十一、道の神明
真理は天地万物を主宰していて、大変虚しく静かであり、至極神々しく光明で、至尊至聖であるので、尊んで、上帝と申し、又、万霊の真宰(しんさい)と申されます。
又天地を開闢(かいびゃく)し、万物を育てられただけでなく、万物の〇(母)でありますので、尊敬して老〇様とも呼ぶのであります。
詩経、大雅(たいが)文王の篇に『殷(いん)の未だ師を喪(うしな)はざるや、克(よ)く上帝に配せり』と申し、“殷時代に庶民に対して理を失わなかった時には、よく天意に従われた”と申されました。
又、詩経、小雅の篇には『維皇上帝(いこうじょうてい)』とも申されました。
上帝とは唯一至尊の神であらせられ、上帝が天地日月および万霊万有の生死変化を、すべて主宰されるのであります。
もし主宰されなかったならば、世界は終わり、万物はほろびることでしょう。
近世科学の発達と物質文明の発展に伴い、神仏を信ぜぬようになりました。
そして、一切の自然現象を人類の発明のように考え、すべては人類の技能によって、一切を進化製造しているように思っています。
然し、その自然現象はどなたが造られたのか。
人類の技能はどなたから賜ったのか。
又、声光電化はどなたがお産みくださったのか。
電(いなずま)が電を産み雲気が変化して雨となる、その中の作用は又どなたがなされるのか。
人々はこれを知りません。
わずかに自然作用と申すだけで、その究極は未だ究(きわ)められず、その要素はまだ得られなかったと言えましょう。
理と人の性を信ずることが出来ないのと同様であります。
光を見て太陽のあることを知り、物を見て作った人のいることを知り、子孫を見てその祖先のあることを知り、天地万物を観て、まさにそれを創造された真の主宰のおられることがわかるのであります。
水を飲んだら、その源があることを思わなければなりません。
遡(さかのぼ)って寅の会より人が生まれて以来、親より子へ生々して息(や)みませんでした。
しかし、その祖があることを知り、その始祖があることを知らず、霊性は来ては去り、去っては又来たりしたのであります。
身をお生み下さった父母のあることを知り、その霊性をお生み下さった老〇様(ラウム)のおられることを知りません。
人生の日に日に迷って行くことを悲しみ、世道の日に日に廃(すた)れ行くことを嘆くのであります。
人は皆、根源を迷い、生死を流浪しております。
そして肉眼で有たるものを見て、無たるものを見ることが出来ません。
ちょうど、魚が水中にいて、ただその水族を見ることが出来るだけであり、人も気の中にいて、僅かに気体を観察することが出来るに過ぎません。
即ち天地の間のものごとは窮(きわ)まりないもので、人間一人の知識は限りあるものであり、その理を究めることは容易でないからであります。
続く