時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(59)

2006年02月09日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

宗教改革の奔流に棹さす画家(4) 

  宗教改革とそれを受けて立つ立場にあったカトリック宗教改革の狭間で、ヨーロッパの美術の世界も大きく揺れていた。盛期ルネッサンス(High Renaissance)の後に登場したマニエリスム*は、次第に当時の時代の要請、とりわけ宗教改革の衝撃を受けたカトリック教会の考える改革の方向にそぐわなくなっていた。

  後にマニエリスムといわれるようになった傾向は、盛期ルネッサンス後、ほぼ二つの段階を経たと考えられる。総じて、「反古典的」 anti-classical であったが、前半の段階1520-1550年頃までは「崇高」「純粋」「理想主義的」「抽象的」レヴェルを目指したものであった。後半の段階1550-1580年頃では(ラファエッロやミケランジェロに倣ったという意味で)定式化、固定化したマニエリスム di manieraへと移っていった。

  実際にいつ頃からどの画家をマニエリスムと呼ぶかについては、ルネサンスがいつ始まり、終わったかを確定できないように、難しい問題ではあるが、盛期ルネッサンス後、一般に芸術の質が低下したと考えられていた。その理由としては目新しさを求める結果のひとつとして、すべてではないが、かなりの画家の間で、形式化、反古典的、非現実的な描写などの風潮が目立つようになったことが挙げられていた。

トレント会議はなにを目指したか
  ローマ・カトリック教会の方向を定めるトレント会議は1561年に行われた第9回の公会議で、芸術に課せられた役割を定めている。その概要は次のような点にあった。カトリックでは宗教的絵画は信仰の高揚ために重要な意味を持つとされた。その具体化についての方向は、1)明瞭さ、簡潔性、知性、2)現実的な解釈(正確さ、上品さ、格調)、3)敬虔に導く動機づけなどであった。トレント会議後、1580年頃から進行したカトリック改革は、盛期ルネッサンスの精神を取り戻すという意味も含まれていた。

   こうした時代の流れを念頭に、ラ・トゥールの作品を見てみると、かなり興味ある点が浮かび上がる。一般にこの画家の作品構図は簡潔そのものだ。背景、静物、風景、複雑な描写、根拠があいまいな人物などはいっさい描かれていない。とりわけ宗教的テーマについては、ほとんどの作品は一人か二人の人物しか描いていない。背景もほとんど具体的なものは何も描かれていない。見る者は主題とそのメッセージを雑念なく、受けとることができる。 作品に接したとたんに、主題に引き込まれる。

確固たる制作意図
  このことは、ラ・トゥールがきわめて明確な意図、方向性をもって制作していたためと考えられる。今日残っている作品をみるかぎり、悔悟する聖ジェロームを描いた一枚だけにかすかにハロー(光輪)をつけている。他の多くの宗教画にみられる天使の翼も描かれていない。使徒・聖人も普通の人から遠く離れた存在ではない。しかし、「大工聖ヨセフ」の子供にしても、人間なのか天使なのか、きわめて不思議な存在として描かれていることに気づく。

  ラ・トゥールは主題の選択の時から、カトリック宗教改革が目指すべき精神をしっかりと感じていたに違いない。選ばれた主題の多くは、プロテスタントがとりわけ非難した対象であった。この硬骨な?画家は、プロテスタントの批判が向けられた対象を、ことさら選択して描いたようにさえ思われる。

  画家はトレント会議が光を当ててほしいと願った、それまであまり取り上げられなかった主題もいくつか描いた。 初期の教会の創設者、その殉教者に焦点を当てている。トレント会議は、ローマ・カトリック教会こそ、キリスト教信仰の創始者たちの唯一正当な継承者であることを主張していた。

*マニエラ(イタリア語maniera)が語源。マニエラは「手作り」「モード」「スタイル」「方法」などの含意を持つが、美術用語としては「様式」に近い。 マニエリスムとは「通常以上に強調点を作風や様式の上に置く傾向」(バーク、80)。

Reference
ピーター・バーク(亀長洋子訳)『ルネサンス』岩波書店、2005年

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ラ・トゥールを追いかけて(58)

2006年02月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

宗教改革の流れに棹さす画家(3)
 
画像イメージの強い影響力
  デンマークのユランズ・ポステン紙が昨年9月30日に掲載したイスラム教の予言者マハンマドを風刺した漫画が、ヨーロッパの各国で転載され、イスラム世界の激しい反発を招いている。あたかも
キリスト教とイスラム教との間で、宗教的対立の様相を呈している。この状況を見ていると、図らずもプロテスタントが生まれた時代における状況を思い出した。当時、狼(オオカミ)やロバの顔をした反キリストのローマ法王が描かれたり、聖霊の象徴と考えられた鳩を伴ったルターが描かれたりしていた。昔も今も、画像イメージのもたらす衝撃はきわめて大きい。

  宗教改革が生まれた16世紀前半の頃から17世紀に入っても、彫刻、絵画などのイメージは宗派の別を問わず、布教の上でもかなり重要な位置を占めていた。特に、カトリック教会側は長らく文字印刷文書を布教手段とすることに消極的であったようだ。当時の識字率の問題もあったのだが、聖書などは教会聖職者が読み説くものと考えられてきた。教会、修道院には筆写を専門とする僧がいて重きをなしていた。
 
  プロテスタントからの宗教絵画に対する批判について、カトリック教会側はトレント会議を中心に、対応策を協議してきた。ラ・トゥールがどの程度までこうした宗派間の争いについて知っていたのかは分からない。しかし、今日に残る作品から判断するかぎり、この画家は問題の本質をきわめて鋭く見抜き、自らの制作活動に生かしていたと思われる。いくつかの気づいた点について、記してみよう。

教会の意図を読んでいた画家
  ラ・トゥールのテーマにはしばしば、使徒の悔悟の場面が取り上げられている。悔悟の行為は宗教改革側から厳しく非難されていた。しかし、この画家はこのテーマをむしろ積極的に描いている。マグダラのマリアの主題もそうであり、ジェローム(ヒエロニムス)の2枚、そして聖ペテロの涙もそれであった。現存する作品全体40余りの中で8枚という比率はかなり大きい。 ジェロームの場合も悔悟者として描かれているが、半裸の老人の肉体はきわめて髭や皮膚の皺まで克明に描かれ、ラ・トゥールの徹底したリアリズムへの傾注がうかがわれる。しかし、石やロープでわが身を打つ使徒には、苦痛の色がない。それでいて、この絵を見る人は、描かれた人物が聖ジェロームであることを直ちに読み取れる。

  聖ジェロームを描いた別の作品は、悔悟ではなく初期の教会への貢献を扱っている。聖人はめがねをかけて手紙を読んでいる。聖書を翻訳し、教会を設置した彼の知的な性格を強調している。 これは、カトリック教会側がトレント会議を通して意図した、教会初期の事績の再発見の方向にも沿っている。

   また、聖家族についても、プロテスタントはマリアが代表的な位置を占めることを否定していた。彼らはマリアに過度な重点が置かれれば、キリストを代替することになってしまうと信じていた。 こうした批判をラ・トゥールがどれだけ意識していたか否かは不明である。しかし、現存するラ・トゥールの作品では、マリアは一人では描かれていないし、中心的な人物としても描かれていない。「羊飼いの礼拝」、「降誕」などでも、マリアは二次的な人物として描かれている。 宗教改革派の台頭後、1世紀近くを経過した17世紀前半には、カトリック・プロテスタント間の対立の論点は、貴族など社会の上層部、知識階級の間ではかなり知られていたのかもしれない。

  「聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」も、プロテスタントによって批判されたならわしを扱っている。ラ・トゥールは聖人の存在を正当化している。聖セバスティアヌスはロレーヌに悪疫が流行した当時、守護神としてあがめられていた。矢の傷跡が悪疫の苦しみにたとえられた。聖イレーヌの役割も、ラ・トゥールの作品では聖セバスティアヌスと同じくらい重要である。聖イレーヌはプロテスタントから批判された慈善の行為を象徴している。 しかし、これらの作品を見ても、それほど強い宗教画のイメージはない。しかし、穏やかなトーンで含意が伝わってくる。

生まれる個人的なつながり
  ラ・トゥールは、使徒・聖人は普通の人の中から生まれたように自然に描いている。それはトレント会議が目指した方向だった。普通の人のように描かれたある使徒・聖人と見る人の間に、個人的なつながりが生まれる。自分の守護神はこの使徒・聖人だという思いが強まるのだろう。

  同じ使徒を描いても、カラヴァッジョやヴァンダイクとは発想が反対である。 しかしながら、このような選択をしたラ・トゥールの絵画に教会がどのような受け取り方をしたかも明らかではない。

  ラ・トゥールは1610年のカラバッジョの死後しばらく活動した。カトリック教会がカラヴァッジョの対応に衝撃的を受けたことは事実だが、ラ・トゥールのアプローチについては、どうであったかは不明である。 「アルビの12使徒シリーズ」などを例外とすれば、この画家は教会や修道院などの以来を受けての仕事は、あまり引き受けなかったようだ。仕事の多くは個人的パトロンなどの依頼が主となっていたようである。
  
  ラ・トゥールはさらにカトリック教会初期当時からあまり描かれることのなかった聖アレクシスも描いている。カトリック宗教改革は中世にはよく知られていたこの主題への興味を新たにした。聖アレクシスの生涯はその貞節のゆえにカトリック宗教改革の時代においてジェスイットのドラマの主題となった。 ラ・トゥールはトレント会議の示した方向性を十分に理解し、作品に表現したのではないか。

本ブログ内関連記事
http://blog.goo.ne.jp/old-dreamer/e/aa27083f9ff60cd555c7f5cdaac1f3b8

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ラ・トゥールを追いかけて(57)

2006年01月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

http://www.abcgallery.com/L/latour/latour11.html

宗教改革の奔流に棹さす画家(2)


宗教対立の時代
  プロテスタントのローマ・カトリック教会批判は熾烈であった。長年にわたるカトリックの支配は、さまざまな批判の材料を与えてもいた。カトリック教会そして法王自身が批判の対象でもあった。

  こうした批判に、体制側のローマ・カトリック教会側は当然ながら対応を迫られた。反宗教改革(カトリック宗教改革)は、プロテスタントの攻撃に対するカトリック教会側の対応であった。その重点は、プロテスタントによって批判された慣行・しきたりの正しさを理論づけ、その価値を再確認することに当てられた。さらに布教の歴史を重視し、初期の教会創始者に立ち戻って原点を見直すことが試みられた。 その目的は自らを新たに見いだすことでもあった。

重要な役割を担う芸術
  カトリック改革側の対抗プランの基軸は、1545-1563年の間に25回にわたって開催されたイタリアのトレント会議で形成された。その最後の会議で、彫刻、絵画、音楽などの教会芸術は、この宗教改革の嵐の中で重要な役割を果たすことが確認された。

  カトリック教会は、芸術が言葉では十分果たし得ない、人々を感動させうる重要な役割を持っていることを再認識した。当時、最もキリスト教に信仰深いのは教育を受けていない人々であり、彫刻や絵画はそうした人々に直感的に教会の話や価値を教える不可欠な手段であった。そのため、宗教的絵画はカトリック教会側の重要な対抗手段とされた。 皮肉なことに、プロテスタント側が提起した宗教イメージの廃止は、カトリック側に激しい反発を引き起こした。イメージを破壊しようとしたプロテスタントの意図はかえってそれを盛んにしてしまったところがあった。

分かりやすさへの回帰
  トレント会議は、プロテスタントの批判を受けて、美術についてのルールを定めた。たとえば、宗教画での裸体を禁じた。シスチナ教会堂のミケランジェロの「最後の審判」に描かれた人物の衣装の描き方に示されている。さらに、トレント会議は、無用な情景や人物を描き込むことがないよう布告した。

  こうした布告が一人の画家としてのラ・トゥールの制作活動にいかなる影響を与えたかはよく分からない。ロレーヌにいかなる経路を通して伝達されたかも、必ずしも分からない。しかし、この画家はもともと自分のイメージを表現するに最低必要なものしか描かなかったのではないかと思われる。それによって、見る人の注意を対象に集中させることを意図したのだろう。屋内、屋外を問わず、背景らしきものが描き込まれた作品はほとんどない。その代わり、重要人物の描写には最大限の努力が注ぎ込まれている。

  トレント会議が示した単純さと分かりやすさへの転換は、主題と構成が次第に複雑であいまいになってきたマニエリスムmaniérismeへの反発だった。マニエリスムは盛期ルネッサンスの後に登場した様式で、イタリアを中心に1520年頃から16世紀末までイタリアを中心にヨーロッパに波及した。ルネッサンスの古典主義的様式への反動ともいえるものであった。ポントルモ、エル・グレコ、ティントレットなどに代表される。トレント会議は、この点を反省し、マニエリスム様式で描かれた聖人のいくつかについては、様式化が過ぎるあるいは当時の見る人の日常経験から離れすぎ、聖人のイメージに忠実ではないとした。

見直された使徒たち
  教会は初期の事績の証人でもあり、殉教者でもある使徒たちの評価に重きを置いた。たとえば、聖セバスティアヌスは死に対して信仰厚き人として宗教改革の嵐の吹くヨーロッパでもよく知られていた。ヴィック出身の貴族でもあったアルフォンソ・ランベルヴィリエール は、15世紀メッス出身の聖人リヴィエ Saint Livierの自叙伝を書いている。このロレーヌ出身の聖人が殉教した場所ヴィレヴァル Vireval は、14世紀の巡礼の目的地となり、その後カトリック宗教改革の時代には大変な賑わいを見せた。 ロレーヌには、この他にも巡礼のめぐった所がいくつかあったようだ。

  ラ・トゥールがどの程度までトレント会議の示す方向に沿おうとしたのかは資料もなく不明である。しかし、今日に残る作品から見るかぎり、この画家はカトリック宗教改革が意図した伝統的主題を描いている。ラ・トゥールがカトリック宗教改革が方向づけた主題を選択することによって、教会に対するプロテスタントの批判を回避しようとしたことは推測できる。しかし、この画家は世俗の世界ではロレーヌ公領に住みながらも、フランス王室にも近い微妙な立場を維持していた。 ここに、ラ・トゥールの謎を解くひとつの鍵が秘められているかもしれない。


Reference
Choné, Paulette. 1966Georges de La Tour: un peintre lorrain au XVIIe siecle. To urnai: Casterman.
Conisbee, Philip ed. 1996. Georges de La Tour and His World. Washington, DC: National Gallery of Art & New Heaven : Yale University Press.

Image St.Simon
Courtesy of Olga's Gallery

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ラ・トゥールを追いかけて(56)

2006年01月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


http://www.abcgallery.com/L/latour/latour3.html 

 
宗教改革の奔流に棹さす画家(1)
  現存する40点ほどのラ・トゥールの作品には、よく見ると宗教的テーマに基づいて描かれたものが大変多い。しかし、ラ・トゥールの「宗教的」作品を初めて見た人は、すぐにはそれが使徒・聖人を描いたものとは思わないだろう。農民や漁師など普通の人々がモデルであり、それも日々の労働の間に刻まれた顔の皺、日焼け、使い古した衣類などが克明に描きこまれている。なかには、なんとも恐ろしげな顔立ちの人物も描かれている。しかし、しばらく見ていると、どうも普通の人ではないという画家の気迫のようなものが伝わってくるから不思議である。

  ラ・トゥールはなぜ、こうした試みを行ったのだろうか。どうして、もっと他の画家のように「宗教画」らしい?描き方をしなかったのだろうか。この点を理解するためには、ラ・トゥールが過ごした時代環境と宗教世界の関係に立ち入ることが欠かせない。しばらく、その流れを追ってみたい。

精神世界の大変動
  すでに繰り返し書いたように、ラ・トゥールがその生涯の大部分を過ごした16世紀末から17世紀にかけてのロレーヌ地方は、政治やその影響下にある社会も激動の渦中に置かれていた。そればかりでなく、人々の精神的次元にかかわる宗教の世界も大きな混迷の中にあった。精神世界も激動にさらされていた。「宗教改革」Reformationがもたらした大激変である。

  改めて述べるまでもないが、発端は1517年、ドイツの宗教改革者マルティン・ルターが教皇制度の不合理に対して改革を企て、ローマ・カトリック教会から分離・独立してプロテスタント教会を立ち上げた宗教運動である。ルターの実際の行動がいかなるものであったかについては、歴史家の間に論争があるようだが、教皇の贖宥状(俗に免罪符)販売を攻撃し、人は功績や免罪符などの現世的行為によらず「信仰のみ」によって救われると主張し、聖書を唯一正しい基礎とする立場から教皇権を否認したこのプロテストは、その後全ヨーロッパを覆った対立的宗教運動の導火線となった。 体制側のローマ・カトリック教会としては文字通り足下を揺るがされる大衝撃であった。その後、プロテスタント宗教改革と体制側カトリックの対抗宗教改革counter reformation(カトリック宗教改革ともいう)のさまざまな動きが展開する。

ラ・トゥールに影響したロレーヌの事情
  16世紀から17世紀前半は宗教的危機の時代であったといってもよい。ラ・トゥールが生きた時代である。宗教改革と宗派対立がその背景にあった。ルター、カルヴァンなどに始まるプロテスタントの運動、フランスの宗教戦争、トレント会議 the Council of Trent、カトリック教会の側からの対抗宗教改革(カトリック宗教改革)など、すべてが1500年代に発生した。改革者たちはローマの教会を攻撃し、体制側が反宗教改革という形で擁護しようとするものを禁止した。

  カトリック教会も、プロテスタントに対抗して、1545-63年、自己革新と教理確立のための公会議を3度開催した。トレント(ドイツ語ではトリエント)会議の名で知られるものである。 ラ・トゥールは、ひとりの画家としてその奔流の中に立っていた。画家は激動する聖俗の世界を体験しつつ、自らの生き方を探し求めていた。ラ・トゥールを理解するためには、まずプロテスタントがなにを攻撃したのかを理解する必要がある。

芸術の世界に及んだプロテスタントの攻撃
  プロテスタントの攻撃はカトリック教会のあり方ばかりでなく、教会に関連する芸術の世界にも及んでいた。建築、彫刻、絵画などは布教のための最も有効な手段であった。プロテスタントが批判の対象としたものは、それまでカトリック教会の主導によって形成されてきた宗教的美術の禁止であり、そのイメージの破壊であった。改革者たちは、宗教的美術は神の崇拝というよりイメージの崇拝であると批判した。続いて、神の恩寵を受けるための儀式としてのサクラメント(秘蹟)や煉獄の考えに反対した。

  救いは行いによらず信仰のみによると説いたプロテスタントとカトリックでは、「良き行い」の重要性も異なっていた。カルヴァンやルターにとっては「良き行いという言葉はなんの意味もない。というのは人間の性格からはなんの良きことも由来していなからだ。人間は恩寵を受けることがないほど罪深い」と説き、信仰だけが救いにつながるとした。プロテスタントは、教会はキリストとの関係を取り違えているとして、カトリック教会によって創られた聖母マリアへの尊敬のレベルにも異議を唱えた。

  プロテスタントが提起した一連の問題は、カトリック世界を揺るがし、対応を迫った。トレント会議を始めとする動きが次々と展開した。宗教世界における大激動は、さまざまな経路を通して画家ラ・トゥールにも伝わってきた。宗教改革思想がどのような形や経路をたどってロレーヌ地方、そしてラ・トゥールに達したかは大変興味を惹くところだが、後世から見ると、この
画家は宗教世界に突如として生まれ渦巻く大きな奔流に棹さしていた。


Image
Courtesy of Olga's Gallery

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ラ・トゥールを追いかけて(55)

2006年01月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールの人気度   

  昨年の「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」をひとつのきっかけに、これまで人生の途上に出会った作品や旅の思い出などをメモ代わりに書き記してきた。いざ、書き始めてみると次々と糸車を繰るように、脳の片隅に残っていた記憶も戻ってきた。実にさまざまな謎を秘めた希有な画家だと改めて思う。 
  
  西欧美術界では押しも押されぬ大家となったラ・トゥールだが、日本での知名度はいまひとつであった。しかし、東京での特別展が大きな契機となって、この画家や作品に関心を寄せる人々が増えてきたことは、「ラ・トゥール」サポーター?の一人として大変喜ばしい。 

地味だが忘れがたい作品
  この画家は日本にかぎらず、西欧でもやや地味な存在であり、時々思いがけないことで美術評論家などを驚かすこともあるようだ。一度見たら忘れられない作品も多く、人々の心の底にいつか見た作品の残像などが残っていて、特別展などが盛り上がるのかもしれない。それに加えて、この画家が残した作品がほぼ40点余りと数が少ない上に、世界中に分散していることも、隠れた人気の背景にあると思われる。なかなかすべての作品を見ることが難しいのだ。 

  この点に関連して面白いことは、フランスの美術史家などでも、アメリカに流出した作品については、国宝を外国に買われてしまったような悔しさがあるのか、かなり距離を置いていることである。これまで開催された特別展のカタログなどにも、そうした感情めいたものが時々うかがわれて興味深い。 

観客動員抜群の画家
  さて、今回は中休みの意味も兼ねて、ラ・トゥールの人気度を示すデータをご紹介しよう。少し古いデータだが、1997年にヨーロッパとアメリカで開催された特別展で、観客数が多かった展示(crowd-drawaing art shows)の順位である。 順位で上位7位までの6つが19世紀後半以降の画家やその作品展であることに注目したい。ここで興味あるのは、ルノワール、ピカソ(2,3位)に次いで、第4位に17世紀異色の画家ラ・トゥールが入っている。まさに「思わぬ人が入っていた」odd man in という批評家の感想である。そして、わざわざラ・トゥールの作品は長らく忘れられており、その光と陰についての絶妙な扱いが、現代人にアッピールするのだろうと付け加えている。  

  このパリのグラン・パレで開催されたラ・トゥール展については、ランキングを紹介した記事も「輝けるジョルジュ」Glorious Georges と最大級の見出しをつけている。 

  なお、このグラン・パレの回顧展の入場者は合計で53万4613人にのぼり、パリで行われた単独の過去の巨匠を対象とした展覧会としては、もっとも多い入場者を集めた(ドイツのカッセルで行われた国際的現代美術展「ドクメンタ」と並んで、1997年にもっとも多くの入場者を集めた)との別の統計もある。**    

  ご参考までにランキング表 What they like を掲載しておこう。


順位 1日あたり観客数 合計観客数(千人)  展覧会タイトル   開催場所         
1) 6,042  489  Renoir's Portraits  Art Institute, Chicago

2) 4,500  434  Picasso and the Portrait  Grand Palais, Paris

3) 4,424  531  Picasso: Early Years National Gallery of Art,Washington, DC

4) 4,420  372  Georges de La Tour  Grand Palais, Paris

5) 4,318  220  Art in the 20th Century  Martin-Gropius-Bau, Berlin

6) 4,027  338  Monet and the Mediterranean  Kimbell Art Museum, Fort Worth

7) 3,500  255  Monet and the Mediterranean  Brooklyn Museum of Art, New York

8) 3,240  165  Art and Anatomy  Museum of Art, Philadelphia

9 ) 3,227  29  Maharaja  Castello di Pralormo, Turin

10) 3,217  270  Art in Vienna  Van Gogh Museum, Amsterdam

Original Source: Art Newspaper

*なお、この統計について、トリノのマハラジャ展はミスリーディング。ランクは観客数で、会期は9日のみとの記述あり。
**ジャン=ピエール・キュザン&ディミトリ・サルモン編、高橋明也監修『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』創元社、2005年 p.134

Reference "Gloriouos Georges" The Economist February 5th 1998

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ラ・トゥールを追いかけて(54)

2006年01月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

「聖ピリポ」(「アルビの使徒シリーズ」の一枚)Chrysler Museum of Art, Norfolk, Va.所蔵*
Credit
http://www.abcgallery.com/L/latour/latour4.html

「アルビの使徒シリーズ」をめぐって(3)

  ラ・トゥールは、自ら描いた新たな聖人のイメージが時代にいかに受け取られるか、画家として大きな試練の場に立っていた。使徒を普通の人に近づけるといっても、ただの世俗の人でもなく、従来のように神格化された聖人でもないというきわめて困難な課題に立ち向かっていた。ロレーヌではすでに知られた画家となってはいたが、このシリーズに取り組んだ頃は、画家としては若い時期であったとみられる。画家は、全体の構想、そして構図や技法にもさまざまな工夫をこらしている。  

画家の構想したもの
  今日判明しているかぎりでは、まず、最初に作品の体系が統一されてイメージされたと思われる。後年継ぎ足しなどの加工が施された作品もあるが、ほぼ67x53cm程度の大きさである。構図の上では、使徒は前向きか斜め横向きかの違いはあってもすべて上半身像として描かれている。さらに、描かれた人物と作品を見る人とが直視の関係にならないよう、目を伏せるなどの配慮が加えられている。使徒はそれぞれが自らの世界に沈潜しているように描かれている。

  これらのラ・トゥールの初期の作品は、使徒も一人ずつ描かれている。そして、いずれの作品にも具象的な背景はなにもない。写実的であるかにみえて、実はそうではない。画家が目指したのは、聖俗相半ばする次元である。画面の半分には光が、半分は陰影の中に描かれている。すべて昼の次元ではあるが、光源は画面の中にはない。昼の光の中に描かれた使徒や聖人の画像は、ラ・トゥールの他の作品にはない。この使徒シリーズに限られている。

世俗の姿をした使徒たち
  ラ・トゥールの使徒たちは、すべてふつうの人々の装いで描かれている。福音書が示し、トリエント会議が設定した方向である。当時の人々は皆、こうした服装をしていたのだろう。わずかに俗界の人々とを隔てるようにさりげなく取り込まれているのは、使徒であることを気づかせるアトリビュートにすぎない。使徒の出自など背景について知らない人が見れば、だれもこれが使徒の姿とは気づかない。しかし、世俗の人にはない不思議な力が感じられるのではないか。

  ラ・トゥールの目指した写実とは、ルネッサンスのそれと大きく異なっている。ルネッサンスのスタイルは、作品を見る人が宗教画とはこういうものだという期待の路線の上に描かれている。言い換えると、作品を見る人が考える理想をさらに追求したものといえる。他方、ラ・トゥールはこうした理想化したイメージを追っていない。 この画家は世俗の世界に生きる普通の人々にモデルを見いだし、使徒が貧しい出自であることを示唆している。

  同時代のカラバッジョは既成の観念を破壊したが、ラ・トゥールも彼なりの発想で新たな次元を切り開いている。あたかも同時代のシェクスピアやセルヴァンテスが文学を変えたように、絵画の世界で行われた革新であった。 カラバッジョが反宗教改革にもたらしたものは、日常の状況を高貴な形で表すことであった。しかし、教会は彼の時代においてはこうした考えに基づく絵画化は拒否した。たとえば、カラバッジョの聖人の描き方は衝撃的であったから、バロックの大家は、ローマのSan Luigi dei Francesi のThe calling of saint Matthew (「聖マタイの招命」)を書き直さねばならなかった。

  ラ・トゥールの作品は時代に反逆的ではない。それにもかかわらず、それまでの使徒像とは大きく異なる。たとえば、ある使徒は農夫のように描かれている。顔は日焼けし、長年の労苦がもたらしたしわが目立つ。髪も長らく働き続けていることを示している。見る人はそこに親しみを感じよう。

うつむいた聖ピリポ
  たとえば、ここに紹介する聖ピリポ Saint Philippe は、紫緑の外衣の下に、この画家がお得意の微妙な赤い色のシャツを着て、立派なひげをたくわえ、うつむいた姿で描かれている。キリストから信頼されてはいたが、きわめて内向的でシャイな性格であったという言い伝えを反映するかのごとくである。シャツのボタンの色合いなどを見れば明らかだが、非常に細部まで丁寧に描かれている。画家がこのシリーズに注いだ努力のほどがしのばれる。

  見る者からは距離を置き、なにかに沈潜している使徒のイメージである。何か分からないが、内なる力を感じさせる威厳と内省の面持ちが伝わってくる。人物は自らの情緒をコントロールしている。具体物がなにもない、空虚な背景は見る人の視線を集中させ、情景にひきしまった感じを与える。題材は日常どこにでもいそうな人物を描きながらも、なにか異なった不思議なものを伝達している。

  ラ・トゥールは、日常の光景と宗教的光景を巧みに融合しているといえようか。昼の光の下では聖人のアトリビュートが明瞭に判別できる。しかし、これがなければ、当時のロレーヌなどでよく見かけたかもしれない普通の人の絵にすぎない。 この天才画家がことさら、あいまいとさせたものは、反宗教改革の要請に応えたものでもあった。身近にいる人だから、救いを求めやすいのだという思いがこもっている。ここにも、画家の深い思索の一端がうかがえる。



*この作品は1941年にジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作と判定された。現在はアメリカ、ヴァージニア州ノフォークのクライスラー美術館に所蔵されている。ノフォークはかつて90年代に旅の途中で訪れたことがあったが、この美術館が所蔵しているとの情報を知らず、残念にも見落としてしまった。


Reference
C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I. (日本語版 神戸、クインランド、2005).

国立西洋美術館『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』読売新聞社、2005年

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ラ・トゥールを追いかけて(53)

2006年01月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 
アルビの礼拝堂プラン*   印のついた箇所にシリーズは掲げられていた。

    
「聖トマス」(「アルビの使徒シリーズ」の一枚。国立西洋美術館蔵)
Credit:

http://www.abcgallery.com/L/latour/latour5.html


「アルビの使徒シリーズ」をめぐって(2)
  「ラ・トゥールを追いかける」ことは、ミステリーを読み解くような楽しみがある。なんとなく作品や資料を見ていると、思いがけずキーが与えられたりする。答にたどりつけなくとも、どんなことがあったのだろうと想像するだけで、時空はるかにさかのぼることができる喜びがある。    

  日本の国立西洋美術館が所有することになった「聖トマス」Saint Thomas を含めて、合計12枚の「アルビの使徒シリーズ」は、今日では5枚だけが真作として確認されている。いかなる経緯でこの作品群が生まれ、その後400年近い年月の間になにがあったのだろうか。

謎のままの制作動機・背景  

  前回のブログで紹介したフランス国立美術館研究・修復センターのDVD資料によると、パリの著名な収集家であった僧院長フランソワ・ド・カンが、1694-1695 年の間にアルビ大聖堂に作品を贈ったとの記録がある。この時もどうしたことか、いつになっても2枚だけが到着せず、カン僧院長が早く送るように催促をするということが起きている。なにがあったのだろうか。   

  実際には作品自体は、これよりはるか以前に制作されていた。たとえば、「聖トマス」はおそらく1628-32年の頃に描かれたと推定されている。僧院長カンがどういう経緯で、この一連の作品を所有し、アルビの大聖堂へ贈ったのかも不明なままである。   

  そもそも誰が何の目的で、このシリーズの制作を画家ラ・トゥールに依頼したのだろうか。その経緯はこれまでのところなにも分かっていない。作品の大きさや人物の配置などに一定の統一性が見いだされることなどから、当初はロレーヌの小さな修道院などからの依頼であった可能性も考えられる。それがなんらかの理由(たとえば戦乱を避けてパリに移転するなど)があって、収集家であったカン僧院長などのコレクションになったのかもしれない。ラ・トゥールは同時代の芸術家がしばしば携わった教会や修道院の壁画などの大きな作品を手がけていない。少なくとも、そうした作品や記録は発見されていない。

ある日消えてしまった作品群  
  いずれにせよ、今日に残る記録では、1698年にはキリスト像を含む13枚の作品がアルビの礼拝堂の壁に掲げられていたことが分かっている。その後1795年の段階でも作品はそこにあったのだ。1820年にはサント=セシル大聖堂の修復が行われた。しかし、不思議なことに、1877年の記録ではこれらの絵画はなんらかの理由で礼拝堂から消失している。なにがあったのだろうか。さらに、興味深いことは、その後今日までいくつかの作品が再発見され、現代のわれわれが目にすることができるようになった。 「使徒たち」はどこへ行っていたいたのだろうか。  

  これらの13枚の作品がいかなる理由で散逸し、再び何枚かが発見される過程(5枚が発見されて残っている)はミステリーを読み解くようで興味深い。これからも、予想もしなかったところから再発見される可能性も十分ありうる。 礼拝堂に掲げられていた作品  1698年の礼拝堂修復の時には、このアルビ・シリーズはすべて存在したことが確認されていた。作品は礼拝堂の前方の壁に掲げられていたという。図版写真の○印のあたりである。フランス国立美術館研究・修復センターのDVDには、礼拝堂にこのシリーズが掲げられていた当時の状況を再現した3D図が含まれている(残念ながら、ブログではお見せできない)。  

好まれた使徒シリーズ  
  ラ・トゥールの時代には、使徒シリーズはロレーヌばかりでなく、ヨーロッパ各地で大変好まれたテーマであった。教会の依頼などもラ・トゥール以外にも著名な画家で同様な試みがいくつかなされている。たとえば、ルーベンスは1610年にレルマ侯爵のために同じ聖人を、ラ・トゥールとは異なりきわめて理想化したイメージで描いている。ルーベンスの助手でもあったヴァン・ダイクも1620か1621年にアントワープで同様な主題で制作している。   

  パリや当時は未だ政治的にも独立していたロレーヌでは、カロ, ビュスニックBüsinck などが銅版画でこのシリーズを制作もしている。しかし、知られているかぎり油彩で描いているのは、ラ・トゥールだけである。後年、ラ・トゥールの特徴とされるにいたったいくつかの様式は、すでにこの時期の彼の作品に使われている。

改められる聖人のイメージ  
  カソリック宗教改革の時代、教会側は12人の聖人・使徒を称揚していた。これらの使徒は生きている頃は、キリストと直接の関係があった人々であり、キリストの言葉を広めたのは彼らであるとされてきた。また、キリストの生涯における重要な場面を目にしているいわば証人である。これらの点が、彼らに特別な役割を与え、教会は布教などで必要な時には彼らを活用してきた。   

  これに対し、宗教改革者、プロテスタント側は従来カソリックの聖人たちが描かれてきた、神格化されたようなフォーマルなイメージに反対を唱えた。こうした描写の形式性は人々を使徒に近づけるのではなく、逆に距離を作り出していると攻撃した。   

  批判を受けたカソリック教会側は、それまでに形成されてきた使徒の立場や役割を見直す必要に迫られた。こうした背景から、教会側は使徒と人々の関係を再構築することになった。福音書において、これらの使徒は当時の社会では決して裕福ではなく、むしろ貧しい背景を持った人々であると記されていることに着目した。画家や彫刻家などの芸術家に課せられた役割は、この線に沿って聖人をふつうの人々の視線のレヴェルに近く戻すことにあった。

  しかし、その仕事は決して容易なことではなかった。長い歴史の経過とともに、人々の間には固定化された聖人のイメージが強く浸透していた。改めて「聖」と「俗」のバランスをいかに築き直すか。ラ・トゥールはこの困難な課題に取り組んだ一人であった。

Reference
* C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I
. (日本語版 神戸、クインランド、2005). ちなみに、このDVD・ROMはDVDプレーヤーでは使用できない。ウインドウズ環境のみで再生できる。

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ラ・トゥールを追いかけて(52)

2006年01月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 
アルビ大聖堂全景
http://www.all-free-photos.com/show/showphoto.php?idph=IM3670&lang=en

「アルビの12使徒シリーズ」をめぐって(1)
  


  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家の作品に、人生の途上でたまたま巡り会った。昨年の東京での特別展をきっかけに、それまで見聞してきた知見を含めて「覚え書き」のつもりで書き始めたシリーズだが、予想を超えて回数を重ねてきた。それは、この画家の作品と生涯が文字通り「発見の歴史」であったことにも関係している。作品の背景を調べていると、時代とともに次々と新たな発見がある。

  この「ラ・トゥールを追いかけて」
の旅は、単にラ・トゥールという長らく埋もれていた画家、そして作品についての知見の充実にとどまらず、画家の生き方について迫る旅のようなものであった。美術史上は文字通り歴史の闇の中から発見されたラ・トゥールだが、次々と新たな作品も発見され、当初は思いもかけなかった「昼の世界」の作品解明も進んだ。この画家の精神、そして作品世界の本質は、厳しい「闇」の中に埋もれているのだが、光はその深く沈んだ世界をわずかだけかいま見せるものとして、どこからともなく差し込んでくる。   

  この画家がいかなる思索の上に作品を構想し、制作したかというわれわれが最も知りたい部分について、画家自らの手になる制作記録、日誌、書簡などの類は、ほとんどなにも残っていない。しかし、世俗の世界における画家の生き様を推測させる記録が年を追って発見されてきた。だが、それらはあくまで画家の人生のわずかな断片を第3者が記録したものか、画家本人の世俗的生活のほんの一部に関わるものにすぎず、画家の心象世界を推測しうるものではない。   

  ラ・トゥールの作品は、それらと無心に対することによって、その深い精神世界をかなり享有することができる。画家がなにを心に描いて作品制作に当たったか。一度見た作品でも、後日再び見ると、思いがけない発見をすることもある。

「アルビの使徒」シリーズの背景  
  ラ・トゥールの作品をかなり見ている人々の間でも、必ずしも正当な評価を得ていないと思われる作品がある。「大工ヨセフとキリスト」、「生誕」あるいは「いかさま師」など、現代人にも大変人気のある作品の傍らで、やや取りつきがたい、しかしかなりはっきりとした特徴を持った一連の絵画がある。昨年、日本で初めての「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」の開催動機となった「聖トマス」Saint Thomas を描いた作品もその中に含まれる。そのほとんどはキリストの使徒たちを描いた宗教的作品である。

  この宗教的背景ということもあって、東京での特別展でも「聖トマス」の人気度?はいまひとつであった(重要な使徒の一人なのだが、容貌が厳しく描かれている上に、手にしている槍が見る人にやや取り付きがたい印象を与えることも影響しているかもしれない)。

  他の作品の方が良く知られていたり、直接的に訴えるものがあるためと思われる。この点は、キリスト教文化により近接しているヨーロッパの人々などについても、かなり当てはまる。何人かの友人たちに聞いてみると、ラ・トゥールによって描かれた使徒たちの出自まで知っている人は、今日ではかなり少ない。  

  今回とりあげるのは、この「アルビの12使徒シリーズ」The Apostles Series in Albiと呼ばれるキリストと12人の使徒を描いた作品(ただし、後述するように全作品が現存するわけではない)である。制作年代としては、ラ・トゥールの生涯で比較的初期に描かれたと推定されている。 この作品群については、フランス博物館科学調査・修復センターの協力で、昨年の東京での特別展に合わせて、その研究成果の一部がDVDの形で制作・販売されている*。使徒シリーズのみならず、ラ・トゥールの生涯が最新の研究成果に基づき、大変コンパクトにまとめられている。この画家と作品に関心を持つ者にとっては、きわめて便利な一枚である。また、東京での特別展のカタログも「アルビの12使徒」シリーズについて、多くの情報を含んでいる**。それらも参考にしながら、改めて「12使徒シリーズ」を見てみたい。

まとまっていた作品  
  これらの作品は1690年代末にフランスの南西部にあるアルビのサント=セシル大聖堂に贈られた。大聖堂のCanon(司教座聖堂参事会員)であったニュアラールJean-Baptiste Nualardの要請で、大聖堂の内陣にある第6礼拝堂funeral chapelに掲げられたはずであった(次回に場所を記す)。パリの著名な収集家であったカン僧院長abbot François de Camps が、1694-1695 年にアルビに作品を贈ったとの記録がある。このシリーズのすべてをカン僧院長自らが所有したものか、他の収集家の所有であったかどうかは分かっていない。作品が制作された目的とか、1624-1694年の間の経緯については、今日の段階ではなにも分からない。 キリスト像を含めて13枚あったはずの作品の中で、5枚だけが真作として発見され、現存している。そのうち2枚は今日もアルビの美術館にある。

  原作があるのは、使徒の名前でいえば、Saints Andrew, James the Lesser, Philip, Judas Thaddeus, and Thomas である。コピーが残っているので、他の6枚の作品については構図が確認できる。しかし、Saint Johnと Saint Matthew については、どんな構図であったか分からない。しかし、ここへたどり着くまでには、失われた作品の発見を含めて、美術史家などの多大な努力が注がれてきた。それらを通して、なにが明らかになったのか。「アルビの使徒たち」の行方を少し追ってみたい。


Reference
* C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I.
(日本語版 神戸、クインランド、2005). ちなみに、このDVD-ROMはDVDプレイヤーでは閲覧できず、Windows環境でしか使えない。

**
    「アルビ・シリーズ」の1枚である「聖トマス」が、国立西洋美術館の所蔵になったことをきっかけに開催されたこともあって、下記特別展のカタログには、このシリーズについて、簡潔だが最新の情報が含まれている:
国立西洋美術館『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』読売新聞社、2005年

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ラ・トゥールを追いかけて(51)

2005年12月15日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ラ・トゥールの庇護者ルイXIII世

ラ・トゥールのパトロンたち(2)


フランス王室にもいた多数のパトロン
  ラ・トゥールはその生涯のある時期に「ランタンを掲げる聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」をフランス王ルイXIII世に、「悔悛する聖ペテロ」を宰相リシリューに献呈したと推定されている。しかし、その正確な背景については未だ十分解明されていない。

  ラ・トゥールは生涯に1回以上パリへ行っていると思われるが、記録の上では1回の旅についてのみ概略が判明しているだけである。この画家がリュネヴィルからパリまで出かけた理由は必ずしも十分解明されていないが、研究が進むにつれてラ・トゥールの人気が17世紀前半には、ロレーヌの地方画家という域を超えて、パリにまで広がっていたことを推測させる状況が浮かび上がってきた。戦乱の世の中にもかかわらず、この希有な才能を持った画家の作品は多くの愛好者から熱望され、パリを中心としてフランスの広い範囲で収集の対象になっていた。

  この事情を少し詳しく記すと次のようなことである。ラ・トゥールの研究家テュイリエによると、研究者ミシェル・アントワーヌMichel Antoineが、ラ・トゥールが1639年に6週間、パリにいたことを示す文書を発見している。それによると、滞在の目的はフランス王のための仕事となっているが、具体的にいかなることであったかについては文書はなにも語っていない。

パリへの旅は
  また、別の王室文書 は、「ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに、王の仕事のために、画家がナンシーからパリへ旅をした費用、パリの滞在費、そして帰途の費用として、1000リーヴルが支払

われた」と記している (Thuillier 109.)。この文書に署名している責任者の一人、クロード・ド・ブリオン Claude de Bullionはこの時代の富裕な絵画収集家として知られており、ラ・トゥールのパトロンでもあった。彼がラ・トゥールの作品を所蔵していたことは別の文書で推測されている。すなわちド・ブリオンが、「ラ・トゥール作と思われる絵画を3点持っていた」との記録が残っている。さらに、偶然ではあろうが、ドブリオンの弟は1634年にリュネヴィルの住人からフランス王への忠誠誓約書をとりつけた王権の代理人だった(Choné 83)。 ラ・トゥールもこの誓約書を提出したことは、すでに記した通りである。

  美術史家の中にはラ・トゥールは重要な庇護者やパトロンから制作費をもらうことを暗黙の了解の上で作品を贈ったこともあったのではないかと推定している人もいる。たとえば、ロレーヌ公チャールスIV世、フランス国王ルイXIII世、リシリュー枢機卿などは、こうした形でのパトロンであったと思われる。王侯貴族に絵画などの作品を贈呈することは、かなり一般的に行われていたのだろう。
  
  先に記したフランス王室コレクションの「ランタンを掲げた聖イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」については、ドン・カルメ Don Calmetが残したこの画家につての有名な逸話(1751)があることは以前のブログに記した。「彼は聖セバスティアヌスの夜の絵画を、ルイXIIIに贈った。それは大変素晴らしい出来映えであったので王はその他の絵をすべて自分の部屋から取り外させ、この絵だけをかけた」(Thuillier 109). 

  このように、ラ・トゥールの作品のあるものは、1630年代にフランス王室関係者の収集品となった。しかし、どういう理由と機会のがあって、それが実現したかについては正確には分かっていない。推定されるひとつの時点は、ルイXIII世とリシリューが1633年、ナンシーに滞在した間である。その時にラ・トゥールは自ら作品を贈る機会があったと思われる。

   テュイリエは、ラ・トゥールのただひとつ確認できるパリへの旅は、「聖セバスティアヌス」の王室コレクションとの関係だとする。画家がこの滞在期間にルーブル宮に与えられていた部屋で制作したか、リュネヴィルから作品を自ら運んだかのいずれかの可能性が考えられる。前者の可能性は高い。そして1000リーブルがラ・トゥールに支払われているのは、画家への王の感謝のしるしと考えられる(Thuillier 109)。

   このパリへの訪問の後、ラ・トゥールは「王の画家」peintre ordinaire du roi の称号を授与されている。美術史家の間では、このタイトル自体はさほど重みはないとされている。テュイリエは、この称号は形式的なもので、なんらかの特権が付帯しているわけではないとしている。さらにこの称号の保持者は、パリの画家にとっては、ギルドの制約を避ける上で役立ったと述べている研究者もいる(Choné 84)。

   ラ・トゥールはもしかするとロレーヌよりもパリで仕事をしたかったのかもしれない。こうした称号が王室からの報奨金などを伴わなかったとしても、作品への注文増加につながった可能性は高い。ラ・トゥールはロレーヌでこの称号を与えられた唯一の画家であった(Choné 83)。

上納金よりも絵画を望んだラ・フェルテ
  戦乱・悪疫流行など、決して安定した世の中ではなかったが、ラ・トゥールは1640年代には画家として成功の頂点に立っていた。折しも、ロレーヌの新しい知事として、リシリューの死後、その後を継いだマザランによって任命されたラ・フェルテ公爵 the marquis de La Ferte が、1643年にナンシーへ赴任した。彼は自らの職責とも関連して、熱心な収集家となった。

  彼はナンシーとリュネヴィルに毎年、上納金の代わりにラ・トゥールの絵画を要請していた。これに応じて、ナンシーは(おそらくジャック・カロの手になるものと思われる*)デェルエ Claude Deruet の銅版画、リュネヴィルはラ・トゥールの作品を贈ったようだ。1645年から画家が世を去った1652年の間に、ラ・フェルテには6枚のラ・トゥールの作品が贈られた。この点については、幸いにも主題と価格が最も詳細に判明している。ひとつの主題だけが不明である。残りの5枚の中で4枚はラ・フェルテの1653年の収集品と合致している。

    ラ・トゥールの作品を近くに置きたいと思った人々は、ここに記した名士ばかりではなかったはずである。そのため、模作も多かったことは想像に難くない。当然、ラ・トゥール工房は忙しくなり、作品も多数生み出されたことが推測される。戦乱などがなかったならば、われわれはもっと多くの作品に接していることだろう。

*Reinbold(1991)に収録の作品かと思われる。

Reference
Paulette Chon
é, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991


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ラ・トゥールを追いかけて(50)

2005年12月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale
Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991


ラ・トゥールのパトロンたち(1)
 

    晩年のラ・トゥールは、ロレーヌのみならずパリを中心とするフランスにおいても、一流画家としての名声を確保していた。これは、画家の天賦の才能に加えて、世俗の世界においても並々ならぬ処世の術を発揮した結果であることは繰り返し述べた通りである。

  加えて、当時の芸術家たちにとって大変重要であったのは、彼らを支える庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤を準備してくれる庇護者たちの存在が欠かせなかった時代である。これまでのラ・トゥールの画家人生を振り返ってみると、ある時期からかなり多数の有力なパトロンそして作品を求める人々がいたことを知ることができる。ブログでもそのつど触れてはきたが、ここでラ・トゥールのパトロンたちの群像を改めて整理してみたい。

最初のパトロン:ラムベルヴィリエ
  ラ・トゥールが歴史的記録に現れるようになって以来、美術史家によって明らかにされてきた成果によると、この画家を世に出すについて最初に支援の手を延ばしたのは、メス司教区でヴィクの代官であったアルフォンス・ド・ラムベルヴィリエ Alphonse de Rambervilliers であったことは、すでにこのブログに記したとおりである。
  彼はロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。 彼はジョルジュと結婚したネルフの親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。

  背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであったし、若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエであったのではないかとの推測もなされている。 ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。ラ・トゥールの研究者で、とりわけ家系や年譜の形成に大きな貢献をしたアンネ・ランボル Anne Reinboldの著書には、国立文書館に残るラムベルヴィリエの肖像画が掲載されているが、文人らしい知性を感じさせる容貌である(photo)。
  
    ちなみにランボルの研究は、ラ・トゥールの家系、年譜の丹念な調査として出色のものであり、後の研究者にとって貴重な布石を与えた。

   ジョルジュとネールの夫妻は、1620年にはリュネヴィルへ移住したが、ロレーヌ公アンリII世は、ナンシーよりもこの地を好んで城も造営していた。メス司教区の下にあったヴィクから移住したジョルジュはアンリII世の許可が必要だった。このためにジョルジュから提出された請願書には、画家としての職業の誇示、租税公課の免除などかなり強い要求も含まれていた。アンリII世は、リュネヴィルに住む貴族でもあるネルフの父親とのつながりもあって許可したと思われる。

芸術家を支援したロレーヌ公
  ロレーヌ公は伝統的に、フランス王よりも先に芸術に関心を寄せており、地域の画家などの活動を支援してきた。ラ・トゥールについても、ジョルジュとネルフの夫妻がリュネヴィルへ移住した年から、その点が感じられる。
  
  記録に残るかぎり、1620年にアンリ II 世はラ・トゥールに2枚の制作を依頼しているが、2枚目は聖ペテロの肖像画であったらしい。これには150フランの支払いがなされている。 この年、ラ・トゥールは最初の徒弟となったクロード・バカラClaude Baccaratを4年間、200フランで契約をしているが、この後徒弟を受け入れるごとに契約費用は急速に引き上げられて行く。これは、ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてきたことを反映していると思われる。たとえば2番目の徒弟の場合は、1626年から3年契約で500フランになっていた。そして3番目の徒弟フランソワ・ナルドワイヤンの受け入れでは700フランへ増加している(Choné, 54)。

戦乱に失われた作品
  1634年フランス王ルイ13世は、ロレーヌをフランス領へ併合した。その年ロレーヌの貴族たちの多くはフランス王へ忠誠を誓っている。ラ・トゥールもその一人だが、ロレーヌ公との関係も断絶していない。 フランスと神聖ローマ帝国の間で、ロレーヌは30年戦争の戦場と化していた。亡命していたロレーヌ公チャールスIV世は神聖ローマ側についていた。
  
  1638年9月30日、リュネヴィルはフランス軍の侵攻を受ける。この戦乱の時に、ロレーヌにかなり存在したはずの画家の作品の多くが失われたと思われる。


Reference
Paulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

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ラ・トゥールを追いかけて(49)

2005年11月28日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  ジョルジュ・ラ・トゥールの晩年の生活は、動乱の時代にもかかわらず、かなり恵まれたものであったことは、これまで紹介した一連の出来事からも推察される。 ここでは、ジョルジュの子供でただ一人画家として父親の職業を継承したエティエンヌの結婚について、少し記してみたい。この結婚には、当時の父親ジョルジュの立場、社会的ステイタスや地縁の関係などがさまざまに反映されており、興味深い点がある。

エティエンヌの結婚  
  1647年2月23日、ラ・トゥールの息子エティエンヌは商人の娘アンヌ・カトリーヌ・フリオAnne-Catharine Friot と結婚している。エティンヌが26歳の時である。新婦はヴィックの富裕な商人ジャン・フリオ Jean Friot の娘であった。フリオ家は戦乱で荒廃が進んだにもかかわらず、この地方では大変豊かな家として知られていた。父親ジョルジュは結婚を機にヴィックを離れ、妻の実家のあるリュネヴィルへ移っていたが、ヴィクとの関係は途絶えていなかった(Tuillier 184-185)。ジョルジュとしては息子の配偶者を選ぶについて、戦乱で荒廃したリュネヴィルよりは、自分の出身地であるヴィックに愛着を持ち、つながりを保っていたのかもしれない。

  ジョルジュの場合は、パン屋の息子と貴族の娘との結婚であったが、エティエンヌの場合は画家と富豪の商人の娘との結婚であった。2月23日の結婚契約書に記されたところでは、新婦の側の出席者にはヴィックの市長、著名な画家のジャン・ドゴス Jean Dogoz(新婦のいとこ)、そして多数の富裕な商人たちが含まれていた。他方、新郎側の出席者としては、メス司教区の区長・司法官を始め、多数の著名な貴族が参列した。ジャン・ドゴスは、記録にはないがジョルジュが徒弟として修業した可能性、リュネヴィルへ移った(画家が少なかった)背景などとの関連でも名前が出る画家でもある。

  ジョルジュの結婚の時の参加者を裏返したような印象がないでもない。そして、祝宴は当時の状況としては、かなり盛大であったようである。

祝宴費用は父親が負担
  この結婚に際して、新婦は新郎からの慣習 dowry として2,000フラン、400フラン相当の家具などを贈られている。この他に、新婦は嫁入り道具、亡くなっていた母親から相続した土地などを所有していた。

  ラ・トゥールは新夫妻の結婚式の祝宴の費用を負担したり、当時の習わしであったらしいが、向こう2年間若夫婦を扶養すること、将来の息子の嫁に対して「100エキュ相当の宝飾品」を贈ることなどを約束している。この厳しい時代環境で、エティエンヌ夫妻はきわめて恵まれた条件で新家庭のスタートを切ったと思われる。

  エティエンヌは結婚後しばらくは、父親の住居の一隅あるいは別屋に住み工房に通い、その仕事を助けていたと思われる。しかし、どこまで彼が父親の制作過程に関与したかは分かっていない。エティエンヌの署名のある作品も未だ発見されていない。また、工房にいた徒弟の役割について推定する手がかりもない。エティエンヌ夫妻は2年後の1649年にリュネヴィルのサン・ジャック教会に近い所に6年間の契約で家屋を借りている。父親ジョルジュの工房・邸宅に近い場所である。

  エティエンヌの結婚契約書の中で、ラ・トゥールは「国王の画家にして年金受領者」と記されている。しかし、画家が若いルイ14世から年金を受けていたことを証明する資料はまったく発見されていない。

禍福はあざなえる縄の如し  
  若い息子夫婦の新世帯を扶養しうるほど、豊かになったラ・トゥールには万事順風が吹いているようにみえた。しかし、人生は一寸先は闇であった。息子の結婚という慶事を祝ったラ・トゥールであったが、その翌年1648年8月24日には、「天然痘」によって、末娘でまだ12歳であったマリーの命が奪われるという悲劇に出会っている。記録で知りうるかぎり、エティエンヌ、クロード、クリスティーヌ以外のラ・トゥール夫妻の子供は、この時までに、みな死去していたとみられる。

  これまでのラ・トゥールについて発見された記録から、天賦の才に恵まれた画家がいかに世俗の世界を巧みに生き抜き、社会的栄達をとげたこと、そして息子を貴族の階級にまで引き上げてきた過程を跡付けることができた。当時のロレーヌの社会的流動性は、歴史の教科書に描かれたような階層ピラミッド型の固定的なものではかならずしもなく、かなり流動性があったらしいことは、これまで見てきたいくつかの例からもうかがえる。度重なる戦乱、悪疫などが社会的基盤を根底から揺るがしたことも、関係があるのだろうか。


Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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ラ・トゥールを追いかけて(47)

2005年11月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

充実する画家としての生活 
    いまやロレーヌを代表する有名画家となったラ・トゥールは、努力が実り、収入や資産も大きく増えた。しかし、戦乱が続き、時代環境が大変厳しかったために、その維持・保全のためには多くの努力が必要だったようだ。前回のブログにも一端を記したように、徴税吏との衝突を初め、訴訟などにかかわる記録もこの時期に多い。

    画家としての職業生活を円滑に維持するためには、画業を支える工房の充実も必要だった。すでに記したように1636年には悪疫が流行し、その年5月26日には、受け入れたばかりの幼い徒弟ナルドワイヤンの命が奪われてしまった。その後、ラ・トゥールはおそらく息子のエティエンヌに頼って仕事を続けてきたものと思われる。しかし、画家としての名声が高まるとともに、エティエンヌだけでは工房での仕事も大変になってきたのだろう。1643年に入って、新しい徒弟を受け入れた記録が残っている。

新しい徒弟の受け入れ
    1643年11月10日*
リュネヴィルでラ・トゥールは、新しい徒弟クレティア・クレティアン・ジョルジュChretien Georgesと契約を交わしている。クレティアンはヴィックの出身で、ラ・トゥールは結婚によってその家族とつながりが生まれたらしい。徒弟契約には次のような内容が含まれている:

「当事者たるラ・トゥール殿は、当事者のクレティアンを3年の期間、その家に受け入れて住まわせ、養育するものとする・・・・・・今後、条件や状況・変化に応じて、この期間彼に対して隠匿することなしに率直かつ熱心に絵画の技や知識を教え、また学ばせるものとする・・・・・クレティアンに対し、その師匠に仕えるのにふさわしい品位ある、しかるべき衣服を遅れずにまた欠かさずに支給し、また彼が必要とする肌着類や身の回りの品々についても同様にするものとする。クレティアンは、市内および市外において、要求されるかれの仕事に従事し、またその仕事が必要な場合は畑に行き、食事の給付をし、また朝夕熱心によくその乗用馬の世話をするものとする。これらすべてのことを、善き献身的な召使として忠実かつ熱心に勤めること」。  

    この内容から推測されるとおり、この時代には徒弟は親方である画家の家に住み込み、食事の準備や乗馬の世話まで、親方の身の回りの世話をする召使としての役割が求められており、その反面で親方は技能を秘匿することなく、伝達することが条件とされていた。親方は徒弟がそれにふさわしい衣服などを着用できるよう心がけることが求められていた。ラ・トゥールは馬を乗用に使っていたことが分かる。リュネヴィルの近郊やパリなどへの旅行は馬に頼っていたとみられる。当時の貴族がそうであったように、 ラ・トゥールはかなりの乗り手であったと見られる。

徒弟制度の役割
    徒弟制度は画家にかぎらず、社会的に必要とされる職種を独立して営業するために、必要な技術を習得するための制度であった。それに加えて、ある職種を営む上での絶対条件ともいえる同業者組合加入のための通過儀礼的な制度でもあった。そして、徒弟は親方の家に住み込み、仕事を手伝い、同時にさまざまな家の用事をこなす使用人でもあった。 徒弟期間は徒弟契約時に徒弟が親方に払う金額により増減した。

  息子などを徒弟に出す家庭としても、厳しい政治・経済環境の下では、時に思わぬ変動に見舞われたりで、費用の支払いも大変だったようだ。現に、1643年にラ・トゥールは新たに採用した徒弟クレティアンの保護者が支払いを滞らせていた費用200フランについての請求訴訟を起こしている(Thuillier 182)。
   
  親方には技術だけでなく同業者組合に加入が許される新たな親方、同僚を育てるための教育を徒弟に施す必要性がある。徒弟制度はその意味で単なる技術取得の教育ではなく、同業者組合という精神のゲマインシャフト加入のための教育も含まれている。こうした要件を備えていない職人を送り出すことは、その親方の資質を疑われることになる。そのため、工房での徒弟の教育は全人的なものとなる。徒弟制度においては徒弟の質の維持・向上を理由に一人の親方が受け入れる徒弟数が制限されていた。たいていは1人で、多くても3人程度であった。  

  18世紀には徒弟制度に代わり技能伝達の場となったアカデミーや学校と異なり、徒弟制度の下では徒弟は親方の工房で仕事も行う。仕事を行うことがそのまま教育になり、教育と仕事の境界線は明確ではない。そして、学校教育では作業効率の面が無視されてもさしつかえないが、徒弟制度では教育とはそのまま仕事でもあるので作業効率に無駄が出ることはそう許されることではない。

最後の徒弟
  1648年このクレティアン・ジョルジュの徒弟年期が終了した後、ラ・トゥールは1648年には、その生涯で最後となった5番目の徒弟ジャン・ニコラ・ディドロを受け入れている。ラ・トゥールによって教育されたことが判明している弟子のうち、エティエンヌを別とすれば、1620年のクロード・バカラ、その6年後のシャルル・ロワネ、1636年のフランソワ・ナルドワイヤン、1643年のクレティアン・ジョルジュに続き、ジャン・ニコラ・ディドロがという順番となった。

  9月10日の徒弟契約書では期間は4年間とされ、師匠の馬の世話を引き受けたほか、手紙を届けること、食事の給仕をすることなどが定められており、ディドロは「顔料を砕くこと、画布の地塗りをすること、絵画にかかわるすべてのことを行い、配慮すること、必要が生じた場合、人物を描き、またデッサンする際のモデルを務めることが求められる」とされている。もしかすると、ディドロはラ・トゥールの作品に描かれているのかもしれない。

  その上、契約書の次のくだりは、エティエンヌが父とともに描いていただけでなく、父が死去した場合はその工房を引き継ぐ可能性をも示唆している:

「この職務の性質上、同じ原則やおきてに従って続けられることが求められるので、当該のジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の息子で同じく臨席のエティエンヌ・ド・ラ・トゥール殿が、その父君が死去した場合、当該のニコラ・ディドロを引き取り、残りの年月、前述の条件で徒弟修業を継続することを承認し、約束するものとする。」

生まれなかった後継者
   ラ・トゥールも晩年に近づき、これまでは徒弟契約書に記載されなかったような条項が登場したとも考えられる。 ラ・トゥールの工房で徒弟修業を終えた職人が画家として独立し、作品を残したという記録はない。わずかに息子のエティエンヌが父親の後を継いだが、彼自身も画家としての才能がないと認識したのか、貴族の称号を得た後、画業に精を出した形跡はない。親方画家ラ・トゥールと自らの才能の大きな格差に気づき、画家として身を立てることをあきらめたのだろうか。あるいは、わずかな記録からの推察に過ぎないが、ラ・トゥールの厳しい指導に耐えられなかったのだろうか。父親と比較すれば、画家として身を立てるにはきわめて恵まれた条件が準備されていたはずなのだが。一人の天才的画家の誕生には、実に複雑な要素がかかわっていることを改めて認識する。



*Thuillier p.108 では16 September 1643と記載されているが、ここではより新しい文献であるサルモンによっている。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

Personal Note: 国立博物館へ「北斎展」を見に行く。質量ともに圧倒的な作品に改めて驚かされた。こうした驚異的な画業活動が、徒弟もつかわずに社会的にいかなる仕組みで支えられていたかについては知りたいことも多い

 


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ラ・トゥールを追いかけて(46)

2005年11月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

リュネヴィルの豪族となった画家

引く手あまたのラ・トゥールの作品
 1640年代、この頃までにラ・トゥールの画家としての名声は、疑いもなく確立されていた( たとえば、1644年11月16日、エティエンヌが代父をつとめた洗礼式の記録の中に、ラ・トゥールが「名高い画家」と記されている)。いまや「フランス王室付き画家」の称号を得るまでになった画家の作品は、ロレーヌばかりでなくパリにおいても貴族階級や商人などの富裕層を中心に人気の的となっていた。その結果、作品につけられる価格も急速に上昇していった。(近年、ラ・トゥールの作品についての人気が高まるにつれて、この謎に包まれた画家についての歴史的記録も少しずつ発掘されるようになった。)
 

今に残る記録から
  いくつかの歴史的記録が、画家の人気のほどを示している。それによると、1643年1月29日、宰相リシリューの死後作成された財産目録の中で、このロレーヌの大家の作品は、ほぼ同時代の画家ヴーエやラ・イールによって、250リーヴルという高い金額に見積もられている。この作品の説明は「ラ・トゥールによる聖ヒエロニムスの絵画、縦5から6ピエ、横4ピエの大きさ、つや消しした金の額付き」というもので、その当時パリのリシリュー枢機卿の宮殿の「枢機卿の部屋」の衣裳部屋にあったものである。

  この作品についての記述を検討すると、現在、ストックホルム国立美術館に所蔵されている「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」とも寸法が一致する。ラ・トゥールが1638-39年頃にこの「聖ヒエロニムス」を描き、「国王付き画家」の称号を得るためにリシリューに贈ったことは十分ありうることである。

  同じ頃のナンシーのある財産目録の中に、「夜の情景マグダラのマリアの絵、額縁なし、見積もり額25フラン」という絵画が記載されているが、その作者の名については述べられていない・・・・・しかし、この絵は改めて、約20年後の1661年1月22日、商人セザール・ミルゴダンの遺産目録に「ラ・トゥール風に描かれた絵画、金の葉飾りつきの黒い木製の額縁入り」と記載されている。そしてこのミルゴダンの最初の妻は、1643年に死去している。時はほぼラ・トゥールの名声が確立された頃である。 富裕な商人であったミルゴダンがなんらかの理由で入手、所蔵していたものと思われる。

貴族階級がパトロンに
  この1643年から死ぬまでの時期に、ラ・トゥールはリュネヴィル市から、アンリ・ド・ラ・フェルテ・セルテールへ贈るための絵画の注文を受けている。ラフェルテは1643年にマザランによってロレーヌの地方総督に任命されたが、教養ある芸術愛好家でもあった。彼は年始に贈り物として地方総督に贈られる大金よりも、ロレーヌの画家の作品を好んだ。こうして1645年、「われらの主の生誕を描いた絵」(ルーブル所蔵の「羊飼いの礼拝」か)を、ラ・トゥールは700フランという巨額の代金と引き換えに渡している。ラ・フェルテはいわばラ・トゥールのパトロンの一人だった。

  ラ・トゥールの手になるものらしいと思われる別の絵画についての記録もある。リシリューの所有となっていた絵画とは別の「ロレーヌのラ・トゥールによる聖ヒエロニムス、額縁なし」という記述が、1644年8月23日のシモン・コルニュの遺産目録にある。今回は25ルーブルの値がつけられている。コルニュは国王付きの画家であり、婚姻を通じて画家ジャック・ブランシャールとも従兄弟の関係であった。

大地主となったラ・トゥール
  ラ・トゥールは、画業を通して得た収入によって、リュネヴィルにおいて大地主となっていた。その点にかかわるひとつの資料が残されている。それは次のような内容である。
  1646年、7月18日、その頃一時的にルクセンブルグに身を寄せていたものの、未だ権勢を保っていたロレーヌ公に宛てて、リュネヴィルの住人から嘆願書が出されている。内容は、特権を享受するラ・トゥールを含めた何人かのリュネヴィル市民を非難するもので、そのうちの何人かが、戦争や軍隊の宿営にかかわる負担への協力を拒否したと告発している。問題の嘆願書は、こうした公共の費用を負担しようしない人たちに対して次のように抗議する内容となっている:

  「これらの修道僧、修道女はあたりいったいの耕地を所有しており、フールとシャルジェーの貴婦人たち、画家のラ・トゥール殿は、彼らだけで合わせて当該のリュネヴィルで見られる3分の1の家畜を所有しております。その人たちは、残りのリュネヴィルのすべての住人たちより多く、そこで耕し、種をまいております。・・・・・前述のシャルジェーの貴婦人とラ・トゥール(スパニエル犬とグレーハウンド犬を同じくらい多く飼い、まるでこの土地の領主であるかのように、種まきした畑の中で野うさぎを狩らせ、踏み荒らしだめにしてしまうので、人々にとって憎むべき人物です)はナンシーの総督殿下により、兵隊の宿舎の提供義務から免除されており、同様にすべての負担金の免除を得ています。」

  リュネヴィルの大地主となったラ・トゥールや貴族の生活のイメージを彷彿とさせるものだが、抗議文であることもあって画家には大変厳しい内容である。広大な土地を所有し、あたかも領主であるかのごとく振舞う画家というイメージである。これが客観的な描写であるか否かは、分からない。告訴した農民はフランス国王とロレーヌ公という二重政治の狭間で高い税金を徴収され、困窮していた存在であった。他方、非難の対象となったラ・トゥールや貴族階級の婦人たちは、そうした状況においては、社会の上層部を占める存在であった。不安な環境での重い租税負担など、苛酷な生活状況に置かれていた農民にとっては、それらをよそ目に課税対象から除外されるなど特権を享受する貴族階級への反感はきわめて強かったのだろう。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
 

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ラ・トゥールを追いかけて(45)

2005年11月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


リュネヴィルに戻った画家:世俗の生き方を垣間見る
  
 長らく戦争や
悪疫に覆われていたロレーヌにも1640年代に入ると、つかの間の平穏が戻ってきた。パリなどに避難していた画家ラ・トゥール一家も、リュネヴィルに戻ってきたようだ。

 しかし、ロレーヌの環境は到底明るいものではなかった。ジョルジュが時代から取り残されたような小さな町ヴィック・シュル・セイユに生まれた頃のような平和な生活はすっかり失われてしまった。いつ、外国の軍隊や悪疫が襲ってくるかもわからない不安な時代に変わっていた。住民は見えない恐怖や不安に脅えながらも、その日その日を過ごしていた。先が見えないロレーヌだったが、ラ・トゥールは世俗の世界でもしたたかに生きていたようだ。

  この頃にはロレーヌのみならず、国王付き画家としての地位を確保し、パリでも知られる有名画家となっていたラ・トゥールである。土地などの資産も増え、恵まれた貴族階級としての地位を占めていた。その地位保全のために、ラ・トゥールは妻の実家のあるリュネヴィル移住の時からしかるべき手を打っていた。画家というと、世俗の世界から超越し、芸術の世界に沈潜してもいられる職業と思いがちだが、この時代に画家として生きるのは並大抵の努力ではなかった。

 画家はフランス国王付き画家としての権利を保持しながら、他方でリュネヴィル移住以来ロレーヌ公から与えられた特権を維持するためにも可能な限りを尽くし、法的な手段についても精通していた。そのしたたかさを推定しうるような記録資料が残っている。美術史研究者の間で画家の直情、粗暴さを思わせる証拠として、よく知られている記録である。

  ラ・トゥールが、リュネヴィルに再び落ち着いてからしばらくして、彼の所有する家畜に対して請求された税金の支払いを断固として拒否する事件が、ナンシー市の記録として残っている。市の税金を支払わせるために、ラ・トゥールの自宅に赴いた執達吏による1642年4月19日付の報告書である。これを読むと、ラ・トゥールの性格がある程度推測できる。記録は次のごとく記している:

  「私(執達吏)はリュネヴィル市の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の自宅に赴いた。そして邸の小道において彼と話しをし、丁寧に何度も彼の家畜に対して定められた総額16フラン6グロを支払うよう促しました。彼は自分は払うつもりはないと答えました。そして、私が支払いを求めた後、さもないと強制的に徴税するだろうと言いますと、彼は徴税しろと答えました。そして、そのために私が邸のさらに先へ入ろうとすると、私を激しく足でけり、扉を閉め、それより先に進んだら最初のやつをピストルで撃つと,怒っていいました。このようなわけで、私はそれ以上徴税を執行できませんでした。」(Thillier, 1997)

  この出来事があった後、ラ・トゥールはメスの高等法院にリュネヴィル市を提訴している。法院は1643年1月16日の判決では、最終的にその税金免除の特権は「戦争の荒廃のあいだ」は有効ではないとして、ラ・トゥールの訴えを退けたものの、ラ・トゥールの特権的な地位については承認した。

  こうした画家の生き方や行動についての記録から、そのままラ・トゥールの性格が傲慢あるいは横暴であったと結びつけることは、やや短絡かもしれない。この記録が税の執達吏の証言に基づくものであることにも留意しなければならない。ラ・トゥールとしては、租税免除の権利は、すでにロレーヌ公から確保していると思っていただろう。そして、彼は再三にわたり、その権利を主張してきた。

  作品から想像されるような世界とは、程遠い世俗の世界で生きてゆく処世の術ともいうべきものを、ラ・トゥールはいつの間にか身につけていたようだ。それが彼の出自と関係あるのかどうかはまったく分からない。しかし、記録などから類推される彼の息子エティエンヌなどの貴族的な生き方と比べて、父親であるジョルジュは別のものを持っていたようである。
  
  ラ・トゥールが残した作品と、こうした記録から推定される画家の人格との間には直ちに理解しがたいような大きな間隙が存在する。画家のこうした性格が、かなりの程度まで記録から推定されるものであったとしても、それが先天的なものか後天的なものかも分からない。だが、当時のロレーヌに生きる人々にとっては日々の生活で選択の余地はきわめて少なかった。

  社会的な階級などの差異はあったとはいえ、誰もが現実的にならなければ生きられなかった。才能に恵まれ、努力も実って社会の上層に近いところまでたどり着いていたとはいえ、ラ・トゥールは世俗の世界と作品の世界を意識して区分していたのではないか。世俗を超越して生きるということは、きわめて難しい時代ではあった。しかし、そうした苦難な過程を通して生み出される作品は、当時の人々が心密かに願っていた思いに応えたものであった。

  
 ラ・トゥールが獲得した特権とは、1620年、27歳でヴィック・シュル・セイユから妻の実家のあるリュネヴィルに移住した時に、ロレーヌ公アンリ4世に宛てて嘆願の手紙を書き、「貴族の身分の女性」と結婚したことや、画家という職業が「それ自体高貴であること」などを理由に、すべての税金の免除や社会的特権を得ようとし、7月10日にロレーヌ公から許可された内容を示している。

Reference
Jacques Thuillier. Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997(revised)

ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

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ラ・トゥールを追いかけて(44)

2005年10月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 


カイガラムシの生息状態

ラ・トゥールのパレット:コチニールの謎(2)

謎の正体
  謎に包まれていたコチニール(鮮紅色)の原料は、実はカイガラムシDactylopius cocousの一種であった。南アメリカ、メキシコなどでサボテンの一種にに生息する。正確にはカイガラムシの雌であり、当初は体長5ミリくらいでサボテンの樹液で生きている。受精後、体長は大きくなり、蝋状の白い液を体表面に付着する。そのため、大きなサボテンに白い粉を散布したように見える。
  体内にはカーマイン酸の濃い紫色の液が蓄えられている。 カーマイン酸からはクリムソン(濃赤色、深紅色)の染料が抽出できる。コチニールはこのカイガラムシを採取して、加工することで作られる。コチニールはこのカイガラムシにちなんで名づけられた。

染料の生産工程 
  メキシコなどのコチニールの生産者は、通常生まれて90日後くらいでカイガラムシをきわめて労働集約的方法で採集する。採集された虫体は普通はローカルな加工業者へ売られる。虫体は熱湯に漬けられ、その後天日や蒸気などで乾燥される。その後、カーマインを分離するために粉末にされた虫体は、アンモニアかソーダー灰(ソディウム・カーボネート)液で煮沸される。
  不溶解部分をフィルターし、赤いアルミニウム塩を沈殿させるため明礬が加えられる。製法によって色調が異なるが、通常濃赤色のクリムソン染料が抽出される。スカーレットからオレンジなど色調も幅広い。しかし、1キログラムのコチニールを作るためには約155,000の虫体が必要とされる。 このため、後年、自然環境保護主義者の反対の標的ともなった。

長い歴史を持つ染料
  コチニール染料はアズテックおよびマヤで使われた。モンテズマによって15世紀に征服された11の都市は、毎年2000枚の装飾された木綿のブランケットと40袋のコチニール染料を献上させられたといわれる。植民時代、メキシコはコチニール染料を輸出用に生産する唯一の国であった。

  17世紀メキシコに来たスペイン人征服者は、コチニール染料の鮮明な赤に魅惑された。それは旧世界のどの色より鮮やかだった。金、銀に次ぐ貴重な品となり、スペインはこの染料を独占し、宿敵のイングランドへは貿易でも譲らなかった。 コチニールは重要輸出品としてメキシコからヴェラクルスを経て、スペインを経由、ヨーロッパへ輸送された。その後、各国に再輸出され、ロシア、そしてペルシャにまで送られた。18世紀においては、染料産業は経済的にも重要な地位を占めた。ヨーロッパ市場がこの染料の品質に気づくや、コチニールの需要は劇的に増加した。

  メキシコのワハルーカとその後背地は、17-18世紀の繁栄をコチニール貿易によって享受した。その後、コチニールはペルーやカナリー諸島でも生産された。

  コチニールから作られた真紅のカーマインは、マッダールート、ケルメス、ブラジル蘇芳などのヨーロッパの顔料との競争になった。カーマインは王や貴族、聖職者などの衣装の染色に使われた。工芸品やタペストリーなどにも使われた。コチニールで染めた羊毛や木綿は、とりわけ原産地メキシコ人の芸術には欠かせないものであった。

 今年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品ではないかとうわさになったあの聖ヒエロニムスの赤い衣も、コチニール・カーマインで描かれたのではないだろうか。

人気の絵具
  ヨーロッパ絵画の世界では、中世を通して、初期の画家および錬金術師のハンドブックにカーマインの使用法が記されている。カーマイン・レークは、ヨーロッパの油彩でミケランジェロからフランソワ・ブーシェ、デュフィ、セザンヌ、ブラックなど多くの画家の間で使われている。

  ラ・トゥールの工房でもカーマイン・レークが使われていたことは、ほぼ確かだろう。フランスは最大の消費国であり、高価ではあったが品質が安定しており、画家の間でも人気があった。水溶性でもあり、使いやすかったことも理由のひとつだろう。

  伝統的にコチニールは繊維染料に使われてきた。植民時代、南アメリカへの羊の導入で、コチニールの使用は増加した。この染料は最も鮮明な色であり、羊毛(ウール)染色に大変適していた。時代が下がって、今日でもイギリス陸軍の赤いコートやロイヤル・カナディアン・騎馬ポリスのコートはコチニール赤で染められている。

コチニールの時代の終焉
  1810-21年のメキシコ独立戦争の後、コチニールの生産地としてのメキシコの独占は終わりを告げた。コチニールへの需要も19世紀スウェーデンヨーロッパで発明されたアリザリン・クリムソンその他人工染料の登場によって減少した。
  微妙な手作業を必要とするカイガラムシの養殖は、近代的産業には太刀打ちできなかったし、コストも高かった。 20世紀になると、コチニール・カーマインの使用もほとんどなくなった。その後、コチニールの養殖は需要に見合うためというよりは伝統を維持するために継続された。しかし、近年、商業的にも再び見直されるようになる。その主たる理由は非有害、発ガン物質ではないことによる。今では繊維、化粧品、天然食品、油絵具、ピグメント、水彩絵具などに使われている。

  コチニールはその後も商業生産されており、ペルーは年間200トン。カナリー諸島は20トンくらいを生産する。最近ではチリーとメキシコが再び生産者として参加している。フランスは世界最大のコチニール輸入国と考えられてきた。しかし、日本とイタリアも直接輸入している。こうした輸入品は加工の上、かなりの部分が再輸出されている。2005年時で、コチニールの価格はキログラムあたりUSドル50-80.他方、合成の食品用染料はキログラムあたりドル10-20ドルくらいである。
  コチニールの謎は解けた。再び、謎の画家ラ・トゥールの世界に戻るとしよう。


Reference
Victoria Finlay. Colour, London: Sceptre, 2002
  

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