奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

門入の話(補足) No332

2022-08-29 14:22:40 | 奥揖斐の歴史など

門入の話(補足)

2022年 8月29日(月)

 

 門入の話(No330)の最後に以下の「反省など」を書いた

 

☆ 今日の反省など

・冒頭の家の図、台所がない(※1)んですね、井戸も(※2)

・囲炉裏の横でキリバン※(切った野菜がのせれる大きままな板)で調理し、一汁一菜が毎日の食事(※3)だったんですかね。ご飯も囲炉裏で炊いた(※4)のですかね

・泉さん、銀飯(米だけのご飯)を食べたのは盆と正月だけと言ってあった(他は稗、粟などと米を混ぜたご飯)

 

・・「また、聞いときます」とNo330に書いたので、※1~※4を 今日(8/29AM)泉さん夫妻のきいてきました

 

徳山ダムの記録(平成 2年 3月31日藤橋村発行)🅟35をお借りし落書きしました 

 宮の下=お宮の下、じよもの川、じんだの川=じよも、じんだはその家の屋号、じよもの川はじよもの家から降りた川付近の意味。どろまき(門入集落の下流にある巻の淵)=下着やおむつは(門入集落の下の)どろまきで洗ったそう

 

 

冒頭の地図

 

 

※1台所はなかったのですか?

答えー 台所を作ったのは昭和30年代、図の食料置場の部屋の北東に小さな流しを作って、そこで(キリバンで)野菜を切って笊で囲炉裏まで運んだ。それまでは囲炉裏の横で野菜をキリバンで刻んでいた

 

 

 

※2門入に井戸はあったのですか?

答えー 井戸は2ヶ所あった。上の集落図の道上の井戸を「うわよりの井戸」、道下の井戸を「したよりの井戸」と呼んだ。うわよりの井戸は水も豊富で水質も最高だった。皆、桶を持って水を採りに行った。村(門入)で自宅に(井戸と)手押ポンプがあったのは私の家だけだった

”ブログNo331 今日の反省だど”で書いた「一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた。」の「風呂の水汲み」は、手押しポンプの口と風呂桶を樋でつなぎ、目の見えない姉がポンプを押したとのこと

 

※3毎日が一汁一菜だったのか?

答えー 昭和30代までは、1日の3食が一汁一菜だった

 私(筑前の国:現朝倉市生)も小学低学年(昭和30年代前半)は、朝はご飯(麦飯)とみそ汁と漬物(高菜漬又は沢庵)、昼は冷飯に残りのみそ汁と漬物、夜はプラスおかず1品付いた。おふくろさん(T4年生)は、畳の部屋で食べる親父(M45年生)とわれら兄弟(S10~27年生の6人)の給仕を一段下の板張で正座してし、皆が食べ終わった後一人でご飯を食べていた。→ 今、思い出すと涙がでます

 

※4囲炉裏でご飯を炊いたのか?

答えー くど(かまど)を作ったのも30年代、それまではご飯も囲炉裏で炊いた。どこの家もそうだった

 

☆ 今日の反省など

・今日栃の実を1キロ弱、泉さんちにお土産した。泉さん(S10年生)がこれで栃コロ(※)作ろうと奥方にいうと、隣にいた若嫁(門入生まれではない長男の妻50代前半?)が”トチコロ”ってなにと聞いた

・奥方曰く、栃のあく抜きは、柳の木の灰が一番(2番は欅)だとか、私は門入で柳の木を見たことはないが、・・また聞いときます(笑)

※ 栃コロ=米一升と栃の実2升を炊き、すりこぎでつく、棒状に仕上げて輪切りにして食べる

 

 

★今日の一枚

 

福岡中州小料理屋「たこ万」のゴマ鯖

 私が子供のころ、晩飯におかずが1品付いた。私が生まれた町には魚市場があったので、ときおり魚屋がトラック自転車の荷台に魚を積んでやってきて、魚屋~と大声、家のまた板を借りて勝手口で調理する。それにおふくろが味付け。写真はショウガとゴマだが、おふくろは隠し味に「溶いた練辛子」か「溶いた練わさび」とゴマを醤油に混ぜ、大鉢に山もり。皆でつっつく。揖斐には「鯖の刺身」はない、福岡に帰りたい!!

 

私が一番好きな花

キキョウ、花言葉は、「永遠の愛」、「変わらぬ愛」、「気品」、「誠実」 だって!! 私には似合わない 8/29 7:06撮影

 


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2 コメント

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Unknown (ウサパン)
2022-08-29 20:38:48
いつも情報ありがとうございます。徳山村での生活は、今の社会で、忘れられてしまった自然や物を大切にしていた暮らしであったのだと思います。
家の見取図から私が疑問に思ったのは、台所が、ないということの他に、家の中に家畜部屋がない、ということと、トイレが、家の中?なのかな?
ということ。私の祖父母の家は、玄関入って、土間の左に家畜、牛が飼われていました。家畜も家族と同じように大切にされていたと聞きました。トイレは、家から少し離れた外の場所にありました。徳山村は、雪が多いからトイレは、家の中だったのかしら。また家畜は、飼ってなかったのかなと。食糧、農耕、どちらも、徳山村では、必要なかった?家畜小屋が、外にあるのかな?
いずれにしろ、暮らしから、見えてくるものがあり、勉強になります。ありがとうございます。関サバは、美味しい‼️
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Unknown (山荘オーナー)
2022-08-30 05:21:35
コメントありがとうございます。勉強になります。
徳山の各集落に牛馬が何匹いたという表を見たことがありますが今探して手元にありません。徳山村史では🅟726に戸入の旅館に泊まった宿泊者名簿に牛馬の客がいて牛を売る職業の人と思われます。🅟1030には一般的な間取りがあり、そこには台所、牛べや、外に便所が載っています。徳山ダムの記録🅟60にもある家の間取りが載っており、台所、牛べや、玄関よこ(外)に便所があります。牛がいたことは間違いないようです。泉さんちは田が7反ったと聞いていますが牛がいた話は聞いていませんが、門入集落すぐ北に牛尾という三角点があり、そこは牛が急な尾根を登らないから尻(尾)を押した、だから泉さんは牛尾と呼ばずおし尾と呼びます。牛はホハレ峠からではなく山手から来たような話もありました(メモはなし)。私の父の実家(筑前安川)は牛は玄関の右の部屋に、母の実家の(筑前馬田)はトイレは外にありました。畑に肥を撒くには外が便利、大体百姓の家は便所は外にあったと思います。
今度藤橋道の駅に徳山の民具の資料館があり、牛の耕作道具がどのくらいあるのか見てきます、それで牛がどの位いたかがわかると思います
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