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仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その12)川上&青田

2013年04月16日 | 明治 大正 昭和のコレクション
画像は読売ジャイアンツの川上一塁手(右)と青田外野手(左)2ショットの野球カード。
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』は、1948(昭和23)年か1949(昭和24)年の姿を記録した野球カードがほとんどだと思われるのだが、このカードがどちらのシーズンなのかは特定できない。
しかし、1リーグ制時代のものであることは間違いがないところである。
写真中心近くの「4」という数字の意味は両選手の背番号でもなく意味不明。
もう一枚だけ「5」という数字が書かれたものがあったのだが、そのほかには見受けられないので、カードによくある通し番号ということでもないらしい。
ジャイアンツの先発メンバーを見ると、1948年シーズン前半には「3番青田、4番川上、5番千葉」という打順もあったが、後半と翌1949年シーズンの打順は「3番青田、4番川上、5番平山」でほぼ固定されていたようで、戦後1リーグ時代のジャイアンツ(東京巨人軍/1946年、読売ジャイアンツ/1947~)の、
1946年=2位・105試合64勝39敗2分=勝率.621
1947年=5位・119試合56勝59敗4分=勝率.487
1948年=2位・140試合83勝55敗2分=勝率.601
1949年=1位・134試合85勝48敗1分=勝率.639
と記録されている成績から、この写真の頃のジャイアンツの強さはほぼ安定していたものだったのだろうと想像できる。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その11)ジャイアンツ青田

2013年04月15日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その11)は、読売ジャイアンツ・青田選手の野球カード(おそらくこれも1949年の姿)。
テレビのプロ野球中継で解説していたこと位しか知らないので、いろいろ調べてみると、青田昇(1924~1997年)氏は右投げ右打ちの外野手で、1942(昭和17)年に旧制兵庫県瀧川中学校を中途退学し、東京巨人軍に入団したようだ。
戦後は1946(昭和21)年に阪急軍(阪急ブレーブス/1946~1947)で復帰したが、読売ジャイアンツ(1948~1952年)→大洋松竹ロビンス・洋松ロビンス・大洋ホエールズ(1953~1958年)と移籍し、翌年の阪急ブレーブス(1959年)を最後に現役を引退している。
背番号は、32(1942~1943年)→12(1946~1947年)→23(1948~1958年)→1(1959年)。
生涯成績(1942~1943年・1946年~1959年)は、出場試合1709、打数7050、安打1827、本塁打265、打点1034、打率.278、出塁率.326、盗塁155(成功率66.0%)。
タイトルは首位打者を1回(1948年)、本塁打王を5回(1948年、1951年、1954年、1956年、1957年)、打点王を2回(1943年、1951年)獲得していて、サヨナラ満塁本塁打を2本、サイクルヒットも1回(1953年)記録している何だか凄い選手だったようである。
2009(平成21)年には野球殿堂入りしているようだが、これは遅すぎるだろう。
こういった素晴らしい活躍をした選手は、本人が生きているうちにその栄誉を称えなければいけないだろうと思う。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その10)ジャイアンツ川上

2013年04月14日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その10)は、ジャイアンツ・川上選手の野球カード。
川上哲治(1920年~)氏は、左投げ左打ちの一塁手。
"赤バットの川上"として、"青バットの大下"、"物干し竿の藤村"と共に人気を集めていたらしいが、この野球カードも1949(昭和24)年のものだろうと思う。
調べてみると、川上選手は熊本県立工業学校(現熊本工業高等学校)在学時、夏の全国中等学校野球選手権大会(1934年・1937年)と春の選抜中等学校野球大会(1936年)でいずれも準優勝投手となり、同校卒業後、バッテリーを組んでいた同級生・吉原正喜氏と共に東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に投手として入団した。
昭和13年春シーズンの開幕第4戦・対名古屋金鯱軍(1938年5月9日/阪神甲子園球場)に「7番ピッチャー」でスタメン出場しているものの、実はその8日前・開幕第2戦(1938年5月1日/阪神甲子園球場)対阪急ブレーブス戦では「6番ファースト」で初スタメン出場を果たしており、入団当初から藤本定義監督に野手転向を勧められいたこともあって、同年秋シーズン開幕戦(1938年8月27日対南海ホークス/後楽園球場)からはほぼ一塁手として先発出場をしている。
投手としては通算4年・5シーズン(1938年春・1938年秋・1939~1941年)に試合出場し、登板39、11勝9敗(完投8、完封2)、投球回数200、勝率.550、防御率2.61、奪三振97(奪三振率4.37)の成績を残しているが、その間、1939(昭和14)年に首位打者(打率.338)と打点王(75点)、1940(昭和15)年に本塁打王(9本)、1941(昭和16)年に再度首位打者(打率.310)と打点王(57点)のタイトルを獲得している。
打者に専念したのは1942(昭和17)年のシーズンからのようだが、対大和軍(1942年9月16日/後楽園球場)を最後に先発出場記録は無く、戦後になって、対セネタース(1946年6月28日/後楽園球場)で再び出場を果たすまでプロ野球界から離れざるを得なかったようである。
復活後は、1948年・本塁打王(25本)、1951年に首位打者(打率.377/セントラルリーグ)、1953年にも首位打者(打率.347/セントラルリーグ)、1955年には首位打者(打率.338)と打点王(79点)に輝き、1954年にはサイクルヒットも記録している。
打者としての生涯成績(1938年~1942年・1946年~1958年)は、出場試合1979、打数7500、安打2351、本塁打181、打点1319、打率.313、出塁率.385、盗塁220(成功率73.3%)。
また、MVPを3回(1941年、1951年、1955年)、日本シリーズMVPを1回(1953年)、オールスターゲームMVPを1回(1951年第1戦)受賞し、1965年には野球殿堂入りも果たしている。
「ボールが止まって見える」という言葉はあまりにも有名だが、【打撃の神様】との称号はいつ頃から言われるようになったのだろうか。
川上選手の背番号16は、読売ジャイアンツの永久欠番となっている。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その9)フライヤーズ白木

2013年04月13日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その9)は、東急フライヤーズ・白木選手の野球カード。
白木義一郎(1919~2004年)氏は右投げ右打ちの投手(東京都出身/慶應義塾大学卒)なのだが、投手だというのになぜかバッティングフォームで、しかもバットを持っているわけでもないという珍しい構図の野球カードである。
戦争のために中断していた日本野球連盟のリーグ戦再開は1946(昭和21)年4月のことだったが、前年の1945(昭和20)年11月と同12月に日本野球連盟主催の東西対抗戦(4試合)が行われ、白木投手は大下弘選手、飯島滋弥選手と共にセネタース所属選手として出場。
第1戦(1945年11月23日/明治神宮野球場)と第4戦(12月2日/阪急西宮球場)の2試合で勝利投手となっている(第1戦:13-9、第4戦:4-0)。
リーグ戦が再開した1946年には、30勝22敗(登板59、完投43、完封4)、防御率2.58の成績で最多勝利投手となっているのだが、このシーズンのセネタースの勝利数は47勝だったので(105試合47勝58敗、勝率.448で8チーム中5位)、この白木投手がいなければダントツで最下位の可能性があったようだ(最下位は105試合42勝60敗3引分、勝率.412のパシフィック)。
また、オーナーが変わり、球団名が東急フライヤーズになった翌1947(昭和22)年のシーズンには、26勝25敗(登板59、完投44、完封6)、防御率1.74の成績で最優秀防御率のタイトルを獲得しているものの、やはりチーム成績は振るわず8チーム中6位の成績(119試合、51勝65敗3引分、勝率.440)だった。
白木投手の生涯成績(1946年~1952年)は、出場試合242、97勝98敗(完投160、完封16)、投球回数1725、勝率.497、防御率2.83、奪三振534(奪三振率2.79)で、開幕投手を3回(1947年、1949年、1950年)務めている。
もう少し強いチームに所属していたなら年間40勝や通算120~130勝も夢ではなかっただろう。
背番号は、18(1946~1951年/セネタース・東急フライヤーズ)→15(1952年/阪急ブレーブス)。
現役引退後は1956(昭和31)年6月の"第4回参議院議員通常選挙"で初当選し、プロ野球出身者初の国会議員として活躍したとのことである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その8)フライヤーズ片岡

2013年04月12日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その8)は、東急フライヤーズ・片岡選手の野球カード。
片岡照七(1925年~)氏は右投げ右打ちの外野手(奈良県出身)で、ライトを守っていたようだ。
同志社大学卒業後、1リーグ制最後となる1949(昭和24)年シーズンから東急フライヤーズでプレーし、計4シーズン活躍している。
背番号は13(1949年~1952年)。
片岡照七選手の生涯成績は、出場試合315、打数791、安打163、本塁打15、打点60、打率.206、出塁率.248、盗塁48(成功率81.4%)。
プロ3年目、1951(昭和26)年シーズンでの【打率.174】(288打数50安打)という記録が、規定打席数に達した42選手の中で一番低い打率だったようで、これは現在でもパシフィックリーグのワースト記録だそうである(プロ野球記録ではない)。
ちなみに、同年の首位打者は同じくフライヤーズの大下選手【打率.383】(321打数123安打)だった。
現役引退後の片岡照七氏は、フライヤーズのオーナー大川博(1896年~1971年)氏が社長を務めていた東映株式会社に勤務したようで、『宮本武蔵 二刀流開眼』(1963年/内田吐夢監督)等の映画作品に製作者側の一員としてその名前を見ることができる。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その7)フライヤーズ吉江

2013年04月11日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その7)は、東急フライヤーズ・吉江選手の野球カード。
吉江英四郎(1922年~1986年)氏は、右投げ右打ちの投手(カナダ生まれ宮城県出身)。
早稲田大学卒業後、アマチュア野球チーム・仙台広瀬倶楽部に所属したが、1948(昭和23)年に急映フライヤーズに入団し、新人ながら16勝(19敗)の勝ち星をあげた。
そのシーズン開幕試合の対金星戦(1948年4月5日/後楽園球場)スタメンに「8番ピッチャー吉江英四郎」とあるのが驚きだ。
新人がいきなりの開幕戦を任されるだなんて、おそらくは今だと有り得ないだろう。
プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年にはセントラルリーグの読売ジャイアンツに移籍したものの、そのシーズン限りでプロ野球界からは引退している。
背番号は、17(1948年~1949年/急映フライヤーズ・東急フライヤーズ)→25(1950年/読売ジャイアンツ)。
吉江選手の生涯成績は、出場試合98(登板97)、28勝37敗(完投41、完封3)、投球回数578.1、勝率.431、防御率3.64、奪三振175(奪三振率2.72)。
出場試合数と登板数が一致しないのは、1949(昭和24)年シーズンに1試合だけ登板なしの出場試合がカウントされているからで、これはどうやら代打による出場のようである。
ちなみに、吉江選手の打撃成績は、出場試合98、打数225、安打45、本塁打0、打点11、打率.200、盗塁1。
代打に起用されるほどの成績ではないと思うのだが、よほどチャンスに強かったか、選球眼が良かったか、送りバントが得意だったか、走るのが速かったということだろう。
また、ジャイアンツ退団後は社会人野球の大昭和製紙硬式野球部(1996年廃部)でプレーし、第24回都市対抗野球大会(1953年)ではチームが初優勝を果たしているようである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その6)フライヤーズ片山

2013年04月10日 | 明治 大正 昭和のコレクション
次の『タケカズ少年のプロ野球コレクション』は、東急フライヤーズ・片山選手の野球カード。
片山博(1923~)氏は、左投げ左打ちの投手(福岡県出身)。
1948(昭和23)年に急映フライヤーズに入団し、1年目は2勝(0敗)だったが、この球団の名前が東急に戻った自身2年目のシーズンには16勝(15敗)の成績をあげている。
その後は、プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年に新球団の大洋ホエールズ(セントラルリーグ)、1952(昭和27)年に松竹ロビンス(セントラルリーグ)、1953(昭和28)年に広島カープ(セントラルリーグ)に移籍し、1955(昭和30)年をもって現役を引退している。
背番号は、12(1948年~1951年)→18(1952年)→16(1953年~1955年)と変わったようだ。
片山投手の生涯成績(1948年~1955年)は、出場試合246、52勝72敗(完投47、完封3)、投球回数1196.1、勝率.419、防御率4.20、奪三振425(奪三振率3.20)。
画像右に写っているように少し変わった投球フォームが特徴のサイドスロー投手で、シュートと縦のカーブが得意球だったようだ。
1953年には50イニング連続無四球という記録(セリーグ2位)を作り、翌1954(昭和29)年には対国鉄スワローズ戦で、リリーフした初球にサヨナラホームランを打たれて、そのたった一球で敗戦投手になってしまったとのことである(史上2人目)。
大活躍をして記録に残るというより、(珍しい投球フォームが特徴だったようだし)何かみんなの記憶に残るという類の選手だったのかもしれないと想像する。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その5)フライヤーズ大下

2013年04月09日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』には、東急フライヤーズ・大下選手の野球カードが4枚収められていた。
調べてみると、大下弘(1922年~1979年)氏は左投げ左打ちの外野手(兵庫県神戸市出身)で、プロ野球選手としてのデビューは1945(昭和20)年。
この年は太平洋戦争の戦局が悪化したことでリーグ戦は当初から開催されておらず、11月23日に明治神宮野球場で開催された東西対抗戦・第1戦において東軍の選手としてデビューし、戦後初のさく越えホームランを放つ活躍をみせたこと等からMVP(最高殊勲選手)に輝いている。
"赤バットの川上"、"物干し竿の藤村"と共に"青バットの大下"として人気を博したとのことだが、首位打者を3回(1947年、1950年、1951年)、本塁打王も3回(1946年、1947年、1951年)獲得し、1949年には1試合7安打という日本記録を作り、サイクルヒットも1回記録(1954年)している。
また、1954(昭和29)年にはペナントレースで、1957(昭和32)年にはオールスター戦と日本シリーズにおいてそれぞれMVPを獲得するなど、名実共にスーパースター。
何とも凄い、素晴らしい選手だったようである。
大下選手が残した記録は、1946(昭和21)年以降、出場試合1547、打数5500、安打1667、本塁打201、打点861、打率.303、出塁率.368、盗塁146(成功率62.9%)。
セネタース(1946年)・フライヤーズ(1947年~1951年)から西鉄ライオンズ(1952年~1959年)に移籍し、14年間の現役時代を過ごしたが、1946(昭和21)年と1947年の2シーズンは打者としての成績の他に、投手として出場試合8、0勝2敗(完投1)という記録を残してもいる。
死去の翌年1980(昭和55)年に、その素晴らしい功績を称えられて野球殿堂入りした。
現役選手時代の背番号は14年間を通して「3」で、画像一番左の野球カードには、「5尺8寸。18貫。明大卒。代表的長距離打者」等と書かれている。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その4)フライヤーズ櫟

2013年04月08日 | 明治 大正 昭和のコレクション
黒尾投手鈴木捕手に続く『タケカズ少年のプロ野球コレクション』は、同じく東急フライヤーズの櫟(いちい)選手の野球カード。
この選手についてもマッタク情報が無いので調べてみることにした。
櫟信平(1925年~2008年)氏は、左投げ左打ちの一塁手(京都府京都市出身)。
学生時代は同志社大学でプレーし、3年連続首位打者のタイトル獲得という輝かしい成績を収めたようで、1リーグ時代最後のシーズンとなる1949(昭和24)年に東急フライヤーズでルーキーイヤーを過ごしたようである。
将来の大スターに成り得る"期待の大型新人"と随分期待されたのではないかと想像するのだが、記録を見ると、東急フライヤーズ在籍は僅かにこの1シーズンのみで、2年目の1950(昭和25)年からは大阪タイガース(現阪神タイガース)でプレーしているものの、公式記録が残されているのはなんと通算3シーズン目となる1951(昭和26)年まで。
「胸部疾患の治療」という情報があるので、おそらくは"肺結核"が原因で選手生命を絶たれたのではないかと推測する。
生涯成績(1949年~1951年)は、出場試合313、打数850、安打206、本塁打25、打点125、打率.242、出塁率.328、盗塁10(成功率83.3%)。
1949年シーズンの対大阪タイガース戦(4月13日/阪急西宮球場)において、櫟選手の打球をホームランとした審判の判定についてタイガースが連盟に提訴、規則委員会により誤審と判断されたことがあったようで、どうやらこれが史上初の"幻のホームラン"だったようだ。
ちなみに、その試合自体が無効とされたことから、のちに再試合をしている(1949年11月21日/後楽園球場)。
戦後に復活したプロ野球で新興球団が次々と誕生し、リーグも2リーグ制に分裂するという激動の中に身をおきながらも、様々な理由から静かに現場を去らなくてはならなかったという選手がおそらくは沢山いたことだろうが、櫟選手もその短かすぎた現役時代が何とも残念である。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その3)フライヤーズ鈴木

2013年04月06日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』次のページは、黒尾投手と同じ東急フライヤーズの鈴木選手。
調べてみると、鈴木圭一郎(1922年~2011年)氏は、右投げ右打ちの捕手。
プロ野球が再開された1946(昭和21)年、新規に設立した球団のセネタースに入団し、1956(昭和31)年まで同球団でプレーした。
初先発出場は、対中部日本(現中日ドラゴンズ)戦(1946年8月30日/後楽園球場)の「7番キャッチャー」で、白木投手とのバッテリーだったようだ(結果は、セネタース4-2中部日本)。
生涯成績(1946年~1956年)は、出場試合746、打数1969、安打408、本塁打18、打点148、打率.207、出塁率.268、盗塁30(成功率50.0%)。
背番号は22だったようである。
セネタースという球団は個人オーナーだったことから経営が不安定だったようで、設立1年後には企業に買収され、1947(昭和22)年シーズンから東急フライヤーズと名称を変更している。
映画会社の大映が経営に参加した1948(昭和23)年には急映フライヤーズと改称したが、大映が他球団を買収したことから1年で同球団の経営から手を引いたため、1949(昭和24)年には再び東急フライヤーズに戻った。
しかし、1954年(昭和29)年には東急の系列下にあった、これも映画会社の東映に球団運営を委託したことから東映フライヤーズと球団名を変更したとのことである。
この鈴木捕手のブロマイドと野球カードも黒尾投手と同様、おそらく1949年(1リーグ制最後の)シーズンでの姿だろうと思う。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その2)フライヤーズ黒尾

2013年04月04日 | 明治 大正 昭和のコレクション
タケカズ少年(仁左衛門父)のノートを開いて最初に現れたのが【東急 黒尾投手】と書かれたブロマイドと3枚の野球カードだった。
聞いたことがないプロ野球選手の名前だったので、この黒尾投手について調べてみると、黒尾重明(1926年~1974年)氏は右投げ右打ち。
背番号は8(1946年~1948年)→15(1949年)→18(1950年~1955年)と変わっているようだが、小さいほうの野球カードに「15」と書かれていることから、これらはプロ野球1リーグ時代最後の1949(昭和24)年シーズンでの姿なのだろうと思う。
黒尾投手の生涯成績(1946年~1955年)は、出場試合314、99勝121敗(完投137、完封12)、投球回数2041.1、勝率.450、防御率3.25、奪三振610(奪三振率2.69)。
最後のシーズン(1955年)が0勝4敗に終わってしまったこともあり、残念ながら通算100勝は達成できなかったようである。
これら野球カードの1949年シーズンは、14勝19敗(完投21、完封2、無四球2)、防御率3.95という成績だったようだが、翌シーズンからは2リーグ制分裂時に誕生した新球団・近鉄パールス(パシフィックリーグ)に所属したようだ。
「18」という背番号から想像すると、おそらくはエースとして相当に期待されたのだろう。
ところで、仁左衛門父は確かタイガースのファンだったと記憶しているのだが、1リーグ時代や少年時代はフライヤーズのファンだったのだろうか!?
(^_^)
ちなみに、この東急フライヤーズとは現在の北海道日本ハムファイターズの前身なのだが、1949年当時16歳だったタケカズ少年は、まさかこの球団が将来北海道に移転してくるだなんて思いもよらなかったことだろう。
(^。^)

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その1)野球観戦宝典広告

2013年04月03日 | 明治 大正 昭和のコレクション
物置と化していた我が家の押入れを整理した際、『野球界』、『野球少年』、『野球ファン』、『野球日本』、『ベースボールマガジン』、『映画之友』、『平凡』といった雑誌と共に一冊の古いノートを発見した。
表紙には何も書いてないそのノートを開いてみると、中には「東京六大学リーグ選手一覧表(昭和24年2月25日調)&日本野球八球団選手一覧表(昭和24年2月25日調)」、「1949年度日本野球リーグ優勝チーム巨人軍」(B4版大の集合写真)等と一緒にプロ野球選手のモノクロ写真が沢山挟み込んであった。
どうやら、熱烈な野球ファンだったであろうタケカズ少年(当時15~16歳の仁左衛門父)が自分のコレクションをまるでアルバムのように綴じたのがこのノートだったのだろう。
ノートに挟み込んであった「日本野球八球団選手一覧表」にもある通り、この1949(昭和24)年の日本のプロ野球は1リーグ・8球団(南海・巨人・阪神・阪急・東急・太陽・大映・中日)の時代。
調べてみると、翌1950(昭和25)年のシーズンからセントラルリーグとパシフィックリーグの2リーグに分裂しているので、これが1リーグ制の最後の年だったようである。
仁左衛門が知っている名前をこの一覧表から拾ってみると、背番号16川上哲治(33歳/巨人)、10藤村富美男(34歳/阪神)、25別当薫(30歳/阪神)、3大下弘(28歳/東急)、17スタルヒン(34歳/大映)、5近藤貞雄(25歳/中日)、20杉下茂(25歳/中日)といった選手達なのだが、知っているとはいっても現役引退後に監督やコーチをしている時の姿もしくは、歴史上の人物としてテレビ番組やアニメに登場したことを知っているという程度で、もちろん現役選手時代のプレーは見たことがない。
また、「東京六大学リーグ選手一覧表」では、投手・関根潤三(23歳/法政大学)、捕手・根本睦夫(23歳/法政大学)、遊撃手・牧野茂(22歳/明治大学)といった選手達がその後プロ野球選手になった人達ではないかと思われるのであるが、その3選手にしてもプレーしている姿はマッタク知らない。
(^_^;)
ちなみに、日本でテレビ放送が始まったのが1953(昭和28)年、一昨日、国民栄誉賞の受賞が決まったという長嶋茂雄氏の立教大学入学が1954(昭和29)年、巨人入団が1958(昭和33)年とのことである。

※画像は、「東京六大学リーグ選手一覧表」「日本野球八球団選手一覧表」の裏面に印刷されている『野球観戦宝典』(野球少年の別冊号/昭和24年用)の広告。

古い絵はがき(その5)北海道シリーズ

2013年03月24日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その4)大東京シリーズ】のつづき
2012(平成24)年、我が家の押入れで"原内務大臣河島北海道庁長官一行増毛港上陸ノ光景"、"大東京シリーズ"等と共に"北海道シリーズ"(名前をつけるとそんな感じ)の絵葉書も発見した。
"北海道シリーズ"計18枚の内訳は、札幌市内を写したものが5枚、定山渓温泉が11枚、カルルス温泉が2枚だったが、これらは発行者が違うようなので、ひとまとめに"シリーズ"とは言えないか。
【左上】札幌狸小路=写っている人がほぼ全員和服。
【右上】札幌停車場通(五番館前)=五番館では牧草を販売していたようだ。
【右下】札幌ステーション通=写っているのは馬車鉄道ではないか。よほど陽射しが強いのか日傘をさしている人がいる。
【左下】北海道庁=余白が切り取られているがたぶん道庁。
の4枚が本日の画像なのだが、全部モノクロであるものの【左上】、【右下】、【左下】の3枚だけが青系の写真で、他の15枚は黒系。
これらの絵はがきも販売された時代を特定できないのが残念であるのだが、札幌市内を馬車鉄道が走っているので大正時代前半ということか。

つづく

古い絵はがき(その4)大東京シリーズ

2013年03月22日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その3)原内務大臣河島北海道庁長官一行増毛港上陸ノ光景】のつづき
2012(平成24)年、我が家の押入れで【大東亜戦争 陸軍作戦記録画集】や【絵はがき/原内務大臣河島北海道庁長官一行増毛港上陸ノ光景】等と共に発見した絵はがきの【大東京シリーズ】(名前をつけるとたぶんそんな感じ)。
全部で19枚見つかったのだが、本日の画像に使用したのは、
【左上】(大東京)浅草公園六区の賑ひ、A view of Rokku of Asakusa park.
【右上】(大東京)歌舞伎座、The kabukiza.
【右下】(大東京)両国国技館、The Kokugikwan.
【左下】(大東京)明治神宮外苑、The meiji picture gallery.
の4枚。
これらはモノクロの写真を使用した絵はがきであるが、やはりどれも撮影日や発行日を特定できないのが残念である。
ただ、左上の写真に写っている建物と、その前に立っている"馬賊の"と読めるのぼりをヒントに調べてみると、どうやら"三友館"という映画館が1907(明治40)年から1944(昭和19)年まで浅草に存在していたようで、また、のぼりの"馬賊の"とは、『馬賊の唄』(1925年/本山祐児監督)という映画ののぼりではないかということが分かった。
確定はできないが、この一枚は大正14(1925)年頃に撮影された写真を基に作られた絵はがきではないかと思えるので、発見したこれら19枚がセットで販売されたものだとすると、おそらくどれもその頃のものなのだろう。
裏面には、日本語で"郵便はかき"、フランス語で"CARTE POSTALE"、英語で"KOBUNDO NAKAMURA"と印刷されている。

つづく

古い絵はがき(その3)原内務大臣河島北海道庁長官一行増毛港上陸ノ光景

2013年03月20日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その2)増毛停車場】のつづき
2012(平成24)年の春に我が家の押入れで発見した古い絵はがき3枚目は、"原内務大臣河島北海道庁長官一行増毛港上陸ノ光景(前面右日高丸左釧路丸)"と書かれたモノクロの絵はがき。
調べてみると、当時内務大臣だった原敬が増毛を訪れたのは、明治40(1907)年8月10日のことだったようで、『原敬日記』には、「明治四十年八月七日、北海道巡視並に盛岡に帰省するため、午前十一時四十分上野発汽車にて出発せり。(中略)九日早朝小樽に着き越中屋に投泊し、朝食後築港主任広井博士の案内にて、港内防波堤を巡せり(中略)四時頃増毛に向けて出発せり。郵船会社の船にて特に増毛並びに留萌に便乗する事となせしなり。十日午前九時増毛に着く。直ちに上陸して市内を巡視し、午餐を有志の歓迎会において済ませ、再び乗船して留萌に赴けり」と記されている(『増毛町史』より)。
北海道西海岸の小樽以北において増毛ほどの良港は無いとされ、明治8(1875)年には天塩国では初の開拓使による調査測量が行われたのであるが、その後、鉄道と港湾の整備について隣の留萌町との共願になったため、立憲政友会の勢力拡大の党略と相まって熾烈な争奪戦が繰りひろげられたようである。
『増毛町史』(昭和49年刊)には、「尚、築港の請願には政友会代議士中西六三郎の応援があって、留萌側に立つ同党の東武との間に、第十七議会以来この賛否に火を吐く論戦が行われた。従って政府も処置に手を焼き、又議会の答弁上にもその決断を迫られるので、急遽内相原敬を本道に派遣し、現地視察を行わせたのであった。然し視察を行うまでもなく、来道の内相の胸裡は既に留萌決定に固まっていたといわれている」とある。
絵はがき左下には、"増毛桝川活版所製"と印刷されている。

つづく