通常の観光客とはほとんど縁のないロレーヌの小さな町ヴィック・シュル・セイユのラトゥール美術館の売り物は、なんといっても「荒野の洗礼者聖ヨハネ」である。しかし、ラトゥールの作品については、もうひとつ「女性の横顔」(Tête de femme: fragment)*を2004年から所有している。
この小さな美術館が生まれた背景について、少しだけ記しておこう。なにしろ、この忘れられたような小さな町は、この美術館でかなり活性化した。町には立派な「ツーリスト・インフォメーション」が設置され、行って見ると、それまではなかったラトゥールとヴィックを紹介する別室まで出来上がっていた。ラトゥール・フリーク?にとっては、美術館とは別に、いつまでもいたいような空間である。ヴィックの町の立体模型も作られており、美術館の近くには、祖先がラトゥール家ではなかったかといわれるパン屋まである。
「荒野の洗礼者聖ヨハネ」の発見をめぐる美術界での騒ぎは、かなりよく知られているが、この小さな町へもたちまち波及し、どの家でも屋根裏に作品が残っていないかと夢中になったとのこと。なにしろ、ラトゥールの作品ともなると、閣議で問題になるくらいの国宝扱いで、一枚数億円は下らないのだから無理もない。
1996年モ-ゼル県は、ヴィック=シュル=セイユの町とジョルジュ・ド・ラトゥールの「荒野の洗礼者聖ヨハネ」を展示する美術館を設立する協定を結んだ。この作品は、一時は海外流出もうわさされたが、フランス政府の政治介入によって、1994年に将来その他の作品と合わせて美術館を設置することを前提に、県が保有する権利を獲得していた。フランス政府もまたアメリカへ持っていかれるのではないかと、躍起になって流出を防いだらしい。1993年の秋にパリの競売の下見会で発見されてから、翌年12月にモナコのサザビーズでオークションにかけられ、モーゼル県が落札・購入するまでの経緯は、紆余曲折、政治ミステリーのようであったらしい。
美術館設置の場所として、当初はこの町の産業のひとつであった貨幣鋳造所跡が予定されていたが、ラトゥールの作品が常設展示されるということになって1998年には、80点近い作品の寄贈や寄付が集まり、最初のプランではとても収容できないことになった。これも予期しなかった「ラトゥール効果」だった。
結果として、町の中心であるジャンヌ・ダルク広場に、かつては18世紀の町役場であった建物を改築して美術館とすることになった。ところが、古い町によくあることだが、建設サイトを3メートル近く掘り下げたところ、ローマ時代の遺跡に始まり、その後の幾たびかの火災の跡など、町の盛衰を語る多くの資料が発掘された。こうしたことで、美術館が完成したのは2003年6月のことである。
美術館の内部は、訪問者がゆったりと作品をあるがままに鑑賞できるように自然光を重視した設計になっている。何にもまして、観客がいないことが都会の美術館とは大違いである。 展示されている作品は、美術館建設の歴史が語るように、ロレーヌの歴史の一端を物語る考古学的発掘品、穀物などを計量した秤などの生活にまつわる品々、彫像、絵画など、かなり多岐にわたっている。
絵画作品に限ると、17-18世紀の作品に注目すべきものが多い。とりわけ17世紀初期のフランス画壇は複雑な変化をしているが、そのいくつかを象徴するような作品が展示されている。ちょうど、このブログでも記したパリの美術展で大きな注目を集め、待ち時間1時間以上という「オランジェリー 1934年: 現実の画家たち」と重なり合うような作品もあった。
ヴィックを訪れる前からチェックをして、ぜひ実物を見たいと思っていた作品のひとつに、ジャック・ステラ Jacques Stella (1596―1657) という画家の「母親との自画像」があった。ステラはプッサンの友人でもあり、ラトゥールとほぼ同時代人であって、当時の人々の容貌や衣装がどんなものであったかを知るに面白いと考えていた。ところが、残念なことに、この作品だけ別の美術館へ貸し出し中であった。しかし、H. シェーンフェルドの「鏡の前のマドレーヌ」など、他の作品でかなり興味を惹かれたものがあった。
満足できるまで見ていられるというのが、こうした美術館の大きなメリットである。オルセーなどで、名作に圧倒されるような威圧感もなく、自分の家の居間で作品に対しているような時間を過ごすことができる。
* この作品については、興味深い点もあり、いずれまた記すことにしたい。
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