ニュージーランド移住記録:日記「さいらん日和」

2004年に香港からニュージーランドに移住した西蘭(さいらん)一家。子育て終了、仕事もリタイア。好きに生きる記録です。

2011-12-13 | スピリチュアル
どこかの学校。
鉄筋コンクリートの校舎。


制服を着た中学生ぐらいの生徒が三々五々廊下を歩いています。やや日本に似ているものの日本ではなく、NZでもありませんでした。


アジアのどこかの国らしく、生徒たちは黒い髪のアジア人で、みな、まじめそうな感じに見えました。


私は同年代の女性と廊下で立ち話をしていました。女性とは初対面で、
彼女のアクセントを聞いて、
「あー、シンガポール人なのか。」
と思ったほど、お互い知らない仲でした。


10代の息子がいる女親同士ということで、私たちはたわいのない話をしていましたが、話しているのは彼女ばかりで私は聞き役でした。彼女は声が大きく、頭の回転そのままにかなりの早口で話しています。


ショートヘアで鶯色の細身のスーツを着ていました。一目でスーツを着慣れた人だと感じました。何か仕事をしているのでしょう。ちょっと顔色が悪いのが気になりましたが、快活で聡明な印象の人でした。


その時、男子生徒が3人で冗談を言いつつ、お互いを小突き合いながら楽しそうに通り過ぎていきました。


ふと彼女が、
「私はもう死んでいるの。」
と教えてくれました。


えっ
私は死んだ人と話をしてる、っていうこと


膝から崩れ落ちていくような動揺を覚えながらも、必死でその感覚に堪え、なおも彼女の言葉に耳を傾けました。


「息子にメールを送ってみたけれど、気がついてもらえるわけはないしね。」
スマホの画面を私に見せながら、ずっと朗らかだった彼女がやや淋しそうに言いました。


「充電ができないから、もうすぐ電源も切れてしまうし。」
という言葉に、
「充電なら、どこかこの辺で・・・・・」
と思わず周りを見渡してしまいましたが、
「そうだ、この人はもう死んでいるのだから、このスマホは『ない』のと同じなんだ・・・」
と気付きました。


一緒に廊下を歩いている彼女が、この世の人ではないなど、信じられないことでした。淡々と現状を語り、早くに終わってしまった人生や残された息子の不憫を嘆くでもなく、聡明な人らしく、すでに全てを受け入れているようでした。


「携帯のバッテリーが切れそうということは、ごく最近亡くなったということ?」
そんな「理屈」が通じるのかとも思いつつ、私は彼女が「ここ」を離れなくてはならない時間が近づいていると感じました。「ここ」を離れる前に、なんとか息子さんにそれを知らせたいのでしょう。


しかし、廊下を行き来する生徒たちは私たちに全く気付かないままです。
彼女の声の大きさに、「気付かれる?」とドキドキしつつ、自然に口を動かさずに腹話術のように話していた私ですが、それは杞憂でした。


彼らには彼女も、生きている私も見えず、会話も聞こえないのです。


「この中に息子さんがいるんだろうか?」
と思いながら、私は通り過ぎていく男子生徒ばかりみていました。


「大丈夫よ。息子さんは私が守るわ。」
私は見ず知らずの人に対して本気でそう思い、彼女に伝えようとした瞬間、
「その必要はない」
と心の内なる声に教えられ、言葉を飲みました。


親はなくとも子は育つ
ことわざ通り、残された息子さんは自分の人生を立派に生きていくと感じました。短い時間とはいえ、母親からすでにたくさんのことを学び取っていたことでしょう。赤の他人が感情的になって出る幕はありませんでした。



もう時間がない―――



そう思ったあたりで、目が覚めました。







なんと不思議で明確な夢。まるで、自分で見聞きしてきたようです。
夢がアストラル界への旅
と言われるのが、深く納得できるような経験でした。

(前にも「これってアストラル界に行っていた?」と思う「夢」を見ています。よかったらコチラからどうぞ)


彼女が誰だったのかはわかりませんし、本当に赤の他人なのでしょう。
息子さんへのメッセージを託されたわけではなく、最後の最後の瞬間まで子を思う親の姿を間近に見せてもらいました。


何よりも「私が受け取ったこと」は、「この世」と「あの世」は重なりあっていて、
「何かの拍子でスイッチが入れば、簡単に行き来が可能なのでは?」
という感覚でした。


私たちには見えなくても、「彼ら」にはよく見えるのでしょう。
愛する者を失っても生きていかなければならない私たちには、哀しみや未練がいたずらに長引かないよう「彼ら」が見えず、去りがたい「彼ら」にはほんの少しだけ長く、「ここ」が見えるようになっているのでは?


彼女の静かさが、心のひだを揺らすようでした。
泣き叫ぶでも、取り乱すわけでもなく、ただただ時間切れになる瞬間まで廊下を歩きながら、ふっと次の段階に進んでいったであろう彼女。
(彼女が逝ってしまったので、目が覚めたのかもしれません)


息子さんが通りかかったら、その姿を目に焼き付けておこうとしていたのでしょうね。



そんな機会があったことを願いつつ、スーツ姿の彼女の冥福を祈ります。

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