大倉草紙

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【日光街道】 2日目(梅島~越谷) その4

2011年02月11日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月26日(日)
2日目(梅島~越谷)その3の続き


(13:53)
蒲生の一里塚を目指すが、綾瀬川をどこで渡ればよいのか分からない。
橋はたくさん架かっているのだけれど。
おそらく、日光街道からは外れてしまっているだろうが、『おくの細道』を想像して描いたという絵タイルがあった。
このあたりは、どこへ行っても芭蕉だなあ。


(14:01)
橋を渡った先に藤助河岸跡がある。
藤助河岸は高橋藤助が経営していた河岸。
江戸時代半ばから、年貢米をはじめ商品荷が綾瀬川を通って江戸へ運ばれていた。
この河岸は明治・大正と利用されてきたが、大正9年に東武鉄道が開通し、越谷駅が設置された頃から次第に衰微し、昭和初期に廃止されるに至る。


(14:02)
藤助河岸よりやや上流へ向かうと、蒲生の一里塚がある。
埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚ということで、埼玉県指定史跡となっている。


(14:20)
その先に清蔵院があるのだが、辿り着くまでの間、目印もなく、本当にこの道でよいのだろうかと不安に思いながら歩いた。
この三門の建立者は、日光東照宮造営に堂院された工匠の一人であろうとされている。


(14:20)
三門には、左甚五郎作といわれる龍の像がある。
夜な夜な山門を抜けだしては畑を荒らしたので、龍は金網で囲われているのだそうだ。
京都御苑の猿ヶ辻の猿を思い出すなあ(京都御苑についてはこちら→ )。


(14:41)
新越谷駅入口の交差点付近には、南越谷阿波踊り発祥の由来の碑が建っている。


(14:57)
しばらく行くと、道は二手に分かれる。


道が分かれるところには、里程標(刻まれている文字は「里程表)が建っている。
「東京雷門五里 浦和三里半 大宮五里 川口四里 鳩谷三里」と刻まれている。
左に進むのだが、その前に、右手にあるお寺に寄ることにした。


(14:58)
照蓮院


(15:01)
照蓮院には、千徳丸供養塔が建っている。
「瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は、天正十年(一五八二)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。寛永十四年(一六三七)秋山家墓所に『御湯殿山千徳丸』と刻まれた五輪塔が造立された。これが千徳丸の墓石供養塔であるといわれる。なお長慶の兄虎康の娘は徳川家康の側室となり、おつまの方と称したが、家康の五男武田信吉を生んでいる。
  平成十五年一月 越谷市教育委員会」

先ほどの道へ戻り、左に延びる旧道を行く。

(15:27)
ほどなく越谷駅東口。
日光街道を歩いた11日間のなかで、この日が一番キツかった。

3日目(越谷~北春日部)につづく。