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ワンダースター★航星記

写真を撮るとは、決して止まらない時間を止めること。旅や日常生活のインプレッシブな出来事を綴ったフォトエッセイ集です。

本願寺伝導院と西本願寺、興正寺から泉涌寺・逍遥

2025-03-21 | 京都の旅

本願寺伝導院と西本願寺、興正寺から泉涌寺・逍遥

 

 仏具店が並ぶ西本願寺・門前町エリアにイスラム寺院のようなイギリスの建物のような奇想天外な建物があり、以前から気になっていた。

 チャリで来たものだから、この機会にと建物の近くに行ってみた。

 案内板に「本願寺伝道院」とあり、謂れが書かれていた。

 生命保険会社の社屋として明治45年(1912)に建築され、銀行や診療所などを経て、現在は僧侶の教育施設の場になっている。

 設計は東京帝国大学の教授・伊東忠太によるもので、赤レンガ造りで、インドのイスラム様式のドーム、イギリスの建物をイメージしたレンガ壁など、さまざまな建築様式を取り入れつつ、千鳥破風を石造りした日本建築の意匠も見られるという。

 東西文化が融合した不思議な建物だと改めて思った。

  

  

 

 

 浄土真宗本願寺派の本山「西本願寺」は272年(文永9)宗祖・親鸞聖人の末娘覚信尼が京都の東山大谷に建立した廟堂に始まり、第8代蓮如上人の尽力により大教団に発展した。

 御影堂と阿弥陀堂、北能舞台、唐門など桃山文化を今に伝える国宝建造物を多数有している。

 1994年(平成6)「古都京都の文化財」として、世界文化遺産に登録された。

 

 

 

 

 「興正寺」は真宗興正派の本山で親鸞が草創したことが起こりで本願寺と歩調を合わせるように天正19年(1591)に西本願寺の南隣である現在地へ移った。

 「正しき法を興し、さかえさす」との願いが込められ「興正寺」と称した。

 三門脇の紅白の梅が美しかった。

  

 

 

 

 東山区の泉涌寺は空海が庵を結んだことに由来する真言宗泉涌寺派の総本山。

 ここまで来ると、まちなかを外れ一気に山中に来た気がする。

 

 

 「降り参道」をおりた正面に見えるのが国の重要文化財「仏殿」で、泉涌寺の本堂でもあり、須弥壇には運慶作の阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されている。

 3月中旬になると、長さ約16m、幅約8mと日本最大の巨大な「涅槃図」が公開される。

 

 (泉涌寺HPより)

 

 

 泉涌寺の名の由来となった清泉が地下から湧いた場所で、清少納言の歌碑があった。

 

 

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今宮神社と「あぶり餅」 ~京都ちゃり逍遥

2025-03-19 | 京都の旅

今宮神社と「あぶり餅」 ~京都ちゃり逍遥

 

 学生時代からご贔屓にしている京都・今宮神社の門前にある茶店「いち和」で名物の「あぶり餅」をいただいた。
 「あぶり餅」は竹串に刺したつき立ての餅を炭火で焦げ目がつくほどにあぶって、甘い白味噌のたれをかけた逸品で、かつては "隠れグルメ” だと思っていたが今や知らぬ人はいないくらい超有名になった。

 

 

 

 

 

 暖かな一日だったので、軒先の床几に腰かけていただくのが何とも風情がある。

「いち和」こと、一文字屋和輔は平安時代の長保2年(ちょうど1000年)創業という日本最古の和菓子店だ。

 平安時代からある井戸(お玉の井)があり、水神様を祀っている。

    

 

 大正時代の写真だという。

   

 

    1025年続く日本最古の和菓子店は鍾馗(しょうき)様が守る。

 

 向かいにも同じあぶり餅の茶屋「かざりや」があり、こちらは江戸初期の創業という。

 

 

 梅花見ごろの今宮神社を参拝する。今宮神社は悪疫除けの神社で「あぶり餅」も疫病除けの餅である。

 

 

 

 

 前回訪問時の記事

 最近、京都市内では駐車場やバス移動が大変なので、レンタサイクルを使うことが多い。

 今回は全く予定を立てずに気の向くままと思っていたら、案の定「あぶり餅」に来てしまった。

 京都駅前でレンタルして、西本願寺周辺、北野天満宮周辺、そして、ここに至った。

 これから、洛北から一気に下って洛東端の泉涌寺まで突っ走る。

 電動でもないママチャリなのに元気だなあと我ながら感心する。

 

 

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酒蔵のある風景 ~京都・伏見逍遥

2025-03-03 | 京都の旅

酒蔵のある風景 ~京都・伏見逍遥

 

 伏見は、かつて“伏水”とも書かれていたほどに、質の高い伏流水が豊富な地である。

 桃山丘陵をくぐった清冽な水が、水脈となって地下に深く息づき、汲み上げられた水は清酒の仕込み水となる。

 レンガ煙突や大正時代の仕込み蔵など歴史と文化に彩られた伏見の酒造りの街を散策するのは楽しい。

 

 

 

 

 

 

          

 

            

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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幕末動乱の伏見・寺田屋 ② ~危機一髪!坂本龍馬、襲撃さる。

2025-03-01 | 京都の旅

幕末動乱の伏見・寺田屋 ② ~危機一髪!坂本龍馬、襲撃さる。。

 

 1866 年(慶応2年)1月24日、寺田屋に宿泊していた坂本龍馬と護衛役である長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された。

 前日に犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結を成し遂げたばかり。いわゆる「寺田屋事件」である。

       深夜の2時頃、龍馬らが宿泊していた寺田屋は、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれていた。

      いち早く気付いたお龍は、風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。

      龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて防戦。

      捕り方2名を射殺、数名を殺傷した。

      しかし拳銃を持つ手を捕り方が刀で払おうとして、龍馬は手の親指(左右)を負傷。

     装弾ができなくなったと言うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、お龍が裏木戸の漬物槽をどかし、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、材木屋に隠れた。龍馬は九死に一生を得ることができた。                                                   (ウイキペディアより抜粋)

 

 

 

  

 お龍が裸で駆け上がったという階段。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 賑わう「竜馬通り」。

 

  

 

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幕末動乱の伏見・寺田屋 ① ~島津久光、そして、坂本龍馬登場!

2025-02-27 | 京都の旅

幕末動乱の伏見・寺田屋 ① ~島津久光、そして、坂本龍馬登場!

 

 江戸時代の伏見は京都と大坂を結ぶ三十石船を運航していた交通の拠点でもあった。

 寺田屋は、ここ伏見から淀川までを行き来する船旅の観光客で賑わった船宿である。

 幕末、この寺田屋で日本史を揺るがす二っの大事件が起こった。

 ひとつは薩摩の実力者・島津久光が文久2(1862)年に寺田屋にて薩摩藩急進派の有馬新七ら9名(九烈士)を薩摩藩藩士によって粛清した事件。

 のちに「寺田屋騒動」と云われた。

 この結果、クーデターを企てていた尊王攘夷の過激派が鎮圧され、久光は公武合体政策の実現(文久の改革)のため江戸へと向かうこととなる。

 その舞台となった寺田屋には過去、何度も訪れたがブログ記事掲載のため、再度じっくり見て回ることにした。

 

 

          

 

 

 

 寺田屋騒動の4年後、またしても寺田屋において、勃発した事件が、坂本龍馬襲撃事件で、「寺田屋事件」と云われている。

 

 

 館内は幕末と龍馬の空気に溢れている。

  

 

  

  

 

 

 

 

  

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「ソワレ」と「みゅーず」 ~京都・木屋町の名喫茶

2025-02-08 | 京都の旅

「ソワレ」と「みゅーず」 ~京都・木屋町の名喫茶

 

  京都四条河原町から木屋町通上がること1分で名喫茶と称される「ソワレ」に到着する。

 「ソワレ」とはフランス語で「夜会」を意味するが、店名通り、妖(あや)しくも落ち着いた青い光をたたえている。

 創業は1948年の老舗で「色彩論的に青は女性を美しく見せる」ということから、照明を青にしたという逸話も残っている。

 ブドウをモチーフにした木彫や東郷青児(とうごうせいじ)の美人画がお洒落な雰囲気を演出している。

 名物はフルーツポンチで、インスタ映えすると、人気が再燃している。

 

 

 

 

  

               

  ソワレHPより

 

 「ソワレ」さんには申し訳ないが、私にとっての一番店は、ここから木屋町通りを少し上がったところにあった名曲喫茶「みゅーず」だった。

 静かに流れる高瀬川に寄り添うようにたたずむ、お洒落な店「みゅーず」は、名画か映画のワンシーンの中のようだった。

 山小屋風のつくりに決して豪華とは言えないが落ち着いた、えんじ色のソファーにステンドグラスやランプがあったのを憶えている。

 クラシックの名曲が流れ、一人で本を読むための席もあり、不思議に落ち着く店。

 学生時代は、ここから阪急か京阪に乗って帰ったので、このあたりが帰り道になる。

 新人営業マン時代も京都を担当していたので、河原町阪急、京都高島屋、京都大丸と毎日のように廻るコース上にやはり「みゅーず」があった。

 彼女ができたら、真っ先に連れていったのも、この「みゅーず」だった。いわば、青春の店。

 残念ながら、19年前に閉店して今は焼肉店になっている。

               

 

     

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嵐電 妖怪電車 ③ ~嵐山駅 「キモノ・フォレスト」

2024-08-21 | 京都の旅

嵐電 妖怪電車 ③ ~嵐山駅 「キモノ・フォレスト」

 

 四条大宮駅を出発した「嵐電 妖怪電車」は、24分ノンストップ運行と妖怪たちのサービス?のあと、終点の嵐山駅に到着した。

 

 

 

 大人気の妖怪電車は折り返し便も完売!のお報せ。

    妖怪のお出迎え。

 

 

 嵐山駅は観光客に溢れる駅であるにもかかわらず、改札口がない。

 これは、「電停のある小さなまち」がコンセプトの、まちづくりの一環で、改札口を廃止した結果、マルシェと一体となり、開放感がある駅となった。

 

 

 おまけに足湯まである。

 

 また、「友禅の光林」とも称される「キモノ・フォレスト」が駅を彩る。

 「キモノ・フォレスト」とは、京友禅の生地をアクリルで包み、高さ約2mのポールにしたものを駅構内や線路脇のいたる所に設置し、京友禅の林に見立てたもの。

 嵐山駅の敷地全体を覆い尽くす京友禅の柱はなんと600本というから、圧巻である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お隣の嵯峨駅の嵐電。

 

 

 

  

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松花堂庭園 ~名残の椿園と藤棚

2024-04-29 | 京都の旅

松花堂庭園 ~名残の椿園と藤棚

 

京都府八幡市の松花堂庭園は石清水八幡宮の社僧で、江戸時代初期を代表する文化人・松花堂昭乗ゆかりの庭園で380年の歴史が息づく国指定の名勝。

文化財の茶室等、4つの本格的な茶室がある「侘び寂び」の日本庭園がある

また、日本人に馴染みある定番のお弁当「松花堂弁当」は昭乗が好んで使っていた四つ切り箱に由来する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この季節、シャガは脇役ながら、楽しませてくれる。

 

 

 

 
 

<番外編>

 鳥羽街道「水環境保全センター」出口のモッコウバラも見事だった。

 

 

 (4月20日撮影)

 


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「祇園枝垂れ桜」から「八坂の塔」 ~That’sKyotoの帰り夜道

2024-04-21 | 京都の旅

「祇園枝垂れ桜」から「八坂の塔」 ~That’sKyotoの帰り夜道

 

 二十年振りくらいに円山公園の「祇園枝垂れ桜」を見た。

 長らく行かなかったのは桜宴と称して大騒ぎする輩や烏合の衆を見たくなかったからであるが、「祇園枝垂れ桜」の崇高な姿だけは、また見たくなったのである。

 今回もできるだけ、樹上だけを見るようにした。

 またコロナのような人類史上の危機でもない限り、この神のような桜を静かに鑑賞する日は来ないのだろう。

 

 

 

 円山公園を後にして、ねねの道、二寧坂、産寧坂を経て、ライトアップされた八坂の塔を見た。

 オーバーツーリズムとはいえ、流石に22時を過ぎると閑散としていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (4月5日撮影)

 


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ねねの追憶映す臥龍池 ~高台寺ライトアップ ②

2024-04-20 | 京都の旅

ねねの追憶映す臥龍池 ~高台寺ライトアップ ②

 

 1606(慶長11)年豊臣秀吉の正室、ねね(北政所)が秀吉の菩提を弔うために創建したと伝わる高台寺。

 小堀遠州作庭の池泉回遊式庭園には秀吉・ねねの居城、伏見城より一部を移築し堂宇として配置。

 幾度かの火災に遭い、現在表門、開山堂、霊屋と茶室・傘亭と時雨亭、観月台などが残る。

 臥龍池の上に架かる臥龍廊を経た中腹に位置する霊屋(おたまや)で、ねねは追憶の余生を送ったのだろう。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 

 


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山科・隋心院 ④ ~「花の色は移りにけりないたづらに・・・」

2024-04-08 | 京都の旅

山科・隋心院 ④ ~「花の色は移りにけりないたづらに・・・」

 

 「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」は、小倉百人一首の9番目として選出されている小野小町の有名な和歌。

 意味は、「桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に」であるが、小野小町はこの桜の花を自分自身に例えて、「私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。」という意味も込められている。

 小町のような絶世の美女でも、老いに逆らうことができず、色あせ、衰え、そして滅していく。

 小町は「これは世の中の真理であり、変える事のできないもの」として美しくも儚く歌に綴る。

 隋心院のある、この界隈は「小野郷」と呼ばれた小野氏が栄えた地域で小町の住居もあったとされる。

 真言宗善通寺派の大本山、随心院は991年に仁海僧正により創建されたと伝わる古刹である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日は能の間において、奉納「はねず踊り」が執り行われ、明日が本番、舞台で披露される。

 カメラマンとしては、本日の方が良かったと思った。

 


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ステンドグラスが記憶した物語 ~「橋本旧遊郭」②

2024-03-25 | 京都の旅

ステンドグラスが記憶した物語 ~「橋本旧遊郭」②

 

 八幡市の京阪電鉄 橋本駅は大阪府枚方市樟葉駅と京都府八幡市駅の間に位置し「天王山の戦い」で有名な大山崎を淀川の向う岸に望む。

 今回、訪問した「旅館 橋本の香」の女性オーナーさんは中国出身の方(30年前来日で今は帰化されている)で数年前に売りに出されて、建て壊し寸前の遊郭「旧三枡楼」を買い取ったという。

 というと、また中国人の買い占めかと思ってしまうが、さにあらず、「こんなに日本文化が残る建物をつぶしてはもったいない」と思われたそうだ。

 「貧しかったころの日本の歴史や名残を後世に伝えていかねば」ともおっしゃる。

 (貧しかった!?遊郭の客が・・・!?そりゃ、舞子はんを囲う旦さんほどではないにしろ・・・。いや、娼妓のことか。)

 遊郭最盛期の1930年代には約90の貸座敷が並び、娼妓600人程度がいたそうだが、恐慌により疲弊した農村で身売りを余儀なくされた女性が多く働いていたそうだ

 

 

 「旧三枡楼」の煌めくステンドグラスはそんな記憶を有しているに違いない。

 購入したあと、「旧三枡楼」は相当、大掛かりな改修が必要だったというが、容易に想像はつく。

 購入額と同額くらいの改修費が必要だったかもしれない。

 オーナー女性は「旧第二友栄楼」という屋号の橋本遊廓で最も古い築120年の物件を借金をして購入したというから、日本文化を残そうというご情熱には感じ入るものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

   

  「客よ、来い!」の「鯉」の透かし彫り。

 

   街中を少し散策してみた。

 私は子どものころ、橋本のお隣の樟葉に住んでいたが、親に「橋本って、何があるの?」と聞くと、親の視線がふと宙を漂う瞬間があったことを覚えている。

 現地の方にとっては負の遺産かもしれないが、歴史に目を背けてはいけないと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

  水路にヌートリアが蠢いていた。

 

 

 


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「橋本旧遊郭」① ~旧三枡楼(旅館 橋本の香)探訪

2024-03-23 | 京都の旅

「橋本旧遊郭」① ~旧三枡楼(旅館 橋本の香)探訪

 

 京都には芸事を披露する芸妓(舞妓さん)のいる花街と別に、一般庶民の男性たちが娼妓と遊ぶ「遊郭」という場所が昔あった。

 そんな中でも橋本遊郭は最盛期の昭和12年には娼妓675名が在籍した場所で今もなお妓楼が残っているという希少な地域である。

 昭和31年に公布された売春防止法により飲み屋や旅館へ業態変更したところが多いが、現在、老朽化から解体される建物が増えてきている。

そもそも、🔷遊郭とは何か

公娼(こうしよう)を集娼方式によって一定区域内に集団的に居住させておく場所。政治権力が公娼を容認するときに,治安や風俗の対策のために集娼制をとることが多いのは,私娼の取締りや税金の徴収を便利にすることのほかに,政策的に,そこを一般市民社会とは異なる性格をもつ場所とするという意図があった。

                                                   ~<世界大百科事典>より

 江戸時代には吉原(江戸)、島原(京都)、新町(大坂)が三大遊郭として有名だが、実は文化の発信地でもあった。

 今回は貴重な遊郭建築が残る橋本の旧三枡楼(旅館 橋本の香)を訪ねた。1935年(S10)築だという。

 

 

 

 古色蒼然とした玄関ホールだが、艶めかしさが漂っている。

 

 

 

 2Fに上がると娼妓を指名する部屋がある。ステンドグラスが美しい。

 

 

 

 

   

 

 最近は旧遊郭めぐりが静かなブームのようで散策する人も増えてきた。

 

 

 

 

 

 天井のデザインも凝っている。

 

 

 

 

 

  
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舞鶴「赤れんがパーク」 ~ノスタルジックな旧海軍兵器庫

2024-01-08 | 京都の旅

舞鶴「赤れんがパーク」 ~ノスタルジックな旧海軍兵器庫

 

 舞鶴市のランドマークといえる「赤れんがパーク」は明治34年に旧舞鶴鎮守府が置かれ兵器庫として造られた赤れんが倉庫群のことで8棟が国の重要文化財に指定されている。

    1号棟が魚形水雷庫だった「赤れんが博物館」。

 

 

 

   1号棟(赤れんが博物館)から海沿いのボードデッキになっており、海自の船を臨むことができる。

 

   

 2号棟は予備艦兵器庫だったが舞鶴市政記念館となっている。

 2号棟内部。ステンドグラスがつけられて、教会のようなノスタルジックなムードに溢れている。

 

 

 

 

 3号棟は弾丸庫並小銃庫だったが、「まいづる智恵蔵」(博物館・ギャラリー)となっている。

 海軍カレーも食せる。

 

 

 

 4・5号棟が兵器庫や水雷庫だったが、今は工房やイベントホールとなっている。

 

 左が3号棟、右が4号棟、奥が5号棟。

 

   

   

 

 

   

 

 

 

   

 

 

 5号棟の内部。中をレールが通っている。

 

 突然、現れる東郷平八郎元帥。

 日露戦争でバルチック艦隊を破った英雄。

 海軍の魂が今も息づいているようだ。

 

 倉庫の前に鉄道の線路が敷かれており、レールは倉庫の中まで通っている。

 


舞鶴引揚記念館 ~シベリア抑留と平和への祈念

2024-01-06 | 京都の旅

舞鶴引揚記念館 ~シベリア抑留と平和への祈念

 

 昭和20年(1945年) 第二次世界大戦が終結し、旧満州(現・中国東北)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残された。

 これらの方々を速やかに日本へ帰国させなければならなくなり、“引き揚げ”が開始された。

 全国に18港の引揚港を設置、舞鶴もそのひとつとなり、主に旧満州や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れることになった。

 舞鶴では昭和20年(1945年)から昭和33年まで13年間にわたり約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れている。

 

 

 終戦間際に突然、宣戦布告したソ連は占領した満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島などの地域の日本人の捕虜(民間人含む)をシベリアに連行し、強制労働に従事させた。

 これを「シベリア抑留」といい、終戦後も長い間、帰国させなかった。

 極度の食料不足と粗末な防寒、劣悪な衛生状態の中、マイナス30~40℃ともいわれる酷寒の地シベリアでの抑留生活とハードな強制労働は筆舌に尽くしがたいほど酷かったという。

 人道上、あってはならないことがあったことを忘れてはならない。

   当時、約57万5千人のシベリア抑留者がいて、うち約5万5千人が亡くなったといわれている。(数には諸説あり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シベリア抑留者収容所はユーラシア大陸を跨っていた。

 

 

 

 その最西端は今のウクライナのオデッサだった。

 ガイド氏は「ウクライナは過酷なシベリアと比べると気候的にも待遇的にも全然違っていた。小麦を収穫したあと、皆でフォークダンスを踊った。引揚者は彼の地をまた再訪したいと語っていた。」と話した。

 

 

 

 

 

 

 

 舞鶴引揚記念館の収蔵資料は、ユネスコ世界記憶遺産として登録されている。

 今も砲火轟く彼の地に「平和への祈念」を発信し続けている。

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