大倉草紙

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【日光街道】 4日目(北春日部~南栗橋) その3

2011年02月16日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月30日(木)
4日目(北春日部~南栗橋)その2の続き


(15:01)
この先の交差点の左手に、明治天皇幸手行在所の碑が建っている。
明治天皇は、明治9年6月奥羽巡幸の際、明治14年7月、同10月に山形・秋田・北海道巡幸の際、明治29年10月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通り、明治9年には元本陣の知久家に、明治14年と29年には右馬之助町の元名主・中村家に宿泊した。


(15:01)
明治天皇幸手行在所の向かいは、建設工事中。
シートの隙間から中を覗くと、かなり古い建物だ。
これは、「旧日光街道幸手を感じる会」が行っている「登録文化財の町屋を、まちなか活性化の拠点、核施設として整備する事業」なのだそうだ。


(15:07)
この鰻屋さんが、幸手宿本陣 知久家跡
「知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出身で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の繁栄に尽しました。
 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約三十九m・奥行約八十mで、約千坪ありました。
   幸手市教育委員会」(案内板より)


(15:18)
しばらく行くと、左手に聖福寺がある。
徳川三代将軍家光が日光社参の際、御殿所として使用したのをはじめとし、天皇の例幣使や歴代将軍が18回に渡って宿泊したのだという。


聖福寺には、芭蕉と曽良の句碑が建っている。
「幸手を行ば 栗橋の関  芭
 松風邪を はさみ揃ゆる 寺の門  良」

つづく