大倉草紙

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【日光街道】 5日目(南栗橋~古河) その2

2011年02月19日 21時00分00秒 | 街道をあるく
1月1日(土)

5日目(南栗橋~古河)その1の続き


(13:29)
顕正寺には、池田鴨之助の墓がある。
新編武蔵風土記稿によると、池田鴨之助はのちの栗橋宿となる上河辺新田を開墾に尽力した人物。
本陣役も務めていた。


(13:52)
栗橋駅の近くの公園に、静御前の墓がある。
静御前は義経の奥州下向のあとを追っていたが、途中で義経の打死を知り、引き返した。
そして、ここ久喜市伊坂まで来たとき、病に斃れたという。


(13:56)
栗橋駅の前を通り、本陣跡をさがすが、なかなか見つからない。
この辺りの道は平行に走っていなくて、方向を見定めるのが難しい。


(14:18)
本陣跡
表札は、「池田」さん。
池田鴨之助の末裔が住んでいるのだろう。
新田開発のために、池田鴨之助と並木五良平らと共に下総国栗橋村から移り住んだ民家は、わずか45戸であったという。


(14:18)
本陣と道路を挟んで反対側に脇本陣があったというが、目印のようなものは何もない。
この新聞販売店の辺りだろうか?


(14:20)
利根川の土手近くに、栗橋関所跡の碑が建っている。
栗橋関所は、「房川渡中田・関所」と呼ばれていて、東海道の箱根、中山道の碓井と並ぶ重要な関所であったそうだ。
関所は、現在の堤防の内側で利根川のほとりにあったという。


(14:22)
栗橋関所跡の碑が建っている場所から鳥居が見える。
八坂神社だ。


(14:23)
元日なので、参拝者で混雑している。
こちらの神社には、狛犬ではなく狛鯉が。


(14:27)
神社の脇道を奥の方へ入っていくと、関所番士屋敷跡がある。
関所番士屋敷は、寛永元年(1624)に栗橋関所番士の住まいとして江戸幕府が設けたもの。
関所番士は四人いて、二人一組で仕事をした。
維新期最終の番士は、加藤、足立、島田、富田の四家。
この関所番士屋敷跡は、足立家である。

つづく

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