大倉草紙

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【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その1

2011年02月18日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

4日目(北春日部~南栗橋)その4の続き


大晦日に、大高利一郎著『日光街道をあるく』という本を買った。
街道の地図や名所が細かく記されていて、これを持って歩けば心強い。


(12:04)
新しい年を迎え、1日目から歩くことにした。
出発は、南栗橋駅。
家を出た時刻が遅く、南栗橋の駅に着いたときにはもうお昼になっていた。
まだ歩いていないのだけれどお腹がすいてしまったので、まずはお昼を食べる。


(12:19)
南栗橋駅から国道4号線方面へ向かい、4号線の手前の細い道に小右衛門の一里塚がある。
江戸から14番目の一里塚。
塚の上には、字堤外(現・権現堂川)から移築された弁財天堂がある。


(12:46)
こちらのお宅には、猫がたくさん集まっていた。
みんな暖かい場所をみつけて日向ぼっこ。


(12:51)
会津見送り稲荷
「江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、会津藩の武士が藩士江戸参向に先立ち、先遣隊として江戸へ書面を届けるためこの街道を栗橋宿下河原まで来たところ、地水のため通行できず、街道がどこかわからずたいへん困っていると、突然白髪の老人が現われて道案内をしてくれた。お蔭で武士は無事に江戸へ着き、大事な役目をはたせた、という。
 また、一説には、この地で道が通行できずに大いにあせり、そのうえ大事な物を忘れたことに気がつき、困りはてたすえ、死を決意した時、この老人が現われ藩士に死を思い止まらせた、ともいわれている。
 のちになって、この老人は狐の化身とわかり稲荷様として祭ったものである。
   栗橋町教育委員会」(案内板より)


(13:24)
このあたりは、国道を行ったり、旧道を行ったり。
道はとっても分かり辛い。
ようやく見つけた焙烙(ほうろく)地蔵
かつて、現在の利根川に関所が設けられていたそうだ。
関所破りをした者、あるいは企てた者は、火あぶりの刑に処せられたそうだ。
処刑場は、地蔵尊のあるこの場所にあったという。
のちに、処刑された人々を供養するために建てられたのが、この焙烙地蔵である。


(13:26)
あちこちの電柱には、昭和22年のカスリーン台風の際の実績浸水深を示すと同時に、避難所を知らせるプレートが貼られている。


電柱を離れて見ると、こんなところまで浸水があったのか、と驚かされる。
実際、この台風の死者は1077名、行方不明者は853名、負傷者は1547名、と被害は大きかったそうだ。

つづく

【日光街道】 4日目(北春日部~南栗橋) その4

2011年02月17日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月30日(木)
4日目(北春日部~南栗橋)その3の続き


(15:22)
街道は、右に大きくカーブする。
ちょうど道が折れるところが一里塚跡だ。
幸手の一里塚は、明治の初めごろまで、この道の両側にあったそうだ。


(15:23)
一里塚跡のあるカーブに、大きな燈籠が建っているが、その奥に正福寺がある。


(15:23)
正福寺の境内にある幸手義賑窮餓之碑


(15:24)
正福寺の境内にある日光街道道標


(15:26)
正福寺のすぐそばにある石太菓子店。
日光街道に関するブログやホームページを見ると、このお店の「塩がま」が美味しいと評判になっている。


こちらが、幸手名物「塩がま」。
せっかくだから、ひとつ買ってみた。


中はこんな感じ。
歩いて疲れたときにはいいかも。


(15:50)
やっとやっと、東京から50キロ歩いてきた。
まだまだ半分以上残っている。


(15:51)
権現堂堤には約1000本の桜が植えられている。
権現堂堤は、しばしば氾濫する権現堂川の堤防として、天正年間に築かれたもの。


(15:51)
権現堂堤にある行幸堤之碑
天正年間に堤が築かれた後も、権現堂川は幾度も氾濫した。
明治時代に入ってからも、新しい堤防造成に着手することになる。
明治天皇は、明治9年の東北巡幸の際にその労に感じ入り、この仕事に携わった人の名を石に刻んで残すように言われ、費用の一部が下賜されたという。


(16:16)
南栗橋駅へ向かう。
日が暮れるのが早い。
夕日がきれいだったので写真に撮ってみた。


(16:22)
南栗橋駅が見えてきた。
今日はここまで。

つづく

【日光街道】 4日目(北春日部~南栗橋) その3

2011年02月16日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月30日(木)
4日目(北春日部~南栗橋)その2の続き


(15:01)
この先の交差点の左手に、明治天皇幸手行在所の碑が建っている。
明治天皇は、明治9年6月奥羽巡幸の際、明治14年7月、同10月に山形・秋田・北海道巡幸の際、明治29年10月近衛師団の演習天覧の際に幸手を通り、明治9年には元本陣の知久家に、明治14年と29年には右馬之助町の元名主・中村家に宿泊した。


(15:01)
明治天皇幸手行在所の向かいは、建設工事中。
シートの隙間から中を覗くと、かなり古い建物だ。
これは、「旧日光街道幸手を感じる会」が行っている「登録文化財の町屋を、まちなか活性化の拠点、核施設として整備する事業」なのだそうだ。


(15:07)
この鰻屋さんが、幸手宿本陣 知久家跡
「知久家は本陣(大名宿)・問屋・名主の三役を兼ね、幸手宿で最も重要な役割を果たした家柄でした。初代帯刀は、長野県伊奈郡の豪族の出身で、同郷の関東郡代伊奈熊蔵より幸手宿の繁栄に尽しました。
 明治六年、知久家の書院で小学校が開設され、明治九年、明治天皇が東北巡行の折に宿泊されています。
 屋敷は、間口約三十九m・奥行約八十mで、約千坪ありました。
   幸手市教育委員会」(案内板より)


(15:18)
しばらく行くと、左手に聖福寺がある。
徳川三代将軍家光が日光社参の際、御殿所として使用したのをはじめとし、天皇の例幣使や歴代将軍が18回に渡って宿泊したのだという。


聖福寺には、芭蕉と曽良の句碑が建っている。
「幸手を行ば 栗橋の関  芭
 松風邪を はさみ揃ゆる 寺の門  良」

つづく

【日光街道】 4日目(北春日部~南栗橋) その2

2011年02月15日 21時30分00秒 | 街道をあるく
12月30日(木)
4日目(北春日部~南栗橋)その1の続き


(13:26)
宝性院は、寺子屋だったこともあるそうだ。


(13:27)
ほどなく右手奥に「東京駅」という食堂があった。
どうして「東京駅」という名にしたのだろう。
面白いから寄ってみたいところだが、お昼を食べたばかりだったし、街道を歩いていると、どうしても先に進むことを考えてしまい、外観の写真だけとなった。

 
(13:48)
国道4号線を進み、「大島」の交差点を右に折れると、心学の道
日光街道を離れて、この先の恭倹舎を見に行く。


(13:50)
恭倹舎は、農民や町民に心学を講説するために、天明5年(1785)、心学者・大原有隣らによって建てられた。


(13:54)
恭倹舎の近くに碑が見えたので、行ってみた。
杉戸町立高野農村センター内の高野東部土地改良区竣巧記念碑だ。
「三ッ林弥太郎書」とある。


(14:56)
こちらは神明神社
かつてここには、高札場があったのだそうだ。
「螺不動」とあるが、これは境内にある菅谷不動を指す。
眼の病にご利益があると言われている。

つづく




【日光街道】 4日目(北春日部~南栗橋) その1

2011年02月14日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月30日(木)
3日目(越谷~北春日部)その2の続き


(11:16)
北春日部駅を出発したのは、午前11時過ぎ。
自宅からの距離が遠くなるにつれ、だんだん出発時刻が遅くなっていく。
太陽が出ていないせいか、この日はとても寒かった。
地図をめくるのに不便だからいつもはリュックに入れっぱなしの手袋を出して、身に着けた。
それでも寒い。
私はダウンジャケットのフードを被り、夫はコンビニで帽子を買った。


(11:56)
道がよく分からない。
まずは国道4号線を目指して歩いて行く。
ほどなく杉戸町に入った。
途中、通行人に4号線の方角を尋ねると、親切に教えてくれた。
歩いて行くのか? と不思議がられた。


(12:11)
日光街道杉戸宿みなみがわ散策道


(12:11)
散策道はこんな感じ。
散策道の手前の公園で、お昼ごはんを食べる。
座っていると、寒い寒い。


(13:07)
明治天皇御休所阯の碑は、進行方向に向かって、国道4号線の一本右側の道と、東武動物公園駅からまっすぐのびる道とが交差する辺りに建っている。


(13:08)
「本陣跡地前」という交差点があった。
本陣は近くに違いない、とさがす。
が、実際の本陣跡は、ここから少し離れていた。


(13:10)
最初に見つけたのは脇本陣跡


(13:12)
こちらは、脇本陣跡を振り返った写真。
「愛宕神社前」という交差点付近の小林質店が脇本陣跡だ。


(13:19)
本陣跡は分かり辛い。
脇本陣跡と同じ通りの向かい側、脇本陣跡よりも手前(日本橋寄り)にある。
通りに面しているとはいえ奥まった場所にあり、案内板もないので、用意していた資料がなければ分からないところだった。


(13:25)
通りには、こんな風情ある素敵な家屋もある。

つづく

【日光街道】 3日目(越谷~北春日部) その2

2011年02月13日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月29日(水)
3日目(越谷~北春日部)その1の続き


(11:53)
地図を見ると、元荒川沿いに、宮内庁埼玉鴨場がある。
入口をさがしてみたが、見つからない。
この写真の森の中だと思うのだが。
ここは、江戸時代に、幕府や紀州藩の鴨場があったところなのだそうだ。
総面積は約12ヘクタール。


(13:23)
大枝香取神社は、下総国一之宮「香取神宮」の末社。

このあたりは、ただただひたすら歩く。
なので写真も少ない。


(14:06)
備後北交差点付近に、史跡備後一里塚跡の碑がある。

春日部市郷土資料館に立ち寄ったが、年末なので、残念ながら閉まっていた。
次なる目的地は、ロビンソン百貨店。


(14:41)
こちらがロビンソン百貨店
向かい側に本陣や脇本陣があったらしい。


(14:47)
ロビンソン百貨店の通りを更に進むと、右手にこんな建物があった。


建物の前には、古い道標が建っている。
天保4年に建てられたものらしい。
「北日光」「東南江戸」「西南いハつき」と刻まれている。

さて、このまま帰ろうか、それとももうひと駅歩こうか、と悩んだ。
距離にしたらそれほど歩いていないし、少しでも先に進んでいれば次が楽なので、北春日部まで歩くことにした。


(15:45)
さて、このまま帰ろうか、それとももうひと駅歩こうか、と悩んだ。
距離にしたらそれほど歩いていないし、少しでも先に進んでいれば次が楽なので、北春日部まで歩くことにした。
古利根川を渡ってしばらく行ったあたりに、元参院議長で埼玉県知事を3期務めた土屋義彦氏の勲一等旭日桐花大綬章受賞を記念して建てられた碑がある。
碑の表に刻まれた文字は、「彩の国さいたま」の「彩」の一文字。
亡くなって2年が経つが、表札の名前は「土屋義彦」だった。
すごい豪邸。


(16:18)
北春日部駅に着いたころには、うす暗くなっていた。

4日目(北春日部~南栗橋)につづく。

【日光街道】 3日目(越谷~北春日部) その1

2011年02月12日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月29日(水)
2日目(梅島~越谷)その4の続き


(10:32)
3日目のスタートは、越谷駅。


(10:41)
越谷市役所の前を通ったが、本来の道は、もう1本西側のようだ。
旧日光街道沿いには、塗師屋の古い建物があるというので探してみたが、見つけられなかった。


(10:51)
ともかくもう少し西の通りを歩いてみようと道を渡ると、長く黒い板塀が見えた。


(10:51)
えらい風流だな、と思いながら見上げると、塀の中にはマンションが建っていた。
なんか残念。
この大きな木は、有瀧家のタブノキ
樹齢400年以上で、越谷市の天然記念物に指定されている。


(11:03)
元荒川にぶつかったら、川を渡らずに、川岸を右手に進んで行く。
人通りの少ない道だ。
しばらく進むと、右手に越ヶ谷御殿跡の碑が建っている。
慶長9年(1604)、徳川家康が御殿を建てた場所だ。
面積は約6町歩(約6ヘクタール)。
家康は、しばしば越ヶ谷御殿に宿泊し、鷹狩をしていたという。
二代将軍秀忠も、1ヵ月に渡って宿泊し、鷹狩をしたと言われている。
明暦の大火(1657年)で江戸城が全焼した際には、この越ヶ谷御殿を解体して江戸へ運び、江戸城を再建したと案内板に書いてある。
日本橋からここまで歩くだけでもこんなにくたびれるのに、解体した建物を運ぶなんて大変なことだ。


(11:05)
越ヶ谷御殿跡の先には、建長元年板碑がある。
秩父の緑泥片岩で造られたこの板碑には、建長元年(1249)銘の年号が刻まれている。
越谷市で発見された板碑のなかでは最古のもので、また、高さ155センチ、幅56センチという大きさは、最も大きいものであるのだそうだ。


(11:17)
道中見つけたアンディというお店。
看板には、「玩具」、「鉄道」、「ラジコン」、「プラホビー」と書いてある。


お店の外にある「カーレース」というゲーム。
かなりの年代物。
10円をはじいて落とさずに目的地まで持って行くことができると、商品があたるらしい。


「わさびのり太郎」と「うまい棒」を獲得!
なんだかすごく得した気分だ。


(11:27)
北越谷駅の前を通り、東武伊勢崎線の高架をくぐる。


(11:35)
すると再び元荒川があらわれる。
堤には、立派な桜の木が植えられている。

つづく

【日光街道】 2日目(梅島~越谷) その4

2011年02月11日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月26日(日)
2日目(梅島~越谷)その3の続き


(13:53)
蒲生の一里塚を目指すが、綾瀬川をどこで渡ればよいのか分からない。
橋はたくさん架かっているのだけれど。
おそらく、日光街道からは外れてしまっているだろうが、『おくの細道』を想像して描いたという絵タイルがあった。
このあたりは、どこへ行っても芭蕉だなあ。


(14:01)
橋を渡った先に藤助河岸跡がある。
藤助河岸は高橋藤助が経営していた河岸。
江戸時代半ばから、年貢米をはじめ商品荷が綾瀬川を通って江戸へ運ばれていた。
この河岸は明治・大正と利用されてきたが、大正9年に東武鉄道が開通し、越谷駅が設置された頃から次第に衰微し、昭和初期に廃止されるに至る。


(14:02)
藤助河岸よりやや上流へ向かうと、蒲生の一里塚がある。
埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚ということで、埼玉県指定史跡となっている。


(14:20)
その先に清蔵院があるのだが、辿り着くまでの間、目印もなく、本当にこの道でよいのだろうかと不安に思いながら歩いた。
この三門の建立者は、日光東照宮造営に堂院された工匠の一人であろうとされている。


(14:20)
三門には、左甚五郎作といわれる龍の像がある。
夜な夜な山門を抜けだしては畑を荒らしたので、龍は金網で囲われているのだそうだ。
京都御苑の猿ヶ辻の猿を思い出すなあ(京都御苑についてはこちら→ )。


(14:41)
新越谷駅入口の交差点付近には、南越谷阿波踊り発祥の由来の碑が建っている。


(14:57)
しばらく行くと、道は二手に分かれる。


道が分かれるところには、里程標(刻まれている文字は「里程表)が建っている。
「東京雷門五里 浦和三里半 大宮五里 川口四里 鳩谷三里」と刻まれている。
左に進むのだが、その前に、右手にあるお寺に寄ることにした。


(14:58)
照蓮院


(15:01)
照蓮院には、千徳丸供養塔が建っている。
「瓦曽根秋山家の祖は、甲斐国武田氏の家臣秋山信藤であり、その子長慶は、天正十年(一五八二)三月、武田氏滅亡の際、武田勝頼の遺児幼君千徳丸をともなって瓦曽根村に潜居した。千徳丸は間もなく早世したが、それを悲しんだ長慶は照蓮院の住職となってその菩提を弔ったと伝える。寛永十四年(一六三七)秋山家墓所に『御湯殿山千徳丸』と刻まれた五輪塔が造立された。これが千徳丸の墓石供養塔であるといわれる。なお長慶の兄虎康の娘は徳川家康の側室となり、おつまの方と称したが、家康の五男武田信吉を生んでいる。
  平成十五年一月 越谷市教育委員会」

先ほどの道へ戻り、左に延びる旧道を行く。

(15:27)
ほどなく越谷駅東口。
日光街道を歩いた11日間のなかで、この日が一番キツかった。

3日目(越谷~北春日部)につづく。

【ロシア】 バルティカ No.3

2011年02月10日 21時30分00秒 | 


「バルティカ」はロシアのビール。
種類はいくつかあるようだが、オーソドックスな味だと言われているNo.3を飲んでみた。
なかなか美味しい。
夫は甘いと言うが、かつて飲んだことのある別のロシアビールは、もっと甘くてまずかったので、私には余計に美味しく感じたのかもしれない。

【日光街道】 2日目(梅島~越谷) その3

2011年02月09日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月26日(日)
2日目(梅島~越谷)その2の続き


(13:23)
道は右にカーブする。
曲がり角にあるのは、神明神社


(13:24)
神明神社のかつての鳥居の礎石には、明治9年(1876)に刻まれた基準点が残っている。


(13:24)
カーブを曲がって右手には、河井曾良像が建っている。
これは、草加市市制50周年を記念して建てられたもの。
この先、札場河岸公園にある芭蕉像は、市制30周年を記念したもの。


(13:25)
像の周りに設けられた鎖も凝っている。


近くから見ると、こんな感じ。


裏側には、日本橋からの距離が記されている。
あー、まだ17.5キロしかきていないのか。


(13:25)
河井曾良像の向かいにあるのは、おせん公園


(13:26)
おせん公園には、草加せんべい発祥の地の碑が建っている。


(13:26)
前方には、鐘楼が見える。
伝右川に架かるこの橋を渡ると、札場川岸公園だ。


(13:28)
札場川岸公園の松尾芭蕉像
像は、友人や門弟たちの残る江戸への名残を惜しむかのように、見返りの旅姿をしているのだそうだ。


(13:31)
日本の道百選 日光街道と刻まれた碑が建っている。


(13:31)
その碑のすぐそばにあるのが、矢立橋
実に美しい。


橋を横から見るとこんな風になっている。


(13:33)
綾瀬川に沿って、松並木が続く。
よく整備された気持ちの良い道だ。


(13:41)
こちらは百代橋
先ほどの矢立橋は脇を通っただけだったが、こちらの百代橋は、せっかく来たのだから渡ってみることにした。


(13:43)
松尾芭蕉文学碑

すでに身体はかなりくたびれていたけれど、この道を歩いて、少しリフレッシュできた。

つづく