ニルヴァーナへの道

究極の悟りを求めて

春ですね。さあ、散歩しませう!!(2)

2007-04-10 22:25:19 | 


今から二十数年前、私が学生の頃たまたま読んだ話がある。当時の日銀総裁だったか大蔵大臣だったか、とにかく経済界の中心人物だった一万出尚登氏の述懐だったと思う。いつもは自動車で動いてぱかりいた同氏が、何かの都合で相当の距離を家まで歩いて帰ったところ、いつも考えていることと違うことを考えている白分に気が付いたというのである。車の上で考えるのと、自分の足の上で考えるのとでは随分ちがうものだということに新鮮な驚きを感じ、時々歩くことは青年時代の初心を思い出す上でも有益だ、というようなことも述べてあったと記憶する。

  当時は車に乗っている人はうんと少なく、特権階級に眼られていた。いつも車の上から日銀総裁として世の中を見下していた人が、たまに歩いたところ、学生時代の志を思い出し、謙虚な気持ちになったというのがその文章の趣旨であった。この体験は庶民感覚を取りもどしたことだと言ってもよいが、私はむしろ人間感覚の復活と言いたい。歩いていたら昔のことを実感をもって思い出したというのは、時問の中を自由に動いたことを意味する。しかり、われわれは散歩の間には不思議なほど目常の時間感覚から離れて、過去や未来の時間に自由に出入りしている自分に気付くのである。時間からの自由ーー何と人間的なことではないか。

  時間から自由になるのだから、自分が幼い少年になったと想像してもよい。自分が病気になった時、母がどんなに心配してくれたか。また怪我をした時、父が遠くの外科医までおんぶして行ってくれたことを思い出したりするであろう。そんなことを思い出しているうちに、涙ぐんでいる白分に気づくかもしれない。涙は溢れるにまかせよう。

  もちろん死んだ父や母の霊は、時に思い出してもらいたがっているのである。義理の宗教行事をやってもらうよりは、そうして実感のこもった感謝の念を以って想起されることを、どんなに喜んでくれることだろうか。歩きながらならぱ、幼い頃の自分を愛してくれた今は亡き人々のことを生き生きと思い出し、対話することさえも可能になる。そういう時間を頻繁に持てば、日常的な生き方にも微妙に影響が出てくるであろう。

見逃せぬゼイタク

  ほかの国の大都市にくらべて東京には公園が少ないという。また散歩するに適した道路もあまりない。しかし近所を歩き回っていると、意外に快適な散歩コースを発見できることも確かである。散歩党の人々はそれぞれ自分の愛好するコースや、人通りの少ない時問帯を発見しているようである。

  私の発見した(?)コースにも、都内を数キロ歩いて自動車に出合うことがないというところだってある。また毎日行く近くの公園でも、これからの季節になると、五時過ぎにはほとんど人影を見ない。特に雨の降る午後などは、一時間近く歩いて人に出会わないですむのだから、これが杉並区内かと自分でも驚くぐらいのものである。野生の鴨たども人気がないから岸に上っているし、家鵬も地面に群がっている。しょうしょうとして池の対岸の森が雨に霞み、私の足もとから飛び立った鴨の群が水しぶきを上げて着水する様子などは、江戸時代の絵でも見るかの如くだ。

  かくして排気ガスと高能率の現代杜会からの離脱はいとも簡単に、しかも完全にできるのである。

時間的に現代を離れうるのみならず、空間的にも全く自由になる。私は時々、自分はスイスの高級保養地に休養に来て散歩しているのだと考えてみたりする。そんなところには行ったことは名いのだが、十分にその気分になって、その辺でヒルティやトマス・マンに出会う機会があるような気がしてくるのである。.もちろんそういう時にはヒルティの著作を思い返したり、トマス・マンの描く情景を目に浮べたりする。これは机の上で読むのとは違った味わい方でできる。読んだことが身につく感じなのだ。

  うっかり過していると都会では自然の推移に鈍感になりやすいのだが、毎日公園を歩いておれぼ、否応なしに微妙な変化に気づく。つい先頃まで緑の濃い夏木立に急に紅葉が見え出したのは何日か、ということまでわかってくる。そして十月はじめ頃の夜中に吹く二時問ぐらいの風で突如としてそれが起こるということに気付く。

  春ともなれぱ、日一日と花の蕾のふくらみ具合もわかる。おだやかな日和の時の桜もよいが、雨が降って人っ子一人いない雨中の花見もまた捨てかねる風情があるものである。

  いたづらに過ぐる月日は多けれど
  花みて暮らす春ぞ少なき


  これは『古今集』にある藤原興風(おきかぜ)の歌であるが、われわれが暢気な時代と思っていた平安朝の宮廷人も、なかなか忙しくてゆっくり花見などはできなかったものらしい。いわんや現代ではもっと忙しくなっているはずである。

  しかし私は、今年も去年もその前の年も、公園で毎日花見をしていた。公園の桜の枯枝に蕾がふくらみ、三分咲き、七分咲き、満開、葉桜、青葉、そしてまたその葉の散りはじめる今日まで、毎日見ていたのである。

  正確に言えぱ田舎に旅行して家を留守した何日かを除けば毎日見ていたと言ってよい。そして自分には平安朝の大宮人よりも時問的に余裕あるのかしらん、と思わず会心の笑みをもらすのである。
  世の中には権勢家も富豪も多いが、それは羨むに足りない。金はいくらでもあるという人はいても、蕾が葉桜にたるまでの毎日を花見できるほどの時間が自由になる人間はそんなにいたいであろう。しかも、この賛沢はタダなのであり、コーチも先達も装備も何もいらない。一寸した決心さえあれぱ誰にもできるのである。

  数学者の岡潔先生は、近頃の人は自分の家の庭の花でないと花を鑑賞できなくなったのではないかと嘆いておられるが、もしそうだとするならぱ嘆かわしい風潮というべきであろう。確かエマソソも言っているように、風景はこれを美しいと見る人のものなのであって、その土地の所有者とは関係がないのだ。それに自分の庭なら手入れも大変だが、公薗なら都で管理してくれるからありがたい話である。この点、自分のものでない木を見る方がかえって精神の自由には都合がよい。もちろんこれは負け惜しみに言っているのではなく、私の実感である。

  治安さえよければ、個人の大きな庭よりは公園の方がずっとよいのである。よき時代の欧米ではそうであった。ただ近頃は、欧米の公園の治安状態が極めて悪くなっているところが多いから、都市生活を断念して多くの人が郊外に逃げ出しているのである。日本は幸いにまだ治安がよい。誰でも夜中でも平気で歩くことができるのは、高度産業国家の首府の住民としては例外的な辛福を享受しているというべきであろう。この状態が続いてくれる限り、私は満足した市民である。

渡部昇一著『クオリティ・ライフの発想』(講談社)より

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