大倉草紙

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【日光街道】 1日目(日本橋~梅島) その4

2011年02月06日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月25日(土)

1日目(日本橋~梅島)その3の続き


(12:31)
千住大橋を渡ると、右手に足立市場が見える。


(12:32)
足立市場の隣には、千住宿奥の細道プチテラス


(12:33)
千住奥の細道プチテラスの前に建つ松尾芭蕉の像


(12:33)
千住奥の細道プチテラスの前の旧道が日光街道。


(12:34)
すぐに、やっちゃ場の看板が目に入ってくる。
この通りは、「やっちゃ場通り」。
街道の両側には30軒余りの青物問屋が軒を並べ、そのセリ声が「やっちゃいやっちゃい」と聞こえることからこの辺りが「やっちゃ場」と呼ばれるようになったそうだ。


このように一見どこにでもある通りのようだが、


店の屋号や歴史を記した木製の案内板が掲げられていたり、


昭和5年時の千住市場問屋配置図が設置されていたり。
日光道中には21の宿場が置かれていたが、その中でも千住宿のあったこの辺りは、歴史を後世に伝えようとする姿勢が見られて好感を持てた。


(12:38)
千住宿歴史プチテラスの建物は、元地梳紙問屋・横山家の土蔵を移築したもの。
「歴史と潤いのあるまちづくり」のギャラリーとして使われている。


(12:53)
そのまま直進すると、左手に内田銀蔵博士の生家がある。
よく知らないが、明治・大正期の歴史学者らしい。


(12:57)
そこから2つ目の信号のある交差点の手前、左手に千住高札場跡があるのだが、うっかり見落としてしまい、戻って確認した。


(12:58)
道を挟んで向かい側には一里塚跡


(12:56)
交差点を渡って左手に千住問屋場・貫目改所跡がある。


(13:03)
日光街道を離れ、右に折れると足立都税事務所があるが、ここは、森鴎外旧居 橘井堂森医院跡である。
森鴎外の父・静男は、元津和野藩主亀井家の典医だったが、明治維新後上京する。
当初は郡医として働いていたが、後にこの地に橘井堂(きっせんどう)森医院を開業した。
鴎外はこの家で4年間過ごしている。


(13:02)
足立都税事務所の前には、千住の鴎外碑が建っている。


(13:18)
再び日光街道へ戻る。


(13:23)
通称「宿場町通り」を入ってすぐ左手の路地に、「千住本陣跡とその周辺」という案内板がある。
このあたりが千住本陣跡


(13:27)
千住ほんちょう公園には、「千住宿高札場由来」の案内板が置かれている。


(13:29)
右手に見えてくる趣のある建物は、横山家住宅
伝馬屋敷の面影を残す家屋。
千住宿歴史プチテラスとして使われているのは、こちらの土蔵である。
玄関の柱には、上野の戦いで敗退する彰義隊が切りつけた傷痕が残っているという。


(13:32)
「北へ旧下妻道 北西へ旧日光道中」を書かれている。


(13:33)
千住名倉医院
明和年間に開業した接骨院。
「骨接ぎの名倉」は有名で、この辺りには、患者が宿泊するための宿屋が5軒もできたとか。


(13:35)
荒川が見えてきた。


(13:46)
荒川を渡ると道は複雑だが、「日光街道」の標識をたよりに進んでいく。
このまま直進すると、ほどなく右手に梅島駅がある。
初日はここでおしまい。
帰りは電車だが、電車だと一日がかりで歩いてきた道中をほんの数分で走ってしまう。
翌日は、梅島駅から出発。

2日目へつづく。