時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールの書棚(2):「冬の闇」

2006年07月17日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの書棚

  これまでの人生で深い感銘を受けた書籍がいくつかある。そのひとつが、この田中英道氏の著作『冬の闇ー夜の画家ラ・トゥールとの対話ー』である。パリ、オランジュリーでのラ・トゥール回顧展が開催された1972年の年末に刊行された。すぐに取り寄せて読み、その透徹した洞察に深く感動した。田中氏は本書とは別に、より専門的な著作として『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』を同年に刊行されているが、今回は一般向けの前書を紹介しよう。後者については、改めて紹介したい。

  当時はフランスにおいても、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの知名度は決して高いものではなかった。それにもかかわらず、オランジュリーの回顧展は多くの人々に大きな感銘を与えた。一人の画家の作品展にもかかわらず、当時は珍しいほど長い行列ができていたことを思い出す。

  田中氏は本書「あとがき」でこれだけの作品が一堂に会し、並列されるとひとつひとつの作品を見る眼が深められぬような気がしてやや落胆した」と記されている。ラ・トゥールの作品は世界各地に分散しており、なかなかまとまった形で作品を展望する機会は少ないから、ぜいたくな悩みではあるが、こうした感想が生まれるのだろう。このブログでも同じような印象を記したことがある。
 
  この画家の作品は、それにふさわしい固有な空間で、一対一で対面することが前提になっているように思われる。まさに画家と見る者との対話を要求しているのだ。

  さらに、ラ・トゥールの作品のひとつひとつが、時代を超えて現代に生きる者にも強く訴えるものを持っている。この画家の作品には、画家の育った背景や風土を知らなくとも、強く訴える力がある。しかし、その背後に展開する時代と空間に分け入ることで、理解は格段に深まることはいうまでもない。

  ブログでも一端を描いているように、当時のロレーヌはフランス、神聖ローマ帝国などの強国の狭間にありながらも、ロレーヌ公国としてかろうじて自立性と固有の風土を維持していた。豊かな鉱物資源など、産物と風土に恵まれ、豊潤で平和な時を享受していた時代もあったロレーヌだが、画家が生きた時代は戦乱、悪疫、飢饉などで荒廃し、平穏とはほど遠い時期が長く続いた。精神的風土という面でも、魔女裁判、呪術、宗教戦争など、人々の不安をかきたてる材料に事欠かなかった。

  ロレーヌは機会に恵まれ、何度か訪れることがあったが、ヴィックもリュネヴィルもなだらかな起伏の続く土地に、川と灌木に囲まれ、人の気配も少ないようなひっそりとした町であった。

  深い精神性に支えられた作品を残したラ・トゥールという画家の世界に分け入ることは、ヨーロッパの精神世界の深層に迫ることでもある。田中氏の資質を早く見出した文芸評論家江藤淳氏が評しているように「「冬の闇」とは、十七世紀ロレーヌの画家の世界であると同時に、氏の心に映じたヨーロッパ世界そのものの象徴である」(本書背表紙から)。

  時代背景を知らずに、ラ・トゥールの作品に接した者も、この画家が過ごした時代あるいはその生涯について、多くの興味をかき立てられよう。これまでの研究が明らかにしてきたように、画家はたぐいまれなる天賦の才に恵まれたが、偏屈あるいは強欲とも思われる性格の持ち主でもあった。

  巧みに乱世を生き抜き、画家として栄達をとげた。しかし、世俗の世界を離れた次元では、この画家はきわめて孤独であった。その精神世界を残された作品からかいま見ることは、きわめて興味深い。現代に生きる人間の状況と底流においてつながるものもある。

  ラ・トゥールの研究は、その後新たな作品や記録の発見などもあり、着実に進んできた。細部においては、著者の解釈と異なる点も出てきてはいる。しかし、その思索の深さ、多彩な切り込みなどの点で、本書をしのぐものは少ない。ラ・トゥールに関心を抱く人にとっては必読すべき文献の最たるものである。今日の段階では残念ながら、図書館、古書などに頼るしかないが、そうした労をはるかに超えて、読者は多くのことを学ぶことができる。

*田中英道『冬の闇-夜の画家ラ・トゥールとの対話-』新潮選書(新潮社、1972年)
 田中英道『ラ・トゥール 夜の画家の作品世界』(造形社、1972年)

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