11月4日、ハンガリーとポーランド軍が略奪を行った。翌日はフランス軍が襲い、ワイマール軍がその後をまた襲撃するという惨憺たる有様だった。略奪の果てに、なにも奪うものがないことを知ったワイマール軍は、この町を有名にしていたバシリカ教会を11月11日に破壊、焼き尽くしてしまった。

略奪に脅える住民
  ロレーヌの住民は外国の軍隊の侵略に絶えずおびえていた。そればかりではない。戦費を調達するために、支配者たちは過酷な租税を課した。教会といえども略奪の対象から免れなかった。特にプロテスタントのスエーデン軍には、ロレーヌの住民はただ恐怖するばかりだった。略奪のかぎりを尽くした軍は、退去するに際してしばしば町に火をつけた。住民は殺されるか、行方のない放浪の巷に放り出された。

戦場と化したリュネヴィル
  ロレーヌにおける戦火は次第に激しさを見せ、1638年9月10日には、フランス軍がリュネヴィルで略奪を行った。ラトゥールとその家族は、総督サンバド・ヴィダモンから警告を受けて、町から離れていたものと思われる。しかし、彼の工房や教会、修道院などに残されていた作品は、ほとんど破壊されたことは想像に難くない。 画家の力量からすれば、数百点はあったかもしれない作品が、今日ではわずかに40点程度しか真作と確認されていないのは、ロレーヌの惨禍がもたらした結果であることはほぼ間違いない。

ナンシーの陥落
  とりわけ、ロレーヌの中心であるナンシーがフランス軍によって陥落したことは、当時のヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。堅い防備で知られたナンシーが簡単に攻略されるとは考えられなかった。歴史的経緯からも、フランスはロレーヌを敵国とは考えていなかったが、ロレーヌ公の行動、周辺国の軍隊などとの関係から、強い対応に出ることもあった。そして、ことあるごとにフランス王への忠誠を求めた。
  後年、画家カロは、ナンシー陥落の記録とルイXIII世の偉業を記すための作品の制作を求められたが、郷土における殺戮の実態を自らの手で描くことを堅く拒んだ(カロは、ロレーヌの他の地域については、惨状を描いた銅版画を多数残している*)。

疫病の流行
  ロレーヌの悲劇は、戦火ばかりでなかった。軍隊の進入とともに悪疫がもたらされた。1630年、メッツ、モイェンベック、ヴィックなどは「ハンガリー病」と呼ばれる疫病(おそらくチフスの一種)に襲われた。当時の不衛生な状況が生みだしたと考えらえる。
  ラトゥールの住んでいたリュネヴィルは、当初、悪疫からは免れていたが、ロレーヌ公と家族は1630年に城下から逃れて他に居住の場を移していた。1631年の夏はとりわけ悪疫の伝染がひどく、6月から10月末まで流行した。そのため、リュネヴィルの町は外部から完全に遮断された。1636年4月にも悪疫が再度流行した。感染した住民のうち、およそ160人は助かったが、80人近くが死亡したと伝えられている。
  4月頃からリュネヴィルにはペストが流行し、5月26日には受け入れたばかりの徒弟ナルドワイヤンの命が奪われている。 荒廃したロレーヌこうした時期には飢饉ともいうべき深刻な食糧不足も発生した。働く農民も減少した。自分や家族で食べるものを調達する以外に道はなかった。ロレーヌでは人肉まで食した記録が残っている。

リュネヴィルに平和は戻るか
  フランス軍の略奪によって、リュネヴィルの町は荒廃しきった。しかし、戦火が遠ざかると、どこからか住民は町に戻ってきた。避難していたところは不明だが、ラトゥール一家もどこからか戻ってきていた。1636年には甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、徒弟として受け入れている。戦乱の場にもやや平静な状態が戻ってきたのだろう。
  戦火が絶えなかったこの時期には、ロレーヌは経済的にも不振をきわめており、ラトゥールなどリュネヴィルの資産家たちは余っていた所有地の活用などを図って、対応していたらしい。
  悲惨なのはこうした手段を持たない住民たちであった。彼らは文字通り恐怖と悲嘆が覆う暗闇の中にかろうじて生きていた。貧窮と苦難のきわみを経験したロレーヌにつかの間の平穏が戻ってくるには、まだ時間が必要だった。

Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition

*Jacques Callot. The Misery and Suffering of War (known as Les Grandes Miseres de la Guerre), 1633, Etching, Cabinet des estanpes, Bibliotheque nationale, Paris.Thuillier 101
.

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(38)

2005年09月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

画家ラ・トゥールの世界:苦難の時代を迎えるロレーヌ(1)  

  リュネヴィルに移ってからのラトゥールの画家としての生活は、貴族の家柄を継承する妻の生家がある地ということもあって、きわめて充実したものであったといえる。画家の天賦の才は、時代の求めるものをしっかりと受け止め、人々の心を打つ作品へと結実していった。画家という職業生活の上でも1626年には3年間の約束で、シャルル・ロワネを徒弟として受け入れるまでになっている。しかし、その背後でロレーヌの平和で牧歌的、豊かな地というイメージを、根底から揺るがすような激動の予兆が忍びよっていた。

動乱・悪疫流行の時代へ
  1620年代後半頃から、リュネヴィルが位置するロレーヌ地域は、軍隊が平穏な町や村々を破壊・蹂躙し、悪疫が流行する困難な時期へと入っていった。ラトゥールの重要な研究家の一人であるテュイリエは、現代の中東レバノンやユーゴスラヴィアなどの状況に比すべき惨憺たる事態であったとしている (p98)。
  事実、戦火の燃え盛る戦場と化したロレーヌの凄惨な光景を迫真力をもって描いたカロの銅版画***などから、その有様をうかがうことができる。ラトゥールの作品を理解するためには、この画家が生涯の多くを過ごしたロレーヌが経験した時代の実態を正しく知ることが、どうしても不可欠である。それなしに、ラトゥールの作品の持つ内面的深さ、それと(記録文書上は)対立するかにみえる画家の私生活における、時に強欲、粗暴ともいえる行動などを正しく評価することはできない。  
  ここでは、テュイリエ*やサルモン**の研究を参考にして、その輪郭を記してみたい。

ロレーヌの不幸の始まり 
  悪疫流行の問題は別として、ロレーヌが血で血を洗うような凄惨な戦場となるにいたった原因については、当時の為政者の性格と彼らが選択した方向、宗教的背景などが深くかかわっていた。 
  ロレーヌの不幸な時代は、この地域を長らく統治してきたアンリII世が1624年7月に死去したことから始まる。この時からロレーヌの未来は次第に不安に包まれる。 
  アンリII世には王子がなく、二人の王女ニコルとクロードが正統な公位の継承者として残された。しかし、激しい後継争いが起きた。
  とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル・ド・ヴォウドモンは、功名心が強い若者で、感情の振幅が大きいことに加えて、大変な策謀家でもあった。

宮廷政治の悲劇 
  アンリII世は優柔不断な人物であったようで、後継者の選択をためらっていたため、宮廷はいずれにつくかをめぐって分裂状況にあった。シャルルはしつようにアンリII世に迫り、王女ニコルとの結婚を認めさせた。
  シャルルIV世がロレーヌを統治することになると、宮廷世界には次々と悲劇が生まれる。アンリII世の没後、シャルル公が政治の前面へ出るようになり、ニコルとの結婚に反対したアンリII世の取り巻きを次々と迫害した。中には魔女との係わり合いを理由に、火刑に処せられたものもいた。 
  シャルルは政略結婚としての常だが、ニコルを愛していなかったので、女性を王位後継者とさせない法律を突如制定した。

シャルルの選択がもたらしたもの 
  1625年になると、シャルルIV世はニコル公妃の公位継承の正統性に挑戦し、それに反対する者を抹消するためもあって、新たな魔女裁判を策動し、アンリII世の司祭を死刑にしてしまう。 さらに、シャルルは政治面では神聖ローマ帝国側と結び、フランス側のルイXIII世に対抗する動きを強めた。
  フランス側につくか、ロレーヌ側につくかで、ロレーヌの宮廷人は厳しい選択を迫られた。彼らの選択結果で、運命を左右された市民の心情が不安に満ちていたことはいうまでもない。 
  さらに、シャルルIV世は1627年末からスペインのフェリペIV世から資金支援を受け、ルイXIII世の連合側であるスエーデンと対立関係に入る。かくして、フランスに対抗するロレーヌの政治的立場は明らかなものとなる。これはシャルルIV世の大きなギャンブルであった。 
  他方、フランス国王ルイXIII世は子供がなく、病弱であるといわれてきた。しかし、実際には1643年まで生き、二人の子供も生まれた。1630年から著名なリシリューを宰相として重用するようになる。

フランス国王の危機感
  シャルルIV世と神聖ローマ帝国との連帯は、フランス王ルイXIII世にとって、きわめて危険なものに思われた。そのため、ロレーヌ公領を自らの手中にする行動に移る。
  1630年春、フランス軍はヴィックとモイェンヴィクを占領する動きに出る。1632年1月3日には、占領したヴィックにルイXIII世自らが乗り込んできた。シャルルIV世は、フランス軍の大軍を前に抵抗をあきらめ、同年6月ヴィック協定という名の下での服従、フランスへの忠誠を迫られる。この協定でロレーヌの住民は、フランス王への忠誠を誓わされた。 
  しかし、この協定の3日前、ルイXIII世が予想していなかったことだが、王弟ガストン・ドレアンはシャルルIV世の妹であるマルグリットと結婚していた。結果として、ロレーヌ公はフランス王の義弟となるという政治的策略であった。これは、シャルルIV世にとっては、生き残るため最後の藁の一本ともいえる選択であった。ロレーヌの王女とフランス国王の家系を結ぶための政略結婚であり、ロレーヌ公をフランス王の義弟とする策略であった。しかし、結果として事態はさらに混迷の度を深めることになってしまう。

フランスの支配下へ 
  シャルルのとったこの政略結婚の道は、ロレーヌが最後にすがる藁の一本のようなものであった。しかし、事態は一段と混迷の度を深めていく。スエーデン軍がロレーヌを攻める恐れも生まれたが、実際にはフランス軍が進駐してきた。1633年8月、ルイ13世自らがナンシーへ入城した。(カロの「戦争の惨禍」はこの年に出版されている。)  
  シャルルはナンシーをあきらめ、ルイXIII世は王妃を伴い、ナンシーを占領する。34年11月にはリュネヴィルもフランス軍が占領し、すべてのリュネヴィル市民がルイVIII世に忠誠を近い、ラトゥールも市の名士とともに、忠誠宣誓書に署名している。

  シャルルIV世は政治的立場を失い、1634年1月に退位し、弟であるニコラ・フランソワーズにロレーヌ公の地位を譲った。しかし、亡命先のブザンソンなどでは依然としてロレーヌ公を名乗り、さまざまな策略を謀っていた。シャルルの側に立つロレーヌ人もかなりいた。

  シャルルIV世は表向きはフランスに忠誠を保つが、裏では反対するという二重のスタンスを保とうとした。宗教面ではロレーヌでは信者の多かったカプチン派は、プロテスタントの味方であるリシリューに反対の立場をとっていた。しばしば、反乱の動きもあったが、そのつど力で排除されていた。

複雑なロレーヌ人の心情 
  ロレーヌは大国の間に挟まれるという地理的位置もあって、複雑な感情を醸成してきた。ロレーヌの住人は、ロレーヌ公に忠誠を誓いながら、二つの悪でもどちらか程度が良い方を選ぶということで、フランスの支配を一般には受け入れていた。しかし、個々人の置かれた社会階級上の立場などもあって、内実は複雑きわまりないものであった。公爵領の中立性は、こうした悲しい選択の上に保たれていたといえる。
  ロレーヌの人々は、政治的選択ばかりでなく、日常の生活においても、いやおうなしに現実的な対応を迫られていた。ラトゥールに関する歴史的文書などから推察される画家の利己的な対応も、こうした環境に生きなければならない人間の行動としてみると、なるほどと思うことが多々ある。 
  当時のヨーロッパ政治の世界で大国の狭間に位置したロレーヌは、地政学上も決定的な紛争の舞台となるという窮地にしばしば追い込まれてきた。フランスにつかなければ、スエーデンや神聖ローマの軍隊の蹂躙するところになったのである。シャルルIV世の軍隊は、神聖ローマ帝国軍と連携していたが、スエーデン軍などは強欲・残忍で知られ、その下で苦悩する人々の反乱も多発した。 かくして、ながらく戦火を免れてきたロレーヌであったが、戦争の惨禍が次第に拡大してきた。 
  戦火を交えるたびに美しいロレーヌの市や町、村々は、略奪、殺戮を繰り返す残忍な軍隊の蹂躙する場となった。人々が大きな不安を抱き、外国の軍隊などについてのうわさなど、少しの変化にも恐れおののき、心のよりどころをを神や呪術などに求めるという風土が形成されていた。ロレーヌの真に苦難の時代はこの後であった。

References
*Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition)

**ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

***Jacques Callot, Attack of a Fort, Black chalk and bistre wash, British Museum, London.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラトゥールを追いかけて(37)

2005年08月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リュネヴィルで開花するラトゥールの才能  
  ラトゥールがリュネヴィルに移り住んでからのほぼ10年間、1620年代は、ロレーヌ地方にとって、おおむね繁栄を享受しえた時期であった。1624年7月末のアンリII世の死去と、その後のチャールズIV世の継承についての不安は住民の間にあったとは思われるが、その後の時期と比較すると明らかに平穏な時代であった。
  ラトゥールは、妻の故郷であるリュネヴィルで画家としての地位を確保し、その才能を十二分に発揮しえた。彼はリュネヴィルを本拠にロレーヌの画家としてたちまち頭角を現し、社会的にも名士として上流階級に迎えられていった。その過程で、彼の妻ディアンヌがどのくらい助けになったかは公的な資料しかなく、推定は難しい。それでも、ディアンヌは夫の名前と並び、しばしば記録に登場している。

多産多死の時代
  リュネヴィルという地方都市の規模と社交の範囲を考えれば、すでにディアンヌの父親は娘の結婚の翌年に世を去っていたが、ディアンヌは貴族の家系を継承して相応の社会的ステイタスを保っていたと思われる。

  ラトゥールとの結婚は、その当時の状況に照らして、概して幸福であったとみられる。1919-36年の間に5人の男児、5人の女児、合計10人の誕生が記録されている。15-17ヶ月の間隔で子供が生まれている。
  現代の人々は、ずいぶん多産と思うかもしれないが、幼児死亡率の高さなども考えると、当時のロレーヌでは良く見られた出産パターンであった。大体、40歳代で出産は終わる。1636年以降の出産があった可能性もないではないが、ディアンヌはそうであれば45歳になっていたはずで、リュネヴィルも波乱の時代に入っていた。1642年に生活が平静を取り戻した時には、ディアンヌは55歳になっていたはずである。当時の環境を考えると、この年齢で出産の可能性はきわめて少ない。
  夫妻の間に生まれた10人の子供のうちで、最初の5人の中でわずかに3人だけが両親とほぼ時代を生きている(6人目からの子供はすべて死亡)。わずかに画家となった息子エティエンヌの5歳下であったクリスティーヌだけが両親より後まで生きながらえている。死亡した者の記録は、ひとりを除き存在していない。おそらく1630年代の疫病期に死亡したとみられる。
  この実態を考えると、当時の人々がいかなる不安を抱き、救いの手がかりをなにに求めていたか、推測ができよう。

画家はどこに住んでいたか
  ラトゥール夫妻がリュネヴィルへ移住してきて、どこに住んだかも十分な記録がなく不明である。しかし、1620年8月31日に聖フランシス修道女会の修道女たちSisters of St Francisから224フランで購入した”meix”と呼ばれる土地つきの家に住んだとは考えられていない。

  この資産は1年前に義母のカトリーヌ・ラマンスが売却したものだった。ラトゥールはそれを買い戻したのだが、小さな土地で粗末な農夫の家があったにすぎない。羊小屋sheepfoldsといわれた土地で、価格からしてもラトゥール夫妻が一時的にも居住したとは思えない。おそらく、ラトゥール夫妻は当初ル・ネルフ家が所有していた家屋か、義母の家に移り住んだと思われる。
  しかし、1623年義母は息子のフランソワと住むことに決め、転地している。フランソワはその当時テノワTennois教区の司祭であった。ラトゥールは、義母の家を当時としては少なからぬ額である2500フランで購入している。そこには納屋とか、羊小屋とか牧草地もあった。そしてサンジャック教会への道に続いていた。この地の名士の家としてふさわしい場所であったと思われる(この光景は、7月4日の記事で紹介したデイヴィッド・ハドルの小説にも使われている。)。ラトゥールはそこへアトリエを建てて、その後の制作を行ったのだろう。
  リュネヴィルに落ち着いてからは年を経るごとに、ラトゥールの生活もかなり充実したと思われる。

徒弟の受け入れ
  画家としての職業も軌道に乗っていた。ラトゥールは1620年、最初の徒弟クロード・バカラを受け入れている。そして、彼に対して「誠実かつ熱心に・・・・・絵画の技を教示し、習得させるものとする。・・・・・・当該の技の徒弟修業を行うのに必要な絵具を彼に対して供給する」ことを約束している。   

  1626年には徒弟、シャルル・ロワネを受け入れている。この時は住居、まかない付きであった。工房や住居も拡大したのだろう。3年間の徒弟受け入れ費用は500フラン、当時のパリ並みの水準であった。

土地の名士としての活動
  ラトゥールはさまざまな機会に、妻ディアンヌ側の家族や親戚の支援を受けた。リュネヴィルではそうした機会が多数あったことが記録に残っている。逆にラトゥール自身も、洗礼の代父、名づけ親、さまざまな機会の保証人などとして登場している。妻側の親戚筋などのつながりも十二分に活用していたことが、記録文書から確認されている。
  ラトゥールは家の財政問題にも注意深く対処していた。1623年、義母の家屋・土地などを2500フランで購入するについて、資金手当てをしていたと思われる記録がある。彼は1618年の父親そして義父の死亡の時、そして1624年、母親の死亡の折もかなりの遺産相続をしているようだ。
  記録が十分でないだけに、研究者などの間でもさまざまな憶測、議論を生んできたが、リュネヴィルには家畜や相当の農地も所有していた。穀物倉には高い利益の得られるとうもろこしが搬入されていたようだ。しかし、これらの資産からの収入などについては、情報が少ない。はっきりしていることは、ラトゥールの収入のほとんどは、疑いもなく彼の制作した作品から生まれていたことである。
  しかし、残念ながら誰がラトゥールの作品の顧客であったかについてはほとんど不明である。  公式記録にあるのは公爵アンリII世がラトゥールの2枚の絵を購入し、1枚は123フラン(1623年7月12日付け)、もう1枚は画題の記録では、”image of St Peter” となっているが、150フランで1624年7月以前に支払ったことである。これらは当時の絵画作品の価格としては、きわめて高額であった。特に後者を現存する「聖ペテロの画像」とすると、とりわけそうである。この絵はロレーヌ公によってリュネヴィルのミニモ会修道院に捧げられている。ラトゥールに対する公爵の後ろ盾があったことか、画家の力量を誇示する価格なのかは不明である。

画家としてのジャンル選択  
  いずれにせよ、かなりはっきりしていることは、ラトゥールはこの時期に生涯で最も活発に制作活動をしていた。今後さらに検討すべき、やや不思議な点もある。
  この当時は一般に大きな祭壇画がもてはやされていた。しかし、こうした大作はラトゥールについては、いまだ見つかっていない。さらに、当時の環境からすると、ラトゥールは肖像画もかなり手がけたはずであった。肖像画は金を手に入れる手ごろな手段であり、土地の名士であるラトゥールには、その点での人脈もあり、依頼も多かったと思われる。彼の画才からすれば、肖像画家としても十分な力量もあったはずなのだが、肖像画を描いた形跡はない。 
  おそらく中流および高貴な階層の顧客が、家庭で鑑賞あるいは護符の意味も兼ねて保持していたいと思い、ラトゥールの作品を求めた事情などがあったのだろう。
  祭壇画や肖像画で、ナンシーの競争相手と同じ土俵で競うことを避けたのかもしれない。こうした制作態度は1630年以降、プッサンがローマで行っていたことであり、ラトゥールはリュネヴィルで同様な道を選択したものと推定される。
  いずれにしても、この時期においてラトゥールはかなりの資産家であり、裕福に暮らしていた。

References
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)
『Georges de La Tour.』東京国立西洋美術館「ジョルジュ・ド・ラトゥール展カタログ」2005年

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(36)

2005年08月20日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

盛時を偲ばせるリュネヴィルの宮殿(ただし、ラ・トゥールの時代より後に造営)



ヴィックからリュネヴィルへ

  ジョルジュとディアンヌの新夫妻は、おそらく当時の慣わしもあって、ヴィックのジョルジュの両親のところで、約3年一緒に暮らしたようだ。しかし、ジョルジュの父ジャンJean de La Tourとディアンヌの父親ジャンJean Le Nerfは、いずれも息子と娘の結婚で安心したのか、翌年の1618年に相次いで世を去った。

 他方、新夫妻の間には、1619年8月、最初の子供が生まれた。息子フィリップだが、その後まもなく死亡してしまう。夫妻の間には生涯に10人の子供が生まれているが、その最初の子供がフィリップだった。2番目が、後にしばしば登場するエティエンヌEtienneで1621年4月に誕生している。

 フィリップの名付け親は、ゴンベルヴォーの領主デミオン(Jean Philippe Demion), ディアンヌの叔母にあたるソールスロットの貴族ディアンヌ( Diane de Beaufort)だった。彼女は 1617年のラ・トゥールとディアンヌの結婚式に、引き出物として500フランを贈っている。この叔母はネールを大変可愛がっていたことが伝わってくる。これらの関係から、ラ・トゥールはヴィックばかりでなく、彼の妻の家族を通して、ロレーヌの貴族・上層階級のグループにつらなっていたことが推察できる。

リュネヴィル移住の背景
  さて、妻ディアンヌ・ネールにとって、夫を失い寡婦となった母親のいるリュネヴィルに住みたいと思うのは、母子双方の側からみて当然だったかもしれない。また、ジョルジュの芸術的願望との関係でも、おそらくその方が都合がよかったとみられる。それは、ヴィックの町では、ラ・トゥールが徒弟であった可能性も残るクロード・ドゴスClaude Dogozが、「絵画の市場」をほぼ独占していた。町の宗教的建造物の修復などでもドゴスは重きをなしていた。ヴィックにはラ・トゥールが工房を開設し、参入するだけの十分な仕事がなかったようだ。他方、ヴィックと比較すると、当時のリュネヴィルには著名な画家がいなかったため、ジョルジュには好都合だったとみられる。

  ラ・トゥールにとっては、妻の実家のあるリュネヴィルで実績をあげる方が、なにかと都合がよかったのだろう。リュネヴィルはロレーヌ公爵領の町でもあり、ロレーヌ公がしばしば滞在していた。ミューズ川沿いの城壁で囲まれた町であった。当時としては比較的安全な地と見られていた(この期待は後に裏切られる)。ヴィックからは南へ15マイルほど、ナンシーからは南東へ30マイルほどの距離だった。

ラ・トゥールの得た特権
  メッツの司教区のいわば飛び地領ヴィックの住人であったラ・トゥールは、リュネヴィルでの居住と仕事を始めるには、ロレーヌ公の許可を必要とした。そのことは、結婚とは別の取り決めごとであった。そのため、ラ・トゥールはリュネヴィルの市民になる申請と公爵アンリII世にかなりの特権(たとえば移動の自由、税金の免除など)を供与してほしい旨の請願をしている。加えて、リュネヴィルで名誉ある職業である画家として働くという申し出をしている。

 これらの請願内容は、今日の人々の目からみると、かなり厚かましいものにみえるし、美術史研究者の間での画家の人格をめぐる論点のひとつでもあった。しかし、17世紀初め、ロレーヌの厳しい時代環境を考えると、世俗の世界における生活手段と画家の活動とは距離を置いて見るべきなのかもしれない。


 ラ・トゥールは、この請願に含まれる特権供与と自由をほとんど認められた。リュネヴィル市民に課せられる租税の大部分を免除されるという特権である。ラ・トゥールの画家としての評判、妻の父親の貢献などが、アンリII世などの決定に影響したことは間違いない。こうした機会にラ・トゥールが公爵に絵画の寄贈をした可能性はきわめて大きい。

  他方、ロレーヌの文化の中心地であったナンシーでは、このころ宮廷画家の地位がクロード・デルエClaude Deruetに与えられていた。デルエはローマで名を遂げ、1619年秋にナンシーへ戻った。アンリ II世の覚えめでたく、彼は豪壮な邸宅を提供され、まもなく貴族に列せられた。このことは、1630-40年代にシモン・ヴーエ Simon Vouet がパリで享受したような特権であった。おそらく、ラ・トゥールも妻の生地リュネヴィルで、こうした地位を目指していたと思われる。

 

Sources
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)
Philip Conisbee ed. Georges de La Tour and His World, National Gallery of Arts, Washington, D.C. & Yale University Press, 1996

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(35)

2005年08月19日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

美しさをとどめるセイユ川の流れ

画家の誕生:ラ・トゥールの結婚
  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの修業時代については、未だ多くのことを書き残しているが、少し先に進むことにしよう。今日に残る記録で、この画家について出生(洗礼)記録の次に明瞭に確認されているのは、結婚契約書である。(1616年10月20日、ヴィックで洗礼の代父を務めた記録もある。)

  1617年7月2日、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、ディアンヌ・ル・ネールDiane Le Nerf と結婚している。画家としてのジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、美術史上に初めて姿を明らかにしたのはこの時であった。彼は結婚契約書に自らを「画家」paintre[sic]と記して登場したのである。結婚の立会人は、花婿のジョルジュ側を代表してヴィックの市長ジャン・マーティニJean Martinyが、そして花嫁の方は代官ラムベルヴイリエールLieutenant-general Rambervilliers とメッツ司教区財務官ジャン・ドハルトJean du Halt, treasurer-general of the bishop of Metzであった。彼ら3人は、いずれもこの地方の第一級の名士であった。
  とりわけ、代官ラムベルヴイリエールは、政治家であったが、美術、文学などの学芸に高い識見を持った時代を代表する知識人であった。美術品の収集家としても知られていた。そして、新婦ディアンヌのいとこのひとり Anne Raoulと結婚していた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、この結婚でロレーヌの最有力者ともいえるラムベルヴイリエ一ルの一族につらなることになる。

新婦の家柄
  新婦のネルフ家はリュネヴィルの町の富裕な新貴族であった。貴族としての歴史は短いが、ディアンヌの父ジャン・ル・ネーフJean Le Nerfは、公爵の財政顧問であった。1595年にはリュネヴィルの町に最も貢献した人物の一人として顕彰されている。このこともあって、ラ・トゥールは宮廷のサークルにも近づいたことになる。パン屋の息子ジョルジュは、いまや社会的にも父親より上方の階層移動にも成功した。そして、後年1670年には、ジョルジュの息子エティエンヌがチャールスIV世から貴族の称号を与えられるまでになった。しかし、このことはジョルジュ・ド・ラ・トゥールが驚くほどの立身出世をとげたということを必ずしも意味しない。当時においては、かなり社会的な流動性が存在していたと見るべきだろう。

認められていたラ・トゥールの才能
  特筆すべきは、ジョルジュが画家として、天賦の才能を発揮し、周囲の人々がその力量を認めていたということだろう。妻となったディアンヌも、そこに惹かれたに違いない。残念なことに、ジョルジュも妻となったディアンヌについても、そのイメージを思い浮かべる材料がない。もしかすると、ラ・トゥールの作品の中にディアンヌが登場しているかもしれない。しかし、これは研究者テュイリエも記しているように、まったくの想像にすぎない。

新婦の持参したもの
  当時の結婚では、新婦の側が持参金あるいはそれに類する財産を持って嫁ぐことが一般的であった。新婦の家柄からすれば、分与される財産も持参金かなり大きなものであっても不思議ではないが、記録上はきわめて穏当なものであったことが推察されている。持参金のたぐいは、多分ディアンヌを可愛がっていたと思われる叔母からの500フラン、2匹の牡牛と1匹の子牛、若干の衣類と家具であった。
  新郎の側も大きな支出をしたとも思われない。父親が結婚披露の負担をし、息子の衣類、必要な家具と相続手続きが完了するまでの手当の金を支払ったとみられる。かなりはっきりしているのは、この時までにジョルジュは画家としての社会的評価を確立し、画業で新生活を維持できるまでの基盤を持っていたということである。24歳の若者は、すでにその稀に見る才能を発揮していたのである。

 

Sources
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

Philip Conisbee ed. Georges de La Tour and His World, National Gallery of Arts, Washington, D.C. & Yale University Press, 1996

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名器アマティはいかにして創られたか

2005年08月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

18世紀初めのクレモナ

熟練・技能伝承の難しさ: 絵画とヴァイオリン 

継承されなかったラ・トゥールの画風
    中世以来の技能・熟練の伝承は、徒弟制度や工房・アトリエという経路を通したことが多い。しかし、職業によって伝承のあり方やその成否はかなり異なる。このサイトで取り上げているジョルジュ・ド・ラ・トゥールが、誰の工房で修業をしたかは今のところ確認できていない。しかし、ジョルジュの息子エティエンヌは、父親の工房を継いだが、今日彼自身の作品と確認されるものは残っていない。途中で父親ほどの才能がないことをさとったのか、貴族の生活の方に魅力を感じたのか、画家として生きることをやめてしまったようである。
  結果として、ラ・トゥールの画風は、散発的にはともかくひとつの流れとしては継承されなかったといってよいだろう。とりわけ、絵画の世界では独創性や時代の求めるものへの対応も必要になってくる。この点を、ヴァイオリンの製作と対比させてみると面白い。

名器の誕生
  今年はヴァイオリンの製作史では記念すべき年といわれている。今から500年前(実際には1-2年の違いがあるかもしれないが、誰も正確な年次は分からない)、世界の最も知られたヴァイオリン工房の創設者アンドレア・アマティAndrea Amatiは、北イタリアの町クレモナに生まれた。ヴァイオリン自体は、アマティ以前から作られていた楽器であった。しかし、アマティは彼自身の独創ともいえる名器を創りだした。その後は優れた作品も生まれたが、誰もアマティのようには創れなかった。
  1577年にアンドレアは没したが、彼が設計し制作した楽器は作曲家や演奏家に力を与え、ヴァイオリン・アンサンブルを中心とする西欧音楽の流れを創り出した。

受け継がれたユニークさ
  次の200年間近く、アンドレアの灯した松明は、息子、孫、ひ孫に受け継がれた。さらに、彼の創造性はストラディヴァリ Antonio Stradivariとガルネリ Giuseppe Guarneriによっても継承された。しかし、18世紀半ばまでに、これら偉大な製作者たちの灯した光は次第に薄れていった。それにもかかわらず、この町を有名にした楽器は、時を超えて斬新さと豪華さをとどめ、演奏家や収集家によって追い求められてきた。

高額な商品と化したクレモナ・ヴァイオリン
  そして、クレモナのヴァイオリンは取引の対象としてきわめて高額なものとなった。1960年代まで、ストラディヴァリの作品は100,000ドル以下で取引されていた。1971年に、ロンドンのサザビーは名器として知られる“Lady Blunt”Stradを$200,000で売却した。2005年にはニューヨークのクリスティは “Lady Tennant”を2百万ドル以上で売却した。博物館、模造家、修復者、業者は、ストラディヴァリの価格が高騰することに大きな関心を抱いてきた。彼らは16-18世紀の間にイタリアで創られた名匠の手になる作品の価格を背後で操作もした。取引には信頼できる権威づけが必要なため、ヴァイオリンについての歴史的研究も進んだ。

次第に解明される名器の背景 
  1995年にはこうした努力が実を結んだ。ストラディヴァリの1729年の日付がついた遺書が発見されたのである。さらに、チエッサChiesaは、ミラノのヴァイオリン・メーカーで、作品の歴史的な再生に関心を持っていた。ローゼンガールドRosengardは、フィラデルフィア・オーケストラのバス奏者で、名匠の作品について歴史的関心を抱いていた。彼らの手になるモノグラフは私的にロンドンの業者ピーター・ビドルフPeter Biddulphによって印刷されたが、親方職人の投資、取引関係、家族内の関係などについて、大変優れた研究内容を含んでいた。それまでは、1902年に刊行されたHill Brothers, a legendary family of dealers が標準的な年譜とされてきた。

アメリカに生まれたヴァイオリンの博物館
  長年にわたり、ミネアポリスの楽器業者クレア・ギヴンズClaire Givensは、研究者とヴァイオリン、そして楽器に関心を持つ聴衆とを結びつける場所と機会を捜していた。その願いは、彼女がサウス・ダコタ, ヴァーミリオンの国立楽器博物館National Music Museum in Vermillion の理事に選任されたことでかなえられた。そして、ほぼアマティの生年と符号する500年後にあたる今年、記念事業として実現した。
  今年7月の独立記念日の時には、4日にわたる記念行事が行われた。行事のテーマは「偉大なクレモナのヴァイオリン製作者の作品、人生と秘密1505-1744年」であった。サウス・ダコタとクレモナの関係は偶然だが、この博物館が1980年代に入手したアマティス, ストラディヴァリウス、ガルネリの存在は、クレモナを語るにふさわしい場所とした。

名器を生んだクレモナ
  18世紀には、クレモナは富める国の富める町であった。主要な交易の通路にあたり、陸路、水路でアクセスが容易であった。そして高い品質の木材に恵まれていた。鋼鉄の道具とヴァラエティに富んだ熟練労働力もいた。そして、町の繁栄が音楽家に仕事をもたらした。それらに支えられて、アマティの工房での仕事ぶり、材料そして幾何学への関心が今日まで他をしのいできた。ロンドンのヴァイオリン製作者で歴史家でもあるジョン・ディルワースJohn Dilworthによると、アマティの考案した再利用可能なテンプレートが、当時の競争者をしのいだとのことである。
  クレモナのヴァイオリン製作は1747年に死去したストラディヴァリ、カルロ・ベルゴンジCarlo Bergonziなどの偉大な親方職人たちの作品を生き残らせた。その後も良い作品は作られているが、名器と呼ばれるものはまだない。

  こうしてみると、絵画や楽器についても、それが後世に評価される作品となるには、制作者の独創性、技能、それらを支える文化的風土など、さまざまな条件が必要であることが分かってくる。ラ・トゥールが人生の大半を過ごしたとみられるリュネヴィル、そしてロレーヌのその後の盛衰と、クレモナの歴史を重ね合わせると、いくつか考えさせるテーマが浮かんでくる。

*The Secrets, Lives and Violins of the Great Cremona Makers, 1505-1744

 Reference “Lords of the strings,”The Economist July 30th 2005

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(34)

2005年08月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

画家の修業時代を探る(III)
 
構想は直接カンヴァスへ
  ラ・トゥールは当時の画家の多くがそうであったように、直接カンヴァスの上で構想を描いていたようだ。これも、これまで行われてきた科学的機器を活用した調査で、ほぼ確認されている。X線などの科学的機器を活用しての検査を通して、下書き、修正、後世における加筆なども、明らかになる。ラ・トゥールは一度カンヴァスに向かうと、カラヴァッジョなどとは異なり、制作中の画面に大きな変更は加えないタイプの画家である。
  他方、カラヴァッジョは、制作中にもかなり大きな変更を行った跡が残されている。作品に修正の跡がない場合、ひとつの解釈上の可能性は制作前に十分に構想が煮詰められていたことが考えられる。また、同じような作品をすでに描いたことがある可能性も想定しうる。原作があって、それからの模写という可能性もある。ラ・トゥールの作品に描かれたイメージは当時、多くの人々が求めるものであった。

数少ない修正
    ラ・トゥールの作品で、修正の跡を発見出来るのは比較的少ない。たとえば、「大工の聖ヨゼフ」のイエス像はx線調査によると、顔の部分に修正の跡があり、最初の構想では、現存の作品よりも大人びた顔であったようだ。修正は当時ヨーロッパで広く使われていた鉛白など白色顔料によることが多い。

  また、「いかさま師」のキンベル美術館版はルーヴル美術館版より前に描かれた可能性が高いことも分かっている。これは、前者にはいくつかの点で修正がなされた跡が残っているためである。とりわけ、画面でワインを注ぐ召使いの女の顔にも、画家は苦労したようだ。非常にあやしげな目つきである。
    ナンシーの「聖アレクシスの遺体の発見」についても、作品下部の充填した跡は作品の下部が切断されたのではないことを示すものと考えられるようになった。構想当初から人物が膝までの姿で描かれていたのではないかという推定になる。ダブリンの作品は全身像だが、一時推定されていたような原作が存在し、それから模写されたものではなく、同じシリーズのサイズの異なる2枚の作品であることを示す可能性が高まった。
  こうした調査を通して、作品の作成年代順も次第に明らかにされてきた。この場合、「改悛する聖ペテロ」Saint peter Repentantのように、この画家に珍しく作成年譜が書き込まれていれば、いわば基準年次benchmarkの役を果たすことになる。

時代で変わった地塗り
  ラ・トゥールの活躍した時代には、カンヴァスでの地塗りの仕方が変わった。16-17世紀初頭のロワール以外の地方(すなわちパリ、フランドル、ロレーヌはここに入る)では、白亜を主成分とした白い地塗りがカンヴァスに施されていた。しかし、その後、イタリアからの影響で、多少なりとも濃い色のついた地塗りの方法が次第にヨーロッパ全域に広がっていく。これは新しい美の概念に伴った変化で、陰影自体がしっかりと配置されるようになる。 ラ・トゥールの若い頃の作品は、明るい色合いの地塗りの上に描かれている。地塗りに使われた素材の主成分は白亜であった。

年代指標となる地塗り
  詳細な調査・分析が行われたアルビの12使徒の研究では、複数の層の地塗りが行われていることが見出されている。また、いわゆる「昼の情景」シリーズと「夜の情景」シリーズでは地塗りの層が異なることも判明している。たとえば、「荒野の洗礼者聖ヨハネ」はラ・トゥール晩年の作品とみられ、後者に属するが、大部分は色のついた地塗りが特徴であり、褐色の土性顔料を主成分(少量の鉄化合物とごく少量のドロマイトを含む)としている。このように、地塗りは作品の年代確定に大きな意味を持っている。

  ラ・トゥールについては、ほとんどすべての作品について、顔料などの一部を採取しての成分研究も行われており、この謎に包まれた画家についての研究は大きく進歩した。 真贋論争もさまざまな副産物や成果を生んだ。

  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールも息子のエティエンヌも、徒弟を採用する際の徒弟契約書には「同じ原則と方針」を伝授することが示されており、一貫した方針に基づいて徒弟の修業が行われていたことがうかがわれる。画家という社会的に確立された当時の職業の技能伝達のあり方がこうした点からもうかがわれ、興味深い。

Reference
Melanie Gifford, Claire Barry, Barbara Berrie, and Michael Palmer, Some observations on GLT’s Painting Practice, National Gallery of Art and the Kimbell Art Museum

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(33)

2005年08月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

画家の修業時代を探る (II)

パワーを与えるラピスラズリ
    仕事の帰路、東京駅近くの丸善「オアゾ」に立ち寄ったところ、片隅で「パワーストーン」展をやっていた。ある種の石にはそれを所有する人に、さまざまな
パワーを与えるものが含まれていると考えられているらしい。観ている人は女性が圧倒的に多い。小規模ながら鉱石の原石も展示されていたので覗いてみる。
  ラピスラズリはかなりの人気の対象であった。しかし、高価とみられる濃紺に近い石はさすがに少ない。前回に記したように、「イレーヌに看護される聖セバスティアヌス」のルーブル版(*)は、後列の侍女の髪を覆うショールにラピスラズリを原料としたウルトラマリンブルーが使われている。作品が完成した時はさぞかし美しかったに違いない。その後、劣化が進んだことは拡大してみると明らかだが、それでもさしたる褪色を見せず、美しさを今日まで保っている。他方、ベルリン版は黒色が使われており、対比してみると、やはり青色の美しさは際だっている(ベルリン版は別の魅力があることはすでに記した通りである)。
高松古墳の美人図にも、アフガニスタン産(**)とみられるラピスラズリが使われているらしい。パワーが与えられるか否かは別として、良質な石はそれ自体美しく魅力がある。

貴石としての存在
   ラピスラズリ lapis lazuli は瑠璃ともいわれ、天然ウルトラマリンブルーの原料鉱石である。鉱石としては天藍石・方解石・黄鉄鉱の混合物として、アフガニスタン、チベット、中国などで産出する。「オアゾ」で展示・販売されていた石は、チリ産と表示されているものが多かった。中世ヨーロッパにおいて半貴石として珍重されたものの多くは、現在のアフガニスタン東北部で産出したものが持ち込まれたらしい。同様な青色の顔料としては、アズライトという別の鉱石もある。中国などで使われたものは、こちらが多いらしい。

顔料としての製法
  中世以来、ヨーロッパにおける顔料としての製法は、基本的には蝋、松ヤニ、亜麻仁油、マスチックガムなどを混ぜてペースト状にしたものに、粉状の原石を混ぜ、弱いアク汁の中につけて揉み出すという手順で作られた。最初に出てくる方が美しく、高価とされてきた。こうした製法から推察できるように、その後19世紀初めには人の手で作られるようになった人工ウルトラマリンとは顕微鏡下で容易に判別ができる。天然のラピスラズリは粒子が粗く、しばしば破片状で角張っている。ラ・トゥールの工房の作品ではないかと推定されるルーブル版で、該当部分の拡大図を見ると肉眼でも顔料の粒子が粗いのが分かる。しかし、それが光線を反射して美しい青色として目に映るのだろう。中世には天然ウルトラマリンはきわめて高価であり、上流階級などが作品を依頼する時には、わざわざ契約書にその使用を記録したものもあるらしい。ルーブル版の作品来歴は必ずしも十分解明されていないが、明らかに身分の高い人が最初の所有者であったのだろう。画家はそれを意図して、高価なラピスラズリを使ったものとみられる。いずれにせよ、「イレーヌに看護される聖セバスティアヌス」は、現代人にとって原石以上に大きな心の癒しを与えることは疑いない(2005年8月5日記)。



*「ラ・トゥール」を追いかけて(18)に記したように、ルーブル、ベルリン版ともに、現在はラ・トゥールの真作ではなく、ラ・トゥールの工房での作品あるいは模作という評価になっている。田中英道『ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品世界』(1972年)の頃は、真作とされていた。

**たまたま8月5日放映NHK「新シルクロード」第5回は、「天山南路ラピスラズリの輝き」でした。

Image

Courtesy of: www.mokichi.net/mineral/

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(32)

2005年08月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

羊飼いの礼拝(ルーヴル美術館)

画家の修業時代を探る(I)


青色系の少ない絵画
  これまでにラ・トゥールの真作とみなされている作品群を見ていると、さまざまなことに気がつく。そのひとつは、使われた色彩について、青色系が大変少ないことである。青色が使われている作品として思い浮かぶのは、「松明のある聖セバスティアヌス」の侍女の有名なヴェール、「槍を持つ聖トマス」の外衣くらいである。前者についてはベルリン美術館所蔵のものを併せて2点あるが、ルーヴル美術館所蔵の作品にはラピス・ラズリとして知られる高価な顔料が使われている。注文主や寄贈の相手が、社会的に高位な人物であったのだろう。
  青色系に代わって、全体に濃淡さまざまな褐色系の土性顔料が大量に使われている。この点、「青色の画家」として著名な17世紀オランダのフェルメールの作品などと比較すると、際だって大きな差異である。この褐色系の多い画面は、大変落ち着いた印象を観る者に与える。しかし、それだけでは作品の印象は大変暗くなる。

「ヴァーミリオンの世界」
  ラ・トゥールは蝋燭などの光源によって、その点を補っているが、それとともに目立つのが、濃淡さまざまなヴァーミリオン(朱色)である。「聖ヒエロニムス」「聖アンデレ」などの使徒像、「妻に嘲笑されるヨブ」「女占い師」「いかさま師」、「生誕」など、ヴァーミリオンが画面を引き立てている作品はきわめて多い。ラ・トゥール絵画は「ヴァーミリオンの世界」といってもよいほど、ともすれば暗くなりがちな画面を朱色が引き立てている。中国の辰砂などに比較して、オレンジ・黄色系がやや強いだろうか。「蚤をとる女」の椅子の色などは、光線の関係もあってか、ややオリエンタルな感じがする。
  真贋問題も関係して、ラ・トゥールの作品については、幸い異例なほど科学的な分析・検討が行われ、当時使われた下地、顔料、画法などについて、多くのことが明らかにされている。ラ・トゥールの活動した17世紀前半までは、フランスでは絵画は職人の作る製品、手仕事の作品として、親方の工房(アトリエ)で制作がなされることが前提となっていた。その多くは、パトロンや寄贈先などが想定された注文生産に近いものであった。

制作の手順
  制作に当たって油彩画の場合、通常は角や隅を釘で留めた横木のついた木製の画枠に鋲やひもでカンヴァス張ったものに描かれている。カンヴァスは当時の織布技術の水準もあって、90センチほどの幅のかなり狭い織機で織られた麻布や亜麻布が使われており、必要に応じて継ぎ合わせて張られている。その上に目止めを塗り、それから絵の具が定着するに必要な層を地塗りとして、整える。そして、その上にさまざまな色彩の顔料を使用して対象を描くことになる。こうした作業やそれに必要な知識は、容易には習得できない。

徒弟制度の重要性
  18世紀以降は画家の育成は主としてアカデミーへ移行し、技術的な知識の伝達は衰え、作品までのいくつかの工程は、画材商の手で行われることになった。しかし、ラ・トゥールの時代は、いまだ工房が知識、技能の伝達の中心を成していた。ラ・トゥールがどこかの親方の工房で、制作に必要な技能、ノウハウなどを習得したことはこの意味で間違いない。残念ながら、誰に師事したか特定できないことは、前回記した通りである。
  制作に必要な顔料ひとつとっても、原料の調達、配合、使用法など、かなりの部分は知識の伝達を通して、工房間で技術が共有されていたとはいえ、工房がそれぞれ継承・蓄積してきた秘伝やノウハウがあったことも間違いない。親方が徒弟を受け入れる場合には、当時の職業的水準として必要な基本的熟練を伝達することは、徒弟制度がある職業については、親方・徒弟間での当然の了解であった。ラ・トゥールが受け入れた徒弟ジャン・ニコラ・ディドロとの契約書などにも、その旨が記載されている。

科学技術を駆使した研究成果
  ラ・トゥールの作品については、フランス博物館科学研究・修復センターや作品を所蔵する大美術館などが、熱心に科学的研究対象としてきた。Stereomicroscope, x-radiography, infrared reflectography, neutron autoradiography などの先端分析技術が使用され、今日ではほとんどすべての作品について顔料などの分析も行われている。たとえば、X線写真を撮ると、下地塗りに含まれる鉛白のような物質には吸収されるため、明るく写るが、土性顔料やグレーズなどは通過するため、あたかも人体のX線画像のように、多くの情報が得られる。地塗りは全体的な色合いに影響するが、白亜やさまざまな色の土性顔料が地塗りに使われ、いくらかの他の顔料、しばしば赤も含まれていたことが分かっている。筆洗に残っていた顔料が混入したものかもしれないと推定もされている。
  こうした顔料などは、大都市などでは薬種商などが画材向けに販売していたようだ。まったくの想像の世界だが、トレイシー・シュヴァリエの小説『真珠の耳飾りの少女』の中にも、デルフトでフェルメールと思われる画家のモデルの少女が、主人の画家から薬種商に顔料や亜麻仁油などの買い物を頼まれて、いそいそと出かける場面がありますね。

ヴァーミリオンの調達
  ヴァーミリオン(Vermillion)は、朱(Cinnabar シナバル、辰砂)とも呼ばれている赤色の硫化水銀HgSである。天然にも鉱石の辰砂として産出しており、それを破砕して、粉にしただけのものも有史以前から、顔料として使われてきた。また、水銀と硫黄を化合させて人工辰砂を作る技術も古くから知られてきた。15世紀頃から人工品が使われてきたらしい。すでにローマ時代に使用されていることが確認されているし、中国では印章の朱肉材料としても知られている。顔料としてヴァーミリオンは、耐久性の高いものであり、ラ・トゥールの作品でも、あまり褪色せずに原作の美しさを今日に伝えている。
  しかし、実際にヴァーミリオンを工房で作ることは原材料を粉にする作業からして、かなり大変なことであったらしい。中国から伝来した技術によって、オランダなどで製造された方法は乾式といわれる方法であった。17世紀には湿式という製法も考案されている。乾式法では鉄鍋の中に溶かしておいた硫黄に、水銀を加えて硫化水銀を作る。この結果の黒色の塊をさらに坩堝に入れて加熱、昇華させて、磁器か鉄筒に凝集させると、赤色の結晶体になる。 その後、遊離硫黄を除去するため、アルカリ処理し、水洗すると出来上がる。これに水を加えながら粉砕すると顔料となる。 
  製法としては、単純にみえるが、硫黄、水銀などの有毒物質を含むため、工程でもかなりの注意が必要なはずである。こうした知識なども徒弟制度の発展とともに伝承されてきたのだろう。徒弟の修業は多くの場合、教科書のようなものがあるわけではなく、OJT(On-the-Job Training)である。毎日の工房の仕事を通して、親方、兄弟子職人などから徒弟へと、多くの知識が伝達されてきた。徒弟の素質、能力などで、その後の職業生活が大きく規定されるのは、今日のOJTと通じるところでもある。


References
Melanie Gifford, Claire Barry, Barbara Berrie, and Michael Palmer, Some observations on GLT’s Painting Practice, Georges de La Tour and His World, National Gallery of Art and the Kimbell Art Museum , 1997

ザベト・マルタン「記憶の場としての絵画―ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の科学的調査」『Georges de La Tour』国立西洋美術館展カタログ、読売新聞社、2005

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(31)

2005年07月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ラ・トゥールのデッサン?* 

ラ・トゥールは誰に師事したか:徒弟の時代(II)
  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた現在のフランス北西部に位置するヴィック・シュル・セイユの町は、今でもあまり知られてはいないが、16世紀には多くの芸術家を生んだ豊かな風土を誇っていた。その片鱗は今に残る教会その他の建物の装飾、残された絵画などから推測できる。ラ・トゥールを記念してこの町に設立された美術館Musée départemental Georges de la Tourの所蔵品などにも、往時の豊かな精神風土を感じるものがある。

   
    ラ・トゥールと同時代に、ヴィックの近くのナンシーでは、美術史家の間にもよく知られたベランジェBellange やコンスタンConstantが活躍していた。特にベランジェは、1595年にロレーヌへ移り住み、17世紀の最初の20年間はナンシーにおいて卓越した存在であった。ラ・トゥールが徒弟という形で師弟関係にはならなかったとしても、影響を受けたという意味では、最も可能性の高い教師とみられてきた。ラ・トゥールが彼の下で徒弟として学んだ証拠は残っていないが、そうした推測をする研究者はいる。少なくも大きな影響を受けていることは、いくつかの点からうかがい知ることができる(この点については、いずれ触れることにしたい)。

   
ラ・トゥールが当時の職業の多くがそうであったように、徒弟としての道を選んだとすれば、年代、その他の点を考慮すると、次の二人のいずれかが最も可能性の高かった画家であると思われている。

画家クロード・ドゴス  
最も有力と考えられてきたのは、クロード・ドゴス Claude Dogoz or Dogueであり、スイスのローモンに生まれ、1605年に比較的若い年齢で、ロレーヌに移り住んだと推定されている。彼は、ヴィックに移り住み、まもなく徒弟を採用したことが知られている(Thillier 22)。そして、かなり豊かな家族から1611年に妻をめとっている。そして、1632年の段階で、およそ300点というかなり多数の作品を残したと伝えられる。しかし、残念なことに、ドゴスの作品と確認されるものが残っていない。だが、ラ・トゥールの家族とドゴスの間には、親しい関係があったと推定される。実際、後年1647年にジョルジュの息子であるエティエンヌがヴィックの富裕な商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオと結婚しているが、彼女はドゴスの姪であった。
  
 たとえ自他ともに認める才能に恵まれていたとしても、ラ・トゥールの出自からすれば画家になるために通常の過程である徒弟の道を選んだことは、ほぼ確実であろう。年代としては1605―1611年くらいの間に、誰かの工房、アトリエで修業をしたと考えられる。最もあり得るケースとしては、ジョルジュの生地でもあるヴィックで、ドゴスの下で修業した可能性であり、多くの学者がそのように推定している。 

ドコスの工房と徒弟  

画家ドゴス親方は、ヴィックで1605年頃、20歳近くで工房を開設したとみられる。スイスから移住した直後であるが、小さな町ヴィックで、当初からかなり名が売れていたのだろう。1607年5月に、フランソワ・ピアソンFrançois Piersonという僧院長のおいを最初の徒弟としている。さらに、1610年にも法律家の息子を徒弟にしている。しかし、一般には、同時期に二人の徒弟を抱えることは、教会の壁画などのように大きな仕事を抱えていた時などの他は稀であった。ヴィックは小さな町で、それほど大きな仕事が常時あるわけではなかった。となると、ラ・トゥールは彼の10-15歳しか年上でなかった若いドゴス親方の下で徒弟をした可能性はあるが、普通の徒弟期間である4年近い年月をそこで過ごしたと考えるのは無理かもしれない。当時の徒弟制度では親方の家に住み込むのが普通であった。ドゴスはせいぜい、ラ・トゥールに画法や顔料の調合、選択などを手ほどきしたくらいではないかとも思われる。

画家バーセレミー・ブラウンの可能性  
 ジョルジュが徒弟として師事した可能性のあるもう一人の画家は、バーセレミー・ブラウンBarthélémy Braunといわれる画家であった。彼は現在のドイツ、ケルンからロレーヌに来た画家で、公爵シャルルIII世のお抱え絵師として貴族の称号も認められていた。

  
彼の肩書きは、後年ラ・トゥール自身が同様な肩書きを切に求めたことなどを考えると、ジョルジュや両親の好みに合致したかもしれない。ブラウンは、1605-11年頃は、メッスに住んでいたが、ヴィックとも関係があったようだ。事実、彼の妻とはヴィックで結婚している。そして1605年頃にはヴィックで画家として知られていた。ブラウンがメッスに住んでいたことが、ラ・トゥールの徒弟入りを否定することにはならない。画家にかぎらず、多くの職業で生家を離れて、親方の家に住み込むことは徒弟修業では通常のことであった。   
 

ラ・トゥールの両親は比較的裕福で、息子の才能を伸ばそうとしたのだろう。もしラ・トゥールが30-50年後に生まれていれば、彼は間違いなく芸術の都パリへ行き、誰かの工房かアカデミーで修業したに違いない。実際、ラ・トゥールの親戚にもパリで仕立屋をしていた者がいたことも知られている。しかし、ジョルジュが徒弟を考える頃のパリは、戦乱からの復興途上であり、両親が幼い息子をパリまで送り出したともにわかに思えない。

ラ・トゥールはパリにいたのか  
しかし、近年、パリのギルドの記録から、1613年12月12日付けでメンバーを受け入れたとの興味深い史料が発見されている。これは、フォーブルグ・サントノレFaubourg Saint-Honoré のギルドに所属するGeorge de La Tour なる者を含む人々の面前で、Jean L'hommeなる一人の若者をメンバーに迎える式を行ったという記録だが、文書の余白に乱雑に書かれていたものであり、われわれが問題にしている当の本人か否かは不明である (Tuillier 1972, p25)。ということで、今日の研究史では、ひとつの可能性、検討課題にとどまっている。   
 

他の可能性は、クロード・アンリエClaude Henrietという画家で、シャルルIII世の庇護の下で、当時は著名であった。結婚によって、あの貴族で知識人であったランベルヴィレール  Rambelvillersの家系とも関係が生まれたといわれるが、1606年末頃に死亡している。となると、これも実際に徒弟となった可能性は少ない。

ベランジェに師事した可能性も  
 当時のロレーヌでで高く評価されていたのは、ジャン・サン・アウルJean Saint-Oaulとう画家であったが、ジャン・デイ Jean de Heyという若者を徒弟に採用したことは記録に残っている。それ以上に、著名なのは前にも記したベランジェJacques de Bellangeであったが、1595年2月、きわめて裕福な家の息子クロード・デルエClaude Deruet(ca.1588年頃の生まれ)を徒弟に採用した記録が残っている。デルエよりも4-5歳若かったラ・トゥールを同様に徒弟にすることを、ラ・トゥールの両親が考えなかったとは思えない。しかし、これも可能性にすぎない。

  
もしかすると、ラ・トゥールは当時ラテン語の教育で知られた地元の学校で上級まで進み、14-15歳までいたかもしれない。ベランジェは、当時は画家としての盛時を迎えていた。デルエは1609年4月に徒弟を終了している。ラ・トゥールは他の有名な画家につく前にベランジェに習ったか、デルエの後、徒弟になったかもしれない。しかし、確証はない。
 
ラ・トゥールとベランジェの作品には類似点がある。たとえば、《ヴィエル弾き》hurdy-gurdy playersはラ・トゥールのお気に入りでもあった。ラ・トゥールはベランジェに似たサインを残してもいる。ベランジェはラ・トゥールにとって実際に徒弟となったかは別としても、作風などで最も影響を受けた可能性の高い教師であったとみられる。さらに、ベランジェは画家であるとともに、著名な銅版画家として知られていた。偉大なマネリストでもあり、チャールズII世とも芸術上で密接な関係を保っていた。しかし、残念なことに、今日まで残っている作品は少ない。

ラ・トゥールと同時代の画家  
 二人の画家がラ・トゥールと同時代人であった。その一人、クロード・セリー Claude Celleeは、ローマで名をあげた。また、あの戦争の悲惨さを赤裸々に描いたジャック・カロJacques Callotは、フローレンスとパリで名をあげた(国立西洋美術館の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」にも出品されていたのでご覧になった方も多いでしょう)。

   
 こうしてみると、ラ・トゥールの徒弟修業の可能性について、断片的な情報はかなり存在するのだが、残念ながら決定的な史料に欠けている。だが、こうした情報を積み重ねると、誰に師事したかは確認できないにしても、ラ・トゥールは、1611年頃に画家としての基礎的な修業を終えたのではないか。年齢にして18歳頃であり、当時の画家のキャリアとしては標準的なものであった。この形は、レンブラントRembrandtなどの場合と近似している。彼はローカルな師匠について4年間画業を学んだ後、アムステルダムで6ヶ月修業をした。

   
もしかすると、ラ・トゥールは1613年頃、(不思議な記録が残っているように)パリで過ごしたかもしれない。そうすれば、パリにいたという記録と合致もする。   
    他方、当時のロレーヌの画家にとって、ローマに行くことも、かなり定着した慣行になっていた。ロレーヌ公爵はイタリア、特にフローレンスのメディチ家と深いつながりがあった。カロはそこで仕事をした(1612-20年頃)記録がある。

明らかな北方絵画の影響  
 ラ・トゥールが通常の年月で徒弟を終わり、大体1606-10年の何年かをベランジェと共に過ごし、パリへも行き、ローマへも行ったことは可能性としては十分ありうる。そして、1616年に洗礼の代父としてヴィックの地方史の記録に再登場してくる。 しかし、コニスビーなどの現代の美術史家は、そうだとしてもラ・トゥールにローマ行きの影響はほとんど見受けられないとしている。オランダとフレミシュの絵画の影響は顕著に見て取れる。私もどちらかというとこうした北方画家の影響を強く感じる。

   
かくして、ラ・トゥールの修業時代は、霧に包まれたままに、1917年貴族の娘との結婚という華やかな舞台でスポットライトを浴びる。既に、彼はロレーヌにおける実力ある画家としての確たる地歩を築いていたと思われる。   

そして、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯において、1617年の結婚はさまざまな意味で彼の人生を定める意味を持っていた。その点については、改めて検討しよう(2005年7月15日記)

*クリストファー・カマーChiristopher Comerとポーレット・ショネPaulette Chonéが1696年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールによるデッサンではないかと発表した「若い女性」Jeune Femmeを描いた作品。ラ・トゥールのデッサンと推定される作品はきわめて少ない。ラ・トゥールは、あまりデッサンをしなかったのかもしれない。なお、カマーはプリンストン大学博士論文で、これらのデッサンとラ・トゥールとの関連性を指摘、注目された。

よけいな想像:小説家デイビッド・ハドルは「おおかみ娘」wolf girlの発想をどこから得たのでしょう?「おおかみ娘を夢見るラ・トゥール」(7月4日)

Major Souce: Tuillier (1992, 1997)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラ・トゥールを追いかけて(30)

2005年07月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

アトリエの情景

ラ・トゥールは誰に師事したか:
徒弟の時代(I)
    

    ラ・トゥールの作品や画家としての人生を知ることは、ミステリーを読み解くような面白さがある。パン屋の息子ラ・トゥールは、画家を志すについて、いったい誰に師事したのだろうか。彼に天賦の才があったことは疑いもないが、画家として身を立てるにはそれなりの経路をたどらねばならないのは、当時も今も変わりはない。

画家になるには  
  16-17世紀においては、画家になるためには他の多くの職業と同様、基本的には二つの道があった。そのひとつは、画家の家に生まれ、父親なり家族の職業を継承することである。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの息子、エティエンヌは親の職業を継いで画家になったが、父親の工房(アトリエ)で仕事を体得したようだ。   
    もし、ジョルジュが父親の職業を継いでパン屋になることを志したならば、幼い頃から見よう見まねでパンの作り方を身につけ、成人してから、地元のパン屋のギルド(同業組合)で、職人あるいは親方として認められればよかった。職業によっては、どこか別の親方について、徒弟修業をすることもないわけではなかった。

徒弟を志す道   
    もうひとつの道は、すでに親方masterとして認められている人の工房へ徒弟apprenticeとして弟子入りし、絵画の技法などを身につけることである。徒弟制度はヨーロッパでは、すでに中世以来、ギルドともいわれる社会的、法的制度として確立していた。多くの伝統的職業tradeはこの制度を背景に成立していた。徒弟の時期を経て、職人journeymanとして認定されると、のれん分けのように、親方masterとして独立することもあった(蛇足ながら、ギルドとの継承性論争は別として、労働組合trade unionはその名の通り、元来職業別組合として存在した)。

社会的制度としての徒弟修業  
    そのため、徒弟になるに際しては、当時すでに弁護士がつくった規定の契約書を取り交わしている(後年、ラ・トゥールが画家としてすでに名声を得ていたと思われる1626年には、徒弟シャルル・ロワネを自分の工房へ受け入れている。その際にラ・トゥールは、彼に「誠実にそして熱心に絵画の技を教示し、教育する」ことを約束している。)職業によって異なるが、大体、小学校に相当する学校を終えた後、11-13歳くらいで(時にはもっと歳をとって)徒弟になり、3-5年の修業をした。たとえば、ラ・トゥールとほぼ同時代の有名画家ブーエVouet はパリで、ル・ブラン Le Brun は地元のタッセル Tassell で徒弟修業をしている。 徒弟の生活  画家の場合、徒弟は、親方や兄弟子のために、親方の家で使い走りのような仕事をしつつ、指示に従って顔料を挽いたり、キャンヴァスを準備したりしながら、画法を真似したり、教わったりしながら、画家としての技能を文字通り体得していった。生家が近い場合は、自宅から通うということもあったが、多くは親元を離れて、親方の家へ住み込んだ。徒弟の親は、画家の親方と契約をして息子を徒弟修業に出すわけだが、家賃や食費は決して安くはなかった。   
    徒弟の間は、賃金のたぐいは支払われない。それどころか、飲食、暖房、ベッド、部屋、光源などの費用として一定額が保護者である親から親方に支払われた、その額は当然ながら、親方の画家としての名声、評判などによって大きく異なった。また、親方の生活様式(徒弟は屋根裏のベッドか1部屋かなど)、徒弟の両親の希望、画家の経済事情などによって差異があった。このように、徒弟に出すのはかなりのお金がかかり、誰でもなれるわけではなかった。ラ・トゥールの生家は、地元では裕福な家であったと思われるから、おそらくジョルジュは徒弟修業をしたのではないか。   
    当時の職業として、画家は必ずしも喜んで選択された職業ではなかった。今日でもそうであるように、才能が大きくものをいう職業であり、生計を立てるリスクが大きかったからである。作品が社会で評価されれば、豊かで尊敬される職業ではあるが、評価されなければ画家の手伝い、下ごしらえなど、恵まれない仕事で生きなければならなかった。徒弟を終えても、画家として独立できなかった例は数多い。実際、ジョルジュの息子のエティエンヌも、父親ほどの才能・才覚に恵まれず、途中で画業を放棄し、貴族の生活に甘んじた?ようである。

画家の運命  
    家が裕福で、別に画家にならなくてもいいのに、子供が強く志望し、画家になって成功した場合もある。ラ・トゥールと同時代では、プッサン Poussin、 ドフレスノイ Du Fresnoyなどがその例とされている。たとえば、プッサンの母親は、ギリシャ、ラテン語が達者な息子が画家になりたいというのが理解できなかったらしい。プッサンは同時代で徒弟制を経由するというしきたりから外れた道を選んだほとんど唯一の画家といわれているが、これも本当にそうであったかは不明である。   
    徒弟の過程を終了し、独立の職人画家journeymanとして自立できるか否か、前途が不透明であるのは今日と同様である。他方、浮浪児のような生活をしながら、マルセイユのミッシェル・セレMichel Serreのように、才能が認められ、有名な絵描きになった例もないわけではなかった。   

    さて、われらのジョルジュはどんな道をたどったのだろうか。前回、ラ・トゥールの家系を追いかけた結果では、パン屋や石工は近くにいたが、家族・親戚の間に画家はいなかったと思われる。そのため、おそらく誰かの工房へ徒弟として弟子入りしたか、パリなどへ修業に出かけたはずである。   
    1593年に生まれ、1616年には23歳で自らが洗礼式の代父を務め、翌年には結婚した記録があることから推測すると、この頃までには明らかに画家としての修業時代は終わっているはずである。次回は、この謎に包まれた時期に接近してみたい(2005年7月13日記)。


Source: J. Tuillier, Georges de La Tour, Paris: Framannion, 1992, 1997 ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『Georges de La Tour』東京国立西洋美術館、2005(このサルモン論文も、年譜は、ほとんどテュイリエの前著によっている。) 16世紀前の中世画家の技法を継承し、研究を継承するために、The Painters and Limners Guild of LochacというGuildのサイトが今日でも運営されている。リンクはできないが、サイトは存在する http://www.sca.org.au/peyntlimeners/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする