時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

迷宮美術館のラ・トゥール

2008年09月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour. The Denial of St Peter, 1650, oil on canvas, 120 x 161 cm. Musee de Beaux-Arts, Nantes

9月1日午後7時のBS「迷宮博物館」に、「発掘された名画」として、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが取り上げられていた。1915年、17世紀以来、歴史の闇の中に埋もれていた、この画家を「発見」したヘルマン・フォスに言及がなされ、日本のラ・トゥール研究の先駆者でもある田中英道氏が短時間ながら出演した。あの名著『冬の闇』でラ・トゥールを日本に初めて本格的に紹介した世界的な研究者である。折角、この大家にご出演いただくのならば、もっと時間をとってお話をうかがいたかった。

番組で紹介された作品は「生誕」、「悔悛するマグダラのマリア」、「否認するペテロ」の3点だった。


聖ペテロの否認」は、前回記事にした「悔悛する聖ペテロ」と同じジャンルに属する作品だが、ペテロのモデルは異なっている。ラ・トゥールの作品の中では、年譜が記載されている例外的なもので、1650年というのは画家が死去する2年前であった。

この作品「聖ペテロの否認」については、すでにブログに記したこともあるが、画面左側で召使の問いを受けるペテロの姿と、画面右側のダイスの賭けに興じる兵士たちの姿の2つの場面が、画面を分けていて一見散漫な印象を与えるかもしれない。しかし、そこにはこの画家の深い思慮が働いている。

蝋燭を掲げる召使の問いに、ペテロはキリストとの関係を否認した。この意味で、左の対話の場面は、きわめて深刻な精神的な緊張感をはらんでいる。他方、右の画面は俗界の争いの情景である。しかし、よく見ると、右端の兵士はいぶかしげな視線をペテロの方に向けており、作品を見る者は再びペテロと召使の場に引き戻される。ペテロの心は大きく揺れ動いている。

この構図の設定には、ラ・トゥールが生涯にわたって検討してきた「カードプレイヤー」や「女占い師」などの蓄積が生かされているといえよう。画家の晩年の作ということを考えると、さまざまなことを考えさせる作品である。

「迷宮博物館」が終了した後、臨時ニュースは福田首相の突然の辞任表明を伝えていた。日本はついに先が見えない「迷宮」入り、長い闇の時代へ入りそうだ。

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聖ペテロの涙

2008年08月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour. The Tears of St. Peter, also called Repenting of St. Peter. c. 1645-50. Oil on canvas. The Cleveland Museum of Art, Cleveland, USA 



  前回記したマグダラのマリア聖ペテロは、カトリック宗教改革で象徴的な役割を負っている特別の存在といえる。ペテロは12使徒のいわば統率者で、キリストと最も近い関係にあった者のひとりである。そのために、キリスト教史においてもきわめて重要な位置を占め、キリスト教美術の流れでも、さまざまな主題の下に登場してきた。

  ラ・トゥールもペテロを主題として、おそらくかなり多数の作品を制作したものと思われる。しかし、今日に伝わるものはほとんどない。模作と推定される作品を別にすると、わずかに「聖ペテロの悔悟」Les Larmes de st Pierre と「聖ペテロの否認」(ラ・トゥールとその工房作)Le Reniement de Saint Pierreの2点のみが、ラ・トゥールの手によるものとされている。これらについては、すでに概略を記したことがあるが、若干視点を変えて付け加えてみたい。

  大変よく知られている話だが、いちおう記しておこう:

  キリストは捕縛された後、大祭司カヤバから、尋問を受けた。その間、ペテロが中庭に立っていると、カヤバの召使いの女が彼に言った。「あなたもあのナザレ人イエスと一緒だった」と。しかし、ペテロは彼を知っていることを打ち消した。すると雄鷄が鳴いた。彼がそうした否認を3度すると、そのたびに鶏が鳴いた。ペテロは彼にキリストが予言したことを思い出し、泣き出した(「マルコ福音書」14: 66-72)。

  ここで、この著名な話を再度取り上げるのは、ペテロの悔悟に関するラ・トゥールの作品のためである。自らの過ちを悔いて泣くペテロは、イタリア、スペインの美術にはかなり見られる。今日に残るラ・トゥールが描いた一枚もこの場面である。カトリック宗教改革の教会は、悔悛もそのひとつとして含まれる「7秘蹟」の信仰を広めるために、このテーマを好んだようだ。バーグは「涙にくれる聖ペテロやマグダラのマリア」が頻繁に表現されるようになったことは、プロテスタントが悔悛の秘蹟に対して行った非難に対する目に見える反論だと解釈されている」(邦訳p85)としている。

  ラ・トゥールのこの作品、現在はアメリカのクリーブランド美術館が保有しているが、アメリカにあることも手伝ってか、従来フランスの研究者からはあまり評価をされてこなかったきらいがある。作品を見れば明らかなとおり、簡明直裁に主題に迫った作品であり、一瞬にしてなにを描いたものかが分かる。

  一人の純朴そうな男が両手を組み合わせ、涙を流している。彼の顔面は、ラ・トゥールの作品に固有のどこからか分からない光源からの光に照らされている。この作品にはもうひとつ、足下にランタンの光源があり、彼の右足部分を照らし出している。机上には雄鷄が一羽、つくねんと座っている。

  前回取り上げたマグダラのマリアと違って、この主題においては、ペテロの悔悛の涙は欠くことができない。雄鷄が3度鳴くことによって、ペテロには自らの裏切りと悔悛の念が一度にこみ上げる。彼の目はしばたき、取り返しのつかない行為への深い悲しみが胸に突き上げてくる。泣くという行為は、大変情緒的であり、直接的である。一見単純な構図のように見えるが、イコノグラフィカルな点でも、謎解きにように多くの工夫が籠められた作品である。

  ラ・トゥールという画家は、作品制作に際して、きわめて深く考えていた画家である。カラヴァッジョのように、衝動的な情熱に駆られて一気に描き上げるという気質の画家ではないように思える。制作に先立って、かなりの時間を細部を含めて構想に費やしたのではないか。ラ・トゥールが生涯の多くを過ごしたロレーヌは、カトリック宗教改革の前線として、さまざまな圧力が働いていた。そこに生きた画家は、オランダとはまた大きく異なった風土の下で制作活動を行っていた。同じ17世紀前半のヨーロッパでありながらも、フェルメールやレンブラントのオランダとラ・トゥールの生きたロレーヌは、大きく異なった風土であった。今日、作品に接する者は、その風土の中に入り込む努力が求められる。さもなければ、彼らが描こうとしたものの本質は見えてこない。

  ラ・トゥールは、画風としても、自分の構想する主題に直接必要ないものはいっさい描かないというところがある。たとえば、人物が室内、屋外のどこにいるのかさえ、定かでない場合が多い。しかし、必要と考えたものには驚くほどの注意が籠められている。

  
ペテロの悔やみきれない深い悲しみとそれがもたらす信仰への強い悟りの境地が、生まれる瞬間である。彼の犯した裏切りの行為と深い悔悛の情が一挙に噴出する。原初の意味での聖的・霊的なパッションが未だ存在した時である。ペテロの口元がわずかに開いているのは、涙にとどまらず、叫びとなっていることを示している。一見すると、単純な構図の作品に見えるが、きわめて味わい深い一枚である。


Reference
Peter Burke. Eyewitnessing: The Unses of Images as Historical Evidence, London: Reaktion Books, 2001. ピーター・バーク(諸川春樹訳)『時代の目撃者』中央公論美術出版、2007年

 

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美術館にはない闇の深さ

2008年08月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

George de La Tour(1593ー1652)
1638-43
Oil on canvas, 133,4 x 102,2 cm
Metropolitan Museum of Art, New York


  

   「悔悛するマグダラのマリア」は、現存する真作と模作の数からして、おそらくジョルジュ・ド・ラ・トゥールが最も好んで描いた主題ではないかと思われる。このラ・トゥールの描いた「マグダラのマリア」のシリーズを見ていて、同じ主題を描いた他の画家の作品と比較して、印象がかなり異なることを感じていた。改めていうまでもなく、ラ・トゥールという画家に関心を抱いた一つのきっかけだった。

  「マグダラのマリア」は、16世紀から17世紀バロックの時代、絶大な人気があった画題でもあった。といっても、この時代にどれだけの数の「マグダラのマリア」が描かれたのかも分からない*。しかし、キリスト教美術の主題の中では、格別の人気度であった。それだけ、この主題に共感を持つ人々が多かったのだろう。その時代的風土については、考えることが多々あるが、未だ整理がつかないでいる。

  特に気をつけて「マグダラのマリア」に関わる作品を見てきたわけではない。マグダラのマリアを主題とした作品はいくつかのジャンルに分かれる。その中で、マグダラのマリアの悔悛のテーマは、しばしば涙を流し、組み合わされた両手、そして見るからに大仰に誇張された表情と姿態をもって描かれることが多い。描いた画家が誰であったかは記憶にないのだが、ルーブルでマグダラのマリアを描いた作品を見ていた観客が、「やっぱり涙を流している!」と同伴者に話しかけていたのを記憶している。

  ラ・トゥールの作品では、「マグダラのマリア」の涙としばしば対比される「聖ペテロの悔悛」 あるいは「聖ペテロの涙」 St. Peter Repentant (the Tears of St Peter, 1645)では、まさにその通り、涙にくれる一人の老人の悔悛の姿が明瞭に描かれている。

  他方、ラ・トゥールの「悔悛のマグダラのマリア」  Repentant Magdanene シリーズでは、マグダラは、この作品を知る者にとってはすでにおなじみのプロファイルで、闇の空間を凝視し、沈思黙考するひとりの女性として登場している。そこには、しばしば激しい「熱情」、「情熱」と表現されるパッションを伴ったマグダラのマリアとは異なった静寂な時間が支配している。どことなく神秘的 mystic ともいうべき雰囲気も漂っている。没我の境地ともいえるかもしれない。あの17世紀、未だ「近代」への曉闇ともいうべきか、魑魅魍魎が跋扈するロレーヌの風土を思うと、その感じは強まる。これは、現代の明るい美術館で作品を見ているかぎり、およそ感じられない闇の世界である。この絵、ロレーヌの片田舎、小さな修道院の片隅にでも掲げられているのが最も適している。マグダラのマリアと心を同じにする者が、ひとり静かに対峙し、闇の深奥との交流をはかる場である。

  涙を流すこともなく、ドラマティックな表現も見せていないマグダラのマリアを描くラ・トゥールの作品は、当時の絵画的・イコノグラフィカルな伝統からは、ある距離をおいている。心の内面の高ぶりも抑え、蝋燭の光が映し出すかぎりの光の空間、その外に広がる闇の深奥部を見つめる一人の女性の姿には、いささかも劇的な要素は感じられない。

  マグダラのマリアの悔悛を、涙を流し誇張されたた表情とジェスチャーをもって表出する代わりに、ラ・トゥールは彼女の表情や動作の感情的部分を極力減らすことで、自らの心の内面と神との交流を強調しようとしたと思われる。この画家は、パッションを描くにあたって、ドラマティックな身体的表現で大げさに示す世俗的な理解へ違和感を抱いていたのではないか。
  
    ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593ー1652)の生きた時代は、近代哲学の祖といわれる哲学者ルネ・デカルト(1596-1650)の時代でもあった。画家と哲学者というまったく異なった領域で活動した二人が、同時代人としてお互いの存在を知っていたかはまったく分からない。ラ・トゥールは現在のフランス東北部に当たるロレーヌ公国に生まれ、デカルトはフランスのトゥレーヌ州に生まれた。デカルトの生涯は、年譜的にもかなり明らかにされているが、ラ・トゥールは謎が多い。どちらか一方でも他の存在を知っていた可能性はきわめて少ない。しかし、時代は両者を包み込みながら、聖俗双方の世界において、大きく転換していた。
   
  今日、情熱、熱情などの語義で使われている「パッション」 passion は、17世紀フランスで使われていた意味とは、明らかに異なる。現代ではパッションは、主体の感情あるいは情緒の心理的状態を意味する。しばしば激しい感情的高ぶりを伴う。実は、こうした世俗化した概念には、17世紀後半まで強かった宗教的含意は無くなっている。Passion という用語は元来、苦痛、苦悩という意味のラテン語のpassioから由来している。キリストの受難が意味するキリストの死と人類への贖いのための肉体的苦難 suffering の意味であった。しかし、17世紀後半には、パッションにまつわるこうしたキリスト教的、あるいは精神的、霊的つながりは次第に浸食されていた。

   宗教改革に続く新旧教対立の流れで、17世紀前半は、カトリック宗教改革 Reforme catholique が作り出した精神的、美術的刷新の時期であったことに注目しておくべきだろう。デカルトが人間を理性的主体として位置づけ、精神がその感情を支配するとしたのに対して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのような画家は、精神的なパッションの優位を神との契約の手段とした。他方、この時期に生まれたデカルト的解釈に基づき、肉体的行動と理性的な主体という意味でのパッションの再定義によって、パッションの精神的、霊的、聖的つながりは薄れていった。  

  最後のトリエント公会議(1563年)の後、カトリック教会側は宗教画のあり方、とりわけその「適度な平衡」の維持にきわめて神経質であった。画家の制作活動へのさまざまな介入・制約は多数指摘されている。それをいかに受け止めるかは、画家の力量、思慮、社会的名声など多くの要因が関係していた。

  マグダラのマリアは、別格の主題であり、それだけに注目度も高かった。ラ・トゥールはこうした時代の変化をどこかで深く受け止めながら、マグダラのマリアを描いたのだろう。ラ・トゥールの宗教的・精神的遍歴をたどりうる証拠は、ほとんどなにも見いだされていない。残された細く、切れた糸をつなぐような作業は、今後も続くのだろう。それにしても、パッションの原初的意義に立ち戻り、見えざる神との心の交流を描こうと試みたラ・トゥールのマグダラのマリアは、そこに含まれた精神性と神秘性という点でも、深く考えさせる内容を含んだ作品であることを改めて思う(北京五輪の喧騒が収まりつつある深夜、眠れないひと時に)。


References
* 岡田温司『マグダラのマリア』中公新書、2007年

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イタリアの光・オランダの光(10)

2008年07月13日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Honthorst, Gerrit van. Christ before the High Priest, c.1617. Oil on canvas, 272 x 183 cm, National Gallery, London

 大祭司カイアファ(カヤパ)の前に呼び出され、教えについて問いただされているキリストを描いたこの作品、一本の蝋燭が映し出す緊迫した情景である。ホントホルストがローマ滞在時代、最重要なパトロンであった ギウスティニアーニ Marchese Vincenzo Giustiniani のために制作したとされている。ラ・トゥールの研究書にも比較考証のために、しばしば登場するおなじみの一枚だ。 
  
    ラトゥールが徒弟時代を含めて、いかなる修業時代を過ごし、誰から最も多くの影響を受けたかについては、ほとんど謎のままだ。徒弟修業をした工房すら記録はない。しかし、長らくこの画家の作品や生まれ育った風土を辿っていると見えてくるものがある。そのひとつは、キアロスキューロといわれる明暗画法だ。これを最もダイナミックに駆使した画家は、17世紀最初のヨーロッパ画壇に大きな影響を与えたカラヴァッジョである。レオナルド・ダ・ヴィンチが創始者といわれるが、時代環境から見て、ラトゥールがカラヴァッジョから何らかの影響を受けたことだけはほぼ間違いない。しかし、その伝達の経路は霧の中だ。

  ロレーヌのヴィックという小さな町のパン屋の息子に生まれ育ちながら、天賦の才に恵まれた一方、時代の流れにも敏感で、人気のあるジャンルを注意深く選んでいた。同じ主題をさまざまに描き分けたのもそのひとつの選択だった。ヨーロッパの画壇、とりわけイタリアと北方ネーデルラントの動向には敏感であったことが推測できる。ロレーヌという地域自体が両者の中間にあって、二つの文化を取り結ぶ場でもあった。
しかし、いかなる経路でカラヴァッジョなどの画法を学び、体得していったかは不透明だ。画家がイタリアへ行った記録はなにもない。

 17世紀初め、ロレーヌからローマへ行った画家はかなりいたようだが、決して安易な道ではなかった。旅費もかかり、さまざまなリスクも待ち受けていた。他方、北方ネーデルラントへの道は、距離的にはかなり近く、旅もしやすかったと思われる。

 ユトレヒト・カラヴァジェスティの中で、これまで取り上げたバビューレン、テル・ブリュッヘンと並んで数えられるのは、ホントホルストだ。この画家ヘラルト・ファン・ホントホルスト Gerrit van Honthorst (1590, Utrecht – 1656, Utrecht) は、3人の中ではその在世中に最も名声を得た画家であったかもしれない。

 テル・ブリュッヘンがそうであったように、ユトレヒトの歴史画家アブラハム・ブロマールトの工房で徒弟修業をした後、1616年頃、イタリアへ行っている。そして、イタリアに滞在している間に著名な画家として知られるようになった。イタリアではゲラールド・デッラ・ノッテ Gherardo della Notte( 「夜景」のゲラールド)という名で知られていた。カラヴァジェスティの一人として名をなしていた。そして4年ほどの滞在の後、1620年頃にユトレヒトへ戻ってきた。

 ユトレヒトでは、テル・ブルッヘンと共に画学校を始めた。1623年には、ユトレヒト画家組合の長になっている。今日ではラトゥールの作品とされているものの中には、ホントホルストの作品ではないかとされたものもあった。ホントホルストが描いた蝋燭の光の下に照らし出された迫真力ある上掲のような光景は、確かにラ・トゥールときわめて近いものを感じさせる。

 ホントホルストはパトロンには恵まれていたらしい。イングランド王チャールズ1世の姉で、プファルツ選帝侯妃エリーザベトは、領地をハプスブルク家に奪われ、オランダへ亡命した。そして、子供の絵の教師として依頼を受けたホントホルストは、宮廷に出入りするようになった。その後、チャールズ1世が評判を聞くところとなり、イングランドへ招聘される。帰国後もチャールズ1世夫妻、バッキンガム公、プファルツ選帝候などが庇護する画家として、多数の肖像画の制作に追われた。さらにオラニエ公妃アマリアの宮廷画家として、1637年にはハーグへ移り住んだ。



Gerrit van Honthorst Childhood of Christ 1620 Oil on canvas
The Hermitage, St. Petersburg

 この二人の画家の描いたイエスと大工ヨセフの夜の作業場の情景などは、もしかすると同一の画家が時間をおいて描いたのかもしれないと思わせるほどだ。二人は活動した場は異なったが、ほとんど同時代人である(生年はホントホルストが3年早い)。作品の深み、完成度という点から見ると、ラ・トゥールの大工ヨセフとイエスの方が、一日の長がある。しかし、主題の選択、人物の配置、色彩など多くの点で、この時代に共有されていたものが二つの作品に流れている気がする。ラトゥールは、オランダに吹くイタリアの風を感じたのではないか。



Georges de La Tour, Christ in the Carpenter's Shop, 1645
Oil on canvas, 137 x 101 cm
Musee du Louvre, Paris

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イタリアの光・オランダの光(6)

2008年06月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
Hendrick ter Brugghen
Bagpipe player
1624
Oil on canvas, 101 x 83 cm
Wallraf-Richartz Museum, Cologne



    ヘンドリック・テル・ブリュッヘンの名前あるいは作品を知っている人は意外に少ないのかもしれない。単なる個人的印象にすぎないのだが、西洋美術史でも専攻していないと、日本ではこの17世紀のユニークな北方ネーデルラント画家の作品についても耳目にする機会は少ないのではと思う。

  この画家に限ったことではないが、日本における外国美術や文学の情報流入はかなり偏っていて、その結果が特定の作家や作品などへの嗜好 Taste の形成にも強く影響しているのではないかと思うことがある。たとえば、日本人のモネ好みはよく知られている。フェルメールも愛好者が多い。したがって日本の美術館は1枚でも借り出してくれば、大きな集客力が期待できる。しかし、フランスでは著名な大画家であるプッサンやラ・トゥールの知名度は低い。

  同じ17世紀に生きたテル・ブリュッヘンの名は、プッサンやラ・トゥール同様、日本ではほとんど知られていない。しかし、この17世紀初期のオランダ・ユトレヒトの画家は、色々な意味で大変特異な存在であり、もっと注目が集まってもよいと思う。高い資質に恵まれた画家であった。すべての作品が傑作というわけではないが、素晴らしい作品を残している。そのドラマティックで詩的な作品は、ルーベンスに多大な感銘を与え、ハルズやフェルメールなどのオランダ画家にも大きな影響を与えた。しかし、人気は移ろいやすく、18世紀、19世紀の収集家や美術史家からは忘れられた存在となり、20世紀に入りカラヴァジェスクの再評価の過程で「再発見」された画家の一人である。

幸い残る作品

  テル・ブリュッヘンは17世紀前半の画家としては、作品は比較的多数残っている方だというべきだろう。これはテル・ブリュッヘンが当時すでに大変著名な画家として人気があり、当時のオランダ共和国国内や外国の愛好家 cognescentiによる作品収集の対象になっていたこともある。レンブラント、ハルズ、フェルメールなどの画家と肩を並べる存在であった。幸いネーデルラントの黄金時代に当たり戦乱などで、作品が散逸するような状況から免れていたこともあるだろう。

  テル・ブリュッヘンも真贋論争からは免れないが、最新の研究では89点の油彩画(真作)、そして54点の画家本人が関与したか、画家の工房が制作した作品というデータもある。

  テル・ブリュッヘンはローマに長く滞在したが、その時期に制作したと思われる作品は、確認されていない。 この画家がローマに滞在した(1608年頃から1614年頃)前後の時期は、17世紀の北方フランドル地方と南のイタリアなどの間での文化交流を知る上で、きわめて凝縮して興味深い年月であった。ひとつには、この時代に大きな影響を与えたカラヴァッジョの作風がどのように伝播したのか、多くの研究者が関心を寄せてきた。テル・ブリュッヘンヘンは明らかにカラヴァジェスティ(カラヴァッジョの画風の信奉者)であった。

ルーベンスとの関わり
  この画家に関して、もうひとつ注目すべき点のひとつとして、ルーベンスとの接触がある。二人はきわめて短い時期だが、同じ時期にローマにいた記録がある。テル・ブリュッヘンは1607年4月以降にローマを離れ、ルーベンスは1608年10月にアントワープに戻った。ちなみにカラヴァッジョは殺人を犯し、お尋ね者の身となり、1606年にローマを逃げ出している。断片的な記録をつなぎ合わせると、彼らは短期間ながら同じ時期のローマに滞在していた可能性もある。後世になって振り返ると、きわめて濃密な文化交流があったクリティカルな時代であったといえる。

  当時のイタリア画壇の影響を測る物差しとされたもののひとつが、カラヴァッジョ風の影響の大きさである。カラヴァッジョだけがキアロスキューロの導入者でもなく、さまざまな画家が試みていた。しかし、今となっては、その実態はさまざまな情報を総合して推定する以外に方法はない。カラヴァッジョ自身、当時の主流としての工房を営み、徒弟を養成するということがなかったから、きわめてアドホックな伝播・波及の過程を辿ったといえる。 北方ヨーロッパの伝統の中で育ったテル・ブリュッヘンなどは、イタリアでの知見と技法の習得とを融合し、きわめて魅力あるユニークな作品を制作した。

  こうした技能伝播のプロセスは、経済学の技術波及 technology diffusion の理論が開発した内容が極めて参考になる。カラヴァッジョの影響は、濃淡があり、ある画家が簡単にカラヴァジェスティであるか否か、決め付けることはできない。技能や画風はいわば円の中心から波紋のように拡大してゆく。そして、外延部に近いほど、影響は間接的になる。さらに、中途に障害物があれば、その影響を受ける。画風の伝播でも、その過程に介在するさまざまな媒介者 agents の影響で、新たな解釈や添加がなされ変容する。






George de La Tour. Blower with a pipe. Oil on canvas.
Tokyo Fuji Art Museum, Tokyo, Japan.
 



* Leonard J. Slatkes and Wayne Franits. The Paintings of Hendrick Ter Brugghen 1588-1629: Catalogue Raisonne (Oculi: Studies in the Arts of the Low Countries), 2007. 471pp.

  カラヴァジェスティ、とりわけテル・ブリュッヘンの研究の第一人者として生涯を捧げたスレイトゥクス教授が亡くなられた後、弟子のフラニッツ教授がその蓄積を継承され、本書の刊行に至った。それまでは、ラ・トゥールなどについての研究もあるベネディクト・ニコルソンなどの論文(1958)があるくらいで、本格的な研究は見当たらなかった。その意味で本書は、この著名だったが忘れられていた画家の生涯と作品にかかわる画期的な研究である。スレイトゥクス教授については、西洋美術史担当の知人のパーティでお会いした記憶が微かにある。しかし、当時は筆者の専門も関心もまったく異なっており、テル・ブリュッヘンについての知識も浅く、今はそれを大変残念に思っている。
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イタリアの光・オランダの光(5)

2008年06月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Hendrick ter Brugghen
The Concert, ca.1626
Oil on canvas, 99.1 x 116.8cm
Bought with contributions from the National Heritage Memorial fund,
The Art Fund and the Pilgrim Trust, 1983, The National Gallery
  

 

    バタヴィアの空から17世紀初めのユトレヒトへ戻って、あのテル・ブリュッヘンの世界をもう少し見てみたい。この画家はユトレヒト・カラヴァジェスティの中では、もっとも特異で才能に恵まれていたと思われる。1604年(1607年という推定もある)頃にユトレヒトからイタリアへ旅立った。ロレーヌでもそうであったように、ユトレヒトからは、かなり多くの画家たちがローマを目指したらしい。ユトレヒトからではロレーヌ以上に長い行程になるのだが、この時代のイタリアへの憧憬の大きさを感じさせる。テル・ブリュッヘンは、ローマへ行くに先立って、この地で著名なマニエリストの歴史画家ブロエマールト Bloemaertの工房で徒弟修業をしたと推定されている。

    テル・ブリュッヘンは、ローマに10年近く滞在したようだ。そこでさまざまな経験を積み重ね、1614年の秋頃にユトレヒトへ戻った。とりわけ、当時のローマ画壇の話題をさらっていたカラヴァッジョの同時代人として、その後の作風を激変させるほどの大きな影響を受けた。1606年、カラヴァッジョが殺人を犯し、ローマから逃亡するまでの短い期間だが、、二人がローマで出会っていた可能性はかなり高い。
 
  故郷の地へ戻ったテル・ブリュッヘンは、伝統的なオランダの主題を採用しながら、当時のイタリアの最新の流行を持ち込んだ。カラヴァッジョ風の革新的なリアリズムとドラマティックなキアロスキューロである。いずれとりあげることになるユトレヒト・カラヴァジェスティの一人であるホントホルストが、ドラマティックな緊張感を画面に漂わせたのに対して、ほのかな哀愁を含んだ幻想的な作品を創り出した。ここに取り上げた作品は、柔らかな色彩感で心を和ませてくれる。「フルート・プレイヤー」と並び、いつも見ていたいほどの素晴らしい出来映えだ。

  3人の楽士を映し出すのは、前面に置かれた蝋燭と後ろの壁に掛けられた油燭の光である。普通は蝋燭、油燭などひとつだが、巧みにふたつの光源を使い、きわめて考え抜かれた構成になっている。この画家は、画面構成に自らの持つすべてを傾けて、多大な時間、エネルギーを注ぎ込んでいる。限られた画面を隅々まであますことなく使い、持てる技巧のすべてを使っている。

  このようにテル・ブリュッヘンの作品は、いずれもかなり凝った構成だ。この作品では燭台ひとつににも工夫がなされている。前面にいる二人の楽士の顔は蝋燭の光で明るく輝いている。後方の最も若意図思われる楽士は、楽譜を見て歌っているが、前方と後方の双方から光が微妙に当たっている。見るほどに引き込まれるきわめて美しい画面だ。叙情的な雰囲気が全面に漂っている。テル・ブルッヘンの作品の中でも、最も美しい仕上がりではないかと思われる

  当時の状況からすれば、現実の楽士たちはおそらく旅の途上なのだろう。しかし、彼らの表情や衣装には、そうした漂泊や貧しさの色は見えない。画家は意図して、リリックに美しく描いたのだろう。彼の作品を求めたのは、ユトレヒトを中心とした地域の中産階級だったろう。おそらくその嗜好にも合っていたと思われる。

  ネーデルラントで影響力を拡大していたカルヴィニズムの改革派教会は、当初教会内では、歌唱以外の音楽を禁止していた。しかし、17世紀初めにかけて、そうした厳しい規制には反対が強まった。そして、1640年には教会内でオルガンの奏楽が復活した。音楽の持つ多面的な効果が再認識されたのだ。

  もちろん、教会の外では規制はなく、
旅の楽士などが、さまざまな音を響かせていたはずだ。彼らは少人数で、町や村々をめぐり、広場やカーニヴァル、結婚式などの折々に、自らあるいは依頼を受けて演奏をしていた。楽器はリュート、フルート、ヴィエル、トライアングル、手回しオルガンなどであった。

  この時代の空間を満たしていた
音の世界を追いかけてみたい気もする。カラヴァジストであったテル・ブリュッヘンだが、この作品がどれだけ現実のモデルに基づいたものであるかは定かではない。ラトゥールやカロの作品などでは、モデルには長い漂泊に疲れた旅芸人などが選ばれていた。
  
  テル・ブルッヘンなどと比較すると、
ラトゥールという画家の作品から伝わってくるのは、イタリアン・バロックの華麗さとはほど遠い、深く沈潜したような暗い画面、質実さ、素朴とも簡素ともいえるゲルマン、北方文化の色だ。背景にある暗く深い森、灰色の空、堅実な人々の生活ぶりが思い浮かぶ。ラ・トゥールが生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごしたと思われるヴィック、リュネヴィルなどの町々は、地理的にもイタリアよりは、ネーデルラントなど北方文化圏にはるかに近い。ユトレヒト出身の画家たちは、イタリアで華麗な画風の洗礼を受けても、根底には自分たちが生まれ育ったネーデルラントの風土をしっかりと押さえ、作品に継承していた。ラトゥールは、この頃活動の場をリュネヴィルに移していたと思われるが、当時のネーデルラントを訪れていれば、こうしたイタリア帰りのカラヴァジェスティたちの作品に接した可能性はきわめて高い。

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イタリアの光・オランダの光(4):ユトレヒトへの旅

2008年05月29日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

  17世紀前半、南のイタリア、北のネーデルラントは共に躍動していた。とりわけ、ネーデルラントは「17世紀の危機」をほとんど経験することなく、「黄金の世紀」といわれる繁栄の時代を享受していた。とはいっても、1568年から1648年は、ネーデルラント諸州 United Provinces が宗主国スペインに対して起こした反乱の時期であり、「80年戦争」とも呼ばれた緊張の時代でもあった(1609年から1621年の間の12年間は休戦)。
 
  ネーデルラント文化は、ハールレム、アムステルダム、ユトレヒト、ハーグなど、
いくつかの拠点都市を中心に展開していた。その中で、ユトレヒトは、カトリック色の濃い都市だった。地図では現在のオランダのほぼ中央部に当たるところに位置している。現在のオランダとベルギーを合わせた地域は「低地の国々」 Low Countries と知られ、その形から「ベルギーの獅子」とも呼ばれたが、それによると獅子の耳の下の部分にある。一度だけ訪れたことがあるが、運河に映った緑陰の濃さが記憶に残る。

最盛期のユトレヒト
  17世紀前半のユトレヒトが注目される理由はいくつかある。16世紀後半から17世紀前半にかけて北方文化の中心でもあったが、多くの画家が、この地からイタリアへ修業に出かけ、戻ってきた。このブログごひいきのテル・ブルッヘン、ホントホルスト、バビュレン(バブレン)など、ユトレヒト・カラヴァジェスティ(カラヴァッジョの信奉者)が活動した所だ。  

  17世紀の30-40年代の最盛期にユトレヒトでは、50~60人の親方画家たちが工房を営み、年間数千枚の作品を作り出していたといわれる。地域経済への貢献も無視できないものだった。数の上でもユトレヒトの独自性を刻むに十分なほどの文化集積を形成していた。当時のヨーロッパでも特筆すべき規模だ。  

  1611年に画家のギルド「聖ルカ・ギルド 」の結成があり、それまで所属していた鞍作り職人のギルドから分離し、美術家集団として結束も深めた。さらに1644年には画家学校が結成され、聖ルカ・ギルドは彫刻家と木彫家の団体となった。ユトレヒトには、1612年頃に作られた画家アカデミーもあった。  

戻ってきたカラヴァジスティ
  ユトレヒトの画家たちがイタリアを目指した背景には、カトリック教徒の多かったユトレヒトとローマのつながりがあったと思われる(この関係は、新教国としてユトレヒトが独立することで大きく変貌する)。イタリアへ行き腕を磨いた画家たちは、ユトレヒトへ戻って活動を始めた。なかでも、バビューレン Dirck van Baburen(ca.1594・5ー1624)、テル・ブルッヘン Hendrick ter Brugghen(1588ー1629), ホントホルスト Gerrit van Honthorst(1592-1656)の3人が傑出していた。彼らはユトレヒトなどで徒弟修業などを終えた後、いずれもイタリアで10年近い年月を過ごした。ローマで古い時代、そしてルネッサンスの作品を見て、創作の糧としたことに加えて、最新の流行を持ち帰った。  

  特に、彼らに影響を与えたのは、カラッチ Annibale Carracci (1560-1609) とカラヴァッジョ Michelangelo Merisi da Caravaggio (1571-1610)だった。カラヴァッジョのローマでの活動期間は短かったが、カラヴァジスティと呼ばれる信奉者たちが、それまで深く浸透していたマネリスト・スタイルのイタリア美術を変革しつつあった。  

大きかったカラヴァッジョの影響
  カラヴァッジョについては改めて記すまでもないが、イタリア美術に革新の風を吹き込んだ。彼のジャンル絵画は、ネーデルラントなど北ヨーロッパの画家たちと共鳴するものがあったと思われる。というのは、当時のイタリアの画家たちは、しばしば伝統的なオランダの画風を「現代化」し、再解釈していたからだ。流行の流れは南から北への一方通行ではなかった。  

  他方、ローマへ行ったこれらのネーデルラント画家は程度の差はあるが、カラヴァッジョの生み出したスタイリスティックでシェマティックな画風を取り入れていた。そしてそれを帰国後、故郷の地で組み立て直し、創作活動に生かした。彼らは後年、ユトレヒトのカラヴァッジスティと呼ばれるようになる。

ユトレヒトのテル・ブルッヘン 
  この3人、いずれも興味深い画家たちであり、相前後してユトレヒトへ戻ってきた。前回からの続きもあり、テル・ブルッヘンをもう少し見てみたい。最近、新たな研究も進んでいるようであり、大部な研究書も刊行されるようになった*。  

  テル・ブルッヘンはユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で最も特異で才能に恵まれた画家だ。1604年頃にイタリアへ行き、ローマで10年近く過ごした後、ユトレヒトに1614年秋に帰国した。テル・ブルッヘンは、ユトレヒト・カラヴァッジエスキの中で唯一カラヴァッジョを見知っていた可能性があるが、確認されていない。カラヴァッジョは、1606年5月殺人を犯し、ローマから逃亡した。 

  カラヴァジォの影響がヨーロッパに広まったのは、かなり特異な経路であったといえる。当時の巨匠といわれるマスターたちが、次世代への正統な技術伝達の経路としていた徒弟養成を通しての経路がない。信奉者たちはすべて、この破天荒な人生を過ごした画家の作品に接するか、コピーを見る、あるいは自らひたすら模写するなどの形で継承し、その結果を伝達、拡散していった。 

  今日では、カラヴァジェスキの一人といわれるテル・ブルッヘンのローマでの作品はなにも確認されていない。もし、彼の初期の作品 「エマウスの晩餐」 A Supper at Emmaus (Toledo Museum of Art)が真作とすれば、28歳の時である。17世紀の標準からは、画業に入るにはかなり遅いといわざるをえない。ただ、彼が晩熟であったか否かは別として、この画家が並々ならぬ腕を持っていたことは確かだ。  

  ユトレヒトへ戻ったブルッヘンは、1616年にルカ・ギルドに入り、宗教画を制作し続けた。しかしながらバビューレンとホントホルストの帰国で、テル・ブリュッヘンも影響を受け、このようなジャンル画の制作に着手した。

  今日まで残るテル・ブルッヘンの作品は数少ないが、画面から清爽感が漂ってくるような絵がある。この「フルートを吹く男」 Flute Player(下掲)もそのひとつだ。同じ作家の宗教画とはきわめて異なった印象を、見る人に与える。左右一対(pendant)になっているが、テル・ブルッヘンの作品の中でも好きなテーマだ。「イレーヌと召使いに介抱される聖セバスティアヌス」St Sebastian Tended by Irene and her Maid, 1625 よりも少し前に制作されている。

Hendrick ter Brugghen, Flute Player, 1621 (oil on canvas, 71.3 x 56cm upper , 71.5 x 56cm lower) Kassel, Gemaldegalerie Alte Meister, Sttatliche Kunstsammlungen.

    依頼者など制作の来歴は、ほとんどなにも分かっていないが、この明らかに一対の作品「フルート・プレイヤー」は、一見してイタリアの光ともいうべき輝きを持っている。ユトレヒトの出身の画家でありながら、この時代の多くのオランダ人画家の作品とは明らかに違った印象を与える。作品自体も大変人気を呼んだようだ。いつも日の光に満ちた遠い南の国の空気を運んでくるような、清涼感に満ちて美しい。


 左側の若い男の青と白の模様の衣装は、当時のドイツやスイスの傭兵が着ていたものを思い起こさせる。今でもヴァティカンなどで見かける衣装だ。17世紀、ナンシーの宮殿でもスイスの傭兵たちが同じような衣装を着ていた。
楽器も当時の軍楽隊が使っていたものと同じ種類のファイフ fifeと呼ばれるものだ。

  右側の男が着ている赤色の外衣は、カラヴァッジョの作品などにも描かれている古代ローマ人のトガと呼ばれるものに似ている。上の作品の背景、右上の壁の穴は、対にしてみると、単調さを回避させる、かなり効果的なアクセントとなっている。

  フルート・プレイヤーというテーマは、16世紀後半から継承されてきたものだ。北イタリアではカラヴァッジョやマンフレディが試みている。 ブルッヘンのフルート弾きは、そのイコノグラフィ、半身の構図、光の効果、珍しい衣装などで、これらの先行者の解釈を思い出させる。テル・ブルッヘンは、バグパイプ、ヴァイオリンなどの演奏者を描いた作品も残しているが、このフルート・プレイヤーはとりわけ美しい。明るい色彩、背景、構図の斬新さなど、イタリアでの画業研鑽の成果を感じさせる。

  しかし、カラヴァッジョの影響を受けながらも、その絵画世界とは明らかに異なるものを感じさせる。ユトレヒトに育ち、そこで最初の画業の手ほどきを受けた画家であることをしっかり継承し、北方文化の基調を漂わせている。 ユトレヒトともイタリアとも違うある距離と空間を維持した作品だ。見ていると、なんとなく柔らかなフルートの音色が聞こえてきそうな感じがする。誰もがきっと身近に置きたいと思うだろう。大作というわけではないが、見ているだけで幸せになってくる作品だ。



Reference
Leonard Stakes and Wayne Frantis. The Paintings of Hendrick Ter Brugghen 1588-1629: Catalogue Raisonne (Oculi: Studies in the Arts of the Low Countries) (Hardcover)
John Benjamins Pub Co., 2007,
471pp
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イタリアの光・オランダの光(3)

2008年05月16日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

17世紀半ばのネーデルラント共和国の地図(干拓以前で複雑な国土であることがわかる)

  
  16世紀後半から17世紀前半にかけて、ヨーロッパの画家たちにとっての憧憬の地は、なんといってもローマだった。ローマで修業したというだけで、画家の評価が変わったといわれた。

  ロレーヌ公国の首府ナンシーの宮殿でも、フランス宮廷文化を基本としながらも、イタリア風のファッションが幅をきかせていた。きらびやかな衣装をまとい、片言のイタリア語を話し、気の利いた詩句のいくつかを弄するだけのいかがわしい若者が宮廷に出入りしていた。彼らは貴婦人の格好なお遊び相手だったらしい。

  それはともかく、このブログごひいきの画家ラ・トゥールが、イタリアへ行ったか否かは、画家の研究史上、かなり重みのあるテーマとなってきた。しかし、この画家のイタリア行きを立証する証拠のたぐいは未だなにも発見されていない。そればかりか、修業時代がほとんど闇に包まれている謎の画家だ。しかし、この修業あるいは遍歴の時代、具体的には画家が12-3歳から23歳頃、1605―1616年頃までの時期は、画家のその後を推測するにきわめて重要な意味を持っている。ラ・トゥールがどこかの工房で画業のための修業をし、ヴィックを経てリュネヴィルに移住するまで、まったく手がかりのない時期である。画家はこの年月にどんな遍歴修業をしたのだろうか。ここまでくると、やはり知りたくなってくる。

南ではなく北では 
    この画家の作品を見詰め、わずかに残る記録を手がかりに、当時のヨーロッパの地政学的な観点を含めて、この画家のたどった人生を考えてみた。かなり以前から、少なくとも多感な青年時代、遍歴の時期にこの画家がほぼ間違いなく訪れたのは、イタリアよりもユトレヒトなどの北方の地ではないかという気がしていた。こちらも記録はなにも発見されていないのだから、あくまで推測にすぎない。  

    もちろん、多くの美術史家が暗黙にも前提とするようにイタリアにも行ったかもしれない。だが、それ以上に可能性の高いのはヴィックやナンシーから距離的にもはるかに近いユトレヒト、アムステルダムなどのネーデルラントの地ではなかったかと思われてくる。   

ネーデルラント絵画の底流
    長らくこの画家の作品を見てきたが、イタリアン・バロックの印象は、画面からあまり強く伝わってこないのだ。むしろ、同時代ネーデルラントの画家たちの作品を見ていると、その根底に共通に流れているものを感じる。たとえば、レンブラントの弟子であったエリット・ダウ Gerrit (Gerard) Dou (1613 Leiden,―Leiden 1675) やゴッドフリード・シャルッケンGodfried Cornelisz Schalcken (1643 near dordrecht – the Hague 1706)などのネーデルラント画家の作品(下掲)を見ていると、その感はさらに強まってくる。年代としては、ラトゥールよりは少し若い世代だ。

 


Gerrit Dou Old woman with a candle Oil on panel, 31 cm x 33 cm Wallraf-Richartz Museum, Cologn



Godfried Cornelisz Schalcken. Girl with a candle late 1660s Pitti Gallery, Florence 

    これらの作品を眺めていると、この時代に共有されていたネーデルラント文化の基調のようなものを感じる。いずれ記すことがあるかもしれないが、イタリア修業から帰国したテル・ブリュッヘンなどにもその残照のようなものが感じられる。ラトゥールの作品とも近いものがある。

    当時の芸術文化の世界は、アルプスを境に「南」と「北」に分けられ、「南」はイタリアを意味していた。より具体的には、ローマであり、フィレンツエ、ヴェネツイアなどの都市であった。「南」は青い空に太陽が輝き、芸術が花開き、文化が栄える憧憬の地であった。 これに対して「北」は、元来「南」を前提に考えられた存在だった。地域的にも漠然としていたが、ドイツ、ネーデルランド(オランダ、フランドル)、広くはフランスなどを含めて想定されていた。イタリアのような華やかさはないが、地味ながら確固とした文化が展開していた。「北方ルネッサンス」ともいわれるように、この地にも独自の文化が花開いていた。実際、「北」から「南」への文化の流れも着実にあったのだ。   

    こうした中で、レンブラントやリーフェンスのように南を目指す流れに安易に身を任せない画家たちもいた。自らの技量に自信を持ち、イタリアまで行かなくてもアムステルダムでイタリアは分かると豪語していた。ネーデルラントの地には、それを支える文化の基盤がしっかりと形成されていた。とりわけ、ユトレヒト、アムステルダムなどはその中心的位置を占めていた。あのテル・ブルッヘンもイタリア帰りでユトレヒトで活動したカラヴァジェスキの一人だ。次回は、ユトレヒトに行ってみるか。

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イタリアの光・オランダの光(2)

2008年05月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

マルタ騎士団の紋章

  
  最近日本でも、レンブラント、フェルメール、カラヴァジォ、ラ・トゥールなどのファンがかなり増えてきたようだ。イタリア・ルネッサンスやフランス印象派の愛好者は非常に多いのに、17世紀の画家や作品はあまり知られていないので、大変喜ばしい。2001年にカラヴァジォの展覧会が東京都庭園美術館で開催された時、どうしてもっと大きな会場を選ばないのかと思った。しかし、当時の状況ではあの程度の規模が適当だったのかとも思う。

    画家と作品も、時代の流行や嗜好から無縁ではいられない。今は巨匠といわれる画家でも、活動していた時代には評価が低かったことも珍しくない。もちろん、その逆もしかりだ。

17世紀美術への関心 
  フェルメールやカラヴァジォは、いまでこそ企画展の目玉商品になるほどの人気だが、かつては「忘れられ」、「関心を惹かなかった」画家でもあった。それでも欧米ではかなり早くから再評価もされ、巨匠の中に入れられ関係出版物も多数存在していたが、日本で人気が生まれたのは比較的近年のことだ。しかし、このところ、小林頼子、若桑みどり、石鍋真澄、岡田温司、宮下規久朗氏など美術史専門家の力作が次々生まれて、一般の美術愛好者の間でも理解は格段に進んだようだ。美術に限ったことではないが、言語の関係でどうしても避けがたい翻訳文化のバイアスが、少しでも正されることは望ましい。

  ラ・トゥールについても、2005年国立西洋美術館での特別展もあって、かなり知られるようにはなった。しかし、知名度調査によるわけではないので、まったくの憶測にすぎないが、その名を聞いて作品が思い浮かぶ人の比率は依然としてかなり少ないのではないか。
日本ではかなり美術に関心のある人でも、すぐに作品が思い浮かぶのは10人のうちで一人か二人ではないかと思うほどだ。田中英道氏の先駆的労作は燦然と輝いているが、今では図書館か古書でしか利用できない。それでも、ローザンベール=ブルーノフェルトの画集(邦訳)、2005年東京展カタログが出版されたのは大きな救いだ。 

  昨年パリのオランジェリー美術館で、ラ・トゥール、ル・ナン兄弟などに関する歴史的な展覧会が、同じ館内で開催されているのに、この画家の名を知らず、常時展示のモネが目当てで、それしか見なかったという日本人に会った。もう2度と見られない企画であっただけに、大変残念なことだ。  

  美術史家でもないのに、いつの間にか17世紀画家の世界にかなりのめりこんでいた。理由がないわけでもない。ラ・トゥールは作品、画家に関わる記録がきわめて少ない。それでも、これまでの人生の間に、偶然や幸運にも恵まれて、日本人がほとんど見ていなかった頃の特別展に接したり、ラ・トゥールが生涯の大部分を過ごしたロレーヌの地を再三追体験する機会があったりして、脳細胞に深く刻まれた断片がいつの間にかかなり蓄積された。これまでの自分の仕事とはまったく関係がない分野なのだが、不思議と思うくらいの縁が、この画家や時代を結んでいるような気がしている。思い出すままに断片を記しているが、まだかなり残っているようだ。ということで、この変なブログが続いている。

カラヴァッジョとラ・トゥール 
  ラ・トゥールに惹かれるようになった頃から、疑問に思ったことのひとつは、この画家とイタリア美術、とりわけカラヴァジォとの関係だ。美術史家の間で、テネブリズム的な特徴を持つカラヴァジストとしてさしたる説明もなく直結してしまう見方が目立つが、すぐには飲み込めないものを感じてきた。カラヴァジォの影響をどこかで受けていることは、否定しがたいのだが、いかなる脈絡で、その関係を推理するのかが気になっていた。たまたま、マルタ島ヴァレッタ(マルタ騎士団、カラヴァジォ「洗礼者ヨハネの斬首」を描いたサン・ジョヴァンニ大聖堂で著名)への旅から戻ったばかりの人が近くにいることもあって、少し考えてみた。  

  ラ・トゥールが、その生涯の間にカラヴァジォの名前や作品を知らなかったとは思えない。ヴィックもリュネヴィルも、そしてロレーヌ公国の首府ナンシーも、当時のヨーロッパのさまざまな地域を結ぶ文化の十字路であった。主導的な画家たちは、時代の風向きに敏感だったはずだ。カラヴァジォは38歳という短い人生を波瀾万丈、疾風のように駆け抜けた画家だが、作品数は多く、幸いにもかなりの作品が現存している。

  しかし、17世紀当時は、現実に評判となっている作家の作品を目にする機会は、今と違って大きな制約があった。たとえば、ラ・トゥールはどこでカラヴァジォの作品を見ることができたのだろうか。ひとつの可能性は、今日ナンシー美術館が所蔵する「受胎告知」だ。もしかすると、ラ・トゥールが最初に見たカラヴァジォかもしれない。カラヴァジォ晩年の作品であり、ロレーヌ公妃の父親マントヴァ公がカラヴァジォの庇護者であった縁で仲介し、ロレーヌ公が1909年、ナンシー首座司教座聖堂の完成を祝って主祭壇画として贈ったと推定されている。この時期はラ・トゥールが徒弟などの画業修業中あるいは遍歴の時に相当し、地理的関係からも、この作品に対面した可能性はきわめて高い。


Michelangelo Merisi da Caravaggio (September,1571-July 1610)
1608-09
Oil on canvas, 285 x 205 cm
Musée des Beaux-Arts, Nancy

  この「受胎告知」については、色々と思い浮かぶことが多い。ともすると、リアルすぎて辟易する作品も多いカラヴァジォだが、この作品は落ち着いた色調で美しい。構図もかなり凝っている。ここでは、とても書き尽くせないので別の機会にしよう。

  来歴についてだけ一言。この作品、一時はミケランジェロの作とされたり、興味深い点がある。現在のところ、カラヴァジォの最晩年に近い作品で、画家の2回目のナポリ滞在の時に制作されたらしい(1959年、ロベルト・ロンギの推定)。ナポリからナンシーへ輸送されたようだ。この点も興味を惹く。

  作品の構成にも、ラ・トゥールとのつながりを感じさせるものがあるが、これも別の機会としよう。真作、模作を含めて、今日残るラ・トゥールの作品には、「受胎告知」の主題は残念ながら存在しない。生涯にはおそらく描いたに違いないのだが、作品の残存点数は40点余で、きわめて少ない。

 カラヴァジォのヴァレッタ滞在との関連では、「書き物をする聖ヒエロニムス」がある(下掲)。暗い室内でなにごとかを書きつけている聖ヒエロニムスの背後は、ほとんど闇のように見えるが、よく見ると左側の壁に掛けられている枢機卿帽など、アトリビュートが確認できる。



Michelangelo Merisi da Caravaggio
St. Jerome Writing, 1607 Oil on canvas, 117 x 157 cm St John Museum, La Valletta

この作品をラ・トゥールが見た可能性はきわめて少ないが、コピーなどが流布されていた可能性はある。ラ・トゥールの「枢機卿帽のある聖ヒエロニムス」(下掲)を想起させる作品だ。

 Georges de La Tour, Saint Jerome, c.1630-1632, Nationalmuseum, Stockholm


 北方を目指すはずの旅がどうやら南へ来てしまったようだ。やはりイタリアの引力は大きいのか。


 

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イタリアの光・オランダの光(1)

2008年05月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Georges de La Tour. St Sebastien Attended by St Irene c. 1649 Oil on canvas, 167 x 130 cm Musée du Louvre, Paris 

    暗い闇の中に浮かび出た、矢に貫かれた瀕死の若者と、介護する若い女性の立像。キュービズムを思わせる美しい様式で、モダーンな感じを与える大変美しい作品で何度見ても感動する。

    ルーブル美術館が所蔵する上掲の作品「イレーヌに介護される聖セバスティアヌス」(
「縦長の聖セバスティアヌス」と略称)は、真贋論争*を超えて、見る人の心に深く響くものがある。古典的な様式美を保ち、装飾的部分を最小限にとどめて描かれた素晴らしい作品だ。闇の中に映し出された悲しみの光景が見る人の胸を打つ。落ち着いた色調で描かれ、静謐な感じがする。
  
  他方、同じ主題で描かれたこの作品(下掲)を見てみる。これもごひいきの画家
テル・ブルッヘン(あるいはブルッヘン) Hendrick ter Brugghen(The Hague?1588-1629 Utrecht) の名品だ。大変好きな作品だが、ラ・トゥールの作品と対比すると、きわめてダイナミックな感じがする。一見して、その違いに瞠目する。




St Sebastian Tended by Irene and her Maid, 1625, Oil on canvas, 130.2 x 120, Allen Memorial Art Museum, Oberlin College, Ohio     

  
こちらは夕日を背景に、構図も壮大で凝りに凝っている。テル・ブルッヘンは、オランダ、ユトレヒトの画家だが、その前半の経歴はほとんど分かっていない。1588年頃、おそらくハーグに生まれ、ユトレヒトの近くに移り、地元の画家工房で修業の後、1604年頃(15歳?)からイタリア(主にローマ、ミラノ)に滞在した後、1614年秋**に故国へ戻ってきた。この時代、記録が残るわずかな数のオランダ画家の中で、ルーベンスそしてカラヴァッジォに会っていたかもしれないといわれる唯一の画家だ。しかし、テル・ブルッヘンがローマ滞在中に制作したと思われる作品は、一点も見出されていない。   

  この作品は、画家の持つ絶妙な技量と抑制された情緒の下で、制作された傑作といえる。上に掲げたラ・トゥール(工房)の場合と同様に、矢に貫かれ、瀕死の状態にある若者、聖セバスティアヌスを救おうと介護する若い女性イレーヌと召使の姿が、考え抜かれた見事な構図で画面一杯に描かれている。悲壮な場面にもかかわらず、画家は陰鬱あるいは残酷な印象を与えないよう極力配慮している(これはラ・トゥールの作品についてもあてはまる)。描かれた人物には彫刻のような立体感があり、その抑えられた色彩とともにイタリアン・バロックの華麗さが画面全体にみなぎっている。そして、ユトレヒト・カラヴァッジストと云われる躍動的な印象が伝わってくる。   

  テル・ブルッヘンがイタリアでの修業の成果を存分に発揮した作品であり、この画家の面目躍如たるところがうかがえる。(ちなみに、この作品も大西洋を渡り、1953年からアメリカのオベリン・カレッジの美術館が所蔵している。)

  ラ・トゥールのテネブリスト tenebrist ***的特長をもって、カラヴァジェスキと即決するような評価も多いが、テル・ブルッヘンのようなイタリア的バロックの影響を受け、オランダ的風土で活躍した画家との距離は、もっと立ち入って考える必要がありそうだ。
北方への旅を少し続けてみよう。



* 1972年にパリ・オランジェリーで見た最初の特別企画展では、ラ・トゥールの作品とされていた。その後、失われた真作の模作、コピーともいわれたが、2005年の東京での企画展カタログでは再び真作リストに含められている。ベルリン所蔵の作品はコピーとされているようだ。「横長」の作品はコピーが複数残るが、真作は失われたとみられている。

** 1614年夏、テル・ブレッヘンはユトレヒトの画家ファン・ガレン Thijman van Galen と連れだってミラノにいたことが判明している。その後、彼らはスイスを通り、アルプスをセント・ゴッタルド峠を通って帰国した。ユトレヒトの画家Michiel van der Zandeと彼の徒弟が同行していた。ユトレヒトではテル・ブルッヘンとファン・ガレンは、1616年に親方画家として登録された。同年10月、テル・ブルッヘンは義兄で宿屋の主人Jan Janszの義理の娘とカルヴァン派教会 Reformed Church で結婚した。 後年、彼の8人の子供のうち、少なくも4人がこの教会で洗礼を受けたことが判明している。テル・ブレッヘン自身は、この教会員ではなかったようだ。自らはプロテスタントと思っていたようだが、正統なカルヴィニストの教えは斥けていた。他方、この作品が典型的に示しているように、テル・ブルッヘンが、カトリックの主題を明白に扱っていることは、その教義に共感していないわけではなかったことを示している(この点は、ラ・トゥール研究にとっても重要な示唆を与えている。)

*** イタリア語の「暗闇」tenebraに由来。17世紀に流行した、背景を暗くし、人物など主要モティーフに強い光を当て、明暗を強調した絵画の傾向。カラヴァジォの影響を受けたいわゆるカラヴァジェスキと呼ばれる画家たちの手法を指すことが多い。


Reference
Seymour Slive. Dutch Painting: 1600-1800, Yale University Press, (1966), 1999.

George de La Tour. ORANGERIE DES TUILERIES, 12 mai - 25 septembre 1972. .

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思いがけないラ・トゥール

2008年02月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ナンシーの街角


  日曜日の『日本経済新聞』「美の美:光の旅」シリーズの第2回目にジョルジュ・ド・ラ・トゥールがとりあげられていた。第1回目がカラヴァッジョであったから、その連想からだろうか。ラ・トゥールがカラヴァジェスキと看做されることには抵抗があるが、日本でもようやくこの画家の存在が認められるようになったかという思いがする。ラ・トゥール・フリーク?の一人としては、とにかくうれしいことだ。

  新聞見開き2面を使っての記事なので、作品のカラー図版も大きく、かなり迫力がある(残念ながらネット上には掲載されていない)。取材にヴィック=シュル=セイユの「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館」まで行かれたようだ。ディス館長の背後に作品が写っている。昨年の今頃、同じ場所に立っていたことを思い出し、偶然とはいえ不思議な感じがする。



  解説の内容は、よくまとまってはいるがやや平板な感じがする。この画家についての日本の認知度からすれば仕方がないかもしれない。しかし、過去半世紀、この画家についての研究もかなり進んだ。その点からすると、物足りないこともある。

  そのひとつは見出しである。「揺らぐ炎に託した瞑想性 リアリズムに背、抽象志向」とある。前半は納得するとして、後半の「リアリズムに背」というのは、必ずしもこの画家の正しい理解ではない。このブログでも再三記したが、ラ・トゥールのひとつの特徴は、リアリズムの飽くなき追求にあった。生涯の後半では、マニエリスムの影響、抽象に傾斜した作品もあるが、少なくも前半の作品は、ここまで描きこんだかと感嘆するほどの迫真性があるリアリズムそのものである。1934年、そして昨年再現されたパリ、オランジュリー美術館の特別展のタイトルは、「現実の画家」LES "PEINTRES DE LA RÉALITÉ"であった。どちらをこの画家の本質とするかは議論があるが、驚くほど多彩な技能を持っていた画家であることは間違いない。

  苦言ついでにもうひとつ。ラ・トゥールばかりでなく、フェルメール、レンブラントなどについても言えることだが、ヨーロッパからアメリカに移った作品についての評価が低いことだ。たとえば、ラ・トゥールの場合、40点程度しかない真作のうち、10点近くはアメリカの美術館や個人が所蔵している。新大陸へ流出してしまったこれらの作品についての旧大陸側美術館関係者などの悔しさや日本の研究者の留学先などの関係で、ともすれば忘れられがちだが、いまやアメリカにある作品を評価することなくして、これらの画家の理解や研究は成立しなくなっている。アメリカに「移住した」ラ・トゥールも素晴らしいことをお忘れなく。

 

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北方への道

2008年01月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ロレーヌ公国ナンシーから主要都市への道
17世紀初めのヨーロッパ

  

    旅の記録や資料は一切残っていない。それでも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはイタリアへ行ったのではないかとの議論が行われてきた。17世紀初め、ヨーロッパの画家たちにとって、イタリア、とりわけローマは文化の聖地のような存在だった。誰もがローマやフローレンスの素晴らしさを語っていた。イタリアの風が広くヨーロッパを渡っていた。レンブラントのように、はっきりとイタリアへ行く必要はないと言えた画家は少なかったのだ。

  ヨーロッパ各地からの人流の交差点のひとつとして、ラ・トゥールの生まれ育ったロレーヌでもイタリア礼讃者は多かったらしい。確かに、この時代、イタリアへ行ったことのない画家の方が少ないのではないかと思うほど、イタリアは吸引力を持っていた。ナンシーから送られた郵便物は1週間くらいでローマへ配達されたらしい。ローマには、ロレーヌ出身者の大きな集まりまであったといわれる。ロレーヌ、とりわけナンシーとローマの間には絶えない人の流れがあったようだ。こうした事実を列挙した上で、ラ・トゥール研究の大家テュイリエは、ラ・トゥールがローマへ行かなかったということの方がおかしいとまで述べている(Thuillier 1992, pp26-28)。

  ラ・トゥールがもしかすると出会ったかもしれない、ナンシー出身の銅版画家ジャック・カロはイタリアへの憧憬があまりに強く、再三家出してまでイタリアへ出かけている。

  ラ・トゥールがどこで画家修業をしたかは別として、イタリアはロレーヌの工房などでも日常の話題だったのだろう。それだけに、イタリアの文化動向については情報がかなり流布していたともいえる。 こうして、ラ・トゥールがその生涯にイタリアへ行ったかどうかは、この画家の研究史上は大きな論点とされてきたが、意外に議論となってこなかったのが北方への旅行である。

  この画家の作品を見て、直感したのはバロックの時代と言われながらも、ゴシックあるいはゲルマン的な潮流との強いつながりだった。 この点を考えながら、地図を眺めてみる。ヴィックあるいはリュネヴィル、ナンシーなどのこの画家ゆかりの地からは、フローレンス、ローマなどのイタリアの地はかなり距離もあり、アルプス越えなどの難関も控えている。

  それに比較すると、北方ネーデルラントは距離の点でもパリへ行くのとさほど変わらない。今ではパリ・ナンシー間はTGV(特急列車)で1時間半の旅だが、当時馬車などによっても片道3-4日程度の旅であったと思われる。フローレンス、ローマなどへは2~3週間はかかったのかもしれない。個人の旅行者は旅商人や巡礼などの仲間に加えてもらって旅をすることも多かったようだ。

  17世紀前半、レンブラントの時代はネーデルラントの黄金時代でもあった。イタリアの芸術文化の最盛期は過ぎ、新たな文化が興隆する地として北方ネーデルラント、フランドル地方が注目を集めていた。ラ・トゥールの作品に長年にわたり親しんできて、南よりも北の美術世界の方がこの画家には強い影響を与えたのではないかと思うようになった。ローマやフローレンスへ行った可能性以上に、アントヴェルペン(アントワープ)などへ行った可能性の方がはるかに高いのではないか。

Reference    
Jacques Thuillier. George de La Tour. Paris: Flamarion, 1992.

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天才を見出した人々

2007年12月22日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

Alphonse de Rambervillers, gravure de Van Loy, Bibliothèque nationale Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

    美術史の世界を眺めてみると、今日では天才といわれる画家でも在世中はその才能が認められることがなく、後世になって初めて発見・再評価された人々もかなりある。さらに、名前は記録にあっても、作品が今日まったく残っていないという画家は星の数ほどある。

  いかに天賦の才があっても、同時代人がそれを発見し、育成・支援する環境に恵まれなければ、その才能は埋もれたままに終わってしまう。少なくも在世の間に認められ、花が開くことがあれば、大変な幸せというべきなのだろう。天才は異能の才であり、同時代の人とは大きく距離を隔てた才能の持ち主である。そのため、時には同時代人には理解できないこともある。

  このブログで話題にすることの多い17世紀の画家たちを見ると、それぞれに喜怒哀楽、栄枯盛衰の人間ドラマがある。とりわけ、子供や若者の頃に隠れた才能を見出し、その育成のために精神的、物質的支援をしてくれるパトロンといわれる人物に出会えるか否かが、その後の人生を大きく左右する。当時の芸術家にとって大変重要なことは、彼らを支えてくれる庇護者、パトロンの確保であった。いかに才能があっても、それを開花させる基盤がなければ生活することさえ難しく、庇護者の存在が欠かせなかった時代である。

  今日判明しているいくつかの例を見ると、隠れた才能を最初に見出すのは、しばしば時代の「教養人」とみられた人たちであった。たとえば、レンブラントの場合は、オラニエ公の秘書官ホイヘンスだろうか。1625年頃から総督の秘書官を勤め、ラテン語の詩の翻訳を手がけたり、デカルトと3ヶ国語で文通もしており、法学、天文学、神学も修めていた。あのリーフェンスとレンブラントにイタリア行きを勧めたが、二人とも断ったという逸話の人物でもある。当代きっての文人の勧めを断った二人も素晴らしかった。内心に秘めたる自信があったのだろう。しかし、ホイヘンスも立派で彼ら若者の才を認め、支え続けた。

  ラ・トゥールの場合は、すでにこのブログに記したこともあるが、生地ヴィックの代官アルフォンス・ド・ランベルヴィリエール Alphonse de Rambervilliersがその人であった。若い隠れた才能を見出すことをひとつの生きがいとしていた、この高い精神性を持った貴族は、ロレーヌきっての美術と骨董品の収集家であった。そればかりでなく自らが詩人で画家でもあり、反宗教改革の流れの中で著名なキリスト教哲学者でもあった。  

  彼はジョルジュと結婚したネールの両親とも姻戚関係にあり、1617年の結婚式にも新婦側の来賓として出席している。背景は不明だが、ラ・トゥールの父親とも知人の関係でもであった。若いジョルジュの天賦の才能を見出し積極的に庇護してきたのは、このラムベルヴィリエールその人であったのではないか。

  ジョルジュとネールの結婚を仲介したかもしれない。その可能性はきわめて高い。ラ・トゥールの妻となったネールの従姉妹と結婚していたこと、リュネヴィルとヴィックという離れた町の双方に通じていたこと、などからラムベルヴィリエールが若い二人の間を取り持ったのかもしれない。

  ラ・トゥールの画家としての実力が次第に認められてゆくにつれて、パトロンの数も増えたことはほぼ明らかだが、最初の才能の発掘者であり、パトロンでもあったこの人物の役割はきわめて大きい。パン屋や粉屋の息子であろうと、そこに優れた才能の萌芽を見出せば、それをなんとか開花させてやろうとする志に敬服する。

  アルフォンス・ド・ランベルヴィレールといえば、12世紀末までさかのぼる貴族の家系で育ち、ヴィックばかりかロレーヌきっての文化人であった。トゥールの検事で市議会委員をしていた父親の息子で、ヴィックに置かれたメッス男爵領の代官の甥でもあった。トウルーズで学んだ後、1587年ヴィックで検事になるつもりだったようだ。しかし、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが生まれた年でもある1593年7月24日、叔父の後を継ぎ、代(理)
官に就任することになった。

  ヴィックの町を治める指導的な人物であり、その識見、篤実な人柄で市民の尊敬の的であった。代官という政治的役割を担いながらも、詩人、学者、美術品収集家でもあった。その名はロレーヌばかりでなくパリの貴族階級の間でも知られていた。

  ランベルヴィリエールは16世紀文化人の典型とも言える人物だった。学問、学芸のあらゆることに関心を持っていた。その範囲は、地理学から神学から地域の法律・慣習、築城術から楽器、ガラス彫刻、古代のメダル収集などあらゆる分野に及んでいた。美術品についてもロレーヌきっての収集家として知られていたが、自ら絵筆をとって細密画などを描いている。リュートを弾き、詩を朗詠することもあったようだ。

  1600年の祭典に際してフランス王アンリ4世に献呈された『キリスト教徒の詩人による敬虔な願い』 the pious learnings of the Christian Poetは、彼自身の詩作であるばかりか、彼の細密画挿絵付きの写本であった。当時の文化水準を繁栄する最も優れた作品のひとつと評価された。ランベルヴィリエールはヴィックのコルドリエ会に、神学護教譜研究の蔵書を送ってもいる。 

  代官は天文学者、骨董品収集家などで、この時代の代表的教養人の一人、友人のニコラ・ド・ペイレスク Nicolas de Peirescと所蔵する骨董品の交換などもしていた。ある時、ペイレスクがジャック・カロの作品を入手したことを知って、作品を見た代官は「ペイレスクは生来の鑑識眼があるな」と誉めたという。そして、ラ・トゥールの作品も、買ったらどうかと薦めていた。

  さらに、ルイ13世がラ・トゥールに、アンリIV世が与えたような恩典を付与しなかったのを知って、晩年(1621年3月27日)王の配慮の足りなさを非難する長い文書を残している。そこには、「不毛の土地を耕す教養ある人間が少ない環境を嘆いている」と記されている。

  多数の美術作品を収集、所蔵しており、遺言書においても、それらが自邸の装飾の一部として構成されるよう、そして彼の美術への愛のしるしとして、自らの疲れた心を癒すために、彼が展示したままに保蔵されるよう厳しく書き記している。残念なことに、そのすべては失われた。

  

Reference 

aulette Choné, Georges de La Tour un peintre lorrain au XVIIe siècle, Tournai: Casterman, 1996

Anne Reinbold, Georges de La Tour, Fayard, 1991

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ラ・トゥールにみる作品の真贋(1)

2007年12月04日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

The Choirboy (A Young Singer) Oil on canvass, 66.7 x 50.2cm New Walk Museum and Art Gallery, Leicester Arts and Museum Service  

  この作品については、ブログのコメントで少し話題としたことがあった。一部ではジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作とする者もあったが、今日では、ラ・トゥールの作品のコピーあるいは工房の作品とみるのが大勢となっている。しかし、完全に決着しているわけではない。かなり議論を呼んだ作品だ。

  作品自体は大変落ち着いた色調で、美しく仕上がっている。ラ・トゥールの多くの作品に見られる宗教性や深い含意はあまり感じられない。中流階級の居間などに飾るには適当で穏やかな主題と言えよう。こういう絵が家に一枚あったら、目も心も休まるなあと思うのではないだろうか。

  一見して、もしかするとラ・トゥールの手になるものではないかと思わせるのは、やはり光の使い方である。手のひらによって隠された蝋燭の光源と少年の顔を映し出している光の明るさである。少年はその光で楽譜を見ながら、目を細めて聖歌を歌っている。 かなり修復の手が入っているらしいが、衣服のひだや襟の模様の美しさなど、並大抵の画家ではないことが伝わってくる。 

  作品の来歴も謎が多い。この作品が専門家の目の前に現れたのは、1980年代と比較的近年であった。個人の所蔵するものだったが、所有者は名前を秘匿することを強く希望していた。そして、これまでその点は守られているらしい。わすかに聞こえてくるのは、ブラウン家といわれる家族が1890年代、ハンプトン・コートで王室絵画の管理者であったという伝聞である。いかなる経緯で作品が家族の所有になったかも分からないが、元をたどれば王室の所有になるものであったという言い伝えがあったということである。他方、この作品について王室の記録はなにも見出されていない。 イギリス王室の美術品管理も決して万全でないことは、これまでに思いがけない作品が突然倉庫から出てきたりしており、記録が欠落してることも十分ありうる。 

  この絵の所有者は通常、美術作品が経由する手続きを経て、レスター美術館へ持ち込まれた。そして、修復と鑑定が行われた後、作品保有者が直接に美術館へ売却する場合の租税特例が適用されて、美術館へ所有権が移転した。  

  ラ・トゥールの専門家であるルーブル美術館のピエール・ローゼンベールが推薦したのだが、同美術館の評価委員会の一人(匿名)がラ・トゥールの作品とは考えられないと述べたことが同美術館のジャーナルに記載され、美術館の認定申請が却下されてしまった。  

  その後、この作品の画家の確定については不名誉なことが続いた。ある著名な権威者がこの作品の真作は、さるドイツの城にあったと発表した。こうして、思わぬけちがついてしまったこの作品は、専門家の間でその正統性が公認されずに今日にいたっている。

  ラ・トゥールの作品を多数見てきた者には、真作か非真作(コピー)、贋作かを別にして、ラ・トゥールと多くの点でつながっていることを思わせる作品であることは間違いない。

  ちなみに、この作品を含む5点のラ・トゥール関連の作品を展示した企画展がイギリスのコンプトン・ヴァーニー*で本年6月30日から9月9日まで開催された。規模は小さいが、イギリスで始めての統一された構想でのラ・トゥール展と評価された**

  この作品に限ったことではないが、美術品の真贋鑑定は虚虚実実であり、作品の美しさからは想像もつかない複雑怪奇な世界であることが伝わってくる。

 

Compton Verney, Warwickshire CV35 9HZ

** Christopher Wright. Georges de La Tour: Master of Candlelight. Compton Verney. 2007.
この特別展の企画者であるクリストファー・ライトも、ラ・トゥールをめぐる真贋論争の主要人物である。

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切ったり・貼ったり:「修復」の社会理念

2007年07月31日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 17世紀前半のラ・トゥールの作品を見ていて、前から気になっていることがある。それはいくつかの作品における空間のとり方が、どうも自分の感覚と少しずれているような気がするのだ。たとえば、仕事部屋に掛けている「生誕」のポスターを毎日見ているのだが、左側に立つ召使の頭上の空間が心持ち窮屈な感じがする。あと10センチいや5センチとってあれば、もっと楽に見られるのではないかと思う。

    他方、同じ画家の作品でも 「ファビウスのマグダラのマリア」のように、少し闇の部分をとり過ぎているのではないかと思う時がある。また、構図自体がどうしてこれほど窮屈なのだろうかと思われる作品もある。典型的なのは、あの「ヨブとその妻」 (エピナル美術館)である。人体としてはバランスを失しているのではと思われるほど長身の女性がヨブを見舞っている。頭の部分が不自然なくらいに上から押さえられている。天井が低すぎて、無理に首を曲げているような感じがする。しかし、この違和感を感じるほど窮屈な構図こそが、この作品の不思議な魅力の一因なのだ。少し見慣れてくると、これでなければ駄目だと思うようになる。

  美術史家の友人によると、ラ・トゥールの作品に限らず、この時代の好みや風習が反映しているという。確かに、この時代、依頼者(あるいはパトロン)が主題を指定して画家に製作依頼し、作品の納入が終わった後、自分の好きな部分だけを残すということもかなり行われてきた。時には、作品が所有者を変える過程で、新たな所有者が自分の嗜好に合わせて、画材を継ぎ足したり、切り取ったりしている。作品が自分の所有になったら、どうしようが勝手という風潮なのだろう。作品と芸術家の「社会性」の関係が十分確立されていない時代である。(かつてこのブログでゲインズバラの作品「姉と弟」 (仮題)について、記したこともあった)。

  画商が作品を適宜、裁断して複数の作品に仕立て上げ、販売することも行われた。こうしたことは時代を下って、印象派の時代になっても行われていた。

  興味あることは、ラ・トゥールの昼の作品は、すべてある時期に継ぎ足しが行われて画面が拡大されているらしい。狭い画面に人物がぐっと詰まった構図が、時代の好みに合わなくなってきたからである。部材を継ぎ足してゆとりをもたせることなどが行われている。たとえば、ルーヴルの「ダイヤのエースを持ついかさま師」は、あらかじめ色を塗った帯状の布で上部を拡大している。継ぎ足された部分は、現在も作品の一部として残っている。他方、北米のキンベル美術館が所蔵する作品のいくつかは、近年の修復時に後年に追加された部分を取り去り、元の寸法に戻されている。

  また、「辻音楽師の喧嘩」(J.ポール・ゲッティ美術館)は古い時代に模作がつくられており、それには拡大部分がない。ブリュッセルの「ヴィエル弾き」は、原作段階ではヴィエル弾き以外にもヴァイオリン弾きが描かれていた。現在残る作品に、楽器と弓を持つ手が残っている。数人の楽士を描いた横長の画面だったのだ。おそらく偶発的な原因などで作品が損傷し、画家の署名が残る部分の体裁を整え、独立した作品のようにしたのではないかと推測されている。 

  絵画に限らず、建築物などについてもいえることだが、作品の社会性が確立されていなかった時代では仕方がなかったとしても、今日では作品の社会性とその維持のための責任の基準確立が望まれている。芸術作品の「修復」や「模造」に関する理念を、社会がいかに共有するか。絵画にとどまらず、芸術作品の社会性のあり方が問われている。

  このブログで取り上げているラ・トゥールの作品がたどってきた歴史は、こうした課題を考えるに際して格好な素材を提示しているように思われる。

「われわれは、芸術作品そのもののいかなる部分にも真正性(オーセンティシティ)に疑いが生まれないように、類推による補完はせず、芸術作品の今残っていてわれわれに見えているものの享受を容易にすることだけにとどめなければならない。」


Cesare Brandi. Teoria del restauro (チェーザレ・ブランディ(小佐野重利監訳、池上英洋・大竹秀美訳『修復の理論』三元社、2005年)、p.134.

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