大倉草紙

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【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その3

2011年02月24日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その2の続き


(14:34)
利根川が見えてきた。


(14:37)
やっとここまで来たか。
でも、これから先、まだまだ長い。


(14:38)
川を渡る途中で、茨城県古河市に入る。


(14:47)
利根川を渡り、すぐ左手の細い道を入っていく。
すぐに、房川渡(ぼうせんのわたし)と中田関所跡の案内板がある。
案内板の文字は消えかけていて読み辛いが、それによれば、この場所と対岸の栗橋の間の流れの部分を「房川」と呼んだそうだ。
渡船場を房川渡、関所を房川渡中田御関所といっていたという。
関所は、明治2年(1869)に廃止されたが、二艘の渡し船と五艘の茶船の渡船場は、大正13年(1924)に利根川橋が完成するまで使われていたそうだ。


(14:50)
前方に、火の見櫓が見えてくる。
そのすぐそばに、中田宿の案内板がある。
「江戸時代の中田宿は、現在の利根川の橋の下、利根川に面して、現在は河川敷となってしまっている場所にあった。再三の移転を経て、現在のような中田町の町並みとなったのは、大正時代から昭和時代にかけての利根川の改修工事によってである。
 中田宿の出発は、江戸幕府が日光街道を整備する過程で、以前の上中田・下中田・上伊坂など、複数の村人を集め、対岸の栗橋宿と一体的に造成させたことにあり、宿場として、隣の古河宿や杉戸宿への継ぎ立て業務も毎月を一五日ずつ半分に割り、中田・栗橋が交代であたるという、いわゆる合宿であった。
 本陣・問屋や旅籠・茶店などの商家が、水辺から北へ、船戸、山の内、仲宿(中町)、上宿(上町)と、途中で西へ曲の手に折れながら現在の堤防下まで、延長五三〇メートルほど続いて軒を並べていたが、ほとんどは農家との兼業であった。
 天保十四年(一八四三)の調査では、栗橋宿四〇軒に対し、中田宿六九軒となっている。ただし、一一八軒とする記録もある。
  平成十九年一月   古河市教育委員会」(案内板より)


(14:55)
左手に見える鶴峯八幡神社は、奥州征伐の際にこの地に立ち寄った源頼朝が戦勝を祈願したところ武運が開け、相模国鶴岡八幡宮の御分霊を上伊坂(現・中田)に勧請したのが始まりといわれる。
また、新田義貞も北条高時追討の戦勝祈願をしたと伝わっている。


(14:56)
鶴峯八幡神社の並びにあるのが、光了寺
かつては栗橋宿にあり、「光柳寺」と称していた。
栗橋に静御前の墓があったが、その亡骸は光柳寺に葬られたと伝わる。
光了寺には、静御前が後鳥羽上皇から賜った「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣」、「義経かたみの懐剣」が所蔵されている。


(14:57)
光了寺の境内には、芭蕉の句碑が建っている。
「いかめしき 音や霰の ひのき笠」

つづく

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