奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

門入の話(コメントの回答)& 写真展案内 No333

2022-08-31 13:52:21 | 奥揖斐の歴史など

門入の話(コメントの回答)& 写真展案内

2022年 8月31日(水)

 

★ 頂いたコメント

① 家の見取図から私が疑問に思ったのは、台所が、ないということの他に、家の中に家畜部屋がない、ということと、トイレが、家の中?なのかな?ということ

② 私の祖父母の家は、玄関入って、土間の左に家畜、牛が飼われていました。家畜も家族と同じように大切にされていたと聞きました。トイレは、家から少し離れた外の場所にありました。徳山村は、雪が多いからトイレは、家の中だったのかしら。また家畜は、飼ってなかったのかなと

③ 食糧、農耕、どちらも、徳山村では、必要なかった?家畜小屋が、外にあるのかな?

 

☆ 私の回答

・下の図、グラフ、参考文献、No332門入の話(補足)を見たら、①~②の回答はわかると思います。③の回答は岐阜県立図書館、揖斐川図書館などで徳山村史(以下「村史」)、徳山ダムの記録(以下「記録」)(🅟81~農業、その他仕事)など借りて、村民が食糧をどのようにして集めたか調べてみてください

 

村史🅟1030 徳山村の一般的な間取り → 牛部屋、便所がある

 

村史🅟1156 下開田前川家の間取り →  23の解説=カミヤ(紙漉き)、後に牛ボヤ(部屋)に改造された。とある

 

記録🅟60 上開田山崎家の間取り → 牛部屋は屋内に、便所は屋外にある

 

記録🅟85 牛の数 → 昭和35年牛は約40匹いたが、昭和43年には0匹となっている。この昭和35年は482世帯(記録🅟139)で、農家は約290世帯(482×0.6)くらい?、で、牛がいた農家はごく少数であったと思われます

 

☆ 参考文献

・※村史🅟3 太平洋戦争後、都市部では世の中がすっかり変わった。ここ徳山村では、昭和38年ころまで、村の生活は明治以後とあまり変わらなかった。この年になって、中部電力の電気導入があり、テレビをはじめ、いろいろな電気器具が購入され、生活も急速に変化した

・村史🅟1012 毎日の食生活においては、稗めしと味そ汁の一汁一菜で調理と名の付くものではなかった。しかし、もん日(祭りの日)・慶弔事には調理に腕をふるった

・村史🅟1031 便所は孤立した建物で母屋から離れたところにあった。大工建ての便所もあれば、小屋建ての便所もあった

・記録🅟81 農家戸数は総世帯数の約6割、1戸当たりの耕作面積は約38アール(約4反)。どこの農村も同様と思われるが、昭和35年から10年間で10年足らずの間に農業の経営形態は大きく変化し、その間に牛はいなくなっている

・記録🅟61 風呂も”にわ”(家の中の土間)に置かれていた。ヘソ風呂で簡単に移動できるものなので、冬はにわで夏は屋外でわかした家もある。その風呂も昔はどこの家でもあったわけではなく、大正末年ごろ門入に7軒(全34世帯・記録🅟36)くらいしか風呂のある家はなかったので、もらい風呂をする家もかなりあった。これは、どこの農村も同じで、毎晩風呂に入る習慣はなく、顔や手足を洗ってすますのがほとんどであった。にわにうち井戸をもっている家もある。多くはつるべ井戸で今でも使用している家もある。井戸のない家は竹樋で谷水を引き込み、水舟にためて使う

◇ 徳山村史(昭和48年3月31日発行・徳山村)、徳山ダムの記録(平成2年3月31日発行・藤橋村)

 

☆ 今日の反省など

・No332門入の話(補足)で、泉さんが台所は後で作ったと言われるように、上記間取り図は、後に建て増しされた部分があるかも知れないので、何時(昭和●●年作成とか)の間取りかがわかると助かりますが、、、

・コメントいただくと本気で調べるので勉強になります (笑)

 

 

★ 私が所属する写真くらぶの案内です

私は9/9(金)の15:00~15:30 ころまでギャラリーにいる予定です、写真見に来てください

 

私の出品写真(全員半切)

 

2022.4.26撮影 タイトル「玲瓏(れいろう)」花はヤマシャクヤク(飯盛山中腹・スマホで撮影)

 

2014.3.9撮影 タイトル「県境の山々」(リコーGRで花房山頂から撮影)右から左へ・前山~能郷白山~磯倉~若丸山~冠山か!!

 

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門入の話(補足) No332

2022-08-29 14:22:40 | 奥揖斐の歴史など

門入の話(補足)

2022年 8月29日(月)

 

 門入の話(No330)の最後に以下の「反省など」を書いた

 

☆ 今日の反省など

・冒頭の家の図、台所がない(※1)んですね、井戸も(※2)

・囲炉裏の横でキリバン※(切った野菜がのせれる大きままな板)で調理し、一汁一菜が毎日の食事(※3)だったんですかね。ご飯も囲炉裏で炊いた(※4)のですかね

・泉さん、銀飯(米だけのご飯)を食べたのは盆と正月だけと言ってあった(他は稗、粟などと米を混ぜたご飯)

 

・・「また、聞いときます」とNo330に書いたので、※1~※4を 今日(8/29AM)泉さん夫妻のきいてきました

 

徳山ダムの記録(平成 2年 3月31日藤橋村発行)🅟35をお借りし落書きしました 

 宮の下=お宮の下、じよもの川、じんだの川=じよも、じんだはその家の屋号、じよもの川はじよもの家から降りた川付近の意味。どろまき(門入集落の下流にある巻の淵)=下着やおむつは(門入集落の下の)どろまきで洗ったそう

 

 

冒頭の地図

 

 

※1台所はなかったのですか?

答えー 台所を作ったのは昭和30年代、図の食料置場の部屋の北東に小さな流しを作って、そこで(キリバンで)野菜を切って笊で囲炉裏まで運んだ。それまでは囲炉裏の横で野菜をキリバンで刻んでいた

 

 

 

※2門入に井戸はあったのですか?

答えー 井戸は2ヶ所あった。上の集落図の道上の井戸を「うわよりの井戸」、道下の井戸を「したよりの井戸」と呼んだ。うわよりの井戸は水も豊富で水質も最高だった。皆、桶を持って水を採りに行った。村(門入)で自宅に(井戸と)手押ポンプがあったのは私の家だけだった

”ブログNo331 今日の反省だど”で書いた「一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた。」の「風呂の水汲み」は、手押しポンプの口と風呂桶を樋でつなぎ、目の見えない姉がポンプを押したとのこと

 

※3毎日が一汁一菜だったのか?

答えー 昭和30代までは、1日の3食が一汁一菜だった

 私(筑前の国:現朝倉市生)も小学低学年(昭和30年代前半)は、朝はご飯(麦飯)とみそ汁と漬物(高菜漬又は沢庵)、昼は冷飯に残りのみそ汁と漬物、夜はプラスおかず1品付いた。おふくろさん(T4年生)は、畳の部屋で食べる親父(M45年生)とわれら兄弟(S10~27年生の6人)の給仕を一段下の板張で正座してし、皆が食べ終わった後一人でご飯を食べていた。→ 今、思い出すと涙がでます

 

※4囲炉裏でご飯を炊いたのか?

答えー くど(かまど)を作ったのも30年代、それまではご飯も囲炉裏で炊いた。どこの家もそうだった

 

☆ 今日の反省など

・今日栃の実を1キロ弱、泉さんちにお土産した。泉さん(S10年生)がこれで栃コロ(※)作ろうと奥方にいうと、隣にいた若嫁(門入生まれではない長男の妻50代前半?)が”トチコロ”ってなにと聞いた

・奥方曰く、栃のあく抜きは、柳の木の灰が一番(2番は欅)だとか、私は門入で柳の木を見たことはないが、・・また聞いときます(笑)

※ 栃コロ=米一升と栃の実2升を炊き、すりこぎでつく、棒状に仕上げて輪切りにして食べる

 

 

★今日の一枚

 

福岡中州小料理屋「たこ万」のゴマ鯖

 私が子供のころ、晩飯におかずが1品付いた。私が生まれた町には魚市場があったので、ときおり魚屋がトラック自転車の荷台に魚を積んでやってきて、魚屋~と大声、家のまた板を借りて勝手口で調理する。それにおふくろが味付け。写真はショウガとゴマだが、おふくろは隠し味に「溶いた練辛子」か「溶いた練わさび」とゴマを醤油に混ぜ、大鉢に山もり。皆でつっつく。揖斐には「鯖の刺身」はない、福岡に帰りたい!!

 

私が一番好きな花

キキョウ、花言葉は、「永遠の愛」、「変わらぬ愛」、「気品」、「誠実」 だって!! 私には似合わない 8/29 7:06撮影

 

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門入の話(その2) No331

2022-08-26 06:00:01 | 奥揖斐の歴史など

門入(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の話

泉さんに聞く(長者平を訪ねる)

2022年 8月26日(金)

 

 この話は、平成27(2015)年 11 月 21 日(土)~ 22 日(日)、参加者:泉さん、Iさん、Y氏(Iデン勤務)、S、O、H、Y、M氏、私で長者平を訪問した時のもの ★ 長文です、気の短い人はご遠慮ください

 

行程

21 日 6:30 ホハレ峠発~7:08 一里休場~7:40 休憩~泉山荘(テンポナシの小屋)着(休憩)8:56長者平へ出発

22日 省略

 

・大洞:雪崩を防ぐ留山としての役割のため、木を切ってはならないと申し合わせがあった。(集落の山側のこと)

・山口家:古家の主。幾世代で、古家、甚酌(ジンジャク)、門入の奥に植林したところは、かつては焼き畑の耕作地であった

・昭和 31 年の大火:夕方、門入村の上寄りの住家から出火、その後植林が盛んに行われる

・シンデビラ(新田平:大洞から上の山に植林した):早春の木の芽が出る前に薪を切って、直径2~3mの木の大束(マワシと呼称)とし、新田平の中腹に転がして下ろした。マワシの直径の大きさを競っては自慢した

・大橋:数百年前からある橋。かつて川に沿って道があった。ショウジョウの遺跡があった

 

9:12 長者平へ出発

 

9:31 ムラサキシキブ

 

・弘法穴:色々な有識者に聞くも未だ所在不明。是非訪れたい場所 → 2017年9月2日探し当てる”ブログNo212”参照

・入谷(ニュウダニ):水銀にまつわる地名

・モズアザ:ツグミの好物、ムラサキシキブが自生する

・ワレカベ :山崩れが多い難所。用水路の補修が大変だった

・茂津谷:シモクワノ木谷に直径2~3mのトチの巨木があった。7tクレーン、ブルトーザーを使って滑車で釣瓶式に釣り上げて大型トラックに積み、茂津谷からトチ材を運んだ

・トチ板は床板とも呼ばれる程で、床の間にも使われるほど高価なものであった

 

☆ とち板

徳山の山野に多年大切に保護してきたとちの木が、板にすれば高い値で売れるということがわかったのは明治の末。とち板は厚さ 1 寸(

3 ㎝)、幅 3 尺(91 ㎝)、 長さ 6 尺(182㎝)が基準で、1 枚 30 ㎏近くあり骨が折れる仕事であったが儲けもよかった。製品は大部分床板に用いられ、大きさによっては琵琶台や薄く挽いて引戸の材料に用いられた(徳山ダムの記録🅟 87)同 🅟131 には、6 尺 5 寸× 4 尺、6 尺 5 寸× 3 尺 2 寸ともに厚さ 2 寸とあり

 

・トチの木(は野外では)腐る

・ブナは腐り易い。スギ、ケヤキ、クリ:何百年と残る。腐らない

・パルプ材は、王子製紙春日井工場に運んだ。雑木は鉄道線路の枕木に使用

 クリ、ナラ材なら高く売れた。ブナは安価。カツラ、クリは鴨居に使われた

 

・かつてはクリの実を一日で一俵拾えた年もあった

・トウエイリンサン(会社の名)、戦闘機のプロペラ用のブナ材を集めていた

・スズメバチの巣が岩盤にあり、クレーンを伸ばしてスプレーをかけて取った事があった

・ワルゼの先、オセビ(小瀬尾)のドド:3~4mの滝があり、下オセビから小さな峠を越えて上流に進んだ

 シモオセビ=昔は栃の木が沢山あった雑木林

 

12:36 水源涵養保安林の朽ちた看板

 

12:51 林道から長者ヶ平へ降りる、写真はIさん

 

・父親とお盆の魚を捕り(泉さんが小学4年生)に行ったとき、まさに福井震災が起こり、下オセビの峠を 20m 滑り落ちたが命拾いした

 父親は末っ子で長男の泉さんを可愛がり、手塩にかけて育てていたので、大変心配し無事だったことに安堵し、喜んだことを覚えている

・この時、二つ上の愛らしい少女(小学6年生)が、学校の窓から飛び出て、手を骨折した。町の病院に治療に行き、しばらく姿が見えず淋しい思いをした

・ゴヨウグラ(※ 五葉倉は励谷(ハゲンダニ)の支川)、スベリイワの支流・父親が草を刈って川に入れると魚が身動きがとれず、魚(イワナ)を手つかみにした

・林道を車で走行中、夕刻にクマと遭遇したことがあり、車で体当たりして崖から落とした。バンパーは凹んだ。後日崖下を探したが熊の姿はなく、クマが生き延びたのには驚いた

・谷には大きなマスがいた。昔カワウソが生息していた。1 人入る程度の半円形の巣穴があった

・ジンシロウの鍋割岩:かつてジンシロウという名の門入の住人がすべって鍋を割ったと伝わるところ。下は淵になっていた

・ブナの倒木にはナメコが生える

・長者平:清水の湧き出る水場があり、掘っ立て小屋があった。50 年前に絵描きさんが夏に逗留していた。絵を2枚くらい仕上げたようであった

 

13:05【長者平で昼食】13:36 出発

 

・コンドウ(根洞)谷と金ヶ丸谷の間の尾根を経て福井へ抜ける道があった ← カイドウ

〔カイドウ:街道=昔の人達は尾根道を行き来した街道で塩道でもあった。※🅟p253〕

 

・ブナの大木:その場所、その時に適した木種が競争に勝って成長し、負けたら枯れて行くようだ

・高野山は 8008 谷あり、金糞山は 8007 谷。坂内浅又から東浅井へ降りて行く道。栗ヶ谷からは滋賀県の道がよく見えた

 

12:58 長者ヶ平(チョウジャガダイラ)の説明・・・写真は省略します

 昔、長者が住んでいたという。また、金の鶏も鳴いたという。昔は畑であった。平地で石垣もある。越前からの塩道でもあった(※)

※ 美濃徳山の地名🅟251より

 

・ハチロウ:3~4町歩。焼畑。泉さんが中学1~2年のころ耕作をやめた。小屋を建ててネズミ谷の水を飲み水としていた

・弘法穴(茂津谷にあるという鉱山跡の穴)を是非見つけたい。鉱山従事者の証言あり。ジャリボッタを過ぎた初めての谷の上部に穴あり

砂利を盛ってあるので直ぐにわかる

 

・50 年くらい前、女性5~6人が田畑で農作業をしていた時、クマが柿の木に登って実を食べていた。姉達が大声を上げると熊は木から落ちた。動けなくなったクマに石をぶつけてトドメを刺した

・昔はアトリ(アトリという名の小鳥)が何万といて、粟やキビの実をついばみに来ていた

 木片(30 ~ 50 ㎝)を投げると簡単に当たって獲れた

・牛尾(門入集落北の山)のブナ林には、ヒワ、メジロ、ヒヨドリ、シジュウカラ、カケスがいた。16:10 泉山荘着

 

~夕食時の会話~

・マイタケ、モヘモ(ひまわりのような小さな花をつける。根っこは生姜のような形状)

・唐辛子の漬け物(なんば漬け)

・正月の最高料理

 魚切り身(ニシン、サケ)サバ(姿のまま)、アマゴ(〃)、アユ(〃)を生大根と麹で漬け込む

 二斗樽に魚切り身を並べた上に大根を並べ、その上に魚、大根と順番に積み重ねていく。大晦日に樽を逆さまにして汁を搾る

・年の暮れになると、どこそこの家はいくつ樽を逆さまにしたとか、集落で噂になった。(徳山村史🅟1020「魚ずし」も参照)

 

~冠婚葬祭の風習~

・越前の漆膳

 一人前が 12000 円くらい。猫脚の膳。20 組作って、皆で貸し借りした。屋号を椀の後ろに入れた。カネスエ:祖父 カネカ:父

・借りてもお礼はしない。一人前の料理をお礼に持って行くだけ

 結婚式は春5月くらいが多かった。結婚披露宴では、昔からの習慣で、若い子供がヒキガエルを 5 匹も 10 匹も投げ込んだ。「帰ってくるな」という意味を込めた縁起担ぎ。1尺の鯛がついた。盛り籠もついた

・昔の門入の習慣での結婚式は、泉さん(昭和 39(1964)年 29 才で結婚)の次の者の結婚で終わった(やり仕舞い)

 

・ねぎりと呼ばれる祝いが、一日目は嫁の家で、二日目は本宅(本祝い)、三日目は新郎新婦の友人や職場関係の者を集めた。すべて夜に行った。結婚相手は集落内の人しか考えなかった。(両親と目の見えない姉の面倒をみるため)

・他の地域の人とは絶対にできなかった。集落内の娘が町に嫁いだが、数年経って季節労働者として帰ってきたことがあった。振り返って結婚が一番大変だった。なんと不幸なところに生まれたものだと一時は思った

・門入は、徳山8ヶ村の中で、独自のしきたりがあり、折り目正しいところだった。田んぼが多く、(泉家は)7反ほど作った

・家紋は 35 戸のうち、20 戸は同じ。結婚式の前に2~3人で紋付きに正装し弓貼り提灯を持って嫁の家に行く風習があった。泉さんは成人するときに弓貼り提灯を新調した。泉さんは、五人兄弟の末っ子で長男、泉家三代目

 

・泉さんの父親:小柄ながらもがっしりとした体。貧しいながらも心の広い性格

 風呂は月に1~2回程度。昭和初期には蓄音機があった。父母の口癖に「長女(S 子)だけはよく面倒みてやって」。一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた

 家族一同本巣に移転。その姉は 83 歳で他界した

・田んぼの肥料、大人の男は 18 貫、女は 15 ~ 16 貫の草を運搬していた。気丈な父親は山から水田に番線を張って、滑車で落として肥料とした

・泉さんは振り返ってみて自分の両親に感謝している。

 

・初代の家には、障子が2枚だけであった。

・祝いのとき:八重紋(外が黒で中が赤の漆)結婚式のときは、二の膳(脚なしの膳・外黒、中赤)を使った。あそこの家は二の膳がついたと噂になった

・仏事のとき:ミツワン(椀)。器の外も内側も黒色

 

~泉さん直伝「骨酒」

18:07 

・天然イワナの骨酒なんて、なんて贅沢なことか

・イモホリ(イワナのこと:インベの谷に生息)。

体長 10 ~ 15 ㎝以上大きくはならないが、身は締まっており固い。焼いても固い。塩焼きにする

・酒は松竹梅の上撰を暖めて

 

~古家にて~

・門入には薮椿の木がない。唯一古家の宮に一本だけある。常緑樹はそよごだけ

 荒谷に一部モチの木ある

古家(※🅟255-18)

・山桜:ネジメ、接ぎ木して復元したい。その昔、13 ~ 15 メートル高さの桜があったが枯れてしまった。花の色が独自のものであった

・岐阜市のSさんは、不動の滝に願を掛けに行き、帰ってこなかった。中の谷(蔵ヶ谷から分かれる谷)にお墓がある。お花もお供えしたい

 

不動の滝 2016.9. 4撮影

 

・20 歳のころ、先輩と3人で釣りに行き、ミミズを餌にしてアマゴ8㎏の釣果。釣った魚を大雨で持って帰ることができず、全部平らげた

・長者平で大雨が2~3日続いたことがあった。洪水で家に帰れず、小屋で雨が上がるのを待った。1 人持ちで酒1升。米1升を食べ尽くし、帰り道中コシガイオセビのおじいさんの小屋に到着し米があったので3合ほど炊いて食べた

 後日、おじいさんが米が少ないのに気づき、食べたことがばれて叱られた。

・オドチ(草の名前)のはっぱで汁を作ってしのいだ。3~4日して水が引いてからオセビ峠を越えて帰った

 

~一本橋の作り方、他~

・ショウジョウ、ジンダ、シマラ、黒谷のタラタラにある橋はナラ材で作った。橋が流されないよう、丸太の片方をワイヤーや番線で縛ってあった

・神社、宮の境内にあった杉丸太を払い下げてもらって作った

 天秤の原理を応用。橋台は長さ4mの四角の栗の木で、橋台には大きな玉石を詰め込んだ。川面から3~4メートル高さで架けられた。丸太の表面をはつって平らにして両側に直径 20 ㎝の栗の木を半分に割った手すりを置いた

 

・小学校に上がる前に完成式があり、うさぎ汁で祝った

・昭和 40 年ころ、酒に酔った韓国人が四つんばいになってじんだの橋〔小村に渡る橋〕を渡っていた。あとわずか1mくらいで渡り切れるところで立ち上がって橋から落ちて下の岩に打ちつけられて亡くなる事故があった

・肥料として下こえ(人糞)を雨の降る直前に撒いた

・コンドウタニから金ヶ丸(カネガマル)谷にかけてマイタケがたくさん採れる

 

・冬期吹雪で1m先が見えないとき、目印に鉈目を入れた

 烏帽子岳、蕎麦粒山を目印に見当をつけて(方向を定めて)歩いた

・カンジャマ(牛尾の東南の尾根)

 その昔、鍛冶屋が杉の木を植えてある辺りから頻繁に山に登ったことから、「カジヤがまた山に登っている」が訛って「カンジャマ」となった

 

~泉さん直伝の「アザミ汁」~

・ジャガイモ:出汁が出る。生椎茸

 アザミ:春の新芽を摘んで冷凍したもの

 ジャガイモ、椎茸を煮立てる。

 味噌:サンジルシ料亭味噌赤だし減塩特選、山菜には赤みそが良く合う。味を調えてからアザミを入れる

 

朝食(左の椀:アザミのみそ汁)7:09

 

・アザミ:葉を取ったもの、軸の部分は煮付けにする。秋アザミ:霜が降りて親株の芽が枯れた後、横から新芽が出る

・徳山で川魚は貴重なタンパク源であった

 

◇ 川魚= ニジマス、アマゴ、イワナ、ウグイ、ウナギなどが代表的な魚で子供たちの働きによって父の食膳を飾った

◇ 山魚(肉)= ウサギ、山どり、タヌキ、穴グマ、クマ肉など冬期間の蛋白、脂肪源として珍重がられ賞味された。徳山村史🅟1008 より

 

イワナ、アマゴの串焼き 2016.9.3 調理、右上はコンビーフに卵黄、ゴマ油とネギでユッケ風(私の定番)

 

~おわり~

 

☆ 今日の反省など

・ながながと読んでいただき、ありがとうございました

・父母の口癖に「長女(S 子)だけはよく面倒みてやって」。一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた。→  泉さんは、結婚するとき、姉の面倒を見てくれるか?と、結婚する相手に話し、結婚したそう。その話を聞いたとき、涙がでました 

 

 

美濃徳山の地名🅟250より

 

◇ 門入の話はブログNo206~212他にも書いています。お暇なら、読んでください

 

 

 

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門入の話 No330

2022-08-25 05:11:49 | 奥揖斐の歴史など

門入(岐阜県揖斐郡徳山村)の話(泉さんに聞く)

2022年 8月25日(木)

 この話は、平成28(2016)年5 月1 日(土)~2 日(日)Y氏(Iデン勤務)と私で門入のテンポナシの小屋を訪問した時のものです

 

◇ 図は、門入の家の主な間取り(Iさん作図)  

 

・ゆるべ(囲炉裏のこと)北が、鍋屋(ナベヤ)でお袋の座、西が横座(ヨコザ)で主人の座、寄付(ヨリツケ)長男の座、下ジロ(長女~三女の座)が末席。掃きだめがあったりした

・客が来ると泉さん(当時長男)はヨコ座と鍋屋の間(主人の北)に移動。客は自然と寄付に座った。「出」の部屋は板張りで、鍋屋~ヨコ座、寄付、下ジロに4枚筵が敷いてあった

・客は、ゆるせよ~、と言って家に入ってきた。帰るときは、すまなんだよ~、と言って帰っていった

 

 

・門入のお宮には、300 ~ 400 年生の杉の大木が2本並んで伸びていた。子供の頃、幹間に入って上まで登って行き、ケヤキの木の枝を伝って降りて(ケヤキの木はたわんでも折れない)、よく遊んだ

 

ネソ(まんさくの木)で縛ったバイタやシバ 15:06

この(写真の)縛った薪を“ネソのネジバイ”という(ネソで縛った薪という意味)

 

~ゆるべ(いろり)で使う薪の呼び方~

・ホタ(たきぎの大きさが、大):大きい薪の呼称、径 10 ~ 20 ㎝以上。それより太いのは割って使う

・ゆるべの角 いろりの真四角(□)に対し、ホタを×の字にくべた

・バイタ(たきぎの大きさ、中):中くらいの薪の呼称、径 10 ㎝程度

・シバ(たきぎの焚きつけ):細い火付け程度の木の呼称、径 3 ㎝未満

・大中小の薪を 20 ~ 30 ㎏の束にして親指程度のツル(ネジバイ→真藤、クド藤、シナ)で縛った。一番いいのはネソ

 

~お宮の世話人~

・世話人は、おみくじで決める

・和紙に名前を書いて団子状に丸めて、三方(白木製の台)に入れる。祈禱すると和紙が珠々に吸い付く。いくつかくっついたもののうち、1つになるまで払って一人を選ぶ。1回目に選ばれた者は、禰宜を四年間務める

・2回目のおみくじで、責任役員を選ぶ。 → 氏子総代

・宮の行事などがあると一週間前から嫁と寝床を別にする

・肉は食べてはいけない。ただし、うさぎ(小動物)、雉(鳥類)は肉と考えず、食べても良かった

 

~寺の世話人~

・老人か無職の人

・奉仕で務める。米、豆類など村人達が寄付(お礼)する

・世話人は、朝夕時を告げる太鼓を打ち鳴らす

・世話人は葬式も務める

 福井鯖江から年に四回僧侶が訪れたとき(カラトボライ)に位牌で葬式を行う

 

・棺桶は栗の木で作るので、どの家でも常時栗の木の板を持っていた

・通夜の時に棺桶を作った

 和紙で木の表面が見えなくなるくらいに飾りつけた

・冬期は、村(集落)が見える辺りで命を落としているのが見つかることが多かった。気の緩みからか、眠くなるからか

 

・雪降ろしに行った帰りに心臓麻痺で命を失った者があった

・法事(初七日、二七 日、三七日、四七日、五七日)は野菜の煮物とご飯一杯だけ

 魚や肉は使わない。法事は夜に行った

・五七日は、猫脚の膳を使ったご馳走で香典返し(おみやげなどなし)

 

~料 理~

17:53撮影 写真上:ワラビのおひたし 泉さんの奥さん作成のちまき。中左:ウド、右:トウキチロウ(シズク菜)のおひたし。下は、白菜の漬け物と沢庵

 

2016.6.13撮影 泉さん奥さん作成のちまき

 

・五月の節句の笹巻(ちまき)は、ホウ葉を芯に使った

・ホウ葉一枚で捲いたあと、笹四枚で仕上げる。全部で葉は5枚

 五月の節句だから5枚捲く。不器用な人は藁で捲いた

 

~縁かつぎ~

・初作業の日取り、御幣担ぎ、畑作開始、入山、田植え開始など、大安・友引を選んで開始する。木挽き職人は特に気にかけていた

・建設関係は、仏滅を気にした。先負は午後から(仕事を)開始する

・北東の神様の気が荒い。本鬼門

・南西は裏鬼門。ツル関係は植えるな。首をつる。南天を植える

・北西は米炊き。地鎮祭の三方を供える方角。北西にサカキを植える。(サカキが)成長する家は栄える

 

~正月~

・子供は、正月はお宮にお参りをしてから、村中を一軒一軒おばさん許してください、とあいさつして家に上がり、神棚に拝謁したあと、おじさん、おばさん、あけましておめでとうと丁寧にあいさつした。折り目正しい習慣があった

・年寄り達は早朝5時でも起きて待っていてくれた

 

群馬の地酒 泉末廣 2016.6.7 取寄せ 泉さんと同姓同名の銘柄は偶然!!

 

・年寄りは、子供を見てお金(大~小)をくれた。学用品もあった

・男子が先で女子は後から回った。4~6才くらいの子供は近所の先輩が手を引いて一緒に回ってあいさつの仕方を教えた

・門入は北陸の影響を強く受けている

・門入では、ボー(少年)は“われ”、ビー(娘)は“うら”という。戸入、上開田は、自分をイラ、相手をウヌという

・上開田、戸入は門入出身者が多い。上開田の7~8軒は門入古家地区の出身である

 

・15 日は左義長。空き(あき)の方向(たたりのない方向)に神様がが開いている。(気の荒い神様にいない方向、だから“空き”。方向はその年によって違う。→ 恵方巻きみたい)

・左義長は、 藁と生杉と熊笹で直径4m、高さ5mの輪状にしたものを作り、夕方=日暮れに火をつけて燃やした

・大人も子供たちも煙の立ち昇る勢いのある方向に向けて書き初めを放つと、坂内、広瀬まで飛んで行った

 

門入の左義長 写真は泉さん提供

 

・木挽職人は危険を伴う仕事なので、特に日柄を気にした。栃の木を6尺2寸に切り、土を掘って人の手で立てる。縁起を担ぎ大安、不浄日を調べて日を選んだ

・また、ジャッキも村に2~3丁あって、機械に頼ることもできたが、昔ながらの方法で人力で立てることが多かった

 

・ウグイはオスの腹の色が変わる魚。塩べ(塩漬け)して保存し、焼いて食べた。絹糸で投げ網をこさえ一度に 10 ~ 30 尾捕れた

・寒ウグイは清水の湧き出るところに集まる。小骨が多いけれども脂がのって美味しい

・漁のできない人(漁が下手な人)は「目流し」で捕る。山椒の皮の灰と灰汁を煮こんだものを藁で捲いて、上流からその藁を入れて足

で踏む。魚は死ぬが山椒、灰汁は毒ではないので人は食べられる。雨が降ると効果は少ない

 

・ゲンロクさん。武生の刃物、漆塗り器具の商人。義理と人情があり、“もちつ、もたれつ”の付き合いをした

・へしこ売りがへしこを作って売りに来たときは、まとめて買ってあげた。

 

・ある年は、2~3週間で熊を 20 ~ 30 匹捕まえた。その猟師から熊を 12 万円で買おうとしたら、連れが俺も乗ると言った

 翌日、その熊を2人で裁こうとしたとき、養老の肉屋が来て、ちょっと待て、20 万円と裁いた肉をそれぞれ1貫目(3.75 ㎏)を二人にやると持ちかけられた。結果、ふたりは一晩でそれぞれ肉1貫目と4万円儲かった。連れは半額の6万円を私に渡さないまま、4万円と肉が儲かった

 

☆ 今日の反省など

・どうです?、この話、徳山村史、村の書き物などにはない、貴重な話と私は思います

・冒頭の家の図、台所がないんですね、井戸も

・囲炉裏の横でキリバン※(切った野菜がのせれる大きままな板)で調理し、一汁一菜が毎日の食事だったんですかね。ご飯も囲炉裏で炊いたのですかね・・また、聞いときます

・泉さん、銀飯(米だけのご飯)を食べたのは盆と正月だけと言ってあった(他は稗、粟などと米を混ぜたご飯)

 

・泉末広さん。昭和10年生まれ、まだまだお元気です

☆ 2019.8.8 ブログ「I山荘に泊まる」なども見てください

 

8/25 日17:59追加

※ キリバン

藤橋民俗資料館にて2022年 8月25日撮影

 

材質は栃の木とか・・揖斐川町の生活用具~手造り民具が語るもの~平成22年 3月25日発行、揖斐川町教育委員会より

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ミニコンサート No329

2022-08-22 17:30:26 | その他

ミニコンサート

2022年 8月22日(月)

 

 いつも行く床屋さんに誘われ、バイオリン&ピアノのミニコンサートを見てきました

 花(滝廉太郎)などの和曲、モルダウなどクラッシック、グリーンスリーブス(洋曲)をジャズ風に演奏、アンコールは葉加瀬太郎の情熱大陸。時間的に、高校野球決勝戦も気になりましたがスマホの電源をオフして、ミニコンサートに集中しました (笑)

 演奏は、花もよかったけど情熱大陸の演奏は素晴らしかったです。また演奏会場は古民家(当時千円で家が建てられた時代、その46倍の値段で建てたという邸宅)の2部屋。その模様は以下の写真にて!!

 

 

演奏後のひととき1

 

演奏後のひととき2

 

演奏前の風景(客席)

 

古民家の吹き抜け(高さ7メートルだそう)

 

縁側の天井に10数メートルの長さの梁?

 

古民家の玄関

 

☆ 今日の反省など

・どうです、古民家、演奏会の雰囲気、味わえましたか・・当店のコーヒーもどうぞ

 

急須でコーヒーとは ”いき” ですね!!

 

 

 

☆おまけ

今日収穫した我が家のイチジクも如何!!

スイカの小玉は愛嬌!!

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
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