奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

門入の話(その2) No331

2022-08-26 06:00:01 | 奥揖斐の歴史など

門入(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の話

泉さんに聞く(長者平を訪ねる)

2022年 8月26日(金)

 

 この話は、平成27(2015)年 11 月 21 日(土)~ 22 日(日)、参加者:泉さん、Iさん、Y氏(Iデン勤務)、S、O、H、Y、M氏、私で長者平を訪問した時のもの ★ 長文です、気の短い人はご遠慮ください

 

行程

21 日 6:30 ホハレ峠発~7:08 一里休場~7:40 休憩~泉山荘(テンポナシの小屋)着(休憩)8:56長者平へ出発

22日 省略

 

・大洞:雪崩を防ぐ留山としての役割のため、木を切ってはならないと申し合わせがあった。(集落の山側のこと)

・山口家:古家の主。幾世代で、古家、甚酌(ジンジャク)、門入の奥に植林したところは、かつては焼き畑の耕作地であった

・昭和 31 年の大火:夕方、門入村の上寄りの住家から出火、その後植林が盛んに行われる

・シンデビラ(新田平:大洞から上の山に植林した):早春の木の芽が出る前に薪を切って、直径2~3mの木の大束(マワシと呼称)とし、新田平の中腹に転がして下ろした。マワシの直径の大きさを競っては自慢した

・大橋:数百年前からある橋。かつて川に沿って道があった。ショウジョウの遺跡があった

 

9:12 長者平へ出発

 

9:31 ムラサキシキブ

 

・弘法穴:色々な有識者に聞くも未だ所在不明。是非訪れたい場所 → 2017年9月2日探し当てる”ブログNo212”参照

・入谷(ニュウダニ):水銀にまつわる地名

・モズアザ:ツグミの好物、ムラサキシキブが自生する

・ワレカベ :山崩れが多い難所。用水路の補修が大変だった

・茂津谷:シモクワノ木谷に直径2~3mのトチの巨木があった。7tクレーン、ブルトーザーを使って滑車で釣瓶式に釣り上げて大型トラックに積み、茂津谷からトチ材を運んだ

・トチ板は床板とも呼ばれる程で、床の間にも使われるほど高価なものであった

 

☆ とち板

徳山の山野に多年大切に保護してきたとちの木が、板にすれば高い値で売れるということがわかったのは明治の末。とち板は厚さ 1 寸(

3 ㎝)、幅 3 尺(91 ㎝)、 長さ 6 尺(182㎝)が基準で、1 枚 30 ㎏近くあり骨が折れる仕事であったが儲けもよかった。製品は大部分床板に用いられ、大きさによっては琵琶台や薄く挽いて引戸の材料に用いられた(徳山ダムの記録🅟 87)同 🅟131 には、6 尺 5 寸× 4 尺、6 尺 5 寸× 3 尺 2 寸ともに厚さ 2 寸とあり

 

・トチの木(は野外では)腐る

・ブナは腐り易い。スギ、ケヤキ、クリ:何百年と残る。腐らない

・パルプ材は、王子製紙春日井工場に運んだ。雑木は鉄道線路の枕木に使用

 クリ、ナラ材なら高く売れた。ブナは安価。カツラ、クリは鴨居に使われた

 

・かつてはクリの実を一日で一俵拾えた年もあった

・トウエイリンサン(会社の名)、戦闘機のプロペラ用のブナ材を集めていた

・スズメバチの巣が岩盤にあり、クレーンを伸ばしてスプレーをかけて取った事があった

・ワルゼの先、オセビ(小瀬尾)のドド:3~4mの滝があり、下オセビから小さな峠を越えて上流に進んだ

 シモオセビ=昔は栃の木が沢山あった雑木林

 

12:36 水源涵養保安林の朽ちた看板

 

12:51 林道から長者ヶ平へ降りる、写真はIさん

 

・父親とお盆の魚を捕り(泉さんが小学4年生)に行ったとき、まさに福井震災が起こり、下オセビの峠を 20m 滑り落ちたが命拾いした

 父親は末っ子で長男の泉さんを可愛がり、手塩にかけて育てていたので、大変心配し無事だったことに安堵し、喜んだことを覚えている

・この時、二つ上の愛らしい少女(小学6年生)が、学校の窓から飛び出て、手を骨折した。町の病院に治療に行き、しばらく姿が見えず淋しい思いをした

・ゴヨウグラ(※ 五葉倉は励谷(ハゲンダニ)の支川)、スベリイワの支流・父親が草を刈って川に入れると魚が身動きがとれず、魚(イワナ)を手つかみにした

・林道を車で走行中、夕刻にクマと遭遇したことがあり、車で体当たりして崖から落とした。バンパーは凹んだ。後日崖下を探したが熊の姿はなく、クマが生き延びたのには驚いた

・谷には大きなマスがいた。昔カワウソが生息していた。1 人入る程度の半円形の巣穴があった

・ジンシロウの鍋割岩:かつてジンシロウという名の門入の住人がすべって鍋を割ったと伝わるところ。下は淵になっていた

・ブナの倒木にはナメコが生える

・長者平:清水の湧き出る水場があり、掘っ立て小屋があった。50 年前に絵描きさんが夏に逗留していた。絵を2枚くらい仕上げたようであった

 

13:05【長者平で昼食】13:36 出発

 

・コンドウ(根洞)谷と金ヶ丸谷の間の尾根を経て福井へ抜ける道があった ← カイドウ

〔カイドウ:街道=昔の人達は尾根道を行き来した街道で塩道でもあった。※🅟p253〕

 

・ブナの大木:その場所、その時に適した木種が競争に勝って成長し、負けたら枯れて行くようだ

・高野山は 8008 谷あり、金糞山は 8007 谷。坂内浅又から東浅井へ降りて行く道。栗ヶ谷からは滋賀県の道がよく見えた

 

12:58 長者ヶ平(チョウジャガダイラ)の説明・・・写真は省略します

 昔、長者が住んでいたという。また、金の鶏も鳴いたという。昔は畑であった。平地で石垣もある。越前からの塩道でもあった(※)

※ 美濃徳山の地名🅟251より

 

・ハチロウ:3~4町歩。焼畑。泉さんが中学1~2年のころ耕作をやめた。小屋を建ててネズミ谷の水を飲み水としていた

・弘法穴(茂津谷にあるという鉱山跡の穴)を是非見つけたい。鉱山従事者の証言あり。ジャリボッタを過ぎた初めての谷の上部に穴あり

砂利を盛ってあるので直ぐにわかる

 

・50 年くらい前、女性5~6人が田畑で農作業をしていた時、クマが柿の木に登って実を食べていた。姉達が大声を上げると熊は木から落ちた。動けなくなったクマに石をぶつけてトドメを刺した

・昔はアトリ(アトリという名の小鳥)が何万といて、粟やキビの実をついばみに来ていた

 木片(30 ~ 50 ㎝)を投げると簡単に当たって獲れた

・牛尾(門入集落北の山)のブナ林には、ヒワ、メジロ、ヒヨドリ、シジュウカラ、カケスがいた。16:10 泉山荘着

 

~夕食時の会話~

・マイタケ、モヘモ(ひまわりのような小さな花をつける。根っこは生姜のような形状)

・唐辛子の漬け物(なんば漬け)

・正月の最高料理

 魚切り身(ニシン、サケ)サバ(姿のまま)、アマゴ(〃)、アユ(〃)を生大根と麹で漬け込む

 二斗樽に魚切り身を並べた上に大根を並べ、その上に魚、大根と順番に積み重ねていく。大晦日に樽を逆さまにして汁を搾る

・年の暮れになると、どこそこの家はいくつ樽を逆さまにしたとか、集落で噂になった。(徳山村史🅟1020「魚ずし」も参照)

 

~冠婚葬祭の風習~

・越前の漆膳

 一人前が 12000 円くらい。猫脚の膳。20 組作って、皆で貸し借りした。屋号を椀の後ろに入れた。カネスエ:祖父 カネカ:父

・借りてもお礼はしない。一人前の料理をお礼に持って行くだけ

 結婚式は春5月くらいが多かった。結婚披露宴では、昔からの習慣で、若い子供がヒキガエルを 5 匹も 10 匹も投げ込んだ。「帰ってくるな」という意味を込めた縁起担ぎ。1尺の鯛がついた。盛り籠もついた

・昔の門入の習慣での結婚式は、泉さん(昭和 39(1964)年 29 才で結婚)の次の者の結婚で終わった(やり仕舞い)

 

・ねぎりと呼ばれる祝いが、一日目は嫁の家で、二日目は本宅(本祝い)、三日目は新郎新婦の友人や職場関係の者を集めた。すべて夜に行った。結婚相手は集落内の人しか考えなかった。(両親と目の見えない姉の面倒をみるため)

・他の地域の人とは絶対にできなかった。集落内の娘が町に嫁いだが、数年経って季節労働者として帰ってきたことがあった。振り返って結婚が一番大変だった。なんと不幸なところに生まれたものだと一時は思った

・門入は、徳山8ヶ村の中で、独自のしきたりがあり、折り目正しいところだった。田んぼが多く、(泉家は)7反ほど作った

・家紋は 35 戸のうち、20 戸は同じ。結婚式の前に2~3人で紋付きに正装し弓貼り提灯を持って嫁の家に行く風習があった。泉さんは成人するときに弓貼り提灯を新調した。泉さんは、五人兄弟の末っ子で長男、泉家三代目

 

・泉さんの父親:小柄ながらもがっしりとした体。貧しいながらも心の広い性格

 風呂は月に1~2回程度。昭和初期には蓄音機があった。父母の口癖に「長女(S 子)だけはよく面倒みてやって」。一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた

 家族一同本巣に移転。その姉は 83 歳で他界した

・田んぼの肥料、大人の男は 18 貫、女は 15 ~ 16 貫の草を運搬していた。気丈な父親は山から水田に番線を張って、滑車で落として肥料とした

・泉さんは振り返ってみて自分の両親に感謝している。

 

・初代の家には、障子が2枚だけであった。

・祝いのとき:八重紋(外が黒で中が赤の漆)結婚式のときは、二の膳(脚なしの膳・外黒、中赤)を使った。あそこの家は二の膳がついたと噂になった

・仏事のとき:ミツワン(椀)。器の外も内側も黒色

 

~泉さん直伝「骨酒」

18:07 

・天然イワナの骨酒なんて、なんて贅沢なことか

・イモホリ(イワナのこと:インベの谷に生息)。

体長 10 ~ 15 ㎝以上大きくはならないが、身は締まっており固い。焼いても固い。塩焼きにする

・酒は松竹梅の上撰を暖めて

 

~古家にて~

・門入には薮椿の木がない。唯一古家の宮に一本だけある。常緑樹はそよごだけ

 荒谷に一部モチの木ある

古家(※🅟255-18)

・山桜:ネジメ、接ぎ木して復元したい。その昔、13 ~ 15 メートル高さの桜があったが枯れてしまった。花の色が独自のものであった

・岐阜市のSさんは、不動の滝に願を掛けに行き、帰ってこなかった。中の谷(蔵ヶ谷から分かれる谷)にお墓がある。お花もお供えしたい

 

不動の滝 2016.9. 4撮影

 

・20 歳のころ、先輩と3人で釣りに行き、ミミズを餌にしてアマゴ8㎏の釣果。釣った魚を大雨で持って帰ることができず、全部平らげた

・長者平で大雨が2~3日続いたことがあった。洪水で家に帰れず、小屋で雨が上がるのを待った。1 人持ちで酒1升。米1升を食べ尽くし、帰り道中コシガイオセビのおじいさんの小屋に到着し米があったので3合ほど炊いて食べた

 後日、おじいさんが米が少ないのに気づき、食べたことがばれて叱られた。

・オドチ(草の名前)のはっぱで汁を作ってしのいだ。3~4日して水が引いてからオセビ峠を越えて帰った

 

~一本橋の作り方、他~

・ショウジョウ、ジンダ、シマラ、黒谷のタラタラにある橋はナラ材で作った。橋が流されないよう、丸太の片方をワイヤーや番線で縛ってあった

・神社、宮の境内にあった杉丸太を払い下げてもらって作った

 天秤の原理を応用。橋台は長さ4mの四角の栗の木で、橋台には大きな玉石を詰め込んだ。川面から3~4メートル高さで架けられた。丸太の表面をはつって平らにして両側に直径 20 ㎝の栗の木を半分に割った手すりを置いた

 

・小学校に上がる前に完成式があり、うさぎ汁で祝った

・昭和 40 年ころ、酒に酔った韓国人が四つんばいになってじんだの橋〔小村に渡る橋〕を渡っていた。あとわずか1mくらいで渡り切れるところで立ち上がって橋から落ちて下の岩に打ちつけられて亡くなる事故があった

・肥料として下こえ(人糞)を雨の降る直前に撒いた

・コンドウタニから金ヶ丸(カネガマル)谷にかけてマイタケがたくさん採れる

 

・冬期吹雪で1m先が見えないとき、目印に鉈目を入れた

 烏帽子岳、蕎麦粒山を目印に見当をつけて(方向を定めて)歩いた

・カンジャマ(牛尾の東南の尾根)

 その昔、鍛冶屋が杉の木を植えてある辺りから頻繁に山に登ったことから、「カジヤがまた山に登っている」が訛って「カンジャマ」となった

 

~泉さん直伝の「アザミ汁」~

・ジャガイモ:出汁が出る。生椎茸

 アザミ:春の新芽を摘んで冷凍したもの

 ジャガイモ、椎茸を煮立てる。

 味噌:サンジルシ料亭味噌赤だし減塩特選、山菜には赤みそが良く合う。味を調えてからアザミを入れる

 

朝食(左の椀:アザミのみそ汁)7:09

 

・アザミ:葉を取ったもの、軸の部分は煮付けにする。秋アザミ:霜が降りて親株の芽が枯れた後、横から新芽が出る

・徳山で川魚は貴重なタンパク源であった

 

◇ 川魚= ニジマス、アマゴ、イワナ、ウグイ、ウナギなどが代表的な魚で子供たちの働きによって父の食膳を飾った

◇ 山魚(肉)= ウサギ、山どり、タヌキ、穴グマ、クマ肉など冬期間の蛋白、脂肪源として珍重がられ賞味された。徳山村史🅟1008 より

 

イワナ、アマゴの串焼き 2016.9.3 調理、右上はコンビーフに卵黄、ゴマ油とネギでユッケ風(私の定番)

 

~おわり~

 

☆ 今日の反省など

・ながながと読んでいただき、ありがとうございました

・父母の口癖に「長女(S 子)だけはよく面倒みてやって」。一番年長の姉は、10 歳のころ失明し目が見えないながらも、風呂の水汲や炊事をし、泉さんに字を教えてくれた。→  泉さんは、結婚するとき、姉の面倒を見てくれるか?と、結婚する相手に話し、結婚したそう。その話を聞いたとき、涙がでました 

 

 

美濃徳山の地名🅟250より

 

◇ 門入の話はブログNo206~212他にも書いています。お暇なら、読んでください

 

 

 

コメント (5)
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