「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

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恵林寺 その3

2024-09-07 07:30:00 | 日記
宝物殿の2階の資料の中に、柳沢吉保公のことがあり、なぜ武田信玄公の墓所の近くに柳沢吉保公の墓所もあるのかと思っていたので、改めて調べてみました。


柳沢吉保は、武田家の家臣を先祖を持つ人で、武田信玄を子供の時から、崇拝していたようです。

柳沢吉保が仕えていたのは、5代将軍徳川綱吉でした。

その頃、柳沢吉保が甲斐15万石の領主となりました。

甲斐の国は江戸の西を守る重要な場所だったため、徳川家以外の者が城主となることは本来許されませんでした。
しかし、綱吉の特別なはからいによって、武田家の家臣を先祖にもつ吉保が甲府城主となりました。

その時の喜びを吉保は、
「めぐみある 君につかえし 甲斐ありて 雪のふる道 今ぞ踏みみん」
とよんだそうです。

1709年(宝永6年)には、吉保の子・吉里(よしさと)が跡をつぎ、2代で20年間領主をつとめました。

甲府のまちの発展のようすは、
「棟に棟、門に門を並べ、作り並べし有様は、是ぞ甲府の花盛り」
と表現されました。

柳沢氏が領主を務めた20年間で甲府は大きく発展し、領民たちの生活は豊かになりました。

恵林寺には武田信玄公の墓があり、そのやや後方に柳沢夫妻の墓があります。
吉保は信玄の133回忌、吉里は150回忌の法要を執り行っていますが、このことからも柳沢氏の武田信玄への崇敬の念を知ることができます。


とのことで、柳沢家が甲府の町を発展させたようで、それも武田信玄公に対する思いだったようです。

私は、何となく柳沢吉保が、悪く描かれていると感じたので、その辺りも調べてみると、いわゆる「赤穂事件」の時の黒幕となっている感じになっていたり、「水戸黄門」のテレビドラマでも、悪役な感じで出ていたりで、刷り込まれた悪役のイメージだったのですね。

2014/4/2に書いた吉良上野介(きらこうずけのすけ)の記事にあったように、「忠臣蔵」の物語は、回りの人達を悪役にしていったのかもしれません。


☆吉良上野介(きらこうずけのすけ)の話



私は、宝物殿を出た後に、気になる雲を撮っていました。


記事を作るのに、ミクネの神(天之常立之神)に聞いてみると、

武田信玄が見に来ていたようだな。

と、言っていました。

Iさんは、武田信玄公のお墓も見たかったようですが、月命日の12日にしか開放はされていなかったので、近くに行くことにしました。

武田信玄を写した武田不動の明王殿を見てから、墓所の方に行きました。





近くにお酒を供えました。


前回に記事にしたあかりこさんは、郵送で武田不動の絵を私に送ってくださっていました。


熱海のお店に飾るように言われたので、飾りました。


私達は、墓所に行った後に丁度お昼だったので、Iさんが調べてくれた近くのほうとう屋さん「はやし」さんに行きました。





量が多いと思いましたが、美味しくいただきました。

食事後は、武田信玄ゆかりの武田神社に向いました。


続きます。


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