大倉草紙

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【日光街道】 1日目(日本橋~梅島) その3

2011年02月05日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月25日(土)
1日目(日本橋~梅島)その2の続き


(11:54)
泪橋
「泪橋」は、かつて思川に架かっていたそうだが、現在、橋はない。
写真は、「泪橋」の交差点。
この先に小塚原刑場があるが、ここが処刑される罪人が家族らと最後の別れをした場所であったことから「泪橋」という名が付けられたそうだ。
泪橋は、鈴ヶ森刑場の近くの立会川にも架かっていた。


(12:02)
南千住駅近くにある小塚原刑場跡には、首切地蔵が建てられている。
「小塚原刑場跡
 江戸のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ヶ森と千住の小塚原の二つである。
 小塚原の計上は、間口六十間余(約百八メートル)、奥行三十間余(約五十四メートル)で、明治のはじめに刑場が廃止されるまでに、磔・斬罪・獄門などの刑が執行された。
 首切地蔵は、この刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(一七四一)に造立されたものである。
   荒川区教育委員会」(案内板より)


(12:04)
小塚原刑場の少し先、左手に回向院がある。
回向院は、寛文7年(1667)、本所回向院の住職が行路病死者や刑死者の供養のために開いたお寺。
橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎らの墓がある。


橋本佐内の墓


吉田松陰の墓


頼三樹三郎の墓


鼠小僧の墓


高橋お伝の墓
高橋お伝は、仮名垣魯文の『高橋阿伝夜刃譚』のモデルとなった女性。
強盗殺人の罪で斬首刑に処せられ、「明治の毒婦」と呼ばれたそうだ。


観臓記念碑
明和8年(1771)、回向院で、杉田玄白、中川淳庵、前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立ちあった。
後に『ターヘルアナトミア』を翻訳し、『解体新書』を出版したことを顕彰した碑。
回向院を入って右手の壁に埋め込まれている。


回向院の入口には、「吉展ちゃん事件」の犠牲者村越吉展ちゃんの供養のために建立された「吉展地蔵尊」がある。


(12:24)
国道4号線に突き当たった正面に見えるのは、素盞雄神社
社伝によれば、比叡山の黒珍がこの地で小笹の茂る小塚の上に瑞光を発する霊石を見つけた。
或る晩、そこに二人の翁が現れて、素盞雄大神、事代主神と名乗った。
この二人を祀ったのがこの神社の始まりなのだそうだ。
小塚原の地名は、この小塚からきているといわれる。

右折して、隅田川方面へ。

(12:25)
すぐに千住大橋が見えてくる。
千住大橋は、文禄3年(1594)に架けられた。
はじめは、現在地よりもやや上流に架かっていたらしい。
隅田川に架かる橋では、一番最初にできたものである。


(12:27)
橋の袂には、千住大橋について記された碑が建っている。


(12:28)
橋の下を覗くと、堤防の壁には「おくのほそ道 旅立ちの地」とある。


(12:29)
千住大橋を渡って左手に、奥の細道 矢立初めの地の碑がある。
松尾芭蕉は、元禄2年(1689)、深川から隅田川を遡り、千住大橋の辺りで船をおりて「奥の細道」の旅を始めたのだそうだ。

つづく