ニュージーランド移住記録:みたび

移住は帰らなくてもいい終わりのない旅。人生そのものも旅。そして気づき始めたあの世への旅。旅と夢限定ブログ

グレートオーシャンロード+アデレード3回目行:ノーサンバーランド岬の物語

2023年08月26日 | オーストラリア:ライムストーンコースト

2022年11月のオーストラリア
5日目の午後はマウントガン
ビアからポートマクドネルへ


ここもまた『船の墓場』と呼
ばれた海域の一部でしたが、
1860年にポートマクドネル港
が開港するや、ヨーロッパへ
の小麦や羊毛の輸出基地とし
て、アデレード港に次ぐ南オ
ーストラリア州第2位の取扱
高を誇るまでに発展します。

(※ロブスターだけじゃない)


しかし、華やかな経済成長の
陰で船の航行の安全を確保す
るための地道で弛まぬ努力が
続けられ、それは時として大
きな危険を伴うものでした。


開港に先駆け1856年に最初の
灯台建設計画が始動します。


1857年には建物が完成しまし
たがイギリスに特注した照明
設備を待ち、1859年1月マク
ドネル灯台が点灯しました。



灯台が建設されたノーサンバ
ーランド岬は海に突き出た崖
の上で、暴風雨は元より崖の
浸食により灯台守の安全が危
ぶまれたことから、1881年
に転移し、解体されました。

ノーサンバーランド灯台とも
呼ばれた灯台は役目を終えて
(※当時の灯台と灯台守官舎)


灯台跡は展望台になりました。



移転後は陸地に再建。規模も
設備もより拡張されました。

(※1882年移転。写真は1906
年。灯台守とその子どもか?)


現在も同じ場所で稼働中



ノーサンバーランド岬での
歴代の主任灯台守と任期。

厳しい任務だったでしょう。


初代主任灯台守となったベン
・ジャーメインは『マクドネ
ル港の父』ともいうべき人物



灯台操業から7ヵ月後にポー
トマクドネルから40kmほど
北上した地点でオーストラリ
アの蒸気客船アドメラ号が難
破し、89人が犠牲になる痛ま
しい海難事故が起きました。



ジャーメインは荒海の中を小
舟を操ってアドメラ号に近づ
くことに成功し船長をはじめ
数人を救助し、この栄誉で数
数の勲章を授与されました。

(※ポートマクドネル周辺の海
難事故とアドメラ号沈没場所)


ジャーメインはまた、マクド
ネル港建設に向け、建設地の
調査と選択を任されました。


周辺の岩や岩礁を調べ上げ、

(※克明な記録)


こうしたひとつひとつを記録
していったのでしょうか



建設地を最終決定し、開港後
は初代港長に就任しました。

(※1862年完成の旧税関。港
長事務所もここにありました)


1861年には灯台近くで転覆し
た船の乗組員救助の際、ジャ
ーメインは手の指を数本失う
という大けがを負いました。


灯台跡があるノーサンバーラ
ンド岬に行ってみました。岸
はどこもかしこも岩だらけ。



陸も崩れやすく立ち入り禁止



浸食された石灰岩はボロボロ
でいつ崩れても不思議はなく



グレートオーシャンロードで
見てきたよりももっと脆そう



草木も生えない厳しい環境



ラクダ岩



ここは古の寺院の遺跡のよう



大きくひび割れて浸食が進む



オットセイが昼寝中でした



まるで海上修道院モンサンミ
ッシュエル石柱を十二使徒
と呼んで観光誘致に成功して
いる商売上手なビクトリア州
を真似てあれこれ呼べそう。

でもそれをしない南オースト
ラリア州の奥ゆかしさもいい


岬は州最南端でもあります。



晩年のジャーマインはうつ病
となり、1893年7月に失踪。
9月に自分の船の中で亡くな
っているのが発見されたそう。



ほぼ還暦だったそうです。



ポートマクドネル港は陸路の
発達もあり1914年の貨物船
カジノ号の寄港を最後に、漁
港としての道を歩みました。


カジノ号はあのグレートオー
シャンロード建設労働者の
大飲み会
の契機になったあの
貨物船🚢1924年の座礁も含
め数々の事故を乗り越えて、
1932年にアポロベイで沈没。


バス海峡の荒波の中、満身創
痍で2,500航海したそうです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする