大倉草紙

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【日光街道】 2日目(梅島~越谷) その2

2011年02月08日 21時00分00秒 | 街道をあるく
12月26日(日)
2日目(梅島~越谷)その1の続き


(12:32)
左手に、草加小学校がある。
この小学校の敷地は、草加宿を開いた大川図書の屋敷跡。


(12:35)
校庭には、土俵がある。


(12:36)
小学校の裏手、草加市立歴史民俗資料館の入口には、大川図書邸の白蛇弁財天の石碑がある。
大川家では白蛇弁財天を信仰していて、大川邸にあったこの石碑を移築したのだそうだ。


(12:36)
草加市立歴史民俗資料館の建物は、草加小学校西校舎を改築したもの。
コンクリート造りの校舎としては、埼玉県で一番古いものだという。
平成20年には、国の登録文化財に指定されている。
館内には、農具、様ざまな民俗資料、土器、そして草加せんべいにまつわるものが展示されている。


(12:41)
草加せんべいができるまでの工程を説明してあった。


(12:42)
若田光一さんは、宇宙に草加せんべいを持って行ったのだそうだ。

ところで、資料館では靴下を脱いでスリッパに履き替えたのだが、その時に、靴下の裏に穴があいていることに気付いた。
見れば、足の裏の皮が剥けている。
道理で痛いはずだ。
草加駅方面に戻って、靴下を買うことにした。


(12:55)
資料館の前の道を草加駅方面へ向かうと、右手に住吉とやま公園がある。
このあたりは大川家の屋敷の外の耕地を囲む林があった場所で、「とやま」と呼ばれていたことから、その名が付けられたそうだ。

さて靴下だが、駅の手前の洋品店で購入でき、すぐに履き替えた。
2足買ったけれど100円ほどで、あまりの安さに驚いた。
どうやら靴底が薄いようだ。
この翌日、靴底が厚い靴を買いに行った。


(13:06)
再び、草加小学校の前の道に戻る。
先ほど通った時には気付かなかったのだが、道路元標があった。
明治44年(1911)に建てられたもので、「千住町へ弐里拾七町五拾三間三尺 越ヶ谷宿へ壱里三拾三町三拾三間三尺」を刻まれている。
このあたりは、本陣が置かれていた場所である。

近くに明治天皇の行在所となった場所があり、そこに大川図書の末裔にあたる大川家があるということなので、さがしてみた。
分からないので通りかかった郵便屋さんに尋ねたが、知らないという。


(13:09)
カンを頼りに道をそれると、思いのほかすぐに明治天皇草加行在所の碑を見つけることができた。
越谷方面に向かうと、草加小学校の前の旧道より右手の道沿いにある。


(13:09)
碑の隣には、大川歯科医院が建っている。
おそらくこちらが大川図書の末裔の方のお宅なのだろう。


(13:15)
旧道へ戻り、ほどなく右手におせん茶屋という名の公園がある。
公園の名前は、草加せんべいの伝説上の創始者といわれる「おせんさん」に因むそうだ。


(13:16)
おせん茶屋の向かいにある東福寺
こちらのお寺には、大川図書のお墓がある。

つづく